[ 前回記事からの続き ]
▶ Chapter 3 世界の中には消失していかない "顔の孤独"
A. 前章で述べたように、ジャコメッティの作品は、人間が世界の残余としてしか存在出来ない残酷さを表しているのですが、ジュネは、そんな世界に対してでも簡単には自らを引き渡さない小さな頑強さをジャコメッティの作品の中に見出す。それはまさに顔に他ならないのですが、ただし、"眼差しを与えられる" 事で世界から、歴史からでさえも、"孤立化・孤独化" する事の出来る "顔" なのです。そうでなければ人間は、世界の中に、歴史の中に残酷なまでに飲み込まれ消滅いくだけの存在でしかない。しかし、顔だけが、顔自体という "孤独の具現物" だけが、それに抵抗する事が出来る のをジュネは理解している。
生きている顔にしても、すでに、それほど簡単にはおのれを引き渡さない。とはいえ、その意味を発見するのはそれほど大変ではない。私が ー 思い切って言おう ー 信ずるところでは、大切なのは、その顔を孤立させることである。私のまなざしがそれを、その周囲の一切から逃れさせ、私のまなざし ( 私の注意 ) が、この顔が世界の残余と溶け合うことを妨げさえすれば、そうして顔が、それ自身から無限に脱出していき、その意味がどんどん曖昧になってさえいきすれば、そして、反対に、あの孤独が、私のまなざしがそれによって世界からその顔を切り取ったあの孤独が獲得されさえすれば、それがこの顔 ー あるいはこの人物、あるいはこの存在、あるいはこの現象 ー に流れ込み堆積した唯一の意味になる。つまり、一つの顔の認識は、美的認識であろうとするなら、歴史的なものであることを拒絶しなくてはならない。
ジャン・ジュネ『 アルベルト・ジャコメッティのアトリエ 』 p. 16
* 下線は引用者である私によるもの
一枚の絵の検討となると、より大きな努力、より複雑な操作が必要になる。というのも、今述べた操作を私たちのためにしてくれたのは画家 ー あるいは彫刻家 ー だからだ。それゆえ、私たちが復元してもらったのは表された人物の、あるいは事物の孤独であり、眺めている私たちは、それを認め、それによって心を動かされるには、空間の経験を、その連続性ではなく非連続性の経験を持たなくてはならないのだ。
一つ一つの事物がその無限の空間を創出する。
私たちが絵画を先に言ったような仕方で眺めるとき、それは私に、絵画として、物のまったき孤独において現れる。だが、私が心を砕いていたのはそのことではない。問題は、この絵の画布が表すべきものである。つまり、私がその孤独において捉えることを欲するのは、同時に、画布の上のこの像であり ー そして、それが表す現実の物なのだ。私は、だから、まず、物 ( 画布、額縁など ) としての絵画をその意味作用において孤立させようとしなくてはならない、それが絵画という巨大な家族に帰属することを ( のちにそこに連れ戻されるにせよ ) 止めるように。しかし、また、画布の上の像が、私の空間の経験に、先に述べたような事物の、人物の、あるいは出来事の孤独についての、私の認識に結びつくように。
誰であれ、たとえこの孤独に驚嘆したことのない者は、絵画の美しさを知ることはないだろう、もし知っていると言うのなら、それは嘘をついているのである。
前掲書 p. 16~17
* 下線は引用者である私によるもの
B. ジュネは、この顔の孤独性を通じて、彼の自我の、自意識の世界に対する特権性を主張するなどという思想的狭量さを示そうとしているのではありません。そうではなく、人間の存在性は世界から、歴史から隔絶され孤独になる事において、真の個物性に達する。この場合、真の個物性とは、どのような者であろうとも全ての人間は孤独であるという究極性において等価である、等しく愛される物である、という事なのです。ジュネのその、人間はその個物性において普遍的次元に達する と言う考えは、ほとんど気付かれる事はないのですが、ヘーゲル的な思考をさらに人間性の次元で突出化させたものとなっている ( *1 )。彼らのこの秘かな思考の類縁性にデリダが気付きが『 弔鐘 』で並置したのは偶然ではないでしょう。
およそ四年前、私は列車に乗っていた。私の前に、客車のなかに、おぞけを振るうような小柄な老人が座っていた。汚い、そして明らかに意地悪な男。彼の言葉のいくつかが、私にそのことを証明した。こんな男と楽しくない会話を続けることを拒絶して、私は本を読もうと思った。だが、われにもなく、この小柄な老人を眺めていた。男はとても醜かった。男のまなざしが、私のまなざしと、よく言われるように、交差した。そして、その時間は短かったのか、それとも執拗に続いたのかはもう覚えていないけれど、突然私は経験したのである、苦痛な ー そう、こんな苦痛な感情を。どんな人間も、正確に ー 申し訳ないが、私が強調したいのはこの「 正確に 」というところなのだ ー 、どんな他の人間とも「 等価である 」。「 どんな者も、その醜さ、愚かさ、意地悪さを超えて、愛されうる 」。
前掲書 p. 19~20
* 下線は引用者である私によるもの
それは、私のまなざしに捕らえられた、執拗な、あるいは素早いまなざしであり、それが私に、このことを説明したのである。そして、一人の男が、その醜さ、意地悪さを超えて愛されうるようにするものが、まさしく、この醜さ、この意地悪さを愛することを可能にしたのだ。思い違いをしないようにしよう。それは、私から出た善意ではなく、一つの承認だった。ジャコメッティのまなざしは、はるか以前から、このことを見ていた。そして、私たちに、そのことを復元してくれる。私は、私が感じとったことを述べている。彼の彫像によって明らかにされたこの親縁性は、人間存在が、そこにおいて、そのもっとも還元不可能なものへと連れ戻されるあの貴重な地点なのである。その存在の孤独は、正確に、どんな他者とも等価である。
前掲書 p. 20
* 下線は引用者である私によるもの
( *1 ) このような全ての個物における等価性こそが個物を成立させる普遍的論理である事をヘーゲルは強調した。以下記事における Chapter 6の[ 5 ]、[ 6 ]を参照。
[ 以下の記事へ続く ]