Chapter 5 両極化された人間形象
1 ソルジェニーツィンの 『 収容所群島 』 とスターリニズムは暗黙の内に、 普遍的人間がこの世界には具体的には存在していない ( しかし抽象物としては存在する ) 事を証明してしまっている。 具体的に存在するのは、 人民を支配する独裁者である事の極と、 支配される人民、囚人、農奴、 という被支配集団の極という "人間" の分裂した両極なのです。 つまり、 一方は 人間が極限的に暴力化された超越的人間存在 ( 独裁者・指導者・総統 ) であり、 他方は 人間以前の、 人間である事が出来ない非人間的群生 ( 人民・強制収容所囚人 ) であるという具合に、 人間を超えるか又は人間に至らないか ( ここに "人間" という中庸は存在しない ) の極限化の相反するパターンに分裂している。
2 クロード・ルフォールは 『 余分な人間 』 においてこの "独裁者 ( エゴクラット )" について執拗に論じているが、 彼自身この "一者" の観念を独裁者のみに帰せられる単独的な政治観念として処理しようとするが上手くいかないが故に何度もこの観念に立ち戻って論ずる羽目、 つまり "一者" が独裁者だけの占有物ではなく人民定義にも引っ掛かる何かではないのか、 人民は "余分な人間" という "一者の堕した下部量産的別ヴァージョン" なのではないか、 と秘かな疑心暗鬼になっている。
3 ルフォールに対する通常の教科書的理解では、 人民という一者の統一性を確立する為に、 外部世界のユダヤ人や資本主義陣営、 等の他者が仮想敵として必要とされるとなるのですが、その考えは余りに単純過ぎる。 そこには、 権力側が人民に与える統治イマージュ、 独裁者という "真の一者" に服従的に同化する為に人民に与えられる陰画としての "偽の一者" という一者の統治性、 の真の意味が見落とされているのです。 この一者という統治形象の反転性 ( 人民に向かう時の ) は、 独裁者の潜在的な敵が外部ではなく内部の人民と称される人間集団である事を教えてくれる。
真に人間的であるのは独裁者という政治的存在のみに許される、 政治頂点存在こそが真の人間なのであるのだから人民はその独裁者の栄光の分け前を偽の一者という形で授かる存在でしかない、 という 人間形象を巡る権力奪取 が権力活動の基盤としてそこでは起きているのです。 ルフォールは以下の引用のように言うのですが、 これは正しくは、 人民という一者にとって余分な人間が外部にいるという事ではなく、 人民こそが独裁者から見て余分の人間である、 いやもっと率直に言うと、 独裁者にとっては他の "人間自体" が余分なのだ ( 自分こそが人間なのであるからそれで十分なのだ )、 と読み換えられるべきでしょう。
各相が他の相を反映する二重のイメージ。それは、一にして不可分の人民のイメージを支えるには、この敵、この他者のイメージも必要だからである。 「 全体性 」を創始しようとする運動はつねに、「 余分な 」人間を排除する運動を必要とする。 一者を確立しようとする運動は他者を抹殺する運動を必要とする。
『 余分な人間 -「 収容所群島 」をめぐる考察 - 』 クロード・ルフォール / 著 宇京頼三 / 訳 p. 77 未来社 ( 1991 )
* 下線は引用者である私によるもの
4 ここで興味深いのは、 "人民" を巡るルフォールとジョルジョ・アガンベンのアプローチの差異です。 ルフォールが "独裁者という一者" からの反転的人間形象としての数量化された陰画体こそが人民形態なのではないか とそこに弁証法的関係性を見いだそうとする ( 上手くはいっていないが ) のに対して、 アガンベンは人民を "指導者 / 主権者という形象" との内的関係性からは切り離された、 "剥き出しの生" を体現する潜在力として人民を単独固定化しようとする。 アガンベンにおいて人民は常に 権力に抵抗する為の対敵正義性が具現化された根拠物と化している のです。 ある意味でそれは抵抗する事こそ正義だという単純な見方だとも言えるでしょう。 しかし、 よく考え直さなければならないのは 人民は必ずしも正義によって権力に抵抗するのではない 、 つまり、 抵抗するから正義なのだとは必ずしも言い切れないという事です。 現代においても市街地での民衆デモにおいて発生する暴力行為・略奪行為・破壊行為を見れば、 抵抗を正義の概念に収斂させるには無理があるのは分かるはず ( この暴力性を闘争とオブラートに言い換える人もいますが )。 抵抗という行為には正義の概念からは逸脱する対抗的暴力の要素が過分に含まれているのです ( ここは第2章で引用したデヴィッド・グレーバーの話に繋がる所でもある )。
5 なので、 そこで起きているのは正義の抵抗などではなく、 権力という暴力に抗する "もうひとつの暴力的対抗" だと考えるべきでしょう。 それはもはや防御的意味合いの強い抵抗などではなく 相手に攻撃を仕掛ける迎撃的な意味での物理的対抗性 だといえる。 つまり、 一方の暴力は度を越えると相手側に平穏的閾の限界を越える暴力を誘発する "対抗極性" を生み出す ( 国家間・国家内、家族内、個人間、のあらゆる集団的関係において )。 黙って死ぬのが嫌なのであれば生きる為の選択肢として反撃行動を選ばざるを得なくさせる 暴力極性が "原-政治" 的物理性として生まれる のです。 このような暴力には暴力で以って相対時するという "暴力=暴力" の等式こそがシュミットがホッブズを経由して考える人間関係の根源性であり "原-政治" が働き出す所でもあるのです、 残念な事に。
6 以上の事を踏まえると、 アガンベンが人民を媒介にして考える政治的正義は評価される程ラディカルなものではない、 どころか依然として暴力極性に支配される人間行動の範囲内に留まる凡庸なものでしかないし、 そのような行動原理を考察したシュミットの思想を到底乗り越えられるものではないのが分かるでしょう。 それは最近のコロナ騒動において国民に対する隔離政策を実行した国家に対して、 人間の生の形式から単純に批判するアガンベンの短絡的な振舞いに表れている。 国家の強力な隔離政策やワクチンの効果などの検証されるべき問題とは別に、 そこで展開されるアガンベン自身の思考が、 人間性の尊重という観点から為される国家批判という余りにも単純な論点にしか行き着いていない事こそが問題です ( ただし、 これでアガンベンの思想が全面的に駄目だという事なのではありません )。 国家に対する "抵抗の正義 / 正義の抵抗" を訴える思想は単純に成り過ぎると、 反ワクチン論者や陰謀論者などのイデオロギー論者に都合のいいように利用されてしまう 事をアガンベンはその身を以って示してしまったのです ( 話を知らない方は検索をかければコロナ騒動を巡るアガンベン批判の記事が見つかります )。
7 ではアガンベンの思考の何が問題なのかというと、 人間というものが権力側から虐げられた弱者の側に現れる非人間的扱いを受ける者 ( アガンベンが言うところの "聖なる人間"、"強制収容所の回教徒" ) としてしか考察されないという事です。 極限状況における非人間的人間の出現は確かに権力に抵抗しうる政治的正義の根拠となるものかもしれなません。 しかし、 本来それは政治的実存者とは違う "剥き出しの生" を体現する者であるはずの "人間" が、 "権力への抵抗物" としてイデオロギー化されている為、 生というものを政治的支配の中に組み込む権力側と同様に こちら側も抵抗の為とはいえ生を人為的に政治に組み込む事態になっている事 にアガンベンは無自覚なままでいる。 つまり、 アガンベンの言う "剥き出しの生" は生自体を何ら捉えるものではない ( 彼の思考には語学・文献学への思想的依拠はあっても、生一般を原理的に考えようとする哲学的抽象性はない ) どころか、 極めて "政治的な抵抗概念" でしかない事にアガンベン自身は気付く能力がない訳です。 確かに人間が把握しきれない生一般の流れというものはあるのですが、 それを思想的に考える行為自体は決して "純粋な生" などではなく、 それどころかむしろ、 生の無意識的な流れ自体に抵抗する非人間的行為 ( 反人間ではない ) である のです ( おそらくヘーゲルとハイデガーはその事を理解している )。 その事に気付かない者は政治的正義という倫理への無意識的依存に陥る事しか出来ないでしょう。
8 そうすると、 ここで発生しているのはアガンベンに反して、 "人間" が人民の側だけでなく、 独裁者・主権者の側にも 〈 形象 〉 として両極的に現れるという事態なのです。 上で既に述べた事ですが、 一方には人間が極限的に超越的存在化された 〈 独裁者・主権者 〉 の極があり、 他方には人間以前の、 人間である事が許されない非人間的群生としての 〈 捕囚的人民 〉 の極がある。 この弁証法的両極化こそルフォールが考えようとしていた問題 ( しかし、 これ以降の彼は人間形象を突き詰めて考える事なく、 全体主義対民主主義という脱哲学思考的政治研究に向かってしまう ) なのですが、 これは "人間的なるもの" を巡っての闘争、 誰が最も 〈 人間 〉 であるのかという一方的な権力闘争、 誰が最も人類史における "人間形象把握者" であるのかという統治神話の反復的実行、 これらの結果によるものだといえるでしょう ( *1 )。
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( *1 ) 長い余談になりますが、このような "人間形象把握者" を巡る話としては庵野秀明の 『 シン・エヴァンゲリオン劇場版 』 ( 2021 ) が思い起こされますね ( さらにその話の変形ヴァージョンとして 『 シン・仮面ライダー ( 2023 ) 』 がある )。 NERV の人類補完計画ではなく、碇ゲンドウ ( そして葛城博士 ) の人類補完計画が、生命体が "個体" である事 ( A.T.フィールドという境界領域概念によって示されているように ) の不完全性 ( 使徒と人類との戦闘、人間間の対立、など ) を人類知 ( 同シリーズでは知恵の実と表現される ) が溶け込んだエヴァ初号機において乗り越える、つまり、エヴァ初号機を媒介にすれば、人は個体の殻・境界を溶かして融合するひとつの生命体になれる ( 碇ゲンドウは初号機において同機に取り込まれる形で先に亡くなった妻のユイと融合する ) という疑似宗教的思想だと思われかねないものである事を同作品は明らかにする。 碇ゲンドウはそのような高尚な思想の持ち主である、すなわち、"融合的生命体という形象" で以って人間を超越的存在へと至らそうとする "人類に対する主権者 ( あるいは神 )" と化している 訳です ( 融合的生命という考えに限って言うと、庵野はかつて永井豪のデビルマンへの言及という形でアイデアの源泉を仄めかしている。 言うまでもなくデビルマンは人間の不動明と悪魔アモンの融合体 )。
しかし、それで話が終わるのなら同作品の核は本当に疑似宗教的権力思想になりかねないのですが、驚くべきことに庵野秀明は碇ゲンドウの話をさらに突き詰める。 庵野はそのような碇ゲンドウの思想がどこから生まれたのか、いかなる経験が彼のそのような思想的昇華をもたらしたのか、を息子のシンジに向かい合う形で碇ゲンドウ自身に語らせる。 学生時代の彼も息子のシンジとは似て異なるが自分を周囲から浮いて殻に籠った人間であったが、後に妻となるユイ ( つまりシンジの母 ) だけが彼を受け容れてくれた愛の経験こそが、人間の成長にとって自分自身を超え出る事の必要性を教えてくれたのだと語る。 さて、このさほど衝撃の無い誰にでもあり得そうな凡庸な日常経験エピソード、単に碇ゲンドウは妻のユイと一緒に成りたかっただけじゃないかと邪推させかねないエピソード、こそが、ここでは大切なのです。
この凡庸な "日常的現実" の経験の中からこそ碇ゲンドウの超人間的思想という "想像的虚構物" が昇華的に生まれている事が重要になる、この "繋がり" が。 "現実と虚構" という言葉自体もこの物語の中に台詞の一部として出てくるし、この映画の作画自体も2Dアニメ描写の登場人物の背景が現実の世界に近い効果を生み出す3D合成物となっている為、その2D ( 虚構 ) と3D ( 現実 ) が組み合わされた非調和的CGI に違和感を感じた方も多いはず。 この意図的組み合わせが波長的グラデーションとして度々挿入され最終的にはラストの宇部新川駅という現実へと移行していく。
庵野は明らかに、虚構 ( 融合的生命体・超人間思想、そしてアニメ自体 ) と現実 ( 碇ゲンドウの学生時代の日常的経験・登場人物たちの田舎での生活、そしてアニメではない現実の日常 ) の両極を意図的に、かつ精神分析的ショートカットとして繋げている。その両極によって "人間" は媒介されていることを彼は知っている。 現実だけでは人間は生きていけないし、かといって虚構に依存するだけでも人間は生きていけない。 現実を生き抜く為に人間は時に、非常事態的に虚構を必要とする。 そしてまた現実へと帰っていく。 庵野はこの人間的真実をここで描いているのですが、この作品を単なるアニメ映画としてしか考えない人は、両極の弁証法的繋がりを原動力として生きる人間的真実には永遠に気付かないし、だからこそこの作品に差し込まれる "日常的現実" を退屈なもの・過激性からの撤退としてしか受け止めない人も出てくる訳です。 長くなりましたが、この弁証法的両極性の使用が、ルフォールによる人間形象を巡る独裁者と人民の関係性に対するアプローチとの近似性を思わせるという話でした。
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9 しかし、実はこの両極化は不均衡な結末になっている。 というのも、集団を支配する行為の主体者こそが人間形象を代表するという歪んだ形式性 を通じてではあるが、独裁者・主権者がそのようにして "人間的なるもの" に意識的かつ非常事態的にアクセスするのに対して、被支配的人間集団の方は、労働などの日常生活への没頭であれ、権力への恐怖反応や暴動反応であれ、日常行動自体には "人間的なるもの" への知的反省を促すような契機物が無いからです。 "人間的なるもの" を日常生活の中で考える為には 日常生活には役に立たない・必要ないだろうという疑似思考の節約経済 に逆らう外部知性・外部教養を自らの中に引き込む過剰な ( あるいは無駄な ) 非日常的選択行為が必要になる。
つまり、残念ながら、 "人間的なるもの" について考えるという非日常的行為・非常事態的思考 ( シュミット的に言えば、思考の例外状態 ) は人民の側よりも権力の側で強く働いてる ( だからこそ、かつては知識人の果たす役割が強い時代もあったのですが、現在では人民自身が特にそのような "人間" を望んでいない )。 このような傾向は、レーニンやスターリン、毛沢東、ポル・ポト、最近ではプーチンなどの独裁者の読書量や知的教養の高さを示すエピソード ( 実際、そのような本もある ) が私たちの関心を引くところに無意識的に現れている ( 一般人民が思うよりも彼らの知性は高いのだという神秘性願望 ) 。 事実がどうであれ ( 知的教養があっても暴力性と共存できる恐るべき人間はいる )、そのような独裁者たちが暴力的でありながらも知的教養が高いかもしれないという私たちの興味が成立してしまう所に既に "知性の他在性願望" 、物事をあまり考えたくない、自分以上に物事を考える人間を遠くに据え置く、という私たち自身の "知性の減算傾向"、が現れているのです。