〈 It / Es 〉thinks, in the abyss without human.

Transitional formulating of Thought into Thing in unconscious wholeness. Circuitization of〈 Thought thing 〉.

▶ マルクス・ガブリエルのイスラエル擁護記事を通じて色々と考える〈3〉


前回記事からの続き

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3. ドイツ的政治性を帯びたガブリエルのイスラエル擁護

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  今回の記事で何よりも気になるのは、記事の最期で戦争に巻き込まれる一般のパレスチナ人を憂慮すると言いながらも、実際にはそこまで気にしてはいないのではないか、彼が気にしているのはイスラエルの人びと及びユダヤ人の方なのではないか、という点です。これはパレスチナ人の方がどう、いやユダヤ人の方がどうだ、という話ではなく、戦争に巻き込まれる人々というのは、どちらであれ戦争の犠牲者である事には変わりないのだから、普遍的な人間性の観点からすると戦争それ自体に反対するのが哲学者の役割のはずではないかという事です。

 

 ガブリエルがどちらかの当事者国の人間であるのならば、どっちつかずの立場ではいられないというのもまだ分るのですが、そうでない彼がイスラエル擁護の立場を表明する事に哲学者としての意味があるのでしょうか ( そのようなイデオロギーの表明は既に当事国の政治家・軍人・抵抗者によって為されているのですから )。 そこで彼は反ユダヤ主義及びテロリズムに反対する為だと言うのですが、彼の間が抜けているのは、現在の世界情勢において反ユダヤ主義及びテロリズムに反対する事は必ずしもイスラエル側に就く事を意味しない のを理解出来ない所です。それどころかどちらかに一方的に就く事こそが反ユダヤ主義テロリズムの強化・暴走に繋がってしまうのです ( * )。 イスラエルの軍事行動に反対しながらも、反ユダヤ主義テロリズムにも反対するという並列関係の緊張的維持 こそが、暴力性への同一化・単一化現象の普遍化を防ぐ真のパラタクシスであり、アドルノの概念の真の政治的有効転用なのです。このような立場は既にプリーモ・レーヴィジュディス・バトラーが唱え、そして最近のスラヴォイ・ジジェクが採るもの ( このような主張によって彼は一部のイスラエル擁護者から批判される羽目になっているのですが ) となっています。

 

  そうすると、ガブリエルのイスラエル擁護については、第一にはそれはホロコーストによってユダヤ人を迫害したドイツのイスラエル国家保護の政治色 ( ユダヤ人への贖罪表明や軍事兵器の積極的輸出、等の歴史的経緯が絡み合った複合的なもの ) が余りにも硬直化した結果によるものだといえるでしょう。イスラエルに反対する者は反ユダヤ主義に他ならないとするこの短絡的傾向 が現れた出来事が少し前のドイツであったのですが、次章で考えていきましょう。

 

( * )

例えば、新聞記事ではガブリエルは敵対勢力のハマスをテロリストとして非難するが、この場合、これはイスラエル視点からの呼称に過ぎないのであって、パレスチナ側からするとイスラエルもこれまでに、ユダヤ武装組織イルグンによる1948年のデイル・ヤシーン村のアラブ人住民の虐殺のようなテロ行為に等しい事件を起こしている。エドワード・W・サイードは当時のイルグンを率いた、後のイスラエル首相となるメナへム・ベギンをテロリストだと名指しさえしている。このように "暴力性" は、既に片方の反ユダヤ主義テロリズムに固定的に留まる状態を超え出て、双方の対立を激化させる "最悪の普遍的現象" と化している事 を歴史は示している ( だからこそイデオロギーを超えて、戦争・暴力 "それ自体" に対して反対しなければならないのですね )。

 

 

ベギンは長年に亘ってテロリストとして鳴らし、その事実を隠そうともしなかった。彼の著書 『 叛乱 』 は、標準的な中東文献コレクションの一環として、大学図書館や中規模の公共図書館ならどこにでも収蔵されている。同書中でベギンは、自分のテロ活動を - 罪もない女性や子供たちの無差別大量虐殺も含め - 当然のことのように ( ぞっとするほど ) ふんだんに叙述する。一九四八年に四月に発生した、あのデイル・ヤースィーンのアラブ村落での二百五十人の女性・子供虐殺事件についても、彼は自分に責任があることを認めている。〈 中略 〉。 だが、イスラエルの指導者は民主的・西洋的で、通常アラブやナチス ( それらは結局、イスラエルが自らの存在によって否定したものとして見做されている ) と結びつけられる悪徳に耽ることなどできないとする含意があまりに強いため、ベギンのように普通なら消化し難い一破片ですら、ひとかどの政治家へと変質させられてしまう ( そして、一九七八年には、ノースウェスタン大学から名誉法学博士号を取得、挙句の果てにはノーベル平和賞まで授与された ! )。

 

 

パレスチナ問題 』 エドワード・W・サイード / 著 杉田英明 / 訳 p. 63~64  みすず書房 ( 2004 )

 

 

 

4. 反ユダヤ主義的と評されたアダニヤ・シブリーの 『 Minor Detail 』

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 ドイツのフランクフルトで毎年10月に開催される世界最大の本の見本市、フランクフルト・ブックフェアというものがあるんです。各国の出版状況が見えるブース出展、文化イベント、文化展示会、各国出版社間での版権の売買交渉、各種式典、等が数多くの来場者と共に形作られる巨大イベントです ( 2023年は10月18~22日開催 )。その2023年のフランクフルト・ブックフェアにおいて英語圏・ヨーロッパ語圏以外の文学を翻訳紹介するドイツの文学協会LitPromによって創設された、非英語圏・非ヨーロッパ語圏の女性作家に与えられる LiBeraturpreis ( リベラトゥール賞 ) の授与式が開催数日前になって突然中止発表されるという事態が起きました。

 

  リベラトゥール賞の受賞予定者はパレスチナ出身の女性作家 アダニヤ・シブリー ( Adania Shibli ) だったのですが、その彼女の作品 『 Minor Detail ( アラビア語表記 :  تفصيل ثانوي タスフィール・サーナウィー ) 2017 』 が反ユダヤ主義的だと評してLiptomの審査委員を辞任したジャーナリストの Ulrich Noller、Süddeutsche Zeitung紙で同作品をパレスチナ人に対するレイプ及び殺害を行なったイスラエル兵数人を名前も顔もない者として描いた事で単なる反ユダヤ主義を煽る象徴化にしか行き着いていないと批判した作家の Maxim Biller 、そして、この両者の発言を引き合いに出しながら、"テロリストのハマスによる大量殺人の後では賞の授与はほとんど耐えがたいものになるだろう ( Nach den Massenmorden der Hamas-Terroristen aber wäre die Preisvergabe kaum auszuhalten. )" との記事 ( 2023年10月10日付 ) を掲載したTageszeitung紙 ( 通称Taz紙 )、これら一連の作品批判によって賞の授与は中止されたという訳です。

 

▨ ユダヤ人であるイスラエル兵の残虐性を、"歴史的事実"に依拠する事でクローズアップするような象徴的記述化は反ユダヤ主義を助長するものでしかないというこれらの批判には一見すると正当な言い分が含まれているかのように思えるかもしれません。しかし、そうではありません。それらの言い分は全く文学的なものではなく、文学的考察からは離脱した"非文学的言説"、つまり、"政治的イデオロギー"で批判するものでしかないのです。

 

 たしかに『 Minor Detail 』は、1949年8月にイスラエル国防部隊の兵士によるベドウィンパレスチナ人少女の強姦及び銃殺行為という、2003年に明るみになるまで隠され続けて来た忌まわしい事実 ( ここで事実と言うのは、この事件に関わった者たちが当時の軍事裁判で裁かれている事による ) を物語りの発端・契機 ( ただし、それはこの作品の哲学的真理ではない ) として描いている。この忌まわしい事実がイスラエル首相であったベン=グリオンの日記に書き残されていたという事及び、その彼の記述がイスラエル国家にとって不都合な箇所であるとして隠されてきたという事は、ユダヤ人が被抑圧民族であるというこれまでの歴史的・政治的定型を壊しかねないものだ と彼ら自身が考えていた事を露にしている。

 

▨ ベン=グリオンの日記の秘匿されてきたパレスチナ人少女の殺事件 ( この事件以外にも隠されている政治的箇所は幾つもある ) は2003年にイスラエルのリベラル紙『 HAARETZ 』によって明らかにされたのですが、シブリーの『 Minor Detail 』はこの史実の延長上において、その事件を政治的事実としてイデオロギー的主張 ( パレスチナ人の生存権のような ) の為に利用したのではありません ( ドイツの批評家たちがその点において『 Minor Detail 』を批判したのは誤りでしかない )。そうではなく、その事件が現在では政治的記録として以外は残されていないイデオロギー的事後固着性とは違う"視点"で、シブリー自身の一人称の "虚構視点" の意図的使用で以って、この事件、この暴力性、を日常生活・日常風景の中に置き直す、つまり、政治的イデオロギーでは排除され打ち捨てられてしまう日常的細部のついての語り ( そこにおいて『 Minor Detail 』というタイトルの意味が生きてくる ) の中で暴力性を捉えなおす、このように日常性を脅かす暴力の不穏性を淡々と描く事で、読む者にイデオロギー的立場を越えた暴力性についての現在的反省をもたらすのです ( この淡々とした筆致こそが、暴力描写の場面において、一部の批評家にホラーのようだと誤解させているのですが )。

 

 さらに、ここで考えておかなければならないのは、上でも述べた作家の Maxim Biller の批判、とそれを引用したTaz紙の記事における、作中のイスラエル兵には名前も顔もないという批判には、はっきりとは述べてはないものの、ユダヤ人を顔の見えない残虐な行為者として象徴化させているのではないかという含みがあり、『 Minor Detail 』を全く政治的にしか読み取ろうとしていない ( もしくはそれ以外には出来る能力が無いというべきかもしれない ) のに本人たちが気付いていない事です。Maxim Biller は同じ作家であるはずなのに、作品をそれ自体において ( 作品として ) 捉える事が出来ず、自らの出自であるユダヤ人である事及びシオニストである事のイデオロギー立場にこだわりMinor Detail を政治的にしか語れないのだから、彼の文学観は "現実に秘かに依拠する" だけの貧相なものでしかない。そう考えさせる文学事件、彼の小説『 Esra ( 2003 ) 』が彼と現実の人間関係にあった母娘の二人から自分たちをモデルにしたと訴えられドイツの裁判所から発禁処分を受けるというスキャンダルな事件、がかつてあったんですね。もちろん、文学作品の自由や権利を考慮すれば問題のある判決なのですが、それとは別にその事件は彼の創作の秘密が、自分自身の思考からではなくたんなる現実に依拠・従属するだけの貧相なインスピレーションに過ぎなかった事を露呈させてしまったといえるでしょう。それは、アンドレ・ブルトンが『 ナジャ 』において実在の女性を "超-不在" という形式で固有名化 ( ナジャ ) する事で作中に持ち込んだようなものであり、それは結局の所、彼がアントナン・アルトーのように自らの中で思考 ( シュルレアリスム等の )  を深める事の出来なかった能力的限界から "現実の方へ逃避しているのに過ぎない ( それはブルトンの美学的装いで隠されている )" のとさほど変わらないのです。

 

▨ このようなMaxim Billerらの批判、そして同時に、実話を参照している事を擁護してくれる意見、にも対してシブリーは真摯な思考で以って次のように答えています。

 

 私の小説がイスラエル人に対する暴力を扇動しているとか、私が「熱心なBDS[イスラエルに対するボイコットなどをよびかける運動]活動家」であるといった、事実とは違うことを報じたのは taz紙の記者だった。リトプロム[ リベラトゥール賞主催団体 ]がそれに続き、彼らは当初、授賞式の中止は私と共同で決定されたことだと、事実と異なる表明をしたのである。「 事実でないこと 」、また文学上のフィクションは、現実世界には決してそんな影響を与えない。文学と現実世界との関りというものは、変化を煽ることではなく、物事との深い結びつきや内容を促すことにある。おそらくそれは、生きることから苦痛に至るまで、自分自身や他者との関わり方を考える場において、より良く生きる方法を想像する方向へと導くことである

 

 

『 かつて怪物はとても親切だった 』 アダニーヤ・シブリー / 著 田浪亜央江 / 訳 p.10~11 文藝 2024年夏季号所収 河出書房新社 ( 2024 )

* 下線は引用者である私によるもの

 

 しかし、その taz 紙批評家 ( と呼んでもいいのだろうか ) による中途半端に洗練された手法は、私がさらに考えるための手がかりを与えてくれた。彼の主張は、この小説に登場するイスラエル人レイプ殺人犯たちには、名前も顔もない、というものである。

 中途半端に洗練された手法、とはこういうことだ。彼は自分のイデオロギー的見解を押し通すためにこの件を持ち出しているのだが、パレスチナ人全員を含む他の登場人物たちにもやはり顔も名前もないことを無視しているのである。彼はパレスチナ人の登場人物もそうだとは気づいていないのだろう。パレスチナ人に顔も名前もないのは、彼にとって当然のことだから。

 そしてまさにこのことが、最新作だけでなく、私の書く文章のほとんどに、なぜこのような名前も顔もない登場人物が現れるのかについて、新たな理解を与えてくれた。私が親しんでいる文学的感性は、こうした無個性さと無名性によって特別にデザインされていることに気づいたのだパレスチナ / イスラエルやその他の場所で、パレスチナ人だけでなく、アラブ人全般との関係で、現実世界において支配的イデオロギーによって他のサバルタンとともにどのように表象されているかということに関し、この無個性さと無名性は私がこれまでの人生のなかでずっと遭遇してきたものだ

 

前掲書 p. 11

* 下線は引用者である私によるもの

 

 執筆活動をしてきたこの何年もの間ずっと、自分がなぜ無個性で無名の登場人物にしか親しみを感じられなかったのかについて、私は突然理解した。『 誰でもない者 』が文学で見出し、彼らが触発される文学のひとつの形式とは、魅惑的な不在であり、名前のない場所なのである。

 別のドイツ人批評家 ( 引用者注:おそらく作家Maxim Billerを指している ) が、私の小説の結末について、誰の視点に立っているのか、これが物語の結末なのか、という疑問を抱いていることを知った。これは重要な問いであり、別のタイプの名前も顔もない登場人物、つまり幽霊に私たちを導くものである名前も顔もない登場人物たちとは、文学上の幽霊以外の何者かでありうるだろうか

 だが、taz紙の記者にひとつだけ断言できることがある。いつか彼が私の作中人物の一人に息を吹き込んだとしても、それもまた顔のない、名前のない登場人物にしかならないだろう。

 

前掲書 p.11~12

* 下線は引用者である私によるもの

 

 しかし、何人かのジャーナリストはこの小説を擁護するために、これが1949年にネゲブ砂漠でイスラエル兵にレイプされ銃殺されたベドウィンの少女の実話を参照していると指摘した。

 私自身は、文学と現実とのあいだにそのような言及や関連付けをすることは控えている。小説の中の出来事が現実なのかフィクションなのかを問うことは、小説の中のテーブルや椅子が現実なのかフィクションなのかを問うことと同じようなものだ。小説は虚構の試みであり、関心を向けるのもまた虚構なのだ

 

前掲書 p. 14

* 下線は引用者である私によるもの

 

 現実には、言葉はしばしば、わかりやすく明確で合理的な語りという、ひとつの一般的な形式に押し込められる。しかし、もしそうする能力がまったくない場合、そのとき、どんな言葉が出現するのだろうか? 傷ついた、あるいは存在しない言葉を使って、どうやって書き始めるのか? 小説を書くようになる前、こうした疑問すべてが私を悩ませた。一方にあるのは、私たちが受け入れ可能な言語の物語形式をたどることであり、他方にあるのは、私たちがほとんどアクセスすることができず、おそらくアクセスしたいとも思わないために軽視する物語形式を語ること。科学捜査の言葉を使うなら、『 タスフィール・サーナウィー 』は、私たちが部分的に追跡可能な言葉の足跡をたどろうとすることで、文学的な形式を探求してきたと言える。この小説を書き終えた今、物語の構造や文体を含めて、その文学的形式と内容を導いた関心をよりよく理解できるようになった。これらはすべて、特定の言語的体験によって形成されてきた。要するに、現実の出来事と関連づけることは、一般的に私の文学を支える力ではないし、特に『 タスフィール・サーナウィー 』ではそうではない

 

前掲書 p. 14~15

* 下線は引用者である私によるもの

 

 以上の引用から読み取れるのは、シブリーが『 Minor Detail ( タスフィール・サーナウィー ) 』で試みたのは、人々が文学において受け入れて来た "物語形式" を踏襲する事、さらにそこに、その物語が何らかの史実に基づいているかのような "現実性への接近" という追跡負荷を掛ける時、何が起こるのかという事なのです。そこで彼女が見出したのは、文学における言葉とは、ノンフィクションとは違い、人々が飛びつきがちな現実の方に近づく事で力を発揮するものではなく、現実の手前で、現実に取り込まれてその中へと消えてしまう手前で、言葉が自分自身の下で立ち戻り、自分自身の中へと入って行くような、誰かのものでありながら誰のものでもない "空白・深淵・場所 ( それはまさにシブリーが言う "パレスチナ" なのです )" から生まれる言語それ自体の現れ に他ならないという事なのですね。

 

▨ 政治的イデオロギーが現実への依拠からその力を得るというのなら、シブリーはまさにその現実の手前で踏み止まりながら、言葉というものを現実を描写する道具的役割から解放し、言葉それ自体にあらゆるイデオロギーからの距離を保たせる "反省的次元 ( それこそが "Minor Detail" 、つまり、"ささやかな細部" なのです )" を導き入れようとする。そうする事で、イデオロギーにまみれた政治的当事者でなくとも、そうならずとも、世界の誰もが自由に "アクセスする / 訪問する" 事が出来る。そこには世界的普遍性に向かって開かれる契機があり、文学はまさにそれを可能にしてくれるという訳です。

 

 

 さて話は長くなりましたが、次回でマルクス・ガブリエルがこの記事で露呈させた哲学的中立性の欺瞞について触れる事でこの話全体を締めくくる事にしましょう。

 

 

 

次回予定の記事に続く

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▶ マルクス・ガブリエルのイスラエル擁護記事を通じて色々と考える〈2〉

 

前回記事からの続き

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2. 新聞記事の内容について

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  ここまで読んだ方は、じゃあ肝心の新聞記事の内容って何なの? と思うでしょうから、以下に抜粋しておきます。しかし、まあ何というか、これを読むと、彼の説く、道徳性、人間性、そしてその価値観の共有、というやつが、実は、反ユダヤ主義ホロコーストに対する贖罪が戦後に軍事支援へと転化しイスラエルを超軍事国家へと至らせた ( アメリカと共に )、余りにも ドイツ特有の政治性を帯びたイデオロギー で形成されたものである事を、再確認出来ますね。そのイデオロギーに従うならば、ガブリエルのイスラエル擁護とは、かつて大戦中にユダヤ人を残酷な目に遭わせたドイツは贖罪の意味で、イスラエルが他の民族・国家にいかに暴力を行使しようとも黙認する という事になり、それは "歪んだ反省性" だといえるものなのです。イスラエル武力行使は、いかなるものであろうとも、反ユダヤ主義への防衛行為なのだとして暴力性それ自体が常に正当化される、ガブリエルはこの事を暗黙の内に認めてしまっているのです。暴力性を認める彼は、残念ながら 平和について論理的に考える事を放棄している という意味で、もはやカントのような哲学者ではなく、運動家や活動家・疑似啓蒙家でしかないのですね。

 

 

人類は危険な退行の時代に入った。私たちは地球規模で人間性の危機のさなかにある。この後退を示す最大の現れはパレスチナ自治区ガザのテロ組織ハマスイスラエルで引き起こした野蛮な虐殺だ。ハマスはまたしても、人間がかくも邪悪になれるということを示した。

 テロリストたちは、私たち全員と同じように人間であり、野獣ではない。だが徹底的に悪に染まった人々だ。

 

新聞記事からの引用

 

 ハマスの当初の目的は、イスラエル国家の破壊と、できる限り多くのユダヤ人を殺すことだった。反ユダヤ主義が、その動機だ。反ユダヤ主義ナチスによって育まれた恐るべきづ道徳的病理であり、その大量虐殺思想は今なお多くのユダヤ人を苦しめている。

 確かにハマスが10月7日に殺し、人質にしたのはユダヤ人だけではない。非ユダヤ人の犠牲者や人質もいた。だが、ハマスは何千人もの罪のないパレスチナ人をも人質にして悲劇的な惨事に巻き込み、反ユダヤ主義的な宣伝戦に用いていることも忘れてはならない。

 

新聞記事からの引用

 

 ホロコーストを人間の徹底悪の実例とみなすことは、ドイツ人の私にとって現代史を見るのに不可欠な要素だった。私はホロコーストが自国の歴史に刻まれていることを学んで育ち、これを繰り返さないために、どんな形であれ反ユダヤ主義や人種差別主義を防ぐことが何より重要であると誓った ( ドイツ語で「 2度と再び! 」という )。

 

新聞記事からの引用

 

全てのドイツ人がこの見方を共有しているとは言わない。完全なネオナチからホロコースト否定論者まで、ドイツにはあまりに多くの反ユダヤ主義者がいる。ガザの紛争でも、ハマス側に立つ多くのドイツ人がいる。

 

新聞記事からの引用

 

▨  上の発言、「 ドイツにはあまりに多くの反ユダヤ主義者がいる。ガザの紛争でも、ハマス側に立つ多くのドイツ人がいる 」 は、ふたつのセンテンスから成り立っているのですが、このふたつは危険なくらい短絡的に結びついているのが見て取れます。 まずは二番目のセンテンスから読み直しましょう。同センテンス内では、"ガザ側に立つ" ではなく、"ハマス側に立つ"、というふうにハマスがテロリストだとする視点を含んだ巧妙な言い換えが用いられている為、"パレスチナ側に立つ" 事自体を 暗黙の内に "テロリスト ( ハマス ) を擁護する" 事だと印象操作する形になっている のに気付くべきです。

 

▨  これを踏まえて一番目のセンテンスに遡ると、二番目のセンテンス内での巧妙な印象操作を施された "テロリスト ( ハマス ) 擁護" が、一番目の "反ユダヤ主義" と直結化・重合化されて、元々 "パレスチナ側を擁護する者" が全て、"テロリズム反ユダヤ主義集合論化内の構成要素" であるかのように仕立て上げられてしまうのです。つまり、ガブリエルは、"パレスチナの擁護" がテロリズム反ユダヤ主義の肯定には組せず、対立構造を超えた ( 抗争当事者ではない部外者であるからこその ) "平和の理念・概念から発生している現象でもある事" が全く考慮出来ていない。パレスチナ擁護が必ずしも反ユダヤ主義テロリズムの肯定を意味しているわけではないという当然の現象をガブリエルは理解出来ないのです。彼においてはパレスチナ擁護は全てテロリズム反ユダヤ主義へと収斂化されるのでしょう、残念な事に。 このように、平和の概念が、平和についての思考行為が、そもそもガブリエルの中には無い のですね。

 

 

 反ユダヤ主義が大きく広がる道徳的な病理であること自体は、驚きではなかった。だが、私を少なからず驚かせたのは、国連や世界保健機関 ( WHO ) の代表者までが、この危機を誤った観点で見ていることだ。彼らの誤りは、ハマスの思想的なわなにかかっている点にある。このわなは、まるでハマスが罪のないパレスチナの人々をイスラエルの虐殺から守っているかのように見せかける。誤解を与える語り口が、イスラエルの防衛行動を虐殺の形に見せかけ、虐殺は絶対に許されないという倫理の乱用を導いている。

 

新聞記事からの引用

 

▨  注意すべきは、ここでガブリエルが使用する反ユダヤ主義の概念の "内容" は、聖書の時代からナチスによるホロコーストで凄絶さを極める ユダヤ人によるユダヤ人への迫害行為 という意味に "意図的かつ限定的に" 固定化されているという事です。それは、個々のユダヤ人 ( プリーモ・レーヴィのような ) による被迫害体験のトラウマ化叙述で形成されてきた ユダヤ人の被迫害者的存在 が、イスラエルという軍事国家の規模においては防衛行動の正当化の為のイデオロギーとして "意図的に利用されている" のと同時に、イスラエルパレスチナへの暴力行為自体が平和論的視点から国際世界において非難される事で高まる新たなる反ユダヤ主義"意図的に無視している" という事でもあるのです。

 

▨  つまり、神話的・歴史的被迫害主体としてのユダヤ人を圧迫してきた "以前の" 反ユダヤ主義ではなく、イスラエル国家建設 "以後の" パレスチナへの暴力を行使する事への国際社会の反発の反撥という意味での反ユダヤ主義が新たに形成されつつある ( イスラエル自身の軍事行為が引き起こす新たな反ユダヤ主義を最近のジジェクも懸念している ) のを、ガブリエルはハマスというテロリスト的存在への防衛を言い訳の盾にして意図的に無視しているという事ですね。暴力行為の責任主体としてのイスラエル国家の罪 をガブリエルは全く問おうとしない訳です。

 

▨  実は、これこそがプリーモ・レーヴィが苦悩しながらも反対し続けた、イスラエルによるパレスチナ人への軍事行動という国家暴力なのです。これについてジュディス・バトラーは次のように言う。

 

 

 イスラエル国家への批判を提示することは反ユダヤ主義者であるとみなされる、あるいはさらにいえばユダヤ民族の新たな破滅に手を貸し煽動することですらあるとみなされるという難題をもって本書ははじまった。プリーモ・レーヴィは、一九八二年のベイルート爆撃とサブラー・シャティーラの大量虐殺への異議申し立てを明確にすることは、みずからのユダヤ人としての、そして生存者としての公的責任であると考えていた。彼はイスラエル建国をユダヤ人のナチスによる破壊からの避難所として、そしてユダヤ人が帰還する権利をもつ場として明確に尊重してはいた。しかしレーヴィはイスラエルの存在をユダヤ人の恒久的な避難所として尊重する議論を、その当時のイスラエル国家政策とは分けて考えようとしていた。その結果、彼は八〇年代初頭、メナヘム・ベギンアリエル・シャロンの双方に対する批判を強め、サブラー・シャティーラの大虐殺の後には彼らの辞任を求めた。

 

 

『 分かれ道 ユダヤ性とシオニズム批判 』 p. 354~355 ジュディス・バトラー / 著 大橋洋一 + 岸まどか / 訳  青土社 ( 2019 )

 

 レバノン南部の大半を壊滅させ、何千人ものアラブ人住民を殺戮したベイルート爆撃にレヴィは反対した。また彼は占領地に入植地を作ることにも反対した。そして数ヶ月後、彼はサブラーとシャティーラにおける無防備なパレスチナ人殺害を糾弾した。この攻撃は、身の毛もよだつような殺戮、身体の切り刻み、妊婦の臓腑の取り出しなどをふくむと報道された。こうした残虐行為には「 恥と苦悶 」を感じるとレーヴィは語ったが、それでもなお彼は、状況は変わりうるという可能性をねばり強く信じた。一九八二年にジャンパオロ・パンサとのインタビュー 「 プリーモ・レーヴィは語る、ベギンは撤退せよ 」 でレーヴィは、「 私はイスラエルがずっとこんな風でありつづけると信じるような悲観主義者ではありません 」 と述べている。 しかしインタビュアーに、 イスラエルから寄せられた 「 長年にわたり流されてきたユダヤ人の血 」 が見えないのかと問う手紙に対してはどう応じるのかと問われると、彼は次のように答えている ー

 

流されたその血は、流された他のすべての人間の血と同じように私を苦しめると答えます。 けれどなかにはもっといたたまれない手紙もあるのです。 私はそうした手紙にさいなまれていますが、それはイスラエルが私のような人びとによって、ただ私よりももっと不運な人びとによって建国されたのだと知っているからです。アウシュヴィッツの囚人番号を腕に入れ墨された人たち、家も祖国もなく、第二次世界大戦の恐怖から逃れ、イスラエルに家と祖国を見出した人たちです。それはみな、わかっているのです。しかし私はこれがベギンの愛用する抗弁だということもまた知っています。そして私はこの抗弁にいかなる正当性を付与することも拒否します。

 

 

前掲書 p. 355~356

 

▨  このようにバトラーは、ガブリエルとは対照的に、国家暴力を批判する哲学的意義を突き詰める。イスラエル国家を批判する事は必ずしも反ユダヤ主義などではないし ( ガブリエルが短絡的にそれは反ユダヤ主義だと決めつけるのとは違い )、 "ユダヤ性 ( ユダヤ的なもの )" という人間の共存生活に関する倫理的関係性 が、イスラエル国家やユダヤ教の中にのみ限定化されない、人間的普遍性を持つものとして平和への礎になるのではないか とバトラーは考えようとしている ( * )。 だからこそ、ユダヤ人であれ、パレスチナ人であれ、人間の生命と生活を破壊する行為は "普遍的に" 禁止されなければ、誰かが誰かを殺す行為は無くなることはないと彼女は主張するのです。

 

 

私が説いたいと思うのは、国家暴力に対する公的批判 - もちろんこれが何を指すのかについてはまだ説明が必要だが - がユダヤ的価値観によって保証されているかどうかである ( そのユダヤ的価値観は非共同体主義的な観点から理解されているとしての話だが )。

 こうした問いをたてるのは、表立って公然とイスラエルの国家暴力を批判すると、しばしば、そしてある種の状況においてはほぼつねに、反ユダヤ主義的もしくは反ユダヤ人的だとみなされるからである。そしてそれでもなお、表立って公然とこのような暴力を批判することは、ユダヤ的枠組み - 宗教的、非宗教的の別を問わず - の内部から生ずる義務的な倫理的要請である。そしてこの枠組みこそがこの種の国家暴力に立ち向かうための、広範囲な運動に必要な結びつきを支えるものであり、したがってそうすることはユダヤ的であり、また同時にユダヤ性から離反している。

 

前掲書 p. 222~223

 

さらに、私が示唆しようとしたように、ユダヤ人であるということは、非ユダヤ人に対する倫理的関係を引き受けることを含意するとまでいってよいのなら、ユダヤ性とは反アイデンティティ主義プロジェクトとして理解されうるし、また、そう理解されるべきなのだ。こうしたことの淵源にあるところのユダヤ性のディアスポラ状況において、社会的にみて多元的な世界で平等を旨として生きることは、倫理的かつ政治的な理想でありつづけている。

 

前掲書 p. 224

 

アーレントにとって、この地域が共生原則を政治的に実現するために、連邦制あるいは二国民主義の再考を求めることは、暴力からの出口を模索することであって、その土地に住まういかなる集団も破壊しつくす途につくことではないのだ。その政治的な要諦は、パレスチナ人を破壊から守ることなくして、ユダヤ人を破壊から守ることは出来ないということにつきる。もしも破壊に対する禁止を普遍化することができないならば、それはすなわち、破壊をとおしてのみ、ひとは生きのびることができるという前提をもってして、「 他者 」 を破壊しつくすということになる。しかし現実はこれとは反対に、パレスチナ人の生命と生活の破壊は、破壊をおこなう者が破壊されることの危険性を高めることにしかなりえていない。なぜなら、そうした破壊活動は抵抗運動 - 暴力的なものであれ非暴力的なものであれ - に対し持続的な根拠をあたえるのだから。

 

前掲書 p. 228  * 下線は引用者の私によるもの

 

 

▨  以上のバトラーの真摯な哲学的な思考を前にすると、ガブリエルのそれは ( たとえ新聞記事という物理的制約があるとはいえ ) ハマスというテロリストに対する防衛の一点張りで何の奥深さも無いように思えてしまうのは僕だけではないでしょう。さらに、彼の思考の問題は、テロリストという概念の持ち出しにおいて、ハマスパレスチナ人を暗黙の内に重ね合わせてしまっている事 です。記事の最期においてテロリストではない一般のパレスチナ人を苦しみを考慮する振りをしながらも、イスラエルの現実の軍事行動にそのような区別を実践することが困難な故の巻き添えが起きてしまっている事には何も触れようとはしないのですね。いや、実際にガブリエルにそんなことくらい分からないはずもないのであって、真に恐ろしいのは、ハマスパレスチナ人を集合化的に同一視している ( そうでない人々も含めた全体性において ) が故に、苦しむ人がいてもイスラエルに攻撃されるのは仕方のない事だと彼が考えているのではないか と邪推させてしまう不穏性がこの記事にはあるという事なのですが、そこら辺は次回の記事で考えていきましょう。

 

 

イスラエル兵の大部分は、家族や友人、国家の存続をテロ組織から守ろうとしているのであり、一般市民を標的にする意図はない。〈 中略 〉。この時点で私たちにできることは、私たちが共有する倫理観をむしばもうとする国際テロリズムの思想基盤を理解することだ。

 

新聞記事からの引用

 

 

 ハマスを除いて、罪のないパレスチナ人を苦しめ、痛めつけたいと望む者は誰もいない。それはイスラエルに住む人々が、再び人道に対する罪で苦しむのを望む人がいないのと同じことなのである。

 

新聞記事からの引用

 

 

( * )

例えば、パレスチナ出身の女性作家アダニヤ・シブリーは 『 World Literature Today 』 における Claudia Steinberg によるインタビュー記事 ( 2020年12月 ) で次のように言っている。引用箇所の下線は私によるものなのですが、この下線文章は、インタビューの別部分で、暴力を生む国家というものは望まない、パレスチナ国家も私は望まない、と言う彼女の発言趣旨を考えた時、非常に示唆的だといえるでしょう。

 

 

Palestine is a mode of living, an experience. But it’s also a position of witnessing, from a position that can teach us. If you are listening, it becomes so natural that you care, and you create a connection of care toward others that is not limited to the borders of the nation-state or to Palestine as such. This is an ethical point for me—what I am as a human being who has lived in this place under these conditions, what I can carry away from this place on a personal level—and what it created in terms of literature.

 

パレスチナとはひとつの生活様式であり、ひとつの経験なのです。しかし、それは私たちに何かを教えてくれる "場所 / 位置" ( ) でありながら、目撃の "場所 / 位置" でもあるのです。耳を傾ければ、あなたが気遣うのが、国民国家の国境やパレスチナなどに限定されない他者への気遣いの結びつきをあなたが生み出せるのが、自然なこととなる。このような状況でこの場所で生きる人間としての自分、個人レベルでこの場所から私が持ち帰ることが出来るもの、そして文学の観点で生み出されるもの、- これは私にとって倫理的なポイントなのです。

 

 

( ):引用者注 シブリーはこの position という言葉を地理学・地政学的な意味で限定的かつ物理的呼称としてパレスチナを指す為にのみ使っているのではなく、その "場所" を通じて世界の人びとが何を知るのか、何を目撃するのか、そこで起きる暴力性とは、私たち人間自身の姿なのではないか、というパースペクティヴの人間間の移動を可能にする何物かとして示唆している。その為、ここの訳では固定的なものではない "移動・位置変化・状況変化" のニュアンスが含まれる "場所 / 位置" という訳語を position に当てた。

 

 

 

 

次回予定の記事に続く

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▶ マルクス・ガブリエルのイスラエル擁護記事を通じて色々と考える〈1〉

 

1. まずは、状況の感想について …

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▨   興味深い新聞記事があったので、それをきっかけに考えた事を書いておこうと思いまして ( もう誰も書かないだろうなとの思いもあって )。 その新聞記事とそれに対する世間の受け止め方を見ると、哲学と呼ばれるもの ( 哲学という言い方自体、余りにもアカデミックで本当は好きじゃないのですが ) は僕が考える意味での 論理性についての "思考-行為" などではないのだと再確認しましたね。 誰も別に、論理的思考行為を技術的、技法的な、意味で突き詰める事などに何の意義も見いだしていないのだな、スポーツや格闘技における "技術性の追求" が内輪的独占 ( 教える側の優位性・秘匿性 ) を越えて全体を底上げするように普及する、そのような "行為の洗練化" は哲学の世界からは起きないのだな、と思いました。 そんな事よりもいかに党派的、政治的な "合意的意見" を形成していくか、より "政治的思考内容" を残していくか、が大事な人がほとんどなのでしょう、哲学界隈では。 ここで言う政治とは大文字の政治的イデオロギーの表明や信奉という事ではなく、集団的合意性を形成する小さな政治 ( 私たちの誰もが日常の中で行っている心的集団化作業というべきものです )。 つまり、哲学者と呼ばれる方々も、党派間や派閥間での応酬に躍起する政治家と何ら変わらないという事です。

 

 まあ、順を追って話していきましょう。 新聞社の山陰中央新報デジタルに 『 世界探視鏡 』 というマルクス・ガブリエルの連載記事があるんです ( これを転載している別の地方紙もあります )。 その2014年1月15日の連載で、彼はイスラエルハマスの間の戦争行為に関してイスラエル擁護の意見を述べているんですね。 ハマスは話の通じないテロリストなのだから、イスラエルが自国を守る為の報復措置は当然だ、それは反ユダヤ主義が強まる世界の傾向に対する警鐘としても当然だ、という具合に ( そして、そこで戦争に巻き込まれるガザの市民については 憂慮する と僅かに記事の最後で触れられるだけです )。

 

 どちらが良し悪しかは別として、この "戦争それ自体" を肯定するかのようなガブリエルの記事は、それ程、日本の市民の間ではそれ程話題にならなかった。日本の新書ブームで時の人になったかのような彼ですが、世間はその記事に余り気付かなかったようです。それは、日本の新書での彼の読者は、マルクス・ガブリエルの存在をそれ程真剣には気にしていない、そこまで祭り上げてはいない、という事の現れであって、彼の動向には無頓着なのですね。でも、そもそも哲学者だからといってその発言が本気で受け取られたり賞賛される必要もない。というのも、別に本人も啓蒙家気取りでパフォーマンスしているだけで一般人の意見を本気で聞く事もないのだから ( 感情論以外で )。 なので、メディアや講演会で面白そうな発言するライトな哲学者でしょと思われて話半分で聞かれるくらいの距離感で丁度いいんですよ ( 逆に、彼の啓蒙話の哲学的抽象度を理解した人は、その内容にかなりの疑問を抱く事になるでしょう )。

 

▨  ただ、これとは対照的に、アカデミックな方々 ( 特に哲学系の ) はガブリエルのこの政治的発言には何かしらの重要な意味が含まれているのではないかと感じながらも触れようとする事はほとんど無いように見えました。 特にガブリエルとその専門分野 ( シェリング研究 ) を同じくする方々、そして彼と対談した方々、はどうなのでしょう。 彼の専門の哲学研究は擁護しておきながらも、彼の啓蒙活動については敢えて触れないという知らない振りには、臭い物には蓋をするという感がありすぎる。いや、研究と政治は別々のものだと言う人もいるのかもしれませんが、そのような使い分けこそが既にミニマムな政治であり、哲学以前に政治を優先しているだけに過ぎないのではないか、もし、研究と政治は別物だと言うのなら、ガブリエルという人間を擁護しているのではなく、あくまでも彼の研究における論理性を擁護しているのだ、と付け加えておかないと 戦争の肯定には無頓着なただの党派的な庇い合いでしかなくなる、 と思ったりしますね。

 

▨  上で述べたガブリエルを擁護・同調した人たちの中には、第二次大戦中の日本の戦争に思想的に協力した京都学派と称される知識人たちを批判的に語った方がいる ( 菅原潤や中島隆博など ) のですが、ガブリエルの発言を含めてこの状況を眺めた時、これはもうブラックジョークでしかない。 こういう時に分かるのは、彼らが関心を持っていたのは戦争肯定に向かった 京都学派という知識人の動向を現象的に総括する事 なのであって、平和それ自体について哲学的に考える事平和を概念化する思考行為、など毛頭ないという事です。それを考える事が出来ない、考える能力が無い、からこそ京都学派は戦争肯定に向かったというのに。 これでは何も変わっていない。

 

▨  ガブリエルのように 思想的に戦争を肯定するとは、犠牲になる者たち ( 市民 ) の事など気にも留めない視点においてしか成立しない ( 気にしていたら戦争を肯定するなど到底出来ない )。 まさかガブリエルがこのような戦争肯定論に限りなく近い発言をするとは以前には思いもよらなかったと言うのかもしれませんが、だからこそそこについて語って欲しい …… けど、スルーするのでしょう。 どうせ一般市民はそんな事には気付かないのだから、語る程の事ではないという具合に。

 

▨  わたしたち一般市民は、自分たちが教養の無い者だろうと "知識人 ( この表現も古臭いのですが )" に結構軽く見られている現実 をもっと理解した上で、彼らの話を "客観的に聞く" 事が出来るようになるべきでしょう ( 知識人の見下しを予め汲んだ聞き方を作るという事ですね )。  教養が無いからといって立場が対等でなくなるような関係性 ( 教える立場 / 教えられる立場 ) を黙認していたら、いつまでも一方的かつ権威的に教えを説かれ続けるだけで、一般市民の思考が真剣に受け止められる事なんか永久に起こりえない。 これは、一般市民は話を聞かされるだけで、自分たちからは抽象的議論など語る事など出来ない短絡的人間として固定化されてしまうという事です ( 一般市民の意見・思考を哲学的に受け止める知識人なんてほぼいないですからね )。 また、市民の中にも難しい事はよく分かんないから仕方ないと黙認する人もいるでしょう。 しかし、このような人間関係における立場の固定化構造というのは人間が生きていく上での自由度を狭めるものでしかない のです。 先生が常に先生である事はないのであり、教え子が、いや門外漢の市民であっても先生に対してより先生になる事は幾らでも起こるし、 政治家は常に政治家ではないし、市民が政治家に対してより政治家である事は起こるのです。 これは実際の肩書や制度上の話ではなく、個人の精神的・心的状況は誰であれもっと自由であるべきだという話ですね。 そのような心的立場の絶えざる変転が無ければ人間関係は硬直化するし、民主主義とは政治家が思い通りに動かし市民はそれに従うだけの閉塞的なものになるだけです。

 

▨  なので、 知識人のほとんど ( そうでない方もいるので、全ての方だと言い切る事は出来きませんが ) はどうせ一般人の話を深く聞かないのだから気を遣う必要はないんです。  市民は各々が自分なりの論理を構築しながら、遠慮せずにもっと自分の哲学的思考をガンガン表明していいんです ( 知らん振りされたって別に構わないんですよ )。 別にその本人に直接言う形ではなくとも、誰もが自分の論理性を持って、何かを何処かで深く語る事で、誰のものでもない、つまり、誰のものでもある "思考空間" が日常形成される のですから。 そうなればマルクス・ガブリエルや斎藤幸平を始めとする大した論理性など無い疑似啓蒙活動を行う者たちの話などありがたがって聞く事も無くなっていくでしょう。

 

 

以下の記事に続く

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 関連記事

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▶ ソルジェニーツィンの『 クレムリンへの手紙 』を通じて考える〈 8 〉

 

 

前回記事からの続き

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 第10章  〈 日常 〉 と 〈 凡人 〉、 そして普遍性 …

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▨ ミシェル・ド・セルトーは、このような私たち大多数である無名の者を "凡人 ( homme ordinaire / オム・オルディネール )" として素敵な概念化を施してくれた。 彼は、誰でもあり、誰でもない、この一般の人々の存在こそが 普遍性という概念に信用を与えてくれる のだと言う。 そしてセルトーはフロイトこそがこの凡人を正当に評価したとして詳細な説明をしていく。

 

 

 この「 哲学的 」人物が現代でどうあつかわれているか、これからとりあげてみようとする例は、もっとも含蓄の深いものではないかと思う。フロイトは、文明を論じ (『 文化への不満 』)、宗教を論じつつ (『 ある幻想の未来 』)、冒頭からごく普通の人間 der gemeine Mann ( 凡人 ) をとりあげ、分析の主題ともしているが、そこでかれは、文明と宗教というこの文化の二つの形態にふれながら、啓蒙主義 ( Aufklärung ) に忠実に、「 大多数の人びと 」の蒙昧にたいして、精神分析の啓蒙の光 (「 いわば微積分とおなじような、不偏不党の一手段、ひとつの方法 」) を代置し、世間一般によくある信心をある新しい知のもとに導いていこうとするだけで終わってはいない。精神の「 幻想 」や社会の不幸といえば、かならず「 一般大衆 」と結びつけて考えたがるような古いシェーマを再考しているだけではないのである。

 

『 日常的実践のポイエーティク 』p. 52~53 ミシェル・ド・セルトー / 著 山田登世子 / 訳  ちくま学芸文庫 ( 2021 )

 

* 下線は引用者の私によるもの

 

労働を昇華し快楽に転化できるような「 思想家 」や「 芸術家 」のことはさておいて - といってその選良が、フロイトのテクストのつくられてゆく場を指し示しているにはちがいないのだが - その選良を離れてフロイトは、「 凡人 」と契りをかわし、みずからのディスクールと群衆をひとつに結ぼうとしているのである。かれら群衆は夢を追いながら、その夢にあざむかれ、欲求不満をいだきつつ、勤労からのがれることもできないままに共通の運命につながれて生きており、欺瞞の掟にしたがわせられながら、死の業をまぬがれることもできない。フロイトはそうした群衆とひとつになろうとしているのである

 

前掲書 p.53   * 下線は引用者の私によるもの

 

 たしかにフロイトは凡人を非難しながら、かれらは宗教的な神のおかげで「 この世のありとあらゆる謎が解明される 」と思いこみ、「 自分の人生を摂理が見守ってくれる 」という幻想をいだいていると語っている。〈 中略 〉。けれども、フロイトの理論にしたところで、だれもが味わう普遍的経験に力を仰いでいるのであり、そこからおなじような御利益をさずかっているのではなかろうか。ここで凡人は貶められ、迷信深い俗衆と一緒にされてしまっているけれども、それでも凡人は、なにか抽象的普遍にも似たすがたをとりながら、その及ぼす力によってそれとわかるような、ある神の役割をはたしている。つまり凡人は、〔 フロイトの 〕ディスクールにたいして、ある特殊な知を一般化する手段をあたえ、話の全体をとおして、そのディスクールの効力を保障する手段をあたえてやっているのだ。凡人の権威をかりて、ディスクールはみずからの限界をのりこえるのである - なんらかの治療に限定されてしまう精神分析の能力の限界を、そしてまた、現実に準拠しながらその現実を奪われているあらゆる言語そのものの限界を。

 

前掲書 p. 54   * 下線は引用者の私によるもの

 

フロイトは「 下層民 」に個人的な偏見をいだいていたし、ミシュレは《 民衆 》にたいしてちょうど正反対の楽観的な期待をいだいたが、いずれにしろ凡人はディスクールにたいして、その全体化の原理となり、信憑性の原理となる務めをはたしてやっているのである。凡人あればこそディスクールは、「 これは万人の真理である 」と言い、「 これは歴史の真実である 」と言えるのだ。そこで凡人はかつての神のようなはたらきをしている。

 

前掲書 p. 55

 

 だが年老いたフロイトはちゃんとそのことに気がついている。自分で自分のテクストをからかいながら、「 まったく無用な 」慰み半分の仕事だと言い (「 一日中タバコをふかしたり、トランプをしたりするわけにもいかないから 」)、「 暇つぶし 」に「 高尚なテーマ 」をとりあげてみたものの、「 ごく月並みな真実を再発見した 」だけのことだ、と言う。フロイトはこのテクストと「 これまでの著作 」とは別だと述べて区別しているが、これまでの仕事は方法のための諸規則を論じるものであり、しかもさまざまな症例にもとづいて構築されたものである。ところが、このテクスト ( 注:『 文化への不満 』のこと ) ではもはや少年ハンスのことも、ドラもシュレーバーも問題になっていないここにふれられている凡人は、なによりもまずフロイトの教化的意図をあらわしており、専門分野のなかでもういちど倫理一般の問題を再考しようとするもの、一種のおまけというか、精神分析の手続き以前にあるなにものかである。そのことによって凡人は、ある知の反転をあらわにする。

 

前掲書 p. 55  * 下線は引用者の私によるもの

 

事実フロイトが来るべき「 文明社会の病理学 」にむけて序文を書いていながら、自分でそのテクストをあざ笑っているというのは、ほかならぬかれ自身がここで語られている凡人であるということ、苦く「 月並みな真実 」のいくつかを手にした、その凡人そのものであるということなのだ。考察のしめくくりになると、フロイトはうって変わったような口調になっている。いわく、「 おまえは、何の慰めもあたえてくれないではないかと世間に非難されるなら、わたしは甘んじて非難をうけとめることにしよう 」、なぜなら、わたしとて慰めが見出せないのだから、と。そこでフロイトはみなと同じように窮地におちいり、やおら笑いだす。アイロニーに満ちた賢者の狂気は、特異な能力を失ってしまうということ、そうして自分もまただれとも変わらぬ者、だれでもない者、よくある〔 共通の 〕話のなかの一人にすぎないのだ と悟ることに結びついている。『 文化への不満 』という哲学的コントのなかの凡人、それは、話し手そのひとである。この凡人は、ディスクールのなかで学者と凡俗をつなぐ結節点になっている - この凡人をとおして、それまでは注意深くそこから区別されていた場に他者が ( だれでもあり、だれでもない者が ) 回帰してくるのだ。ここでもまた凡人は、ディスクールのなかで専門的なもののなかに 卑俗なものが侵入してくる軌跡を描き、知をその一般的前提へと連れもどす軌跡を描いている。こうして、フロイトは語るのだ、確かなことは、わたしにもまるでわからない、わたしもみなと変わらないのだ、と。

 

前掲書 p. 55~56  * 下線は引用者の私によるもの

 

▨ 少々長い引用になってしまいましたが、以上のセルトーの説明で重要なのは、〈 凡人 〉というものが、大多数の人間の数量的集団存在自体を表わすような単純なものではないという事です。 注意すべきは、私たち個々の人間は名前を持っているにも関わらず、歴史の長大な時間経過の中では、一部の特権的な人物達を除いて、その名が 〈 誰 〉を指し示しているのかはもはや分からなくなる "埋没の必然性" において、固有名は意味 ( 指示機能 ) を失っていく という事です ( それが何処の誰の事を指しているのかはその周辺の人達が亡くなってしまうと分からなくなる。 歴史に刻まれた人は別なのでしょうが  )。

 

▨ 固有名が人間にとって、普遍的な意味を持つかのように説くのは歴史に名を刻む欲望に縁取られた政治権力的な振舞いでしかない ( 政治家のみならず学者、社会的著名人を含めた ) のです。 本来、一人の名前は社会や歴史に広く刻まれる事が無くとも、身近な人々に認知されていく過程で、その当該人物が日常生活を送る為の空間は十分に切り開かれていくし、それはひとつの幸福でもある ( それは悲劇にも変転しうるのですが ) のです。 それ以上の事を望む者が社会や歴史に名 ( それが自分の名ではなくとも ) を刻もうと固有名を特権化するに過ぎません ( そうすると "動物" は一体どうなるのかという話にも繋がっていきますね )。 固有名とは人間にとって日常生活を送る上でのひとつの要素でしかないのであって、その名をそれ以上に強調する事は既に日常性からは離脱した政治的特権化行為、しかも 万人に向けられるかのような外装のもとで為される、限られた人間への適用行為でしかない のです。 著名な固有名については取り上げるが、そうではない固有名については説明例として成立しないが故に取り上げる事が出来ないという "特殊な選別化" が起きている訳です。 そうすると "固有名の普遍性" とは一体何なのかという疑念が起きますね。 政治的選別化によって成立する普遍性とは一体 …… 。

 

▨ なので、もし固有名を強調する、または再固有化するのでなければ、真の人間たりえないという主張する方がいるのなら、その人たちにとって、歴史の中に埋没していった、いや、いまも埋没し続ける "無名の者" は人間ではないという事になるのでしょうか。 それに対してセルトーはそうではないと言っている。 名も無き〈 凡人 〉こそが普遍性の礎であるからこそ、政治権力はその普遍性を担う〈 凡人 〉を集団化統治する事でその基盤を成立させているといえるのです。 〈 凡人 〉とは、集団的人間に課せられる名ではなく、集団以前の名も無き個人であっても一人で十分に人間足りえている事に冠せられる単独性概念 と考えるべきでしょう。 つまり、政治的主体と成る事がなくとも、歴史的主体と成る事がなくとも、"大文字の固有名" を持たなくとも、人間は日常生活を送るという持続性において既に尊厳のあるものとして成立している 事を〈 凡人 〉の概念は示してるのです。

 

 

▨ さて随分と寄り道をしてしまったのですが、次回から再びソルジェニーツィンについての話に戻しましょう。 『 クレムリンへの手紙 』というタイトルではありながら 実際には手紙ではないこの作品 は、ロシアの未来を憂慮した政治提言の形式を採った文学作品となっています。 それは "手紙" という言葉を組み込む事で、ソルジェニーツィンが自らの意志を政権に対して送付したのだという "表現上の事実" の疑似確定化が為されている、つまり、実際にクレムリンに手紙を送ったという行為的事実性ではなく、自分はクレムリンに対して政治憂慮の意見を発したのだ という世間に対してのアピールになっているのですね。

 

▨ 彼は自分の意見によってクレムリンが態度を変えることはないだろうと分かっていながら世界に向かって自分のメッセージを送る事に主眼を置いている。 自分のメッセージの真の宛先を特定の誰かではなく、自分の主張を理解してくれるであろう不特定多数が存在する普遍的な世界にしているという時点で、メッセージの "到着点 / 終着点" というべきものを無意識的に想定している のです。 それは、その想定地点が無ければ自分の主張は受け取られる事がなく、つまり、理解される事がなく、"彷徨い続ける事" になってしまうのをソルジェニーツィンは少なくとも ( まあそれは彼でなくともそうなのでしょうけど ) 望んではいないと私たちに判断させてくれる暗黙の到着点なのです。 しかし、彼のメッセージは、"到着点" において、"理解の完了地点" で、受け取られたのでしょうか。 もし、そうでなかったのなら、この "手紙作品" とは一体何なのでしょう。 次回はそれについて考えましょう。

 

 

次回予定の記事に続く

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 参考資料

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▨ 『 日常的実践のポイエーティク 』 ミシェル・ド・セルトー / 著 山田登世子 / 訳  ちくま学芸文庫 ( 2021 )

▨ 『 幻想の未来 / 文化への不満 』 ジークムント・フロイト / 著 中山 元 / 訳  光文社古典新訳文庫 ( 2007 )

▨ 『 クレムリンへの手紙 』 ソルジェニーツィン / 著 江川 卓 / 訳  新潮社 ( 1974 )

 

 

▶ ソルジェニーツィンの『 クレムリンへの手紙 』を通じて考える〈 7 〉

 

 

前回記事からの続き

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第9章  〈 戦争 〉 と 〈 平和 〉 ②

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▨ イヴァーノフ=ラズームニクをして個人主義を放棄したと言わせしめたトルストイの論理とはいかなるものなのか。 本当はそうでないのにそう思わせてしまう程 『 戦争と平和 』 のエピローグ第2編は複雑な哲学論理が展開されます。 そこではトルストイは作家というよりかは哲学者として真摯な思考を述べているのですが、おそらくほとんどの人は、一人の偉大な作家がまた面倒な理屈をこねているのだろうという具合に考えてその内容を論理的に解き明かそうとはしないでしょう。  トルストイの文章は人々に届いても、 彼の "思考" は届かない …… 、 残念な事に。

 

 エピローグ第2編でトルストイいかなる力が諸国民を戦争に向かわせているのか という原理的問題をはじめに設定し、それについて執拗に考えていく。 彼は権力というものを、君主や英雄に生来備わった強力な意志の産物であったり、諸国民が統治者に委託する自らの従属もしくは黙認の意志の総和に由来する、などという考え方を紋切的な歴史学叙述として拒否するのです。というのもトルストイは戦争行為というものを統治者の権力行使の結果としてではなく、諸国民自身の意志が無ければ、数々の歴史家によって記述され続けてきた 出来事 として構築し得なかったはずだという、言語哲学的側面からの洞察を行なっているからです ( トルストイは再三にわたり歴史家たちの 記述行為それ自体 について言及する )。  人類史における 戦争 とは、確定記述物 として言語構築される 程までの巨大事象なのだから、それは統治者に委託される代表的権力のみでは不可能であり、戦争に傾く諸国民の運動が無ければ巨大事象たり得ない 人間活動の総体 だとトルストイは考えるのです。

 

 そしてトルストイの洞察が優れているのは、権力というものが、統治者に由来するものでなければ大衆が統治者に委託するものでもない、巨大事象を可能にする諸国民の活動それ自体ではないのか、とそれ以上は彼は上手く説明出来ないが、ミシェル・フーコーに倣って分散構造的権力体とでも現代的に言い換えたくなるような権力概念の方に向かっているという事です。 誰も気付かないのですが、ここでのトルストイフーコーに先だって 権力をその歴史変遷の構造化から考えようとしている。  だからこそ彼は 歴史学の根本基盤である記述行為それ自体が、戦争という出来事と並走しながらそれを単に写像したものなのではなく、ある歴史的一般法則 ( トルストイが述べる歴史の必然という現象です ) にも囚われている構造 を見逃さないのです。

 

 

諸国民の生活史は何人かの人間の伝記に押し込めることはできない。 なぜならその何人かの人間とそれぞれの国民との間の関係が見出せないからだ。 その関係の基盤を民意の総和が歴史的人物に委託されることにあるとする理論は、仮説であって歴史の経験に裏打ちされてはいない。

 

戦争と平和 』 エピローグ第2編 5章 p. 424 トルストイ / 著 望月哲男 / 訳 光文社古典新訳文庫 ( 2021 )

 

 権力という概念抜きでは人間の活動の総体の記述は一つとして成り立たないのは言うまでもないとして、権力の存在は、歴史ばかりか現在の出来事の観察によっても証明される。

 

前掲書 p. 427

 

 熱と電気の関係を語り、原子間の関係を語る時、われわれはどうしてそれが起こるのか語れるまま、なぜなら他には考えられないから、なぜならそうなるようになっているから、それが法則だから、そうなるのだと言う。 歴史現象にも同じことが当てはまる。 なぜ戦争や革命が起こるのかをわれわれは知らない。 われわれが知っているのはただ、戦争なり革命なりが行われるためには、人々がある種のチームに編成され、そして全員が参加するということだけである。 だからわれわれは言うのである - それはそうなるようになっているのだ、なぜなら他には考えられないし、それが法則だから、と。

 

前掲書 p. 442

 

 お分かりでしょうか。   軍事的視点でもなければ反戦の平和的視点でもなく 戦争を人間活動の総体だと 人間史的視点 で定義するトルストイの哲学的洞察力が。 それはたんなる戦争礼賛でもなければ、人間礼賛でもないし、イヴァーノフ=ラズームニクに個人主義の消滅だと誤解させる集団政治体制の礼賛でもありません。 戦争が歴史的に確定記述され続けて来たのは、それ以上に人間活動の総体の具現化である事を示す事象は歴史的にない からだとトルストイは洞察しているのです。 この意味でエピローグ第2編には 『 戦争と平和 』 に因んだ 『 歴史と人間 』 という仮タイトルを与える事も出来るかもしれません。 ここでのトルストイは、人間活動の巨大性を最も示すのは戦争事象なのだと理解をしているからこそ、この後で "戦争 / 人間活動の総体" の歴史記述を裏書きする 歴史の必然性 について考えていく事になるのです。

 

 この場合、人間史において戦争事象を記述確定させる上での "必要条件" こそが、トルストイが執拗に考察する "歴史の必然性という現象" です。  いや、精確に言うなら、 これはある歴史上のある出来事の発生は 後的に見ると必然であったかのように思えてしまう現象 なのです。 これをトルストイは、歴史家が戦争事象を記述する際に、それが実現されるべくして発生したかのような確定記述をしているとして注意を促している。 そういう記述の仕方だと、ある戦争事象はその統治者の意図 "のみ" によって達成されたかのような還元主義に陥ってしまうのではないか、そのような特定の人物への "還元主義 / 確定記述" には、戦争事象に関わる匿名大多数の諸国民の活動、 実行されなかった命令・作戦・戦略、等の表に出なかった "偶然性の事後廃棄操作"が含まれている事が見落とされているのではないか、とトルストイは暗黙の内に言っている。 つまり、この事は 歴史上の出来事を "必然" であるかのように思わせる確定記述は、実現されずに終わった数々の "偶然的要素" の事後排除によって可能になっている という事なのです。

 

 話は少し逸れるのですが、戦争の実行の発端をある英雄や統治者の特定の意志に還元する歴史記述に対して、異議を申し立てるトルストイの考察は、ゴットロープ・フレーゲバートランド・ラッセルらに端を発する "固有名を特定化説明するとされる確定記述論理" に固有名の特定化を妨げる側面もある事を示したソール・クリプキの反論を思い起こさせます。 このクリプキの立場は "固有名は確定記述の束には還元されない" と教科書的に理解されるのですが、それすらも不十分なのは固有名を記述理論ではない別の論理によって説明しようとするクリプキの立場がフレーゲラッセルらと依然変わらず 固有名を無意識的に特権化してしまっている という事です。

 

 どういう事かというと、その固有名と記述理論の関係性の説明として持ち出される紋切例の 「 アリストテレス 」 が、その確定記述の 「 プラトンの弟子でアレクサンダー大王の先生 」 によって特定化されよう ( フレーゲラッセル ) とされまい ( クリプキ ) と、アリストテレスプラトンアレクサンダー大王、という 歴史的に保存された、つまり、"既に社会性を獲得している" 固有名が特権的かつ恣意的に選ばれている 事の意味に全く無頓着なのです、例え説明の為という便宜性を盾にするとしても。

 

 では社会性を獲得していない、つまり、一般的には広く知られる事なく死んでしまう・死んでいった大多数の人間たちは各々の固有名を持っているにしても、その記述属性論理が妥当なのか・公正なのかを判断する事はその身近にいた人たちによってしか判断され得ないという意味で 一般性を獲得出来ないという事態が現実には起きている のです。 身近に過ごして来た人たちにとっては妥当な固有名であっても、そこからは離れた人たちにとってはその固有名を聞いても、何の記述属性も思い浮かばないが故に 実在しているか・していたのかどうかも分からないという事態が至るところで起きる という訳です ( * )。  むしろその方が圧倒的に多いとさえ言えるでしょう、人間の歴史を振り返った場合。

 

 つまり、同じ言葉であっても、ある人にとっては確信出来る固有名であっても、関係の無い人にとっては それは名指す対象が分からないという意味で、もはや固有名ではなく内実の無い "記号表現 ( ジャック・ラカン的な )" へと化してしまっている という事です。  ある場所では固有名であるものが別の場所では固有名ではないという同一物の反転現象 が頻発するのなら、固有名の言語学定義自体とはいかなる研究の歴史を経ても普遍性を獲得できないという矛盾に突き当たってしまう。 フレーゲならば、それは対象を示さないが故に "意味" を持たない 「 見かけ上の固有名 」 であるとし、"真" ではない "偽" の判断を下すのでしょうが、社会的欲望の観点からは実在の対象を示さなくとも、それは意味 / 意義を持つのです。

 

 

( * ) このような事態を最も明確に表したのが、ブライアン・シンガーの映画 『 ユージュアル・サスぺクツ ( 1995 ) 』 です。 そこでシンガーは、ひ弱な詐欺師のヴァーバル・キントの警察署での "喋り" を通じて犯罪の黒幕である正体不明の "カイザー・ソゼ"  ( これはドイツ語とトルコ語の合成語で "お喋りな皇帝" を意味する ) が実在の人物であるかのように警察に信じこませ見事に逃げ切る物語を提示する。 言うまでもなく真の犯人はヴァーバル・キントなのですが 彼は自らの偽名としてカイザー・ソゼを持ち出し、それが実在の恐るべき犯罪者であるかのように疑似現実化させる事で自分に対する疑いを逸らす事に成功したという訳です。 カイザー・ソゼとは、まさに "言語における固有名から記号表現への移行" という社会における "言語流通現象" を具現化した言葉だった のです。 この記事については以下を参照。

 

 

 

 戦争死傷者や強制収容所の囚人が現実的に残酷な肉体的体験をしたのは言うまでもなく悲劇的な事なのですが、思想的にもそうであるのを、上で述べた確定記述論理を用いて考えてみましょう。 彼らは各々の固有名の代わりに "集団的犠牲者" と刻印される "匿名集合体 / 歴史上の存在" として確定記述されてしまったのです。

 

 もちろん、その人たち全てには固有名があるのは言うまでもないのですが、問題なのは、戦争・強制収容所での残酷な体験という暴力性の確定記述による強力な固定化が 各々の固有名を超えて、犠牲者という名の無い匿名体へと集合化させてしまう歪曲作用 を生み出すという事です。 それは歴史の名において、各々の人間の人生の総てをそれ無しではあり得ないかのような狂気劇へと収斂させてしまう "トラウマ化記述" なのです。 それによって歴史上の存在者と化してしまうという歪んだ確定記述がもたらすこの様相を、先に述べたトルストイの言うところの偶然性を廃棄した必然の歴史法則に落とし込んでさらに細かく考えてみます。

 

 "犠牲者という歴史存在者" として必然化されるという事は、その犠牲者であると "最終的には称される人々" がそれまでに営んできた 日常生活 が、犠牲という出来事へと収斂していくかのような事後遡及性 ( 結果から遡るとそれ以前の全てが結果に向かって流れ込んでいくかのように見える事 ) から本来は免れているはずの 日常生活それ自体 が、犠牲という最終結果に向かう流れの中で悲劇的に捉えられるのでなければ、歴史的には意味が無いかのような 偶然物 として排除されるという事なのです。 その当人にとっては大きな意味を持ち続けて来た日常の本来性 ( 悲しさだけではなく喜びや楽しみもあったはずの多様な経験 ) が浮かび上がる事なく、犠牲という巨大なトラウマ無しでは歴史化を施される事なく、犠牲者としてしか、犠牲としてのみ、犠牲者だからこそ、歴史的に必然化されてしまうという狂気の確定記述がそこにはある のです。

 

 だからこそアンネの日記には反ナチスイデオロギーや平和イデオロギーに利用されるには留まらない、いや、そこを超えた真の人間的本質が現れているといえる。 アンネの一家とその周辺、両親や家庭、社会的なもの、性的なもの、に対する彼女の鋭い洞察によって描かれる日常生活がナチスによるユダヤ人政策によっても揺るがされる事なく、無意識的な政治的抵抗物 として機能している ( * )。 つまり、真の政治的抵抗とは、政治的スローガンを唱える事のみに収斂されるものなのではなく、それぞれの日常生活それ自体を第一義的なものとして徹底的に描き続ける、持続させる、事なのだ と日記はアンネ自身のものであるのを超えて "その言外で" 教えてくれる。 その真実は、『 アンネの日記 』研究版で現れる。 それによって従来の普及版が父親等の関係者、そしてアンネ自身による検閲的推敲化・整理化が施された別ヴァージョンである事 ( 研究版には A、B、C、三つのヴァージョンが載せられている ) が判るのですが、そこではナチス側ではないものの、各々の思惑が絡まったこちら側の政治性によって 日常生活それ自体 が削られる事でその姿を現わしているのです、偶然物 として。

 

( * ) これこそ 『  アンネの日記 』 の映画化などの世界的普及現象に対して強制収容所の耐えがたい本質を見ようとしないとして批判したブルーノ・ベッテルハイムが全く思考出来ない事なのです。 確かに 『 アンネの日記 』 の普及にヒューマニズム的演出が施されているのは否定出来ません。 しかし、だからといって日記におけるアンネの洞察や日常生活の記録について深く考えず ( いやそれどころかベッテルハイムはアンネ家の生活ぶりに否定的でさえある ) に強制収容所の凄惨さばかりを優先化するのは、ソール・フリードレンダーやクロード・ランズマンのようなアウシュヴィッツの表象不可能論者が自分たちの意見ばかりを神聖化して他を抑圧する行為と変わりません。 ベッテルハイムは自分もまたナチスとは違う抑圧的意味で、日記が書き残してくれた人間的本質に満ちた日常生活に尊厳を払おうとしていないこと に全く気付いていないのです。 ベッテルハイムや強制収容所からの生還者らが、壮絶な限界状況の中で人間的本質を "破壊" という形で見たことは間違いなくとも、人間的本質が "持続" という形で維持される他人の日常生活構造 を見下してしまっては、それこそ世界に人間性の居場所は無くなってしまう。

 

 

 そうすると、日常生活とは、政治権力が自らの俎上には乗せずに当然のように排除するものであり、歴史において権力構造 ( 権力への抵抗もまた権力闘争の中に巻き込まれている ) から余分な物のように打ち捨てられる日常生活を営む人々もまた無名の者たちとして歴史の中に埋没していくのです。 しかし、 歴史に名を残すことが全てではないし ( 権力を欲望する人はそこに拘るのですが )、ひとかどの者にならなくとも、日常という生活は常に既に続いているし、続いていく。 人間が生きるとはそのような日常の持続であり、 日常という凡庸な空間と、 持続というベルグソン的時間概念が融合した 〈 生の持続 〉 がそこにはある。 〈 平和 〉 とはまさにその 〈 生の持続 〉 の別名だといえるでしょう。 私たち無名の者による 〈 生の持続 〉 こそが 〈 平和 〉 なのです。 次回の記事では、この無名の者についてフロイトを経由して語ったフランスの哲学者ミシェル・ド・セルトーに触れましょう。

 

 

以下の記事へ続く

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参考資料

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▨ 『 戦争と平和 1~6 』 トルストイ / 著 望月哲男 / 訳  光文社古典新訳文庫 ( 2021 )

▨ 『 ロシア社会思想史 上・下 』 イヴァーノフ=ラズームニク / 著 佐野努・佐野洋子 / 訳  成文社 ( 2013 )

▨ 『 名指しと必然性 』 ソール・クリプキ / 著 八木沢 敬・野家 啓一 / 訳  産業図書 ( 1985 )

▨ 「 郵便的訂正可能性について ー 東浩紀の『 存在論的、郵便的 』と『 訂正可能性の哲学 』のあいだ  」 宮﨑裕介  新潮 2023年11月号所収

▨ 『 アンネの日記 研究版 』 オランダ国立戦時資料研究所 / 編 深町眞理子 / 訳  文藝春秋 ( 1994 )

▨ 『 日常的実践のポイエーティク 』 ミシェル・ド・セルトー / 著 山田登世子 / 訳  ちくま学芸文庫 ( 2021 )

 

▶ ソルジェニーツィンの『 クレムリンへの手紙 』を通じて考える〈 6 〉

 

 

前回記事からの続き

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第8章  〈 戦争 〉 と 〈 平和 〉 ①

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  "戦争と平和" と言うと、 多くの人はトルストイの 『 戦争と平和 ( 1864~69 )  』  を思い浮かべるでしょう。 人生の後期において非暴力主義 ( ガンジーとの書簡による対話は有名ですね ) とコミューン主義を広めたトルストイの人物像から人は "平和" という言葉に違和感を抱く事はないのですが、 少なくとも彼が30代で書いた同書の中には平和について積極的に "語る" 下りはほとんど無い事に実際に読んだ方は気付くはず。 いや、そもそもこれは祖国戦争を "描写" した長編小説なのだから、 平和について直接的に "語る" ことがないといっても、 数多くの登場人物たちの描写背景から "平和" を導き出すのは特段無理な事ではない、そう思う人もいるでしょう。

 

  しかし、そうではないのです。平和は "描写される" のではないし、 かといって直接的に "語られる" のでもありません。それは迂回的かつ間接的に "幽かに示される"、  戦争についての "語り" の傍らで。 しかも、 それは作中登場人物によってではなく明らかに作者トルストイによるあたかも小説併記 / 小説後記であるかのような "歴史哲学的語り" がエピローグとして唐突かつ不自然に現れるという状況なのです、それこそが物語の核心なのかと思えるくらいに。 それはまず第4部が終わった後、エピローグ第1編の1章~4章において現れるのですが、5章~16章では再び登場人物たちによって話が進む通常の小説形式に戻ります。そして、それに続くエピローグ第2編で内容全部が第1編の1章~4章で唐突に始まり終わった "歴史哲学的語り" が再開されるのです。それはそれまでの 『 戦争と平和 』 を特徴づける数多くの登場人物による展開進行という小説構造とは明らかに異なるトルストイの歴史哲学を叙述する論文的構造となっている。

 

  そこには小説的描写ではなく、"歴史事象" についてどうしても語らなければならないとするトルストイの意志が強く反映されているといえるでしょう。その箇所が無くとも小説の体裁は保たれるのに、いやそれどころかその箇所によって 『 戦争と平和 』 の作品構造のバランス自体が壊れかねないというのに。これについてトルストイは次のように言っている。

 

 

戦争と平和 』 とは何か?   これは長編小説ではないし、 ましてや叙事詩でもなく、 歴史記録ではなおさらない。 『 戦争と平和 』 は、 まさに今あるような形式で作者が表現したいと願い、 そして表現し得たものである。 散文芸術作品の形式上の制約を軽視する作者のこうした宣言は、もしもそれが故意にするものであり、また前例のないものだとしたら、思い上がりと聞こえるかもしれない。 だがプーシキンの時代以来、 ロシア文学史にはヨーロッパ的な形式からのこうした逸脱の例が数多くみられるどころか、 逆の例など一つも見つからないほどだ。 ゴーゴリの 『 死せる魂 』 に始まってドストエフスキーの 『 死の家の記録 』 に至るまで、 新時代のロシア文学の多少なりとも月並みの域を超えた散文芸術作品で、 長編小説、 叙事詩、 あるいは中編小説といった形式にいったりと収まるようなものは、 一つとしてないのだ。

 

 

「 『 戦争と平和 』 という書物についての数言  」 『 戦争と平和 』 所収 p. 478~479 トルストイ / 著 望月哲男 / 訳 光文社古典新訳文庫 ( 2021 )

 

  では、トルストイが語ろうとした "歴史事象" とは何なのでしょう。これについてのエピローグにおけるトルストイの語り方は抽象思考的で小説好きな一般の大多数には受け流されてしまうものなのですが、彼はそこで 人間が戦争に向かう歴史現象 を哲学的に考えているのです。戦争は行うべきではない、という頭ごなしの平和論などではなく、その前に 何故人間は戦争をするのか という事を、彼はこれまで繰り返されてきた戦争事実を前にしながらも真剣に考えようとしている訳です。

 

 

だがいったいどうして何百万人もの人間が殺し合いを始めたのか、誰がそれを命じたのか?  そんなことをしても誰の得にもならないし、むしろ皆の損になることぐらい誰が見ても明らかだったろうと思えるのに、いったいどうして人々はそれを行なったのか?  〈 中略 〉。 殺し合うことが身体的にも精神的にも有害なことは天地開闢以来明らかであるにもかかわらず、なぜ何百万もの人々が殺し合ったのだろうか?

 それは、そうすることがどうしても必要だったからであり、そうすることで人間は、ちょうど蜂が秋口に殺し合うように、動物の牡同士が殺し合うように、自然の、動物の法則を実行しているのだ。 この恐るべき問いに対してこれ以外の答えは提示しえない。

 

前掲書 p. 492~493

 

  以上のトルストイの叙述を読むと、彼は戦争というものを諦念的に肯定しているかのように見えるかもしれませんがそうではありません。彼は 戦争に向かう人間の "集団意志"、ルソーが言うところの "一般意志"、が国民という位相において形成される "歴史的事象" に注意を払っているのです。 彼はルソーの構築した政治概念を用いて ( それが意識的使用かどうかは分かりませんが彼はルソーを敬愛していた ) 戦争に傾斜していく人間集団の一般意志を歴史的に分析する。

 

 

 つまりは、二種類の行為がある。 私の意思次第の行為と、私の意志によらない行為である。 そして矛盾を生み出す誤りは、私の自我に、すなわち私の存在の最高度に抽象的な部分に関わるあらゆる行為に伴う自由の意識を、私が不当にも、他の者たちと一緒に行う行為、他の者たちの自由意志に私の自由意志を合わせることではじめて成り立つ行為にまで及ぼしてしまうことから発生する。 自由の領域と従属の領域の境界を確定するのは極めて困難であり、その境界画定こそが心理学の本質的な、そして唯一の課題となっている。 しかしわれわれの最大限の自由と最大限の従属が現れる諸条件を観察していて気づかざるを得ないのは、われわれの行為が抽象的で、他人の行為にかかわる度合いが低ければ低いほど、それは自由であり、逆にわれわれの行為が他人と結びつく度合いが高いほど、それは不自由だということである。

 他の人間たちとの間に最も強固で切り離しがたい、重い不断の結びつきを作るものは、いわゆる他者への権力であり、権力とはその真の意味においては、他者への最大の従属に他ならない。

 

前掲書 p. 496~497

 

  エピローグ第2編は小難しい内容なのですが、個人的に思うのは、このエピローグ第2編について考える事なく平和について何らかの示唆を『 戦争と平和 』から導き出すのは難しいということです。 この作品をたんなる読み物としてエピローグを省いて楽しむというのなら話は別なのですが。 というのも戦争の主体は国家であるとしても、その国家主体の根源には、それを支える "一般意志" としての国民による黙認的総意がある国民という人間集団自体が戦争に向かう事を受け容れてしまっている、という "歴史現象" を "必然的なもの" としてトルストイは見出しているからです。

 

  ここには国家の、より強力な権力基盤として人間を形式的に自らの中に組み込んだ "国民国家" という権力体への変移があります。それと同時に、権力に組み入れられる事で人間は国家における形式的主体へと変貌するのです。国家に服従しながらも主体性を手にする ( いや服従するからこそ得られる政治的主体性というべきか ) という両極的矛盾がそのまま具象化された "臣民=主体" が誕生する 訳です ( エチエンヌ・バリバールが説くようにフランス語の "Sujet" はその両方を意味する興味深い例となっている )。  そうすると、国家による戦争の主体、 戦争を実践する主体、とはこの臣民=主体によって担われるという事であり、その臣民はまさに戦争を推進する一般意志を表象する集団という事になる。これはいうまでもなく 人間自身が戦争行為を意志する生き物だ という事ですね、 積極的であろうと消極的であろうとも。これについてアンネ・フランクは次のように書いています。

 

 

 あなたにも容易に想像がつくでしうょうが、ここのみんなは、しばしば絶望的にこう自問します - 「 いったい、そう、いったい全体、戦争がなにになるのだろう。 なぜ人間はおたがいに仲よく暮らせないのだろう。 なんのためにこれだけの破壊がつづけられるのだろう 」

 こういう疑問を持つのはしごく当然のことですけど、これまでのところ、だれもこれにたいする納得のゆく答えは見いだしていません。そもそもなぜ人間は、たとえばイギリスでのように、ますます大きな飛行機、ますます大型の爆弾をいっぱうでつくりだしながら、いっぽうでは、復興のためのプレハブ住宅をつくったりするのでしょう?  いったいどうして、毎日何百万という戦費を費やしながら、そのいっぽうでは、医療施設とか、芸術化とか、貧しい人たちのために使うお金がぜんぜんない、などということが起こりうるのでしょう?  世界のどこかでは、食べ物がありあまって、腐らせているところさえあるというのに、どうしていっぽうには、飢え死にしなくちゃならない人たちがいるのでしょう?  いったいどうして人間は、こんなにも愚かなのでしょう?

 わたしは思うのですが、戦争の責任は、偉い人たちや政治家、資本家だけにあるのではありません。 そうなんです、その罪は名もない一般の人たちにもあるのです。 そうでなかったら、世界じゅうの人びとはとうに立ちあがって、革命を起こしていたはずですから!  もともと人間には破壊本能が、殺戮の本能があります。 殺したい、暴力をふるいたいという本能があります。 ですから、全人類がひとりの例外もなく心を入れかえるまでは、けっして戦争の絶えることはなく、それまでに築かれ、つちかわれ、はぐくまれてきたものは、ことごとく打ち倒され、傷つけられ、破壊されて、すべては一から新規まきなおしに始めなくちゃならないでしょう!

 

アンネの日記 研究版 』 オランダ国立戦時資料研究所 / 編 深町眞理子 / 訳 p. 715~716 文藝春秋 ( 1994 )

 

* 下線は引用者の私によるもの

 

  上の引用でアンネが言う、「 戦争の責任は名もない一般の人びとにもある 」 という言葉はルソーやカント、トルストイ戦争論を含めた歴史的論理系列を考え直す時、 単なる道徳的非難以上の意味を持つ。 つまり、"戦争行為" の主体が各々の国家臣民である事に限定されるのに対して、出来事としての戦争は歴史的な "戦争事象" として世界市民"脱国家的道徳観念=平和" を抱かせる意識性 を構築させるのです、人間の在り方として。 ここでは、崇高な疑似幻想に浸る国家臣民という主体に対して、国家内主体のようには権力規定され得ない不安定な "人間概念" が "世界理念" と共に権力閉域を切り崩すように現れている のですね。 まさにカントはこの脱国家・脱主体的論理系列において "人間=世界" の次元を執拗に探求したといえるでしょう。 この点が重要なのは カントが "具体的な国家 ( 戦争 )" に対して "抽象的な世界 ( 平和 )" を無意識的に対置して隣接接合している 事です、フロイトに先んじて。彼は具体的暴力を出来る限り局所化させる事が出来るのは "抽象的理念の力" しかないのを理解していた。暴力に暴力で対抗する事、暴力で対抗されるような暴力を引き起こす事、は戦争に行き着く悪循環しか生まない。 世界、平和、等の抽象的理念を世界市民で共有化・浸透化する事こそまたひとつの現実である とカントは考えていたといえますね。

 

  ではそうすると、トルストイは 『 戦争と平和 』 において "人間" についてどう考えていたのでしょう。 興味深い所です。というのもソルジェニーツィンの 『 収容所群島 』 の資料としても知られる 『 監獄と流刑 ( 1953 ) 』 ( 2016年に成文社からの松原広志による邦訳版あり ) の著者である イヴァーノフ=ラズームニクは大著 『 ロシア社会思想史 ( 1906 ) 』( 2013年に成文社からの佐野努・佐野洋子による邦訳版あり ) においてドストエフスキーと比較する形で 『 戦争と平和 』 時のトルストイを "個人主義" を放棄しているとして暗に非難しているからです。 トルストイの人間概念がいかなるものであるのか次回で考えていきましょう。

 

 

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参考資料

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▨ 『 戦争と平和 1~6 』 トルストイ / 著 望月哲男 / 訳  光文社古典新訳文庫 ( 2021 )

▨ 『 ロシア社会思想史 上・下 』 イヴァーノフ=ラズームニク / 著 佐野努・佐野洋子 / 訳  成文社 ( 2013 )

▨ 『 アンネの日記 研究版 』 オランダ国立戦時資料研究所 / 編 深町眞理子 / 訳  文藝春秋 ( 1994 )

 

▶ ソルジェニーツィンの『 クレムリンへの手紙 』を通じて考える〈 5 〉

 

 

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第7章  〈 戦争 〉 と 単独物としての 〈 人間 〉

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 戦争の中でこそ生きる軍人と戦争を拒否する市民。ここで既に市民という概念を導入していますが、これはルソー / カント的な意味での市民、国家統治に一般的同意はするが盲目的に服従する者ではなく、意志の自由な使用が保障された普遍的人間性を含意する市民 のことです。この場合は戦争を推進する国家に対して、外面的には仕方なく従いながらも、内面的には抵抗しようとする "意志の分裂的現れ" が起きている場所が問題となる。つまり 国家統治に一般的同意を与えざるを得ない集団人民としては従属という "政治的意志 ( 一般意志 )" を持つが、その国家の為に自らの命を差し出さねばならない事については同意出来なくなる "特殊意志" が個人において現れる。

 

 ここで重要なのは、一般的に考えられるように、特殊意志の総和から一般意志の全体性に向かうような順次段階的道筋は論理的幻想に過ぎず 現実には 一般意志の全体性圧力による部分的な個体に対する抑圧化覚醒を引き起こす現象 が、局所的頻発性として全体性自身を揺るがすかのように "一般的化されている" のです。個人が全体性の表象である事を抜け出して 個人が個人であるという脆弱な単独性、個人が個人である事の不安定的同語反復 においてこそ全体性が部分において止揚される自由が特殊意志として現れる。何の全体的保護のない自らの実存のみを拠り所にする存在論的的不安定性、こそが個人が真に "独りで" 自分に向かい合っている "事実性 / 経験性 / 人生" を証明する。国家を保護膜とする軍人よりもこの市民的個人性の方こそが、国家統治に翻弄される個人の脆弱な運命を通じて露呈される "人間概念一般性" へと接近させてくれる。

 

 軍人が戦争という全体的危険性に伴う死の欲動の高まりに魅了される "滅私的個体" であるのならのならば、市民とは、滅私性を要求する全体性こそが逆説反照的に個人の生存欲求を高めてしまう "私存 ( 保存 ) 性個体" だといえるでしょう。それは政治以前の日常個体の単なる存続などではなく、滅私性を呼びかける全体性が、日常個体に対して "疑似独立個体形態" のイマージュを逆説的に与えてしまう事で発動される個体の自己固執化の結果物、すなわち、"単独物の誕生" なのです。

 

 現実物である日常個体が、自らの存在の真理 / 確実性を自らに問いかけようとする哲学的身振り ( ハイデガーが 『 存在と時間 』 で繰り返し強調する思考の基本的特徴である自己言及的問いという身振り ) それ自体が既に 個体内由来ではない外部的全体性からの反照行為 であり、その行為は 外部性の個体内部への移植 / 定着化現象 なのです。 それは 外部的全体性が部分性に掛ける圧力自体が、 部分性の自己覚醒としての架空単独物の出現 ( オリジナルのないコピーによる疑似本歌取り ) を呼び起こしてしまう という極めてパラドクシカルな出来事だといえる。 おそらくはこれこそが神山健治の『 攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX 』という個人が全体性の中には完全に取り込まれず隣接的に存在する奇妙な状態を表わすタイトルから浮かび上がる哲学的真理かもしれない。 さらに『 攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX  ~ The Laughing Man ~ 』は J・D・サリンジャーを引用してきた伏線がこの真理の回収の為である事を最後に示している ( これについての詳しい話はまた別の機会にしましょう )。

 

 全体的統治の袋小路の結果、生じる部分性 ( 個物 ) の覚醒 こそが人間という新たなる個物の到来であるのなら、それは当然国家には完全には服従しないし、全体性の中への滅私行為に欲望の満足を見いだす軍人とは対極的な抽象物となる。この意味でカントが "世界市民" と言う時、通常は彼が考えた国際法と関連付けられる哲学的理念、道徳的理念、というように凡庸に理解されるのですが、潜在的にはカントはもっと過激な概念として提唱している ( その潜在的過激性は精神分析家のジャック・ラカンが 『 カントとサド 』 で見抜いていた )。悪知的な野蛮性 ( 戦争を繰り返す行為などの ) が散見される現実の人間を乗り越えるべく、道徳性を装備した "理想人間" に成らなければならないというパトローギッシュな自己強制 こそがカントの哲学的試みなのです。この場合、"パトローギッシュ" とはカント信奉者が言うような "情念的な" というオブラートな概念であるよりかはラカン的ニュアンスである "病理的な" という方が相応しいでしょう。『 人倫の形而上学 』等で うんざりするくらい繰り返される "道徳の自己強制の義務" は論理内範疇を超え出て "超自我による異様な強制命令" と化している 事は読み取れるのですから。

 

 そのような超自我による強制命令の叙述は、実際の人間が不道徳であるのが真実だと分かっていても、カントにとっては思想史的には人間は "国家属民" として以外は未だ十分には練り上げられていない "個体概念" だった事を意味する ( ここには日常の人間に対する彼の "秘かな哲学的見下し" も含まれている )。 だからこそカントの著作には 『 世界市民という視点からみた普遍史の概念 ( 1784 ) 』、『 人類の歴史の憶測的な起源 ( 1786 ) 』、『 人間学 ( 1789 ) 』 のように、日常的人間ではなくミシェル・フーコーを先取りしたかのような 歴史の結節点としての "人間概念それ自体" を構築する身振りが現れている のです ( * )。  このような人間についての考察は啓蒙時代の思想風潮のひとつだとしてアカデミックな研究は片付けてしまうのですが、そのような理解の仕方は現代が人間について真剣に考えようとしないシニカルな時代でしかないのを暗黙の内に語ってしまっている。人間概念について真剣に考えようとする姿勢は思考行為の誠実さの度合いに通ずるのですが、残念ながら現代ではそのような思考行為への深入りは失われ、出来るだけ深く考えないようにして考えるというシニカルな知性 が広く行き渡っているのです。

 

( * )

このような日常的人間と世界市民の区別、人間概念それ自体の考察、についてカントは以下のように言う。

 

 世界の中に生じていることに対する関心という点で、われわれは二つの立場をとることができる。 すなわち、俗世の子 Erdensohn の立場と世界市民の立場とである。 第一の立場にあっては、自分の商売と、それから自分の安寧に影響を及ぼすような事柄のほかには何らわれわれの関心を引かない。 第二の立場にあっては、人類とか、世界全体、事物の起源、事物の内的価値、究極の目的といったものが、少なくともそういうことについて好んで判断するに足るほどには、われわれの関心を引くのである。

〈 中略 〉。 俗世の子は、自分自身の中に十分な素材をもってはおらず、自分を取り巻く人々や事物にへばりついているのである。 法律家たちはめったに地理学とか政治を好むものではない。 宮廷の人々も俗世の子である。 世界市民たる者は、よそ者のごとくにではなく、その中に住む者として世界を見なければならない。 世界観察者ではなく、世界市民でなければならないのである。

 人は、しばしばあまりに狭い概念しかもたないために、また、あまりに狭い心根しかもたないために、俗世の子となっている。

 

カント全集 15 『 人間学遺稿 』 カント / 著 高橋克也 / 訳 p. 402~403 岩波書店 ( 2003 )

 

ところで世界のうちにあって人間がそうした知識や技術を活用することのできる最も重要な対象は 人間 にほかならないのだが、それは人間が地球〔 世界 〕の被造物のごく一部をなすにすぎないにしても、人間はその種から判断して理性を賦与された地球上の生物であると認識することは、特別に 世界知 と呼ばれるに値するのである。

〈 中略 〉。 生理学的な人間知は、自然が人間をどういう風に形成しているのかの究明に向かうが、実用的な人間知は、人間が自由に行為する生物として自分自ら何を形成するのか〔 実用実践 〕、または人間になす能力があるがゆえになすべきものはなにか〔 道徳 〕、の研究に向かう。

 

カント全集 15 『 実用的見地における人間学 』 カント / 著 渋谷治美 / 訳 p. 14 岩波書店 ( 2003 )

 

 

 このような意志の分裂状態が起きている個体の "袋小路" においてこそ、国家に従属する人民ではなく、国家を超えて繋がる事の出来る "普遍的人間 / 世界市民" が "理念" として現れる。戦争という物理的暴力が人間の "全体化" をもたらすのに対して、理念という世界性は人間の "普遍化" をもたらす ( 全体化に対する普遍化 )。誰かや何処かの国家に人間の独占的支配を行なわせる全体性の疑似論理 ( 本当は局所性論理に過ぎない ) に対して、世界という理念は、まさにそれが最高度の抽象性である事によって 特定の国家占有を脱した世界性という位相において共有されるべき個々の人間の単独性保護を普遍化してくれる。それが無ければ個々の人間は国家の意志が即物的に反映された非人間的な相互敵対性にしか行き着かなくなる。国家や何らかの共同体に所属・従属する事で自らの存在を代理的かつ強力に表わす "政治主体" ではなく、何かに全面的に従属しないが故に脆弱かつ浮遊的な "部分性それ自体の論理的出現者" に冠せられる普遍的理念としての "人間" こそが重要なのであり、このような政治的に未規定な人間概念それ自体 ( 物自体 ) をカントは哲学的に語ろうとしていたのです。

 

 政治的負荷を帯びた個体は全体性統御物、つまり、政治的人間として生きるしかないのですが、それは実は人間ではない、未だ "存在" しないのです。人間が人間であるのは、自分が 集団性の中には完全に溶け込まない残滓意識 を通じて自分の存在を考えようとする 脆弱な単独性 において可能になる。政治的人間である事が自己実現の極化であるとする人間は、普遍的思考を止めて自己の欲望を優先する政治的動物でしかない。 しかし、人間とは、集団性が収斂された政治的動物である事には留まらず、集団性の中には解消され得ない残滓としての部分個体の自意識が極化された超反省体 なのです。 ここには意識というものが通常は人間の脳内化作用としてのみ片付けられるのに反して、脳のような内部凝集物及び意識という内的作用が、外部からの強大な物理的・精神的圧力に対して抵抗形成された個体の原初現象・原初行為である事を示している。 強大な外部圧力の局所差異こそが抵抗的形成物のランダムな出現を引き起こしている。世界市民は特定国家に完全に属しきれない 由残滓である心的領域を普遍的な世界性に同期する事で脱国家的人間性を共有出来る のです。

 

 敵対性を過激化させる政治的人間が国家の名の下で戦争に行き着くのならば、世界市民とは人間性の保存の為に、人間を消滅させる戦争・政治に反対する。これはたんに戦争という暴力的出来事性に対してだけではなく、敵のみならず自国の人間ですら利用するという意味での暴力的人間には従わない事を旨とする世界市民の在り方だといえるでしょう。ここには既に世界市民平和状態が結びついた状態が現れている。"政治 / 戦争" への対抗現象としての "世界 / 平和" が各々の人間性 ( 政治的人間と世界市民 ) を通じて立ち現れるのです。

 

 この平和の理念は一般的に非現実的で無力なものだと考えられるのですが、哲学的には興味深い概念です。それは 無差別的な攻撃性に平穏性を隣接させ "境界接合" する事で攻撃性を可能な限り局所化させる。最も政治的な事物である "戦争" の真横に、政治的ではない "脱-人間的喧噪物" である "平穏・平和状態" が結合される事で、全てを政治化させる政治性を化学変化させる。フロイトが 『 文化への不満 』 や アインシュタインとの往復書簡 で念頭に置いていたのは、このような精神分析的平和概念であり、たんなる平和主義者による道徳観念としての平和に留まるものではありません。精神分析が焦点を合わせ続けて来た "人間的なるもの" が人間関係それ自体の現実構造に他ならない ( 戦争を欲する者と平和を望む者 ) 事フロイトは語っているのです。このような戦争と平和の接合関係それ自体をタイトルにしたものこそトルストイの 『 戦争と平和 』 なのですが、 それについては次回で考えていきましょう。

 

 

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