映画 『 CHLOE 』
監督 アトム・エゴヤン ( Atom Egoyan : 1960~ )
公開 2009年
出演 アマンダ・サイフレッド ( Amanda Seyfried : 1985~ ) クロエ
ジュリアン・ムーア ( Julianne Moore : 1960~ ) キャサリン・スチュアート
リーアム・ニーソン ( Liam Neeson : 1952~ ) デヴィッド・スチュアート
マックス・シエリオット ( Max Thieriot : 1988~ ) マイケル・スチュアート
1章 夫への疑惑の目、あるいは燻った性的欲望
大学教授である夫のデヴィッド ( リーアム・ニーソン ) の浮気を疑う妻のキャサリン ( ジュリアン・ムーア )。娼婦のクロエ ( アマンダ・サイフレッド ) に近づき、デヴィッドを誘惑してその内容を自分の報告するよう依頼する ( 1~4 )。デヴィッドに近づくクロエ ( 5~6 )。
デヴィッドは何もしてこなかったと報告するクロエに対して、疑惑を拭えないキャサリンはお金を払って再度、誘惑の依頼をする ( 7~10 )。ここで考えるべきは、そこまでしてでも、デヴィッドの中の秘かな性的欲望を暴き立てようとするキャサリン自身が、自分の中の性的なものへの執拗なこだわりを見せているという事です。自分の中の〈 性的欲望 〉こそが、デヴィッドの浮気という疑惑を形作っている事にキャサリンは気付いていない のであり、この無自覚さが、以後、クロエという存在によつて自覚的なものへと変化させられていく。
再びキャサリンに報告するクロエ。ここから彼女はデヴィッドとの性行為の話をでっち上げて報告する。その余りの赤裸々な話は、デヴィッドの隠された性的欲望の暴露が目的というよりかは、キャサリンを欲情させようとする クロエ自身の欲望 によって捏造されたもの だった ( 11~26 )。
キャサリンをホテルの一室に呼び出して報告するクロエ。あたかもつい先程まで、デヴィッドと性行為をしていたかのように見せかけながら。もうほとんどキャサリンと寝るために誘っているのですが、キャサリン自身も既にクロエが挑発している事を分かっている。キャサリンは、結婚し子供を産んで以来、自分の中で抑え込み燻らせていた性的欲望をクロエによって引きずり出され、彼女とのレズ行為に至ってしまう ( 27~38 )。
2章 〈 愛 〉以前の〈 性的欲望 〉が蠢く状況
この作品の展開を観たほとんどの人は、レズビアン同士の実ることのない一過性の経験談を描いた話だと思うでしょう。本気になったクロエと一時の過ちとして彼女を遠ざけるキャサリンとの愛憎劇 ( 35~44 ) はクロエの死によって終わる ( 45 ) というものです。確かに外見的にはそうなのですが、突き詰めて考えると興味深い話に思えてきます。
というのは、彼女たちが果たして互いに、最初から女性を、男性ではなく女性を性差における画定的存在として求めていたかどうかは微妙だからです。この作品を見終わって分かるのは、キャサリンの夫への浮気の疑惑は、子供もある程度成長し倦怠期にある状況で、デヴィッドも自分と同じように心の底では性的欲望を未だ抱え続けているはずだ、という 無意識的願望 ( そうであって欲しいという ) に基づいているという事です。
ここで肝心なのは、そのような下品な性的欲望など持っていて欲しくないという凡庸な願望ではなく、持っていて欲しいという逆説的願望 なのですね。というのも倦怠期にある自分たちが再び愛し合うためには、結婚当初に持っていた 性的生活が愛の次元には必要なものだ とキャサリンは無意識的に考えている からです。そのような欲望すら無いのなら、これからも冷めた夫婦関係が変わる事はないだろうという訳です。
ただし、この性的欲望は厄介で、特定の誰かに〈 尊厳 〉を与えようとする愛の志向性が目覚める以前の次元で、誰とでも繋がろうとする 無差別的な欲動 ( 欲動自体が生にも死にも向かうようように ) の痕跡を留めている。つまり、性的欲望が誰とでも寝る危険性に満ちている真実 をキャサリンは、デヴィッドの浮気という妄想の中でも分かっているのです。
3章 〈 性的欲望 〉を求めるキャサリンと〈 愛 〉を求めるクロエの出会い損ね
この性的欲望の無差別性を体現している存在こそがクロエであり、彼女は娼婦として誰とでも寝るのであり、レズビアンに自らを限定する人間ではありません。クロエが言うには、誰とでも寝るには、その誰かの愛すべき小さな所を見つけて好きになるようにするのが秘訣だ、と。もちろん、これは相手の人間自体を愛することではなく、代理の部分対象 を見つけて、そこに固着する幼児的な疑似愛 でしかありません。クロエは 特定の人間を愛し、愛されるという行為の経験がない、時として相手を傷つけ自分も傷つけられる愛のやりとりを知らない、という事なのですね。
つまり、より哲学的に言うなら、クロエは〈 性的欲望 〉を再び見出そうとするキャサリンの欲望を体現する〈 対他-存在 〉でありながらも、〈 対自的 〉には、様々な人生経験を積んだキャサリンの中に〈 愛 〉を探し求める不安定な主体、コギト ( デカルトの "我思う故に我在り" ですね ) の別ヴァージョンの主体 なのです。それはデカルトのコギトのように自らの存在の確証を求めながらも、愛を求めて幾人もの男たちの間で彷徨うが、何処にも、誰にも属さない、人間関係の網目から外れた "抽象的な存在" のままでしかない。"我愛を探す故に、我此処に無し" という別ヴァージョンのコギトという訳です。
なので、クロエの存在に自分の性的欲望の投影しか見ようとしないキャサリンの大して、たんなるレズビアンではなく人間的愛を求める一人の人間としての思いを受け止めて欲しいとクロエは訴えるが却下される ( 41~44 )。この愛憎劇の 非対称性 について今一度考えてみましょう。夫とのかつての愛を取り戻そうとするキャサリンが、性的欲望への再回帰を考えているのに対し、既に性的欲望を無差別な人間関係の中で達成しているクロエは自分に欠けている特定の人への思いを高める愛を探している。ここでは〈 性的欲望 〉と〈 愛 〉が向かい合いながらも、互いの元に駆け寄ろうとも、各々が相手を求めるが故に、結局、各々は相手の元に辿り着く事が出来ない すれ違いという出会い損ね が起きている。
実はこの悪循環こそがアトム・エゴヤンの作品における隠れたテーマの一つを仄めかしている。それは〈 性的欲望 〉と〈 愛 〉の切っても切れない捻じれた繋がり です。性的欲望は無差別故のスキャンダル ( この作品におけるクロエとキャサリンのレズ行為、『 スウィートヒアアフター 』( *A ) で描かれる近親相姦、など ) を引き起こすが、だが、そこには相手を思う愛が歪んだ形で現れている。つまり、それは〈 愛 〉とは別に〈 性的欲望 〉の領野があるのではなく、ましてや〈 愛 〉が〈 性的欲望 〉とは無縁の処から生まれるのでもない、いや、それどころか〈 愛 〉が〈 性的欲望 〉の中から出現した昇華物である事を示している。そのような現実を無視して、〈 性的欲望 〉を見捨てるのならば、キャサリンとデヴィッドにような倦怠的夫婦になるしかない。しかし、一方でクロエのように無差別な性的欲望に従ったままでは、互いに尊厳を与える愛の行為に至る事が出来ない。
このようなすれ違いは、デヴィッドへの疑惑が自分の思い違いだと気付いたキャサリンによって唐突に打ち切られる。デヴィッドの、他人への性的欲望がないと言ったら噓になるが、自分はそれを外に出すようなことはしない、という告白に安心するキャサリン。しかし、彼女は自分自身がどうだったのかについてデヴィッドに告白する事をしないし、デヴィッドに君はどうなんだと問われても知らぬふりをする面の皮の厚さを見せてしまう。ここでキャサリンは自分はさておき、夫に〈 性的なもの 〉の実現をあきらめさせてしまう事を言外で約束させてしまい、〈 性的なもの 〉に蓋をしてしまう。つまり、キャサリンは〈 性的なもの 〉を通じて〈 愛 〉を再び出現させようとする可能性をあきらめ、建前の夫婦関係を存続させる のですね。社会的名声を失いたくが故に。
そうなると、キャサリンはクロエが〈 愛 〉を求めているのを理解していたにも関わらず、彼女を見捨てるという非情さを道徳的仮面の裏で見せてしまった といえるのです。これは社会的道徳・社会的体裁に拘る者がまさに自分の事しか考えていない真実を表している。ひとりの人間の心情過程にまともに付き合っていては、こちらも共倒れしてしまう。そうならない為には、どこかで相手を切り捨てるしかないとするのならば、〈 道徳 〉とは人間に自制と自立を求め、互いに深入りしなくてもいいように定められ社会に書き込まれた人間の行動指針という事になるのでしょう。
では、もしそうであるのなら、人間関係に深入りする事でしか生まれない〈 愛 〉とは一体何なのでしょう。相手の事を深く知ろうとしないでおく事こそが、人間関係の円滑さの秘訣だと言うのなら、〈 愛 〉とはそもそも失敗する運命にあるが故の一時の盲目的過ちでしかない危険なもの なのでしょうか。少なくともクロエはその危険領域に入り込み自分に正直に生きた結果として、誰からも愛されていない事を知ったが故に死んだのだといえるでしょう〈 終 〉。
( *A )
『 スウィートヒアアフター 』については以下の記事を参照。