〈 It / Es 〉thinks, in the abyss without human.

Transitional formulating of Thought into Thing in unconscious wholeness. Circuitization of〈 Thought thing 〉.

▶ ソルジェニーツィンの『 クレムリンへの手紙 』を通じて考える〈 2 〉

 

 

 

 



 第3章  人間が人間に向き合うという暴力的関係性

 ここで大切なのは、 人間が直接的に尊厳を持つとはいかなる "現実" であるのか誰も分からない という事です。 分からないからこそ人間は人間に対して未だ暴力を加え続けるのです、 国家政治体制内であれ、 学校の学級内のいじめであれ、 家庭内暴力の場合であれ。  分からないこそ人権概念による保護を人間は必要とするのですが、 その法の普遍性の出現は、 人権概念を尊重する者であれ踏みにじる者であれ、 人間的尊厳が暴力的圧制の中から生まれざるを得ないという 人間が人間に対して行き詰っている根本的な愚物性、 人間が人間に対して向かい合う事が暴力への欲望を引き起こしてしまう愚物性、 を裏付けてしまっている。 そうすると、 法の民主主義的普遍性の神秘とは、 このような人間的愚物性の袋小路の中からの跳躍的反照化として出現している人間集団における根源的関係性である自己暴力性に対する耐えがたさから出現している、 のだと逆説的に考えられるでしょう。

 

 つまり、 残念ながら根源的であるのは人間的普遍性 ( これがキリスト教や人権概念の歴史的発生を考えれば後出のものであるのはお分かりでしょう ) ではなく人間集団内における暴力的関係性の方なのです。  "暴力" とは人間が人間に対して向かい合う関係性それ自体が短絡的かつ極限化されたもの なのです。 暴力という概念それ自体の中に既に、 人間関係が攻撃対象物として暗存されている、 つまり、 人間の破壊衝動を最も満足させるものは人間関係それ自体に他ならない という欲動の自己破壊的作用がそこにはある。

 

 この人間集団における相互攻撃的自己暴力性は、 それ自体を否定的・限定的なものの一般性として人をそこから主体的に脱け出させる跳躍的行動を反照的に生み出す、 つまり、 何らかの暴力性・イデオロギー性には限定されない普遍的人間性を抽象的に生み出す。 ハンス・ケルゼンが国家や政治体制から独立した法の民主主義的普遍性を考えたように "人間" を政治的尺度で "規定" するのではなく 自由性によって "保護・保障" しようとする という事です。

 

 しかし、 この人間集団の相互暴力性を、 実はそれが人間関係の真実の姿であると、 トマス・ホッブズの『 リヴァイアサン 』 ( 万人の万人に対する闘争 ) を通じて気付いたカール・シュミットは、 論敵のケルゼンとは異なる論理的帰結を導き出す。 ケルゼンが人間集団の相互暴力性に無意識的に蓋をして下界に落とし込み、 法の民主主義的普遍性を人類の純粋な救済理念であるかのように説くのに対して、 シュミットはその蓋をされた 人間の相互暴力性こそが人民形態の根源であり、 それを統治することなく法の普遍性及び人間の自由を説くことは現実から目を背けている と考える。  つまり、 ケルゼンが法学という既に画域化された "法領域" において人間集団から法の普遍性を導くのに対して、 シュミットは 人間集団の相互暴力性を統治して人民形態にする為の政治的主権性の概念 を、 人間という現実の闘争的存在集団を規定する事の必然性に沿って法領域外の、 法が出現する以前の "政治的次元" において導く。

 

 シュミットは人間集団の相互暴力性というものを概念として明示している訳ではないので伝わりにくいのですが、 彼の思考の特徴のひとつは、 通常の法学者 ( イェリネクやケルゼン等の ) のような法学原理主義などではなく、 人間それ自体の在り方について考える所まで遡る思考の哲学的原理主義 ( 彼は著作において数々の哲学者を参照していると同時に現在でもデリダアガンベン等の哲学者らによって参照されもしている  ) である事です。  だからこそ彼は人間を集団存在として認識しているし、 しかも集団精神分析の次元でその集団は相互暴力的関係性として "内戦状態" にあるのだからそれは法以前に統治されるべく政治主権を必要とする "例外状態" であると無意識的に考えている。  そして同時に彼は決して権力を礼賛するのではなく権力が人間を超える善悪の彼岸にある現実的なものである事も知っている。  このような彼の思考の傾向は次のような言葉に表れている。

 

 私は、人間が人間に対して行使する権力が善なるものであるなどと言っているのではありませんし、また権力が悪しきものであると言っているのでもないのです。 強いて言いますと、権力は中性的なものでしょう。〈 中略 〉。 私が言っておりますのは、権力はすべての人にとって否権力者にとってすらも独立の現実であること、更にそれはすべての人を権力の弁証法にひっぱり込んでしまうものであること、これだけなのです。 権力は、一切の権力への意志よりも強く、いかなる人間の善意よりも強く、また、幸いなことには、いかなる人間の悪意よりも強いのです。

 

『 権力並びに権力者への道についての対話 』「 政治思想論集 」所収 p.119 カール・シュミット / 著 服部平治・宮本盛太郎 / 訳 社会思想社 ( 1974 )

 

私が上述のことで申し上げたいのは次のようなことにほかならないのです。つまり、人間は人間にとって人間である ー homo homini homo ー という美しい定式は何ら問題の解決なのではなくて、この定式をまって初めて私達の問題が始まるのだ、ということなのです。私は、このことを、次のようなすばらしい詩句の意味で批判的にではありますが肯定的に考えているのです。

 だが、人間であることは、それにもかかわらず常に一つの決意をすることなのだ。

これを私の結びの言葉としましょう。

 

前掲書 p. 122

 

 以上のシュミットの言葉は、 彼が "人間とは何であるのか" という今ではほとんどの人が真面目に考えようとしない ( それどころか冷笑するであろう ) 根源的問いに対して誠実である事を示している ( そしてこの問いは彼の有名な "友敵関係" の概念の根源でもある )。  少なくともシュミットは "人間が人間である" のは、 自己充足的・自己内部的確信としての単独的自己肯定 ( ヘーゲルならばこれを感覚的確信による迷妄というでしょう ) によって達成出来るものではないと考えている。 人間が人間であるとは、 人間が自分の中だけに留まる事が許されず、 他の人間の前に引きずり出され残酷なまでに人間関係網の中に囚われる事でしか生きていけない社会的暴力性に直面する事だといえるでしょう。 そして、 同時に、 そこには自分が暴力の被害者であるだけではなく他の人からするとまさに自分が暴力の加害者である可能性も含まれている事をも意味する ( 自分が思いもよらない意味で )。  "人間は人間にとって人間である" とはまさに人間が他人との関係において自分である事の暴力性、 他人 ( 家族や身内も含む ) に対して自分が自分であるという自己武装する事の暴力性を意味する。 もっと哲学的に言うならば、 人間が人間であるとは、 自分が自分であるとは、 それだけで他人に対するひとつの "暴力性の単独的具現者" である事を意味する。  自分である事の潜在的暴力性に気付かない者は、 未来永劫に自分が被害者・弱者であり続ける事に耽溺して無自覚な倫理的正義 ( エマニュエル・レヴィナスに見いだされるような ) に依存する事しか出来なくなってしまう。

 

 では "人間が人間に対して人間である事"、 "自分が誰かに対して自分である事"、 の関係性それ自体が暴力的であるというのなら、 そのような暴力に対して尊厳は一体何処に位置づけられるのでしょう。  いや、 そもそも尊厳とは人間に限定されるべき人間的なものなのでしょうか。 人間の尊厳などというよく見受けられる言い回しに表わされるように。 しかし、 そうするとそのような限定性は人間でない物に対しては一体どうなるのか ( 例えば "動物に対して" はどうなのか、 そしてそれは "人間対動物"、 やがては "人間対人間" へと流れていく ) という具合に "対物関係性的暴力の論理" が結局浮上してくることになる。  興味深い事に、 このような人間対人間の関係性がいかに暴力的であるのか示す例としてシュミットは暴力的決着が図られたソ連の政治舞台における二人の固有名詞を唐突にしかも意味ありげに挙げている。

 

スターリンという人間はトロツキーという人間からみますと一人のスターリンであり、トロツキーという人間はスターリンという人間からみますと一人のトロツキーなのだ、ということなのです。

 

前掲書p. 122

 



 第4章  暴力的関係網の中から出現する 〈 物の尊厳 〉

 このような暴力と人間の組み合わせこそが人間の真実であるならば ( いかに暴力が "反人間的なもの" に見えようとも )、尊厳がそのような暴力性とは別の哲学的意義を持つには、尊厳が人間的基準では測れないが人間圏域内部における "非人間的出来事 ( 反人間的なものとは違う )"、つまり、"出現 / 存在" として考える必要があるでしょう。 尊厳とは人権などのような人間保護概念でもないし、生物一般に限定される倫理概念でもない ( このような限定性はこの生物は保護されるがあの生物は保護されていないというような対物関係性論理の悪循環にしか向かわない ) 。人間や生物一般等の生命的励起それ自体を称揚するような尊厳性は実のところ、他の生命に対する対物関係性論理に基づく "単独物の暴力的樹立" に無自覚な疑似尊厳でしかないという事です。 ここで考え直したいのは、真の尊厳とは、そこに在る "何か"  に対して適用されるものではなく、何かがそこに "在る事" という生命や事物の相互関係性や個別のランク等に絡まれた "対象物一般" には関わらない "存在性" の尊重に他ならないという事です ( ただし、ここで打ち出したいのはハイデガー存在論への教条主義的帰依ではありません )。 どのような対象物であろうとそんな事には関係なく、そこに在る事自体が尊重される。 対象物の暴力的相互関係網の中には限定されない "物" がその中にあるという、 弁証法的二重性 ( 対象物=物 ) からの精神分析的昇華としての "対象物 ≠ 物" という分離、 そして、 "物=存在性" の出現という出来事への移行、これらの綜合結果こそが真の尊厳 でありジャック・ラカン"物の尊厳" と呼んだものなのです。 このような "物の存在性" はその弁証法性においてハイデガー存在論には収まり切れないのですが、ヘーゲル主義的思考のラカンがその弁証法精神分析論理によって存在論弁証法を接合した事で見出されるものだといえるでしょう。

 

 以上の説明を踏まえるならば、"物の存在性" は、尊厳というものが人間の現前を経由してしまった後では暴力的関係性という人間的政治化によってその真の力を失ってしまう事を教えてくれる。 人間的形象以前、直前の、"孤独な一者性" という世界の中でただ独り・ただ一つであるという達成物 ( 誰であれ何であれ、自らがそのような真実自体であるのを "知る" のは幸福だといえる ) が自らに纏う "神聖さ・崇高さ" こそが真の尊厳である事 は政治に敗北し続けて来た芸術文化の方が教えてくれる。 民主主義的人間、共産主義的人間、宗教主義的人間、国家主義的人間、経済的人間、社会的人間、いずれの人間であれ、あらゆる政治体制はイデオロギー的人間を再生産するし、また "人間と言われるもの" がイデオロギー的な人間でなければ "無用な物" でしかないかのような "政治的無意識" を人民に浸透させ続ける。 つまり、あらゆる意味を含んだ上での "政治というもの" に従わない者は人間形象を奪われ、尊厳がないかのように扱われてしまう。 芸術文化はそのような政治に関わらない生き方もあり得るし、そのような生き方をする者もまた人間であり、そこには既に尊厳がある事を "" を通じて描き出しているのです。

 

 ソルジェニーツィンは 『 収容所群島 』 などの告発物において、政治体制によって管理及び消滅させられる人間形象を描き出したのですが、彼の人間性がいかなるものであれ、その創作行為自体は、政治による操作物と化した人間形象の強制 "以後" の世界において "人間以前" "存在性尊厳" を訴えるものだ と哲学的に解釈出来るでしょう。 彼は 『 クレムリンへの手紙 』 において、まさにそのような人間形象を消滅させる国際的な戦争・政治・経済競争が激化する "世界からの撤退"、それも人間過疎地帯である "シベリアへの積極的な没入的発展" を促す。 あたかも、人間が政治体制によって規定されしまう以前の "非政治的世界としての大地" に還れと言うかのように。 もちろん、この主張を現実的政策提言として本気で受け止めってしまっては突拍子もない奇抜なものでしかなくなる ( ソルジェニーツィン自身は本気なのかもしれないが ) のですが、ここに賭けられた思索的投機を読み取るならば、ソルジェニーツィンは人間自体を消費しなければ維持出来ないような巨大政治体制ではなく、人間の日常生活を脱イデオロギー的に構築・維持する "脱権力政治的共同体" を考えている ( トルストイのコミューン主義のように )。

 

二つの世界大戦は別として、国内的ないさかいと反目だけからでも、政治・経済両面での国内的な 《 階級 》 絶滅政策だけからでも、われわれは六千六百万人を失った! 〈 中略 〉。 だいたいわが国では統計数字がすべて隠匿されており、この計算も間接的な推計であるが、しかし実際問題として、一億の人間 ( ドストエフスキーも予言したように、まさしく一億の人間 *) が欠けているのは事実である。 〈 中略 〉。 われわれは自分たちの傷を癒し、おのれの民族的肉体と民族的精神を救わなければならない。

 

* この箇所での訳者の江川卓の注は次のようになっている。

ドストエフスキーの 『 悪霊 』 の中に、「 どうせこの世界は、どんなふうに治療しても全治の見込みはないから、いっそ荒療治で一億人ほどの首をはねてしまえ 」 という考え方が出てくる。 主人公のピョートルがこれを受けて、ラジカルな社会変革のためには、「 一億の首だって恐れる必要はない 」 と予言的な言葉を吐く。

 

クレムリンへの手紙 』 ソルジェニーツィン / 著 江川卓 / 訳 P.39 新潮社 ( 1974 )

 

それはほかでもない。 軍事的方向においても経済的方向においてもわれわれに破滅をもたらそうとしている死んだイデオロギーを放擲することである。 このイデオロギーから生まれる、われわれとは無縁の空想的な全世界的目標を放擲し、ロシアの東北 - すなわち、わが国のヨーロッパ地域の東北、アジア地域の北部、シベリアの主要部分 - の開発 ( それも、安定経済、非進歩の経済の原則に立った開発 ) に専念することである。

 

前掲書P.35~36

 

全員に軍隊を経験させなければ防衛を確保することができないという点は認めるとしても、それならば兵役年限を大幅に縮小し、軍隊での 《 教育 》 を人間的にすることはできるはずである。 現行の兵役制度のもとでは、われわれは国民として、わが軍隊のパレード行進では到底つぐなえぬほどのものを "内的に" 失っている。

 軍備を思い切って削減することで、われわれはわが国の空を、無数に飛び交う航空機の耐えがたい轟音からも解放できることになる。 広大なわが領土の上空で、それらは昼となく夜となく、時間の見境もなく、際限のない飛行訓練をつづけており、それは音域をこえたすさまじい喧噪で、幾十万人もの人々の生活を、休息を、睡眠を、神経を破壊し、その轟音で人々を効果的に白痴化している ( 著名なおえら方は例外なく自分たちの別荘上空の飛行を禁じている ) - しかもこの一切が数十年間にもわたって続けられ、国を救うどころか、なんの約にもたたぬ空騒ぎに終わっているのである。 それなくしては健康な国民のありえない健康な "静けさ" をわが国に取り戻そうではないか。

 

前掲書 P.46~47

 

 たしかに、以前のロシアの諸都市には、もう一つ、むしろ精神的な意味での特質がそれぞれに備わっていて、もっとも教養ある人々は、わざわざ七百万人もの首都にごたごたと集まるより、それらの都市で快適に過ごすことを選んだものである。 多くの地方都市、イルクーツクトムスク、サラトフ、ヤロスラヴリ、カザンだけでなく、多くの都市が立派に自立した文化の中心であった。 しかし、いまのわが国に、モスクワ以外に自主的な、自立した考えをもつセンターが許されるだろうか? 〈 中略 〉。 あらゆる種類の精神生活の現在のような集中化は - 奇形的現象であり、精神的殺人である。 そのような都市が四十ないし八十もなければ、国としてのロシアは存在しない、あるのはただ声のない何かの付録にしかすぎない。 ところがこの点でも、他のどの面、どの点についても言えることだが、われわれの健康なロシアづくりをイデオロギーが邪魔している。

 

前掲書 P. 48~49

 

 "内的な" 発展の必要は、国民としてのわれわれにとって、外的な国力拡張の必要とは比べものにならぬほど重要である。 全世界史は、帝国を築きあげた国民がつねに精神的な損失を蒙ってきたことを示している。 大帝国の目的と国民の道義的な健康は両立しえない。 だとすればわれわれは、わが国民がそのような道義的頽廃に落ちこんでいる間は、そしてわれわれがこの国民の息子であることを自認する間は、国際主義的な課題を考案したり、そのために金を支払ったりはできないはずである。われわれはそろそろ地中海への野望を捨てるべきではないのか? そして、その第一歩としては、まずイデオロギーを捨てるべきなのだ。

 

前掲書 P.51~52