▶ 今月よく聴いた音楽 2026年4月 SLADE 『 Till Deaf Do Us Part ( 1981 ) 』

▶ イギリスのバンド、SLADE といえば1970年代にグラムロックバンドとして人気を誇った。日本ではそこまで人気は高くなかったかもしれないが 『 Mama Weer All Crazee Now ( 邦題:クレイジー・ママ ) 』、『 Cum On Feel the Noize ( 邦題:カモン !! ) 』、等が知られていると思う。とはいえ、ここでは彼らの音楽史を事細かに語るよりかは、1970年代の人気を博した後に低迷したが1980年代に再び脚光を浴びるきっかけとなったハードロック路線への移行に注目したいんですね。

SLADE 『 Mama Weer All Crazee Now 』

▶ というのも "グラムロック" という1970年代発祥のジャンルが、外見上の派手な装飾やギター音のギラギラが強調されるといった "グラムメタル" へと変化していく潮流が1980年代のアメリカでは起きていて、その中でモトリー・クルー ( モトリーはさらにLAメタルというジャンルの元となっていく ) と並ぶクワイエット・ライオットがSLADEのCum On Feel the Noize 』をカヴァーしてヒットを飛ばした出来事もあったんです。そしてクワイエット・ライオットを作ったのがオジー・オズボーンのソロバンドの初代ギタリストであったランディ・ローズだった ( SLADEのカヴァー曲当時は、ランディは既に脱退してオジーと活動していた ) というのは、当時の音楽シーンの潮流を象徴していたといえる。オジーのソロ時代の初期 ( ランディ・ローズからジェイク・E・リーの時まで ) はまさにLAメタルの派手さを音楽性でもライブでも演出していましたからね。そして1980年のイギリスの Reading Rock Festival でオジーの代役として出演したことがSLADEが再び注目を浴びるきっかけのひとつとなったというのは興味深い関連話です。

Quiet Riot 『 Cum On Feel The Noize 』Live at the US Festival 1983

▶ それらは、SLADE の音楽性自体によりハードな音楽性への親和性が内包されていたからこその事だといえる。ノディ・ホルダー ( ギター ) やジム・リー ( ベース ) の作曲力が優れていたのが分かる。そのような彼らのハードロック性が最も顕著に現れていたと個人的に思うのが、彼らのセルフ・プロデュースアルバム『 Till Deaf Do Us Part ( 1981 ) 』です ( 10枚目のスタジオ・アルバム )。1970年代の彼らが好きな人にはうるさく感じられるかもしれない ( アルバムのアートワークが物語るように耳に突き刺さるかのような音作り ) 本作は強力なハードロック作品となっている ( よく聴けば1970年代の彼らの要素も入っているのが分かる )。

「 Rock 'N' Roll Preacher ( Hallelujah I'm on Fire ) 」

「 Lock Up Your Daughters 」

「 A Night to Remember 」

 

▶ 今月よく聴いた音楽 2026 3月 ノーマン・グリーンバウム

▶  アメリカのシンガーソングライター、ノーマン・グリーンバウム ( Norman Greenbaum : 1942~ ) の1stアルバム『 Spirit in the Sky 』。収録曲の同名シングルが世界的にヒットしたので知っている人もいると思う。未だに近年の映画 ( 『 アポロ13 』『 オーシャンズ11 』等 ) とかでもサウンドトラックとして使われたりするくらいですからね。今、聴いても刺激的です。フォークロック、ブギーロック、とも称される彼の音楽ですが、"Spirit in the Sky" はアルバムの中でも特にハードロック的なサウンドプロダクション、ファズギターなどの電子化アプローチが顕著となっている。そこには音楽プロデューサー、エリック・ヤコブセン ( Erick Jacobsen : 1940~ ) の寄与も大きいといえる。彼はシャーラタンズ ( The Charlatans )ソップウィズ・キャメル ( Sopwith Camel ) などの1960年代のサイケデリック・ロックと言われるバンドとも仕事をしていますから。もちろん、ノーマン・グリーンバウム自身にも才能があったにせよ、彼が世界で一躍有名になったのは、バンド的サウンドプロダクションを図ったエリック・ヤコブセンのプロデューサーとしての能力の高さが加わった事が大きいのですね。

▶  とはいえ、今日、よくカバーされる「 Spirit in the Sky 」は、ノーマン・グリーンバウムへのオマージュというよりかは、彼の事はよく知らなくとも同曲が多くの人によってカバーされ続けて来た歴史性を有する古典的カバー曲と化している、極端に言えば、原曲者の手を離れた匿名性的カバー曲として普遍化しているといえるでしょう。Docter and The Medics のようなグラムロック的カバーもあれば、Gareth Gates のようなポップ的カバーもあるというように自由なアプローチが成立しているくらいですからね。

 

 

▶ ベルリン国際映画祭2026において批判されたヴィム・ヴェンダースの "言葉" について哲学的に考えてみる

ベルリン国際映画祭2026でのヴィム・ヴェンダースの発言を報じたハリウッド・レポーター (英語版) の記事。リンク先。https://www.hollywoodreporter.com/movies/movie-news/berlinale-2026-gets-heated-wim-wenders-jury-politics-1236503389/

1章  日本ではあまり話題にならない、ヴェンダースの発言とそれへの否定的反応

.  日本では、Xとnote の一部でちょっとだけ炎上したとされる ( それも炎上とすら言えるのかは微妙ですが )、第76回ベルリン国際映画祭 ( 2026年2月12日~22日 ) で審査委員長を務めたヴィム・ヴェンダースの発言について考えてみましょう。開幕の記者会見で、あるジャーナリストからガザ侵攻のイスラエルを支持するドイツ政府について問われた際、ヴェンダースは "映画制作者は政治に関わらないようにすべきだ" と発言して批判を浴びる事態になった ( *1 )。ベルリン映画祭自体が世界中の社会的映画・政治的映画を上映する傾向が強い事もある中で、自国政府の政治的振舞いに話が及んだ途端にスルーして沈黙するのか、という批判な訳です ( 日本ではそこに映画の政治性に言及するヴェンダースの過去の発言が引き合いに出されたりして批判されている、"短絡的に" )。

( 1 )  ヴェンダースの発言内容についてはドイツの中道系メディア DW の以下記事を参照。リンク先。 https://www.dw.com/en/should-the-berlinale-film-festival-avoid-politics-gaza-israel-controversy-wim-wenders/a-75939558

B.  ヴェンダースの発言に対する批判は、映画関係者100人ちょっとにのぼるオープン・レター ( 公開書簡 ) としてすぐに現れた ( 2026年2月17日 )。VARAIETY はその署名者 ( 日本の監督 船橋淳もいる ) と声明を掲載した記事を出していますね ( 2026年2月17日版。リンク先:VARIETY誌 https://variety.com/2026/film/global/javier-bardem-tilda-swinton-letter-berlinale-gaza-silence-1236665382/ )。

C.  声明の一部を引用しておきましょう。

ベルリン国際映画祭2026審査委員長ヴィム・ヴェンダースが「映画制作は政治の対極にある」と述べた発言に、私たちは強く異議を唱える。両者を切り離すことは不可能だ。ドイツ政府が資金提供するベルリン国際映画祭が、表現と意見の自由に関する国連特別報告者のアイリーン・カーン ( *2 ) が最近非難した「パレスチナ人の権利擁護を制限し、公的参加を萎縮させ、学術界や芸術における言論を縮小させる」というドイツの過度な法律の乱用を実践する手助けとなっていることに、私たちは深い懸念を抱いている

パレスチナ映画協会が述べたように、「私たちは、パレスチナ人の虐殺についてベルリン国際映画祭の組織的沈黙、映画製作者の言論と表現の自由を擁護する事へのやる気のなさ、に愕然としている」。同映画祭が過去にイランやウクライナの人々に行われた残虐行為について明確な声明を発表してきたのと同様に、私たちはベルリン国際映画祭に対し、道徳的義務を果たし、パレスチナ人に対するイスラエルのジェノサイド・人道に対する罪・戦争犯罪、への反対を明確に表明し、イスラエルを批判や説明責任の要求から守る関与を完全に終わらせるように求める

( 2 )  Irene Khan.  バングラデシュ系イギリス人の女性人権活動家。アムネスティ・インターナショナルの事務局長、国連特別報告者、等の就任歴がある。バングラデシュにおけるデジタル権利と表現の自由を積極的に擁護している事で知られる。つまり、インターネット上の表現の自由は国家権力への民主主義的対抗物として重要であるが故に擁護するという事ですね。この事は、後で言及する、同映画祭でのヴェンダースのもうひとつの発言に繋がる背景となっている。

2章  ヴェンダースの声明について細かく考える

A.  さて、開幕記者会見でのヴェンダースの発言によってベルリン映画祭は、そこでの上映される作品よりも、そのフェスティバルの政治性が注目されてしまうという羽目になってしまったのですが、その翌週、ヴェンダースは授賞式に先だって騒動について声明を発した。その内容については以下のリンク先の記事 ( VARIETY 誌 ) を参照。

https://variety.com/2026/film/news/wim-wenders-speaks-out-at-berlin-film-festival-awards-ceremony-1236669338/

B.   その声明が非常によく考えられていて興味深いんですよ ( ああ、実はここまで考える人だったのかと感心する )。最初に断っておきますけど僕は別にヴェンダース擁護者でもないし ( *3 )、ドイツ政府支持者でもない。ガザについては人道上、最大の擁護をしなければならないけど、その為に外部から、例えガザの正義の為だとしても 敵対性に傾斜する言語 は使うのはどうかと思うんですね。当事者ではなく部外者だからこそ可能な 平和言語 以外に国家や戦争に利用される 生きている個人 を救うものはないと思うからです。その平和の為に戦うのだ、という大義的言い方であっても、それはもう平和を名目的なものとする、あるいは人間を死に導く 戦争言語 なのですね。

( *3 )  個人的には彼の最近の作品は刺さらないので、当ブログでも批判的な事を書いてます。しかし、それは反射的に理解しまいとして批判的になっているのではなく、可能な限り考えた結果、批判している。その "対象への尊厳を保つ知的誠実さ" は失わない様にと思っている。

C.  さて、ではヴェンダースは声明の中で何と言っているのか。まずこう言っている。

ベルリン国際映画祭における共通言語とは何か? 私たちが今生きるこの美しく、途方もなく複雑で、恐ろしく、制御不能な世界、それについて私たちが何を考え、どう感じるか、言葉以外で自分達自身をでどう表現するのか? 7ヶ国から集ったこの審査員らが共有していたのは、映画という言語だった。それは70年にわたりベルリン国際映画祭の支配的な言語だった。批評家やジャーナリストの言語と常に並存してきた。ベルリンは常に、そして今もなお、極めて政治化された場所である為に、政治という言語も常に存在している。

D.  彼は論理を組み立てる上で "言語" を重要な要素として強調しているのがすぐに分かりますね。言うまでもなく、この場合、言語とは民族言語ではなく、コミュニケーションを媒介する諸々の "言語表現体 ( 言説 )" の事です。映画祭における共通言語は 映画という言語 である、まずこれが基本です。ここに 批評やジャーナリズムという別の言語 が接近してくる。さらに、ベルリンという場所自体の政治的特殊性が歴史化されてきた ( 戦後ドイツの辿った歴史が、かつて在ったベルリンの壁に象徴されているように ) が故の 政治という言語 も大きく取り巻いている。こうヴェンダースは考えるのです。以下に整理してみる。

1. 映画言語

2. 批評・ジャーナリズム言語

3. 政治言語

E.  それに加えて以下の引用で示されるように、インターネットという新たな形式言語 が発生し、さらにそれが社会的問題に特化された ソーシャルメディア言語 が続く、という訳です。整理してみる。

1. 映画言語

2. 批評・ジャーナリズム言語

3. 政治言語

4. インターネットという通信技術言語

5. ソーシャルメディア言語

そして21世紀に生きる私たちは、インターネットという言語-迅速かつ高速な世界共通語-を手にしている。最近、この映画祭においてどの言語が解釈の主権を持つべきかをめぐる論争が起きている。私たちの言語である映画は高度に多様化しており、映画作家の数だけのアプローチが存在する、皆さんが既にご覧になった作品もその一部です。ほとんどの映画作家の作品が共有するものが共感です。私たちが観たた全22作品において、これが支配的な姿勢であり、今夜受賞する全ての作品に強く反映されるでしょう。映画の言語は共感に満ちています。ソーシャルメディアの言語は効果的です。

F.  以上のような少なくとも5つの言語を示したうえで、ヴェンダースはこの映画祭における論争の本質を、どの言語が主導権を握ろうとするかの争いだと分析している訳です。この分析によって彼は何を言おうとしているのでしょう? 彼がまず言いたいのはそれぞれの言語が一体何を対象 ( ターゲット ) にしようとしているのかもう一度よく考え直すべきだと言っているんですね。それによって論争の性質が解体構築されて違うものになるのではないか、とヴェンダースは考えている。その延長上で考えると、彼が今になって映画は政治と対極なものだと言う事の意味も見えて来る。それについてはまた後で述べましょう。

G.  さて、上の引用でインターネット言語の表現が出てくるのは唐突に思えるかもしれないが、先のオープン・レターの声明文の中のアイリーン・カーンを受けての事だと思われる。インターネット上の表現が民主主義的に擁護されるべきだという政治性が既にその言語の中に現れている事をヴェンダースは良い意味でも悪い意味でも注意深く含ませている ( それは良くも悪くも "時と場所" を選ばない )。

H.  これがどういうことなのかというと、ベルリン映画祭の70年の歴史においては、1~3の言語併存体制が基本だったはずだ、と。それは映画を中心とする、映画を鑑賞する、それが基本となっている古典的映画言語体制だといえるでしょう ( 3によって揺さぶられ続けて来たとしても )。ところが、4のインターネット言語の出現によって1以外の2~5が4に技術的に引っ張られた結果、2~5は集合化され大きな3と化す、つまり、民衆による拡大的政治言語 と化して諸々のカテゴリーに影響力を行使する事に享楽を覚えてしまったのです。そして1は切り離され孤立する。それどころか3の政治的正義によって映画が内包する政治枠外性・脱政治性という別の民主的要素 ( イデオロギーからは零れ落ちる人々の非政治的な日常性 ) は抑圧されてしまう。

I.  このように政治的正義 ( 左右の内部的差異以前に ) を絶対化する民主的政治言語がインターネットを媒介にして浸透・拡散され、映画が開催される場所 ( ベルリン ) を政治的に搔きまわしている事をヴェンダースは憂慮している。ベルリンは映画が観られる ( 本質的な意味で ) 以上に政治が優先的に語られる場所になってしまったという事です。その "現在的意味で" ヴェンダースは映画は政治の対極にあると言っているのですね。映画は政治的になりうるが政治ではない。かつて映画の政治性がヨーロッパ ( 特にフランスなどで ) で激しく謳われていた頃があったが、それは映画が権力に対する社会的抵抗の具現物としての存在的役割を果たしていたという限定性事象に過ぎず、それ以上に映画は政治以外の脱-政治的、解放的生き方も多様に描く事が出来る ( 政治的でない映画が多くあるように ) のは言うまでもないでしょう。

J.  政治は根源的に大衆を対象とし、彼らを操作する。哲学者のフィリップ・ラク-=ラバルトがナチス政治の本質を批判的に見抜いて言った意味での大衆操作芸術なんです ( それはレ二・リーフェンシュタールの『 意志の勝利 』のように映画をプロパガンダ的に利用する )。しかし、映画は大衆を主体的に対象とするのではありません。むしろ、映画は自らが大衆にとっての対象として出現して生きる。それは観られ、論じられる、自らの身を委ねる、というように人々の側からの働きかけがある事で生を獲得する芸術のひとつなんですね。

K.  では、以上の事を念頭に置くと、1~5の言語で自身以外に対象を必要とするのはどれでしょう。1の映画は自らが対象物と化しているし、4のインターネットの言語も技術的手段なので除かれる。という事で対象を必要とするのは 2、3、5、の言語になる。先にも述べたように、それらは批判という形式で以って、対象に強力に働きかけること自体が目的になっている民主的政治言語です。

L.  今回のベルリン映画祭において、それは何らかの映画作品自体を批判しようとしているのでしょうか。そうではないという答えが多いと思う。映画祭における記者会見の内容が自国の政治的姿勢を明確に述べずにスルーしているという政治性を批判しているのだという事ですね。しかし、昨年2025年のベルリン映画祭を見た人ならば分かると思いますが、女優のティルダ・スウィントンがスピーチで現在の世界における政治的暴力性について特定の名指しこそ避けているものの ( それは映画祭が極度の政治化に陥らない為の彼女なりの配慮だと思われる ) 既に批判しているのですね。そして彼女はそのような暴力性から侵される対象の主権領域を擁護する為に、映画というものこそを世界で台頭する暴力からの独立国家の役割を象徴的に果たしていると見事に述べたのです ( 以下動画参照 )。

M.  さて、そのような背景がありながらも、なおも今年のベルリン映画祭で特定の政治姿勢 ( ロシアやイスラエル、そしてイスラエルを指示するドイツ政府 ) を批判し、特定の被侵略国 ( ウクライナやガザ ) を擁護する事が明確にスピーチされなかった事が執拗に批判されるというのは、この映画祭の場においては余りにも極端に政治的過ぎるのではないかとヴェンダースは考えている訳です。

N.  批判されるべき真の対象はイスラエルやロシアなはずなのに、それについて話さないという姿勢までが政治ではない映画世界で批判されるのは、政治的批判それ自体も権力的かつ暴力的なものに副次的に陥っている事なのではないか。そのような懸念がヴェンダースをして映画を政治とは対極のものだと発言させているのなら、それはおかしな話ではない。日常において政治的ではない人や物事を、政治的である人がそのような理由で批判するのは、それもまた政治の強要という潜在的暴力であり平和というものが持つ脱政治的様式を考慮しない "戦争的人間" の振舞いなのです。

O.  そのような意味で以下の引用にもあるようにヴェンダースはティルダ・スウィントンのスピーチを引用して、何かを支持する事は、誰かを否定する事を意味しないと言ったのですね。これは映画祭の主催者側の立場にも、それを批判する立場の人にも言える両義的な意味を含んでいる。ヴェンダースらがガザ擁護を明確にしない為にドイツ政府支持に見えても、それはガザ市民を否定しているのではないし、ガザを擁護する人達がそれを明確にしない人達に対してガザを否定していると決めつけるのもまた違う。そのようなイデオロギー支持の有無は平和とは対極な余りにも政治的な振舞いだとヴェンダースは考えている。

P.  もちろん、ドイツがイスラエルを現に支持しているという現実はあるし、ヴェンダースらもその事は分かっている。しかし、そのような政治的支持は、戦後ドイツの歩んできたホロコーストという戦争犯罪に対する国家的責任が複雑に形成されてきた長い道のりの結果であり、政治討論集会でもない限り、そのような政治責任を映画祭の場で話すには限界がある  ( それは主催者側も言っている )。それをし始めたら映画祭は映画の場ではなくなってしまうでしょう。しかし、受賞された作品の幾つかを考えれば、主催者側が政治性を全く否定しているのではない、むしろ世界の動向を多様に描く映画を尊重しようとする姿勢は十分に見て取れますね。

Q.  以下はヴェンダースのスピーチの残りの部分。参考までに。

ベルリンで生じているこの人為的な不一致について話し合う必要がある。活動家たちは主にインターネット上で人道的な大義-すなわち人間の尊厳と生命の保護-のために戦っている。これらは私たちにとっても大義である。ベルリン国際映画祭の映画が明らかに示すように、私たち映画作家のほとんどはあなたたちを称賛している。我々全員が称賛している。君たちは必要かつ勇気ある仕事をしている。しかし、それが我々の活動と競合する必要があるのだろうか?  私たちの言語が衝突する必要があるのだろうか?

私たちの道具は物語であり、顔であり、場所であり、言葉であり、感情である。私たちのアプローチは批判的でも、風刺的でも、滑稽でも、劇的でも、詩的でもあり得るが、常に複雑で入り組んだものとなる。最も効果的な手段はドイツ語で "anschaul : アンスチャウル" と呼ばれる-この言葉が好きだ-英語に翻訳するのは難しいが、視覚的で、肉感的で、実存的な没入感のようなものです。しかしたとえ私たちの言語がこれほど異なっていても、私たちは互いを必要としている:活動家たち、抑圧された者たちの友人、抑圧者たちに対する扇動者たち、です。もし私たちが互いを同盟者として、異なるが補完し合う言語として扱うならば、私たちの共有する大義は、消費と抽象化と過剰飽和という絶え間なく変化する風潮に抵抗する為のよい契機となる。

互いの影響力と可能性を捨て去ったり、過小評価したり、しないようにしよう。映画は忘却により抵抗力があり、インターネットがもたらす短命な注目よりも確実に長く生きる。一方、私たちの切迫感 ー いや、あなたたちの切迫感 - は、映画では届かない場所に届きます。これは競争ではあるべきではない。パートナーシップなのです。ティルダ・スウィントンの昨年の金熊賞受賞スピーチで美しい言葉がある。「 何かを支持することは、決して誰かを否定することを意味しない。」これはあまりにも単純なことなのに、つい見落とされてしまうのです。

                                    〈 END 〉

▶ ヒッチコックの映画『 裏窓 』( 1954 ) を哲学的に考える【2】

[ 前回 ( 以下 ) 記事からの続き ]

3章  ジェフリーズとリザ、その関係性 ②

A.  前回では、ジェフは自分の男性優位的同一性がリザによって崩されるのを恐れているという話をしましたね。リザを経済的にも、日常生活的にも満足させられないかもしれない。それはリザの事を本当に気遣っているというよりかは、リザとの結婚生活によって自分のアイデンティティが崩れる事を恐れているという具合に、自分のプライドに基づいたものでしかないのです ( 作品中でも、結婚を渋るジェフに不満を述べ、口喧嘩を始めるリザに対してジェフがそっちがその気ならこっちも応戦するぞというプライドを覗かせる場面がある )。

B.  そうすると、ヒッチコックはフェミニズム的映画批評が批判するような単なる男性優位的作品を作ったというよりかは、女性との遭遇・接触によって男性の自己同一性が崩れようとする過程、そして、その過程において "女性的なるもの" に対して必死に抵抗する男性の有様、を描き出しているといえる。

C.  その意味で前回記事に載せている場面1~6は象徴的なのです。危険と隣り合わせの写真家活動の中を生き抜いてきたジェフは一見すると男性優位主義者のように見える。しかし、数々の危険を克服してきたジェフも "女性という危険" は克服出来ていない事が場面5、6によって示されている。女性とはまさに男性のアイデンティティを突き崩す何物かであり、その女性とはフェミニズム的男女二元論に収まる社会的対抗者などではなく普遍的人間存在を根本的に規定する哲学的・精神分析的な意味での原理的な "女性的なるもの" なのですね。それはある意味で諸々の人間関係それ自体を呑み込みかねない ( 家族などの社会的構成単位の持続を構造的に難しくする ) が故に、男性は社会という男性的なもの・閉鎖的なものを構築したとさえいえる ( *1 )。これをジェフとリザの関係に落とし込むならば、リザは親子ほど年の離れたジェフであっても、そんな社会的体裁を無視する程までの性的欲望に囚われているといえる ( *2 )。

( 1 )  精神分析家のジャック・ラカンはその男性的社会の持続は "記号表現 ( シニフィアン ) の連鎖" により構造的に可能となっているとセミネール『 精神病 』で指摘する。例えば王族は息子が何とか2世、何とか3世、というようにして "父の名" を引き継ぎ王朝を持続させて来たし、一般の過程においても父とその息子が苗字を継いで家系を男性的なものとして持続させている ( 人を産むのは女性であるのに )。

( *2 )  この点については前回記事の ( *6 ) を参照。

4章 ジェフはソーワルドの中に何を見出したのか?

A.  さて、ではジェフは何故、その覗き見行為の中で、数ある隣人の中からソーワルドを特権的に選んでいるのでしょう。それはソーワルドの部屋から女性の叫び声が聞こえて殺人が行われたに違いないとジェフが睨んだからと答えれば簡単に済む話なのですが、ではそれは果たして社会的正義感のみに基づいたからなのでしょうか? いや、そうではありませんね。端的に言うならば、ジェフはソーワルドとその妻の関係にリザと自分の関係の "未来縮図" を、自分たちを待ち構えているかもしれない "恐るべき未来" を、無意識的に見出したからに他ならないのです。

B.  上の場面11は、ジェフが覗き見しているソーワルド夫妻の部屋。ジェフとリザの場合と違って、夫のソーワルドが療養中の妻の面倒を見ている ( おそらくこの演出は偶然というよりは意図的なものと考えるのが妥当でしょう )。この後の場面ではソーワルドは介護でフラストレーションが溜まっている為か、愛人に電話をかけそれが妻に見つかり文句を言われる ( *3 )。もちろん、リザがソーワルドと同様にジェフを見捨てて他の男に走るという事ではないのですが、"性的欲望への固執" という点では通ずるところはあるかもしれない。

( *3 )  ヒッチコックファンの間では、最後まで正体の明かされるの事の無いソーワルドの愛人について議論されたりするのですが、これもまたマクガフィンに過ぎないのですね。

C.  しかし、それよりもジェフ自身が恐れるのは、ソーワルドの妻と自分の運命を無意識的に重ね合わせているが故の "運命の告知" がそこにはあるという事なのです。夜中にソーワルドの部屋からの女性の悲鳴を聞いた時、ジェフがソーワルドの妻は殺されたに違いないと直感出来たのは、自分らと共通の状況を前提として心的に既に作り上げていたからに他なりません。

D.  いや、自分が殺されるかもしれないなんて、それはジェフを余りにも疑心暗鬼的人間として考え過ぎだろうと思う人もいるかもしれませんがそうではないのです。というのも何気ない会話の中にも、リザ自身が激情的な人間の自覚がある事を仄めかす箇所があるからです。言及される事はあまりないのですが、以下の場面 ( 12 ) は隣人を真剣に観察しようとするジェフに対して、リザが自分が向こう側で "7つのヴェールの踊り" をしていたとしても覗くのはもうやめましょうとブラインドを下ろす所。

E.  "7つのヴェールの踊り"、知らない人には何のこっちゃの言葉ですが、これはオスカー・ワイルドの戯曲『 サロメ 』の中でサロメが妖艶に踊る場面で書き込まれている僅か "1行のト書き" として有名な表現 ( これで一体どう踊ればいいんだという困りものの話ではあるのですが )。その内容について。古代イスラエルのユダヤ王国ヘロデ王は、前王朝の妻へロディアスの娘サロメに魅せられる、というか率直に言うならば性的対象として見ている。その一方で、サロメは預言者ヨカナーンを愛してしまうが彼から拒絶されてしまう。ヘロデ王から踊りを披露するように言われたサロメは、自分の愛を受け入れてくれないヨカナーンを憎む余り、踊りの褒美としてヨカナーンの首 ( 切断された頭部 ) を望むという話。

F.  これはつまり"リザとジェフの関係" には "サロメとヨカナーンの関係" が暗黙の内に含まれているであろうという事です。そのような設定上の含みがあるからこそヒッチコックはリザにサロメへの言及をさせる演出をしているといえる。リザの愛を受け入れようとしないジェフが最終的に憎まれて殺されてしまうかもしれない可能性が潜在的にはあるという事ですね。このジェフによるリザの愛の拒否は物語の中で何度も反復されますからね、愛が憎しみに代わる瞬間はあり得るのであってカメラ撮影の危険を生き抜いてきたジェフが愛の危険性を "予感" していてもおかしくはない。

5章  再形成される反復的トラウマ

  A.  そうすると、前回記事で述べたジェフのトラウマとは一体なのかについて細かく考える必要がある。少なくとも『 裏窓 』ではジェフのトラウマ経験について何か述べられている訳ではないので、通常考えられるような人生の何処かで経験した "特定の" トラウマがジェフの恐れを形成してるのではないだろうという事です。

  B.  ではどう考えるべきか。ジェフのこれまでの人生自体がその職業によって常に危険と隣り合わせだった事を考慮すれば自分の命が危険な目に遭うという "事象それ自体" が形式的に原型トラウマとして常に機能していると考えるべきなのです。その一般化された原型が今回のリザとの関係においても機能して未来の危険を先取りするかのようにジェフに予感させているという訳です。そしてそのようなトラウマこそが彼の主体性を逆説的に形成しているのは、彼の自分の職業への自負からも分かりますね ( リザの文句に反論する時などの )。

C.  ジェフに限らず、このようなトラウマ機能は厄介なのです。というのも何が真のトラウマ経験なのか、何が真の契機なのか、というのは本人にとってももはや分からずにトラウマを再形成・再生産しているからです。そこに巻き込まれる相手 ( 精神分析医や心療内科医であっても ) も何が正解なのか分からないので "言表内容のレベル" では判断がつかない困難があるのですね。つまり、言っている事が本当だとしても、それが本当のトラウマであるかどうかは話の内容からだけでは分からない。そこには相手へのアピールというバイアスがかかっているので。

D.  なので、ジェフの危険の先取り的なトラウマの再形成は常に正しいという事ではない。ジェフの恐れは杞憂でリザとの結婚生活が上手くいく可能性もあるのですから。しかし、それは先の未来のことなのでどうなるかは誰にも分からない。『 裏窓 』のラストが興味深いのは、ジェフがソーワルドとの戦いの中でもう一方の足も骨折して最初の片脚骨折よりもさらにひどくなって未来をさらに遅らせる結果としている所です。これをラストから冒頭に再び還る循環構造だと言う批評家もいましたが、正確にはそれは循環ではなく、未来をさらに先送りにする "時間遅延" と言うべきなんですね。

E.  ラストにおいては、リザのヒマラヤの本を読む行為 ( 15 ) はジェフからの拒否という難攻不落の山を乗り越えようとする積極性の象徴となっているのに対し、ジェフの骨折した両足はリザからの求愛を躱す逃避性の象徴となっている ( 14 )。ヒッチコックはこの両者の拮抗を一時的に "休戦させる時間 ( 見方によってはコメディ的な幸せな時間ともいえる 13、16 )" を作り出す事で、未来への希望・未来への不安を両義的に上手く演出しているのですね。

F.  追記。書き忘れていた事。 前回記事のCHAPTER1で主体はトラウマに遭遇する事で自らの "精神的有罪性" を露わにすると書いた。それについて述べておかないと、このままでは、ジェフが唐突かつ一方的にリザから危険な目に遭う被害者で、リザは彼を危険に追い込むかもしれない加害者であるかのような不公平な図式が表されただけになってしまう。そのような図式は正しくないでしょう。というのも、ジェフは "危険事象というトラウマ" を乗り越える事で強い主体性を形成してはいるのですが、同時にその危険を余りにも享楽し過ぎている危険を楽しみ過ぎている、からです。あたかもそれ無しでは生きて行けないかのように。

G.  それが彼の仕事現場 ( カメラ撮影 ) で突発的に起きる偶然事故相手ならまだしも、現実の女性相手だと話は違ってくる。危険を察知しながらも、その危険を無意識的に楽しもうとしているが故に彼女と縁を切らないのは、キツイ言い方をすれば彼女を弄ぶ "精神的有罪" ともいえる。ジェフは彼女の愛を拒否しながらも、彼女と縁を切らない。しかし、彼女の愛を本当に受け入れられないならば、どれ程揉めよう ( それこそヨカナーンのように殺される羽目になっても、それは早いか遅いかの話だったという事です ) と別れるのがリザの為であるのは言うまでもないでしょう。それが出来ないのは、ジェフがリザという女性の愛ではなく、女性の中の危険、男の中にはない "危険そのものを享楽している"からに他ならない。これじゃ殺せるもんなら殺してみろって言ってるようなものですね ( だからソーワルドに殺されかけてしまう目に遭う )。

                  [ END ]

 

▶ ヒッチコックの映画『 裏窓 』( 1954 ) を哲学的に考える【1】

監督 : アルフレッド・ヒッチコック

公開 : 1954年

原作 : コーネル・ウールリッチ 『 It Had to Be Murder 』

出演 : ジェームズ・スチュアート  ( as  L・B・ジェフリーズ  )

     グレース・ケリー      ( as リザ・フレモント )

             セルマ・リッター      ( as ステラ )

     レイモンド・バー      ( as ラーズ・ソーワルド )

1章  人間関係におけるダークサイド

A.  アマゾンプライムビデオの見放題にいつの間にか入っていたヒッチコックの『 裏窓 』( 2026年1月現在 )。何度も観た作品だがやっぱり観てしまう。分かってはいても何度も観たくなる。まさに、"覗き込み" たくなる。そこにはストーリー以上の何かがある。人間の心理・欲望・行動の徹底的な形式化こそがヒッチコック作品の構造的秘密なのですが、それは主体のトラウマとの遭遇によって日常生活の均衡が崩れていきながらも最終的にはまた元の均衡に帰っていくというお約束のストーリー展開と共に見事に具現化されていく。その事を哲学者のムラデン・ドラー ( Mladen Dolar ) ( 1 ) は次のように上手く言っている。

( *1 )  セルビア出身の哲学者。ラカン派精神分析に影響を受けてスラヴォイ・ジジェク、ラスト・モチニクとリュブリャナ精神分析学派 ( といっても厳密には精神分析治療を行うのではなく、あくまでも精神分析と哲学を接合した理論的活動をする学派閥 ) を設立している。著書に『 ペラは二度死ぬ ( 2002 : ジジェクとの共著 ) 』、 A Voice and Nothing More ( 2006 ) 』『 Ein Triumph des Blicks über das Auge. Psychoanalyse bei Alfred Hitchcock ( 1992 : ジジェク監修 ) 』

 

 ヒッチコックの映画は、常にトラウマ的な出来事を中心にして構造化されており、この出来事は主体が自分の欲望に直面することを賭金としている。

 

『 ヒッチコックによるラカン 映画的欲望の経済 』p.41 スラヴォイ・ジジェク / 監修 露崎俊和・他 / 訳 トレヴィル ( 1994 )

 

 ヒッチコックの全作品は、破壊された後再建される均衡を核にして組織されている。日常生活はあるトラウマ的な出来事 -殺人- のために乱されるが、ハッピーエンドによってその諸権利と平凡さを取り戻す。たとえ冒頭と結末の正常な状態にトラウマが影を投げかけずにはおかないとしても、ヒッチコックの映画はハリウッドの約束事を常に満たしている。

 

前掲書 p.47

B.  それではこの作品の主人公、ジェームズ・スチュアート演じるジェフリーズのトラウマとは何なのか。いや、そもそもジェフリーズにトラウマなんてあるのか、そうは見えない、と思う方もいるでしょう。それはヒッチコックが敢えてぼかしている事、彼の映画の主人公のトラウマは多くが直接的に説明されない事、に起因する。登場人物像の全てがその演技を通じて画面に提示されているなんて観客の勝手な思い込みに過ぎないのであって、そういう人の身振りは、ある問題についてその答えを教師に教えてもらう事でしか考えられないようものでしょう。

C.  ヒッチコックの形式主義は、登場人物像の薄暗い内面を観客に解釈させる・推察させる余地を溶かし込んだ上での外見的無垢化を図っているというもので、登場人物のダークサイドを表面上は無化させる事に成功している。つまり、一見すると主人公らは作中の事件に巻き込まれながらも犯人は別にいる事で "精神的無罪性" を保障されているかのように見えるという事です ( その意味で『 サイコ 』は、その構造を大転回させて "有罪の狂った主体" を主人公としてはっきり現わす事で歴史的傑作と化した )。

D.  しかし、もしヒッチコック作品における主人公が真に無罪であるのなら、何故、彼は自分が危険な目に遭う事件に常に直面するのか、何故、そのような "形式的反復性" が常に定番なのか、が説明出来ない。それこそ危険との無意味な遭遇という、身も蓋もなく主体が苦痛を被るだけの娯楽的ホラー話になってしまう。そこに主体 ( 主人公 ) にとって何らかの意味があるとするならば、それは主人公が自分の中の心的秘密、自分でも気付いていない心的トラウマ、に遭遇する事で "精神的有罪性" を露わにするという規定構造があるからだとしか考えられないのですね。

E.  なので、もっと具体的に言うならば、ジェームズ・スチュアートはダークな側面を抱え込んだ演技などしていないし、ヒッチコックもそうさせてはいない。ジェームズ・スチュアートは善良そうな写真家を演じているに過ぎない ( アメリカの理想男性像としばしば形容されるように )。しかし、ヒッチコックは俳優の演技の枠外に人間関係という曖昧な形式を通じて目に見えないダークサイド、未だはっきりとは姿を見せていないダークサイド、私たち一般の人間関係の中にも頻繁に垣間見えるダークサイド ( 例えば家族関係における一時的軋轢の中で表には出なくとも、そこの誰かによって実は抱かれている・抱かれていた憎悪・殺意など )、 "心的領域" を含ませている。それが作品を秘かに常に規定しているからこそ、表面的な日常性に唐突に侵入する事件性、その事件が表面上は解決されて元の日常に帰っていく、という安定的物語的構造が可能となっている。では次でジェフリーズのトラウマについて細かく考えて行きましょう。

2章  観客には提示されないトラウマ

A.  作品の中で示されない、またはジェフリーズ自身によっても語られない、トラウマとは何なのか。ヒッチコックはそれを人間関係、人物のちょっとして素振り、などを通じて間接的かつ秘かに提示する。しかし、それ ( トラウマ ) は形として観客の目には見えない。目にはみえないが作品の中で重要な役割を果たしている。それは目に見える対象ではない。陽の光の下での明らかな対象になる以前の、人には話されない闇夜に埋もれた主体の深層部での蠢きや経験。形にする事が出来ないが故にそれは "対象物" ではないが、主体に心的動揺を与える "経験" ではある、それに与えられる名がトラウマなのですね。

B.  これはまさにヒッチコック作品におけるよく知られた "マクガフィンという可視対象物" とは正反対のものです。マクガフィンとはストーリー展開の契機物、荷物や "犯人" などの何らかの対象物が物語の最後まで関心事物であるもの。それ自体が何であれ、それ自体に大した意味が無くとも ( ヒッチコックが言うようにそれは単なるものでしかない )、ストーリー展開の基軸物としての形式的意味が与えられたもの ( *2 )、です。これは目に見える対象物なんですね。これは観客を含めた多くの人がたんなる対象に必要以上の意味を見出そうとする皮相的見方に対するヒッチコックの皮肉的表現でもある。実際、『 裏窓 』においては真犯人が誰なのかという興味よりも殺人が実際に行われたかどうかの確証が重要になっている。映画研究者のドナルド・スポトーもソーワルドによる殺人事件自体が、ジェフとリザの関係を隠す為のマクガフィンだとまで言っている。

( *)  このストーリー展開の基軸物という古典的手法をアップデートしているのがクリストファー・ノーランの『 テネット ( 2020 ) 』。その時系列の反転化という設定構造の中で、過去から追い求められていた古典的な危険物質プルトニウムは、未来からの視点では時間を逆行させるアルゴリズムへといつの間にか変化してしまっている。つまり、以前の世界では世界を滅ぼしかねなかった核の危険性が、未来においては核を使用しなくとも世界を時制操作という観点で支配出来ることの危険性、ある意味で核以上の危険性、へと変わってしまっているというように、その "危険性の意味自体" の変化が特定の対象物 ( 基軸物 ) の中でいつの間にか起きている。逆に言うと、その危険性の "本質の変化" がプルトニウムからアルゴリズムへの "移行現象" として外面的に現れているという訳です。

C.  このようにマクガフィンとは映画を楽しむ上で知っておくべきプチ概念でしかないのですが、もちろん、これは映画を観るに当たって深く考えすぎるべきではないなどという無思考性・無意味性の象徴などではない。逆に考えきれていない何かが他にある事、マクガフィン以外にある事、をヒッチコックは仄めかしているといえる。それはまさに目に見える対象物ではないもの主体 ( 主人公 ) のトラウマ主体の行動を規定する欲望の暗部、なんです。この深部が下層基盤として主体を規定している事 ( トラウマ化 ) を見逃してしまうと、主体が事件 ( 出来事 ) と向かい合う事、あるいは遭遇する事、の意味は全く失われてしまう。つまり、なぜ主体 ( 主人公 ) はこんな目に遭うのか、なんて深堀はされる事がなく、不幸な事に通りすがりに巻き込まれただけだみたいな無思考的解釈に行き着く事にしかならない ( せいぜいのところ、こういうのは "巻き込まれ型" なんだみたいなヒッチコック作品の分類的定型化に行き着くくらいです )。以上を踏まえてジェフリーズの暗部について具体的に考えて行きましょう。

3章  ジェフリーズとリザ、その関係性 ①

A.  以下のシークエンスは冒頭の数秒。足を骨折した車椅子のジェフリーズ ( 1 ) がカメラマンである事が壊れたカメラ ( 2 )、そしてレースのクラッシュ写真 ( 3 ) からその事故に巻き込まれて骨折した事が分かる。次に写し出されていく写真 ( 4 ) からもその身が危険にさらされる系の写真を撮り続けて来たのが伝わる。

B.  さて、ここで興味深いのは、場面 ( 5 )、( 6 )、です。ここからはそれまでの危険と隣り合わせの写真からは一転する。女性のネガ写真がフォトフレームに入れられている場面 ( 5 ) が始めに来て、次の雑誌が積み重なった場面 ( 6 ) からそのネガはおそらくジェフが担当雑誌表紙用に撮ったものである事が分かる。

C.  注意すべきは通常とは違い、ネガの方をフレームに入れて重宝しているという事です ( このフレーム化とは主体による意識化であり、そこには何らかの意味作用が発生している *3 )。これはヒッチコックの芸の細かさなのですが、このネガとは女性の隠された本質、普段周囲に見せる建前の顔とは違う自分の男にだけ見せる顔がある事、そしてそれは男の手には負えない一筋縄ではいかないものである事、を示している ( これは『 サイコ 』以降、強く現れていく "母なるものへの畏怖"、"母なる超自我への従属"、というヒッチコックの真のテーマに繋がる )。

( *3 )  このフレームと主観性の関係について最も強力に表現された映画がアラン・ロブ=グリエの『 囚われの美女 ( 1983 ) 』。以下の記事のCHAPTER3を参照。

D.  そして、この辺りから介入してくるのは、ヒッチコック作品に対するフェミニズム的映画批評です。男性の女性に対する性的視線への批判、女性をいやらしい目で見る男性の視線がヒッチコック作品には現れているという男性の欲望批判ですね。今や古典といえる、女性映画研究者ローラ・マルヴィの『 視覚的快楽と物語映画 ( 1973 ) 』は精神分析理論を参考にしハリウッド映画の男性優位性、家父長的構造性、を批判した。『 裏窓 』におけるジェフリーズの覗き見行為はまさに女性を性的欲望の対象として見る男性的視線の具現化に他ならないという事になるでしょう。実際、『 裏窓 』の最初で看護師のステラはジェフリーズの覗き見行為を再三に渡って注意していますね ( しかし、この演出はジェフの覗き見への社会的批判に対するヒッチコックの自己防衛ではなく、なぜジェフは覗き見をするのかという根本的理由が他にある事を示唆しているといえる )。

E.  つまり、ジェフの覗き見行為は道徳的に批判されるものである事は間違いない。その点で批判されるのは仕方のない事だと思う。しかし、フェミニズム的批判に満足しもし作品の解釈をそこで止めてしまっては、それはまた以下の袋小路に陥るしかなくなってしまう。男性をいやらしい視線を持つ者として固定化する女性目線は、女性をいやらしいものとする男性目線と性質としては変わらない。その女性目線は男性目線が反転したに過ぎないのだから。つまり、その議論はジェンダーの違いはあっても本質的には男性的なもの同士で為されているという事になる ( これを象徴するようにフェミニストは男性に対する "戦い" という闘争志向的言い方・男性的言説を用いるのだが、それではそもそも女性とは原理的に一体何なのだろうか…… )。

F.  何故、そのような事が起こるのかというと、多くの人が視線を何らかのジェンダーの支配下に置こうとするからです、男性の視線、女性の視線、それ以外の人々の視線、など。しかし、哲学原理的に考えるならば、視線とは主体には属さない。主体が自分の欲望を視線に乗っけて対象を見るにしても、それは対象の側からもこちらを見る視線とぶつかり齟齬を起して欲望は中断される ( *4 )。これはまさに視線が特定の主体に独占的には収まらず、にも関わらず、違う主体同士を繋げる "脱人間的な唯物論的動線" だからなのですね ( *5 )。その視線動線は主体には留まらず主体を貫き通過する脱主体的領域がある事を示している。

( *4 )  このように男性の女性を見る視線が、いつの間にか女性側からの視線の中に取り込まれて溶け込み、自分が何を見ているのか分からなくなるが故に "めまい" を覚える事態を描いたのがヒッチコックの『 めまい ( 1958 ) 』。そこでは、女性は男性の同一性の形成を阻害する何物かとして男性を不安に陥れる。以下を参照。

( *5 )  視線の脱人間的唯物論性を描いたのがアラン・ロブ=グリエの『 不滅の女 ( 1963 ) 』。そこでは視線は男性の属性物である事から離脱し、それどころか逆に男性を死に追いやるものと化す。以下参照。

G.  以上を念頭に置いて解釈を深めるのなら、『 裏窓 』では男性が女性を一方的に覗き見しているのではなく、実は自分が女性から見られている事、女性からの視線、を無意識的に知っている、いや、恐れている、といえる。もっと言うならば、ジェフは自分の男性優位的同一性が、"女性の欲望" を意識しそちらに同一化する事で崩れる事を恐れている。言うまでもなく、その女性とは恋人リザ ( グレース・ケリー ) に他ならない。リザがジェフに会いに来て、彼女方から積極的に迫ってキスをし、ジェフは為すがままの場面がある ( 7 )。そこでの会話からリザの方が明らかに性行為を望んでいるのが分かる、「 おなかは?」「 ラブ・ライフは?」という彼女の言葉に現れているように ( 8~9 )。しかし、ジェフは足が折れているから引延ばそうとする ( 10 )。

H.  この後、ジェフはリザに対してカメラマンとして世界各地を飛び回る苛酷な生活には耐えられないだろう、ついて来れないだろう、として結婚を渋る。のですが、ステラには自分と裕福な階級出身のリザとでは釣り合わないだろうとこぼす。つまり、実際にはリザが自分の生活についてこれない以上に、自分が彼女を満足させられないだろうという恐れがある。彼女を満足させられない自分に耐えられなくて自分のプライドが壊れるのを恐れている。それは場面7~10でも示されている若いリザの性的欲望に応える事が出来ないかもしれないという性的関係上の恐れも含めて ( *6 )。このような恐れが他人の生活を気にする覗き見へと転化している、つまり、自分はこんな感じだが、皆は一体どんな生活を送っているのかという秘かな好奇心から覗き見をしている、という事なのですが、この続きは次回で。

( *6 )  気付いた人もいると思うが、グレース・ケリーとジェームズ・スチュアートでは親子といってもいいくらいの年齢差があり、この不均衡さが性的関係の上手くいかなさを予兆させる。この当時、グレース・ケリーが20代半ば、ジェームズ・スチュアートが40代半ば、なのに対して看護師役のセルマ・リッターが50代前半でむしろジェームズ・スチュアートと夫婦の役柄を築くには適しているはず、という異様な人間関係の配置となっている。このジェフの周囲の人間関係の設定は『 裏窓 』の原作、コーネル・ウールリッチの『 It Had to Be Murder 』にはないオリジナルなものであるが故に意図的であるのが分かる。

[ 以下の記事へ続く ]

 

▶ 映画『 サブスタンス 』( 2024 : directed by コラリー・ファルジャ ) について哲学的に考える

監督 : コラリー・ファルジャ

公開 : 2024年

脚本 : コラリー・ファルジャ

出演 : デミ・ムーア

   : マーガレット・クアリー

   : デニス・クエイド

CHAPTER 1  一体何のジャンルの映画なのか

A.  最初に言っておきたいのは、この映画が "娯楽映画" としてとても面白いという事です。おちぶれたハリウッド女優のエリザベス・スパークル ( デミ・ムーア ) は今はエアロビクス番組のレギュラーなのだが、プロデューサーのハーヴェイ ( デニス・クエイド ) は新たに若い女性をレギュラーに据えようとしてスパークルを降板させる。追い詰められたスパークルはサブスタンスという妖しげな薬に手を出す。その薬を使用すると、スパークルの背中が裂けて、中からスー ( マーガレット・クアリー ) という若く美しい女性が現れるというSFホラー的な話。観客にインパクトを与えるパワーが凄いし、コラリー・ファルジャ自身が言うように脚本段階でしっかり構成され、それを元に映画が組み立てられているのも分かるのですが、気になったのはそのジャンルなんです。それについて考えてみようという訳です。

B.  もちろん、ジャンルなんてそんなに気にしなくとも楽しめればそれでいいと思う人は多いでしょう。しかし、この作品が終盤のグロテスクかつ地獄絵図の展開場面でスプラッターホラーやグロテスク映画の影響を受けたものであるのが明らかなのを考えた時、つまり、他のジャンル以上に観客に強いショックを与える要素で構成された映画である事を考えた時、これは "スプラッター映画" なのか、"B級娯楽映画" なのか、という "ジャンル化への疑問" が起こるのは当然なんですね ( 主演のデミ・ムーアがスプラッターホラーに出るなんて普通の人は思いもよらないから )。コラリー・ファルジャ自身がこの作品で長編2作目という事もあって、彼女がいかなるジャンルに属する監督なのかという評価が定まっていない事もそこに関わる。ただ、本作を見終わった観客のほとんどはこれはスプラッターホラーのジャンル映画だと思うはずです。

C.  しかし、単なるスプラッター映画であると定型化してしまうには、心理的ホラーの要素も強い為、ある種のグロテスク映画の系譜 ( 人間主体がグロテスクな生き物に変異して人間存在自体が実は怪物的であるのを寓意的に描く ) に属するものであるのかという迷いも出てくる。例えば、デヴィッド・リンチの『 エレファントマン アンジェイ・ズラウスキーの『 ポゼッション デヴィッド・クローネンバーグの『 ザ・フライ リドリー・スコットから始まる『 エイリアンシリーズ 』とかですね。

D.  その辺りについて考えようとしてコラリー・ファルジャのインタビューを結構、読んだり見たりしたのですが、そこでの彼女の発言は僕が想像していたのとは違っていた。ホラー映画やグロテスク映画などのいわゆるB級映画への偏愛などほとんど語られる事なく ( タランティーノのように影響を受けた映画に愛着を持つようには見えず )、彼女自身がどのように考えて映画を作ったか、どのような方法論か、などの一般的な没個性的な見解がどのインタビューでも予め用意された定型文のように繰り返されるばかりだった。曰く、年取った女性は社会的地位からは遠ざかり消えていくのではないかという彼女の中での不安や恐れを、ホラー、グロテスク映画のショッキング性を参考にして爆発的な形・暴力的な形で表現したと繰り返して言う ( ギレルモ・デル・トロと対談した時でさえそんな調子だった )。

E.  そのようなフェミニスティックは意見は彼女自身のものなので肯定的には受け止めるのですが、でも、その際、彼女はホラー映画やグロテスク映画という表現を公的な場で使いたくないのか、その種の映画の事をぼかして "ジャンル映画" というオブラートな表現を使うんですね ( そういう言い方が一般的にあるにしても )。そこまで格好つけないといけないのかなと思うのですが、そんな風なので、彼女のホラー・グロテスク映画嗜好を期待していたあるインタビュアーなどはしびれを切らしてインタビューの最期で誰々の映画の影響がありますねと言い出す有様だった。でもそれもスルーされてたけど。

F.  もちろん、彼女がこれから監督してキャリアを築いていかなければと考えた末に自分の社会的価値を高めたい、自分を推し出したい、と思う気持ちは分かる。でも、実際に出来た作品を観ればB級娯楽映画以外の何物でもない ( 人によっては何じゃこりゃとなる )。過去のB級映画を参考にしながらも、そこに心理性やドラマ性を溶かし込んだ過激描写は彼女ならではものであり、その事は彼女が自身をB級映画のジャンルには収まらない監督になりたいという欲望を持っているのだろうと考えさせる。デヴィッド・リンチとかみたいに。でもどうだろう、自分が影響を受けたものを素直に語れないというのは。逆に言うと、それは自分が未だ、いや、いつまでも影響を受けたものの範囲から脱け出せない事をも秘かに意味しているとも言える。それは自分のオリジナリティは何なのかという映画監督としてのアイデンティティに自信が持ててないからこそ、何らかのジャンルに属している事・埋もれる事を示したくないからこそ、のセンシティブな内面の問題でもあるんですね。

  

CHAPTER2 大義的復讐なのか、娯楽的復讐なのか、それとも攻撃衝動なのか 

A.  前章で述べたコラリー・ファルジャの映画的オリジナリティ・アイデンティティを考える上で挙げておきたいのは彼女の前作『 REVENGE リベンジ ( 2017 ) 』です。男達から殺されかかったジェニファー ( マチルダ・ルッツ ) 女性が何とか生き延び執念で復讐していく物語。レイプされた女性が男たちに復讐するという、メイル・ザルチ監督の世間に賛否を引き起こした暴力的問題作『 I Spit on Your Grave ( 1978 ) 』からの影響をインタビューで聞かれた時、彼女はそれは観ていないと否定し、そもそもそのようなジャンルから脱け出したものとして『 REVENGE 』は作られているとまで言っている。しかし、この即座の全否定が暗黙に示すのは『  I Spit on Your Grave 』がいかに社会道徳的に問題のある暴力的映画なのかを実は知っているが故のリアクションであるかもしれないという事です。知らなければどんな映画なのか聞くでしょうから、自分の作品との共通性を考えようとして ( でもそうはしない )。そういう映画とは一緒にされたくないという事でしょう。でも実は知っていてインパクトを与える残酷な手法を薄めて借用しているかもしれないのです。

B.  今や溢れる女性によるリベンジものというジャンルがいかに残酷な出来事を起源とする事で発生したジャンルであるのか、それはリベンジものが娯楽化され再生産され続けるようになった現在においても女性主体による復讐というアクティングアウトの為にその起源が設定保存・更新されているという事なんですね ( コラリーだけに限らずレイプという設定を生々しく描く事を避けたリベンジものはジャンル形式として確立されているとしても、それでは男を殺す程の復讐の増悪は一体何処から来ているのかという話になる )。

C.  なのでコラリーが『 REVENGE 』で為したのは、B級映画というジャンルの意識的踏襲などではなく、B級映画の視覚的かつ構造的特質を観客を刺激する映画作りの為のアイデアとして借用したという事になる ( これが妥当であるのなら彼女がB級映画にマニアックな愛着を示さないのも頷ける。製作上のテクニカルな興味しかないのかもしれないのだから )。それこそが彼女の勤勉的な方法論・構築論であるといえるのですが、ただし、それは現実の社会に道徳的に問題を与える事、映画外へ向かう事、を目的にしているのではなく ( ミヒャエル・ハネケが『 ファニー・ゲーム 』で世間を挑発したのとは違い )、道徳的問題に近づきつつも直接的には避けて、映画鑑賞における視覚的刺激・ドラマ化による心理的刺激、を与える事に徹してあくまでも映画内娯楽化を図るというものです。

D.  コラリーの映画製作の方法論においては、娯楽化されたリベンジものは映画内娯楽を追求するB級映画に他ならない。しかし、そこには直接的被害の報復の大義としての復讐はない ( なぜならレイプ設定を避けているから ) にせよ、自分の中で燻っている漠然とした不満を社会に対してぶつけようとする "攻撃衝動の具現化欲求" がある ( 先に述べたように女性の社会的地位への不安など )特定の誰かではない社会一般への攻撃性が "娯楽性の殻を纏って" 道徳的問題化を避ける形で作品化されているといえる。

E.  それを秘かに象徴化しているような "興味深い偶然" があるんですね。それは『 サブスタンス 』主演のデミ・ムーアを通じて起きている。デミは自伝の中で子供の頃の記憶としてシングルマザーだった母親の恋人にレイプされた事を語っていて、その後、16才で家を出て得た最初の仕事のひとつが事もあろうに上でも述べた暴力的映画『 I Spit on Your Grave 』のポスター撮影だった。そこで "裸の背中" を見せているのは実はデミ・ムーアだったという訳です ( 以下画像参照 )。

F.  その自伝内容をコラリーが知っていていたかどうかは分からない ( 建前的に『 I Spit on Your Grave 』を観ていないと言うのだから、これも知らないとしか言わないでしょうけど )。知った上でデミ・ムーアにオファーしたのかどうかも分からない。分からないのだからこの場合は偶然だと考えるべきでしょう。しかし、その偶然の内容が興味深いんですね。実際に関係が無くとも、あるように見えてしまう偶然性。これは精神分析的領野での話に繋がるものであり、諸々の困難を経験してきたが故のデミ・ムーアの社会に対する心理的攻撃性がコラリー・ファルジャによって具現化されてしまったように思われる偶然性だといえる。『 サブスタンス 』の中で年を取ったデミ・ムーアの "裸の背中" から若いデミ ( マーガレット・クアリー演じる ) が生まれるという場面 ( 以下画像参照 ) は、『 I Spit on Your Grave 』とデミ自身の過酷な経験が重なった事で形成された複合的トラウマ化 ( トラウマが主体の社会的存在化の基盤になってしまうという ) を破壊する為の "偶然的出発点" として機能している。これ、コラリーが意図的にしていたら凄いなと思うけど多分偶然でしょう。

                  [ END ]

▶ 映画『 ANORA アノーラ 』( 2024 : directed by ショーン・ベイカー ) について哲学的に考える

監督 : ショーン・ベイカー

公開 : 2025年

出演 : マイキー・マディソン ( as アノーラ、通称アニー )

   : マーク・エイデルシュテイン (  as イヴァン、通称ヴァーニャ )

   : ユーリー・ボロソフ ( as イゴール )

 1章  娼婦であること、人を愛すること

A.  この映画、物語のあらすじとして『 プリティ・ウーマン ( 1990 ) 』に似ているとも言われる。売春婦のヴィヴィアン ( ジュリア・ロバーツ ) が実業家のエドワード ( リチャード・ギア ) と出会い惹かれ合うという展開が、ストリッパー ( といっても金で本番行為をするので娼婦といえる ) のアニー ( マイキー・マディソン ) がロシアのオリガルヒの息子であるイヴァン ( マーク・エイデルシュテイン ) と出会う話に似ていますからね。違いはハッピーエンドとバッドエンドだと思えるかもしれないけど、主人公の女性アニーのキャラクターが、『 女囚さそりシリーズ における梶芽衣子演じる松島ナミからインスパイアされているだけあって気が強いという点も際立っている。

B.  そんなアニーは作中でイヴァンとセックスしまくっているけど心を許しているというよりかはそういう行為形式でしか男と親密になれない精神的な愛からは距離を取っている、そしてイヴァンの経済力に魅せられている、という感じなんですね。イヴァンとの結婚で一瞬、本気になりかけたかのように見えるけど、彼に捨てられて素では男を愛せない元の自分に戻っていく。それはラストのシーンに象徴的に現れる。対立関係にあったイゴールが自分の事を気に掛けてくれる事に気付き、素で彼を愛そうとして彼とセックスを始めるのですが、イゴールがキスしようとしても彼女は拒否してしまい彼の上で泣き崩れるという場面です。人を本気で愛そうとする領域に踏み込んでいく事に躊躇してどうしていいか分からずに泣いたといえるでしょう。

 2章  人間的猥雑さを肯定する

A.  ただ、ここで気を付けるべきは、そのラストの場面で以って、アニーは人を愛せない娼婦だみたいな悲しい結論に走るべきではないという事です。というのもショーン・ベイカーのこれまでの映画における世界観を考慮するならば、彼は主人公の悲劇性を好むというよりかは、主人公を含めた登場人物たち及び、その彼らの振舞いを通じて人間の性的及び精神的猥雑さ、下らなさ、どうしようもない混乱、といった人間の底辺、そういうもの自体を肯定的に描き出す事、多くの人が建前上斥けてしまうそういうものこそ人間の本質だとして愛とユーモアを以て描き出す事 ( 1 ) を好んでいるからです。これは社会精神分析的に考えても間違っていない。人間の恥部を排除して "過剰に" 清く道徳的であるのは、人間的であるというよりも社会管理体制 ( キリスト教などの諸宗教、共産主義などの国家、そして一般社会、が建前でもどれだけ人間的恥部を抑圧してきたか ) への "無意識的従属" の面が強いという意味で人間性を抑圧するものだからです。

( 1 )  例えば、アニーがイヴァンの両親によって無理やりイヴァンとの離婚手続きを進められている最中、怒ったアニーが高圧的なイヴァンの母親を口汚く罵るのだが、それを聞いていたイヴァンの父は怒るどころか、アニーの余りの罵りにグラゲラ笑いだす場面がある ( 1~6 )。

B.  そう考えると、ラストの場面はアニーはイゴールを愛せなくてキスできなかったから悲劇的だという事ではない。ショーン・ベイカーの世界観に従うなら、上手く人を愛する事が出来ない、人を本気で愛する事が出来ない、それに気付く事もない、肉体的性行為に浸ってしまう、それらもまた十分に人間的な在り方である事には違いがない ( 良いか悪いかの道徳的判断とは別にして )。つまり、多くの人が従う社会管理体制・社会道徳があるとしても、そこから外れたマイノリティがいる、マイノリティが生活する日常空間がある。そこにも同じように人間性がある。その逸脱性を "全て" 否定する事は人間が人間自身の豊かさ ( 差異 ) を排除する事になるかもしれない。ショーン・ベイカーの映画とは、まさにマイノリティの日常空間を描き出す事で人間的多様性をユーモアを以て回復させようとする。猥雑なもの・底辺のもの・周縁のもの、という排除・排泄的なもの ( *2 ) の精神的肯定 ( 精神分析的な昇華ともいえる ) によって人間性に活力を与えようとしている。

( 2 )  それが象徴されているのが、『 タンジェリン ( 2016 ) 』におけるゲロを吐くシーン。もちろん、本物じゃないけど吐くところを露骨に描写するって普通はしませんからね。こういうのをわざわざ正面切って描こうとする姿勢には少しパゾリーニ的なものを感じる ( ただし、ショーン・ベイカーはもっとPOPな描き方に徹しているという違いはある )。例えばパゾリーニの ソドムの市 。彼も "性的なもの" "排泄的なもの" を通じて人間的生命の回復を考えていた作家ですからね ( 3 )。

( *3 )  パゾリーニについては以下の記事を参照。

                 [ END ]