[ 前回記事からの続き ]
▶ Chapter 4 孤独性によって死者と私たちは等価になる
A. 前回に続いて。ジュネの考える孤独について。
私が理解するような孤独は、悲惨な状態のことではない。それはむしろ秘密の王国であり、深い伝達不可能性であり、それでいてしかし、難攻不落の単独性の、多少とも晦冥な認識のことである。
彼 ( ジャコメッティ ) の立像たちは、ある過ぎ去った時代に属しているようにみえる。時間と夜 ー それがこの立像たちを巧みに鍛え上げたのだ ー に腐食され、あの風格を、甘美にして苛酷な、過ぎ去る永遠の風格を与えられた後、発見されたもののように。あるいはさらに、それらは炉から出てきた、恐るべき焼成の残滓でもある。炎が消えた後、こんなものが残るはずだというような。
だが、なんという炎だろう!
ジャコメッティは私に言った。一つの立像を作り、それを地中に埋めるという考えをかつて抱いたことがあると ( こんな言葉が思い浮かぶ、「 土が彼に軽からんことを 」)。人に発見してもらうためではない。あるいは、そうだとしても、ずっと後になってから、彼自身も、彼の名の思い出までも消え失せたときに。
立像を埋めるのは、死者たちにそれを差し出すことだったのだろうか?
前掲書 p. 28
* 下線は引用者である私によるもの
物の孤独について。
彼 ー ある日、自分の部屋で、私は椅子の上に置かれたタオルを眺めていた。すると、本当にこんな気がしてきた。一つ一つの物が独りきりだというばかりでなく、それにはある重みが ー あるいは、むしろ、重みの不在が ー あり、そのためにこの物は、他の物の上にのしかかることを妨げられている。タオルは独りきりだった。あまりに独りきりなので、椅子を取り去っても、タオルは位置を変えないだろうという気がした。タオルにはそれに固有の位置が、固有の重みがあった。そして、それに固有の沈黙まで。世界は軽やかだった。本当に軽やかだった …… 。
前掲書 p. 28
* 下線は引用者である私によるもの
B. しかし、ジュネはジャコメッティの立像を孤独の具現化であると理解しても、それが焼き尽くされた後の残滓だと理解しつつも、それが "無 ー 生命" だと考えているのではありません。むしろ、こう言ってよければ、ジュネにおいては、生命とは、死それ自体が生きている という意味での生命であり、さらに言うならば、生命とは通常思われているような "死ぬ以前の充溢的生命" なのではなく、何もかもが消滅した中でも燻る残り火である かのように、死の現象が全く消え失せてしまうものとしてではなく、死というものが "完全には死にきれない過程それ自体が存続するような現象" として考えられている といえるでしょう。
私は「 その立体感 」と言ったが、それは何か別のものだ。というのも、通常の意味の色調や、陰影や、色価に、彼が一度でも気を使ったことがあるとはとても思えないからだ。そうすると、彼が獲得するのは、素描の内部の素描でしかありえないような、諸々の線からなる網状組織なのだ。だが ー ここで私はわからなくなる ー、陰影によっても、色調によっても、通常の絵画技法のどんな手段によってもけっして浮彫りを得ようとしなかったのに、彼が獲得するのはもっとも度外れな浮彫りなのである。「 浮彫り 」という言葉は、画布をもっとよく眺めるとそぐわなくなる。それはむしろ、像が獲得した、破砕不可能な硬さなのだ。きわめて大きな分子量を備えているような、それは、その運動の特定の瞬間に捉えられたために、その歴史にしか属さないある偶然によって際立っているために生き生きとしていると言われる類のいくつかの像のような仕方で生き始めるのではない。ほとんどその反対である。ジャコメッティが描いた顔は、あまりい生命を蓄積したために、生きるべき時間がもう一秒も残っていないかのように、なすべき仕草がもう一つも残っていないかのようにみえる。そして、( 死んでしまったのではなく ) とうとう死を知ってしまったかのように。というのも、そこにはあまりに多くの生命が詰め込まれているのだ。二十メートル離れて見ると、どの肖像も、生命の小さな塊である。ガレットのように硬く、卵のように中身の詰まった、他の百もの肖像を難なく養えるような。
前掲書 p. 30
* 下線は引用者である私によるもの
C. そしてこの孤独性は、立像を見る者に観察者である事を止めさせ、最終的には自分が立像という事物であるかのような極限性へと移行させる。人間から事物への移行 というこの極限化現象、極限の弁証法、をジュネは見いだしている。事物以外の全てを、観察者でさえも、廃棄し取り除くような "事物の孤独性" への凝集化 を見出している。あたかも、それは事物との対象関係を極限まで突き詰める哲学者フィヒテであるかのように ( *1 )。
一つの物を孤立させ、そのなかへ、それ固有の、それだけが持つ意味の数々を流入させるあの能力は、見る者の歴史的廃棄によってしか可能にならない。おのれをどんな歴史からももぎはなすため、見る者は例外的な努力をしなくてはならない。永遠の現在のようなものにではなく、むしろ、ある過去からある未来への、めくるめくような、不断の疾走に、一つの極限から他の極限への、休息を阻止する振動になるように。
私が箪笥を、それが何であるかをとうとう知るために見つめる場合、私は、箪笥ではないすべてのものを取り除く。そして、私が行ったこの努力は、私を妙な存在にしてしまう。この存在、この観察者は、現前することを止める、現前する観察者であることをさえ。ある過去へ、そしてある無限定な未来へ、彼はたえず後ずさる。彼は止める、そこにいることを。箪笥が残るように、箪笥と彼の間の、情感的な、あるいは功利的な、あらゆる関係が廃棄されるように。
前掲書 p. 32
* 下線は引用者である私によるもの
( *1 ) これについては以下の記事を参照。
次回に続く ( 未定 )