〈 It / Es 〉thinks, in the abyss without human.

Transitional formulating of Thought into Thing in unconscious wholeness. Circuitization of〈 Thought thing 〉.

▶ ソルジェニーツィンの『 クレムリンへの手紙 』を通じて考える〈 7 〉

 

 

前回記事からの続き

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第9章  〈 戦争 〉 と 〈 平和 〉 ②

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▨ イヴァーノフ=ラズームニクをして個人主義を放棄したと言わせしめたトルストイの論理とはいかなるものなのか。 本当はそうでないのにそう思わせてしまう程 『 戦争と平和 』 のエピローグ第2編は複雑な哲学論理が展開されます。 そこではトルストイは作家というよりかは哲学者として真摯な思考を述べているのですが、おそらくほとんどの人は、一人の偉大な作家がまた面倒な理屈をこねているのだろうという具合に考えてその内容を論理的に解き明かそうとはしないでしょう。  トルストイの文章は人々に届いても、 彼の "思考" は届かない …… 、 残念な事に。

 

 エピローグ第2編でトルストイいかなる力が諸国民を戦争に向かわせているのか という原理的問題をはじめに設定し、それについて執拗に考えていく。 彼は権力というものを、君主や英雄に生来備わった強力な意志の産物であったり、諸国民が統治者に委託する自らの従属もしくは黙認の意志の総和に由来する、などという考え方を紋切的な歴史学叙述として拒否するのです。というのもトルストイは戦争行為というものを統治者の権力行使の結果としてではなく、諸国民自身の意志が無ければ、数々の歴史家によって記述され続けてきた 出来事 として構築し得なかったはずだという、言語哲学的側面からの洞察を行なっているからです ( トルストイは再三にわたり歴史家たちの 記述行為それ自体 について言及する )。  人類史における 戦争 とは、確定記述物 として言語構築される 程までの巨大事象なのだから、それは統治者に委託される代表的権力のみでは不可能であり、戦争に傾く諸国民の運動が無ければ巨大事象たり得ない 人間活動の総体 だとトルストイは考えるのです。

 

 そしてトルストイの洞察が優れているのは、権力というものが、統治者に由来するものでなければ大衆が統治者に委託するものでもない、巨大事象を可能にする諸国民の活動それ自体ではないのか、とそれ以上は彼は上手く説明出来ないが、ミシェル・フーコーに倣って分散構造的権力体とでも現代的に言い換えたくなるような権力概念の方に向かっているという事です。 誰も気付かないのですが、ここでのトルストイフーコーに先だって 権力をその歴史変遷の構造化から考えようとしている。  だからこそ彼は 歴史学の根本基盤である記述行為それ自体が、戦争という出来事と並走しながらそれを単に写像したものなのではなく、ある歴史的一般法則 ( トルストイが述べる歴史の必然という現象です ) にも囚われている構造 を見逃さないのです。

 

 

諸国民の生活史は何人かの人間の伝記に押し込めることはできない。 なぜならその何人かの人間とそれぞれの国民との間の関係が見出せないからだ。 その関係の基盤を民意の総和が歴史的人物に委託されることにあるとする理論は、仮説であって歴史の経験に裏打ちされてはいない。

 

戦争と平和 』 エピローグ第2編 5章 p. 424 トルストイ / 著 望月哲男 / 訳 光文社古典新訳文庫 ( 2021 )

 

 権力という概念抜きでは人間の活動の総体の記述は一つとして成り立たないのは言うまでもないとして、権力の存在は、歴史ばかりか現在の出来事の観察によっても証明される。

 

前掲書 p. 427

 

 熱と電気の関係を語り、原子間の関係を語る時、われわれはどうしてそれが起こるのか語れるまま、なぜなら他には考えられないから、なぜならそうなるようになっているから、それが法則だから、そうなるのだと言う。 歴史現象にも同じことが当てはまる。 なぜ戦争や革命が起こるのかをわれわれは知らない。 われわれが知っているのはただ、戦争なり革命なりが行われるためには、人々がある種のチームに編成され、そして全員が参加するということだけである。 だからわれわれは言うのである - それはそうなるようになっているのだ、なぜなら他には考えられないし、それが法則だから、と。

 

前掲書 p. 442

 

 お分かりでしょうか。   軍事的視点でもなければ反戦の平和的視点でもなく 戦争を人間活動の総体だと 人間史的視点 で定義するトルストイの哲学的洞察力が。 それはたんなる戦争礼賛でもなければ、人間礼賛でもないし、イヴァーノフ=ラズームニクに個人主義の消滅だと誤解させる集団政治体制の礼賛でもありません。 戦争が歴史的に確定記述され続けて来たのは、それ以上に人間活動の総体の具現化である事を示す事象は歴史的にない からだとトルストイは洞察しているのです。 この意味でエピローグ第2編には 『 戦争と平和 』 に因んだ 『 歴史と人間 』 という仮タイトルを与える事も出来るかもしれません。 ここでのトルストイは、人間活動の巨大性を最も示すのは戦争事象なのだと理解をしているからこそ、この後で "戦争 / 人間活動の総体" の歴史記述を裏書きする 歴史の必然性 について考えていく事になるのです。

 

 この場合、人間史において戦争事象を記述確定させる上での "必要条件" こそが、トルストイが執拗に考察する "歴史の必然性という現象" です。  いや、精確に言うなら、 これはある歴史上のある出来事の発生は 後的に見ると必然であったかのように思えてしまう現象 なのです。 これをトルストイは、歴史家が戦争事象を記述する際に、それが実現されるべくして発生したかのような確定記述をしているとして注意を促している。 そういう記述の仕方だと、ある戦争事象はその統治者の意図 "のみ" によって達成されたかのような還元主義に陥ってしまうのではないか、そのような特定の人物への "還元主義 / 確定記述" には、戦争事象に関わる匿名大多数の諸国民の活動、 実行されなかった命令・作戦・戦略、等の表に出なかった "偶然性の事後廃棄操作"が含まれている事が見落とされているのではないか、とトルストイは暗黙の内に言っている。 つまり、この事は 歴史上の出来事を "必然" であるかのように思わせる確定記述は、実現されずに終わった数々の "偶然的要素" の事後排除によって可能になっている という事なのです。

 

 話は少し逸れるのですが、戦争の実行の発端をある英雄や統治者の特定の意志に還元する歴史記述に対して、異議を申し立てるトルストイの考察は、ゴットロープ・フレーゲバートランド・ラッセルらに端を発する "固有名を特定化説明するとされる確定記述論理" に固有名の特定化を妨げる側面もある事を示したソール・クリプキの反論を思い起こさせます。 このクリプキの立場は "固有名は確定記述の束には還元されない" と教科書的に理解されるのですが、それすらも不十分なのは固有名を記述理論ではない別の論理によって説明しようとするクリプキの立場がフレーゲラッセルらと依然変わらず 固有名を無意識的に特権化してしまっている という事です。

 

 どういう事かというと、その固有名と記述理論の関係性の説明として持ち出される紋切例の 「 アリストテレス 」 が、その確定記述の 「 プラトンの弟子でアレクサンダー大王の先生 」 によって特定化されよう ( フレーゲラッセル ) とされまい ( クリプキ ) と、アリストテレスプラトンアレクサンダー大王、という 歴史的に保存された、つまり、"既に社会性を獲得している" 固有名が特権的かつ恣意的に選ばれている 事の意味に全く無頓着なのです、例え説明の為という便宜性を盾にするとしても。

 

 では社会性を獲得していない、つまり、一般的には広く知られる事なく死んでしまう・死んでいった大多数の人間たちは各々の固有名を持っているにしても、その記述属性論理が妥当なのか・公正なのかを判断する事はその身近にいた人たちによってしか判断され得ないという意味で 一般性を獲得出来ないという事態が現実には起きている のです。 身近に過ごして来た人たちにとっては妥当な固有名であっても、そこからは離れた人たちにとってはその固有名を聞いても、何の記述属性も思い浮かばないが故に 実在しているか・していたのかどうかも分からないという事態が至るところで起きる という訳です ( * )。  むしろその方が圧倒的に多いとさえ言えるでしょう、人間の歴史を振り返った場合。

 

 つまり、同じ言葉であっても、ある人にとっては確信出来る固有名であっても、関係の無い人にとっては それは名指す対象が分からないという意味で、もはや固有名ではなく内実の無い "記号表現 ( ジャック・ラカン的な )" へと化してしまっている という事です。  ある場所では固有名であるものが別の場所では固有名ではないという同一物の反転現象 が頻発するのなら、固有名の言語学定義自体とはいかなる研究の歴史を経ても普遍性を獲得できないという矛盾に突き当たってしまう。 フレーゲならば、それは対象を示さないが故に "意味" を持たない 「 見かけ上の固有名 」 であるとし、"真" ではない "偽" の判断を下すのでしょうが、社会的欲望の観点からは実在の対象を示さなくとも、それは意味 / 意義を持つのです。

 

 

( * ) このような事態を最も明確に表したのが、ブライアン・シンガーの映画 『 ユージュアル・サスぺクツ ( 1995 ) 』 です。 そこでシンガーは、ひ弱な詐欺師のヴァーバル・キントの警察署での "喋り" を通じて犯罪の黒幕である正体不明の "カイザー・ソゼ"  ( これはドイツ語とトルコ語の合成語で "お喋りな皇帝" を意味する ) が実在の人物であるかのように警察に信じこませ見事に逃げ切る物語を提示する。 言うまでもなく真の犯人はヴァーバル・キントなのですが 彼は自らの偽名としてカイザー・ソゼを持ち出し、それが実在の恐るべき犯罪者であるかのように疑似現実化させる事で自分に対する疑いを逸らす事に成功したという訳です。 カイザー・ソゼとは、まさに "言語における固有名から記号表現への移行" という社会における "言語流通現象" を具現化した言葉だった のです。 この記事については以下を参照。

 

 

 

 戦争死傷者や強制収容所の囚人が現実的に残酷な肉体的体験をしたのは言うまでもなく悲劇的な事なのですが、思想的にもそうであるのを、上で述べた確定記述論理を用いて考えてみましょう。 彼らは各々の固有名の代わりに "集団的犠牲者" と刻印される "匿名集合体 / 歴史上の存在" として確定記述されてしまったのです。

 

 もちろん、その人たち全てには固有名があるのは言うまでもないのですが、問題なのは、戦争・強制収容所での残酷な体験という暴力性の確定記述による強力な固定化が 各々の固有名を超えて、犠牲者という名の無い匿名体へと集合化させてしまう歪曲作用 を生み出すという事です。 それは歴史の名において、各々の人間の人生の総てをそれ無しではあり得ないかのような狂気劇へと収斂させてしまう "トラウマ化記述" なのです。 それによって歴史上の存在者と化してしまうという歪んだ確定記述がもたらすこの様相を、先に述べたトルストイの言うところの偶然性を廃棄した必然の歴史法則に落とし込んでさらに細かく考えてみます。

 

 "犠牲者という歴史存在者" として必然化されるという事は、その犠牲者であると "最終的には称される人々" がそれまでに営んできた 日常生活 が、犠牲という出来事へと収斂していくかのような事後遡及性 ( 結果から遡るとそれ以前の全てが結果に向かって流れ込んでいくかのように見える事 ) から本来は免れているはずの 日常生活それ自体 が、犠牲という最終結果に向かう流れの中で悲劇的に捉えられるのでなければ、歴史的には意味が無いかのような 偶然物 として排除されるという事なのです。 その当人にとっては大きな意味を持ち続けて来た日常の本来性 ( 悲しさだけではなく喜びや楽しみもあったはずの多様な経験 ) が浮かび上がる事なく、犠牲という巨大なトラウマ無しでは歴史化を施される事なく、犠牲者としてしか、犠牲としてのみ、犠牲者だからこそ、歴史的に必然化されてしまうという狂気の確定記述がそこにはある のです。

 

 だからこそアンネの日記には反ナチスイデオロギーや平和イデオロギーに利用されるには留まらない、いや、そこを超えた真の人間的本質が現れているといえる。 アンネの一家とその周辺、両親や家庭、社会的なもの、性的なもの、に対する彼女の鋭い洞察によって描かれる日常生活がナチスによるユダヤ人政策によっても揺るがされる事なく、無意識的な政治的抵抗物 として機能している ( * )。 つまり、真の政治的抵抗とは、政治的スローガンを唱える事のみに収斂されるものなのではなく、それぞれの日常生活それ自体を第一義的なものとして徹底的に描き続ける、持続させる、事なのだ と日記はアンネ自身のものであるのを超えて "その言外で" 教えてくれる。 その真実は、『 アンネの日記 』研究版で現れる。 それによって従来の普及版が父親等の関係者、そしてアンネ自身による検閲的推敲化・整理化が施された別ヴァージョンである事 ( 研究版には A、B、C、三つのヴァージョンが載せられている ) が判るのですが、そこではナチス側ではないものの、各々の思惑が絡まったこちら側の政治性によって 日常生活それ自体 が削られる事でその姿を現わしているのです、偶然物 として。

 

( * ) これこそ 『  アンネの日記 』 の映画化などの世界的普及現象に対して強制収容所の耐えがたい本質を見ようとしないとして批判したブルーノ・ベッテルハイムが全く思考出来ない事なのです。 確かに 『 アンネの日記 』 の普及にヒューマニズム的演出が施されているのは否定出来ません。 しかし、だからといって日記におけるアンネの洞察や日常生活の記録について深く考えず ( いやそれどころかベッテルハイムはアンネ家の生活ぶりに否定的でさえある ) に強制収容所の凄惨さばかりを優先化するのは、ソール・フリードレンダーやクロード・ランズマンのようなアウシュヴィッツの表象不可能論者が自分たちの意見ばかりを神聖化して他を抑圧する行為と変わりません。 ベッテルハイムは自分もまたナチスとは違う抑圧的意味で、日記が書き残してくれた人間的本質に満ちた日常生活に尊厳を払おうとしていないこと に全く気付いていないのです。 ベッテルハイムや強制収容所からの生還者らが、壮絶な限界状況の中で人間的本質を "破壊" という形で見たことは間違いなくとも、人間的本質が "持続" という形で維持される他人の日常生活構造 を見下してしまっては、それこそ世界に人間性の居場所は無くなってしまう。

 

 

 そうすると、日常生活とは、政治権力が自らの俎上には乗せずに当然のように排除するものであり、歴史において権力構造 ( 権力への抵抗もまた権力闘争の中に巻き込まれている ) から余分な物のように打ち捨てられる日常生活を営む人々もまた無名の者たちとして歴史の中に埋没していくのです。 しかし、 歴史に名を残すことが全てではないし ( 権力を欲望する人はそこに拘るのですが )、ひとかどの者にならなくとも、日常という生活は常に既に続いているし、続いていく。 人間が生きるとはそのような日常の持続であり、 日常という凡庸な空間と、 持続というベルグソン的時間概念が融合した 〈 生の持続 〉 がそこにはある。 〈 平和 〉 とはまさにその 〈 生の持続 〉 の別名だといえるでしょう。 私たち無名の者による 〈 生の持続 〉 こそが 〈 平和 〉 なのです。 次回の記事では、この無名の者についてフロイトを経由して語ったフランスの哲学者ミシェル・ド・セルトーに触れましょう。

 

 

以下の記事へ続く

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参考資料

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▨ 『 戦争と平和 1~6 』 トルストイ / 著 望月哲男 / 訳  光文社古典新訳文庫 ( 2021 )

▨ 『 ロシア社会思想史 上・下 』 イヴァーノフ=ラズームニク / 著 佐野努・佐野洋子 / 訳  成文社 ( 2013 )

▨ 『 名指しと必然性 』 ソール・クリプキ / 著 八木沢 敬・野家 啓一 / 訳  産業図書 ( 1985 )

▨ 「 郵便的訂正可能性について ー 東浩紀の『 存在論的、郵便的 』と『 訂正可能性の哲学 』のあいだ  」 宮﨑裕介  新潮 2023年11月号所収

▨ 『 アンネの日記 研究版 』 オランダ国立戦時資料研究所 / 編 深町眞理子 / 訳  文藝春秋 ( 1994 )

▨ 『 日常的実践のポイエーティク 』 ミシェル・ド・セルトー / 著 山田登世子 / 訳  ちくま学芸文庫 ( 2021 )