


監督 : アルフレッド・ヒッチコック
公開 : 1954年
原作 : コーネル・ウールリッチ 『 It Had to Be Murder 』
出演 : ジェームズ・スチュアート ( as L・B・ジェフリーズ )
グレース・ケリー ( as リザ・フレモント )
セルマ・リッター ( as ステラ )
レイモンド・バー ( as ラーズ・ソーワルド )



1章 人間関係におけるダークサイド

A. アマゾンプライムビデオの見放題にいつの間にか入っていたヒッチコックの『 裏窓 』( 2026年1月現在 )。何度も観た作品だがやっぱり観てしまう。分かってはいても何度も観たくなる。まさに、"覗き込み" たくなる。そこにはストーリー以上の何かがある。人間の心理・欲望・行動の徹底的な形式化こそがヒッチコック作品の構造的秘密なのですが、それは主体のトラウマとの遭遇によって日常生活の均衡が崩れていきながらも最終的にはまた元の均衡に帰っていくというお約束のストーリー展開と共に見事に具現化されていく。その事を哲学者のムラデン・ドラー ( Mladen Dolar ) ( *1 ) は次のように上手く言っている。
( *1 ) セルビア出身の哲学者。ラカン派精神分析に影響を受けてスラヴォイ・ジジェク、ラスト・モチニクとリュブリャナ精神分析学派 ( といっても厳密には精神分析治療を行うのではなく、あくまでも精神分析と哲学を接合した理論的活動をする学派閥 ) を設立している。著書に『 オペラは二度死ぬ ( 2002 : ジジェクとの共著 ) 』、『 A Voice and Nothing More ( 2006 ) 』『 Ein Triumph des Blicks über das Auge. Psychoanalyse bei Alfred Hitchcock ( 1992 : ジジェク監修 ) 』
ヒッチコックの映画は、常にトラウマ的な出来事を中心にして構造化されており、この出来事は主体が自分の欲望に直面することを賭金としている。
『 ヒッチコックによるラカン 映画的欲望の経済 』p.41 スラヴォイ・ジジェク / 監修 露崎俊和・他 / 訳 トレヴィル ( 1994 )
ヒッチコックの全作品は、破壊された後再建される均衡を核にして組織されている。日常生活はあるトラウマ的な出来事 -殺人- のために乱されるが、ハッピーエンドによってその諸権利と平凡さを取り戻す。たとえ冒頭と結末の正常な状態にトラウマが影を投げかけずにはおかないとしても、ヒッチコックの映画はハリウッドの約束事を常に満たしている。
前掲書 p.47
B. それではこの作品の主人公、ジェームズ・スチュアート演じるジェフリーズのトラウマとは何なのか。いや、そもそもジェフリーズにトラウマなんてあるのか、そうは見えない、と思う方もいるでしょう。それはヒッチコックが敢えてぼかしている事、彼の映画の主人公のトラウマは多くが直接的に説明されない事、に起因する。登場人物像の全てがその演技を通じて画面に提示されているなんて観客の勝手な思い込みに過ぎないのであって、そういう人の身振りは、ある問題についてその答えを教師に教えてもらう事でしか考えられないようものでしょう。
C. ヒッチコックの形式主義は、登場人物像の薄暗い内面を観客に解釈させる・推察させる余地を溶かし込んだ上での外見的無垢化を図っているというもので、登場人物のダークサイドを表面上は無化させる事に成功している。つまり、一見すると主人公らは作中の事件に巻き込まれながらも犯人は別にいる事で "精神的無罪性" を保障されているかのように見えるという事です ( その意味で『 サイコ 』は、その構造を大転回させて "有罪の狂った主体" を主人公としてはっきり現わす事で歴史的傑作と化した )。
D. しかし、もしヒッチコック作品における主人公が真に無罪であるのなら、何故、彼は自分が危険な目に遭う事件に常に直面するのか、何故、そのような "形式的反復性" が常に定番なのか、が説明出来ない。それこそ危険との無意味な遭遇という、身も蓋もなく主体が苦痛を被るだけの娯楽的ホラー話になってしまう。そこに主体 ( 主人公 ) にとって何らかの意味があるとするならば、それは主人公が自分の中の心的秘密、自分でも気付いていない心的トラウマ、に遭遇する事で "精神的有罪性" を露わにするという規定構造があるからだとしか考えられないのですね。
E. なので、もっと具体的に言うならば、ジェームズ・スチュアートはダークな側面を抱え込んだ演技などしていないし、ヒッチコックもそうさせてはいない。ジェームズ・スチュアートは善良そうな写真家を演じているに過ぎない ( アメリカの理想男性像としばしば形容されるように )。しかし、ヒッチコックは俳優の演技の枠外に人間関係という曖昧な形式を通じて目に見えないダークサイド、未だはっきりとは姿を見せていないダークサイド、私たち一般の人間関係の中にも頻繁に垣間見えるダークサイド ( 例えば家族関係における一時的軋轢の中で表には出なくとも、そこの誰かによって実は抱かれている・抱かれていた憎悪・殺意など )、の "心的領域" を含ませている。それが作品を秘かに常に規定しているからこそ、表面的な日常性に唐突に侵入する事件性、その事件が表面上は解決されて元の日常に帰っていく、という安定的物語的構造が可能となっている。では次でジェフリーズのトラウマについて細かく考えて行きましょう。


2章 観客には提示されないトラウマ

A. 作品の中で示されない、またはジェフリーズ自身によっても語られない、トラウマとは何なのか。ヒッチコックはそれを人間関係、人物のちょっとして素振り、などを通じて間接的かつ秘かに提示する。しかし、それ ( トラウマ ) は形として観客の目には見えない。目にはみえないが作品の中で重要な役割を果たしている。それは目に見える対象ではない。陽の光の下での明らかな対象になる以前の、人には話されない闇夜に埋もれた主体の深層部での蠢きや経験。形にする事が出来ないが故にそれは "対象物" ではないが、主体に心的動揺を与える "経験" ではある、それに与えられる名がトラウマなのですね。
B. これはまさにヒッチコック作品におけるよく知られた "マクガフィンという可視対象物" とは正反対のものです。マクガフィンとはストーリー展開の契機物、荷物や "犯人" などの何らかの対象物が物語の最後まで関心事物であるもの。それ自体が何であれ、それ自体に大した意味が無くとも ( ヒッチコックが言うようにそれは単なるものでしかない )、ストーリー展開の基軸物としての形式的意味が与えられたもの ( *2 )、です。これは目に見える対象物なんですね。これは観客を含めた多くの人がたんなる対象に必要以上の意味を見出そうとする皮相的見方に対するヒッチコックの皮肉的表現でもある。実際、『 裏窓 』においては真犯人が誰なのかという興味よりも殺人が実際に行われたかどうかの確証が重要になっている。映画研究者のドナルド・スポトーもソーワルドによる殺人事件自体が、ジェフとリザの関係を隠す為のマクガフィンだとまで言っている。
( *2 ) このストーリー展開の基軸物という古典的手法をアップデートしているのがクリストファー・ノーランの『 テネット ( 2020 ) 』。その時系列の反転化という設定構造の中で、過去から追い求められていた古典的な危険物質プルトニウムは、未来からの視点では時間を逆行させるアルゴリズムへといつの間にか変化してしまっている。つまり、以前の世界では世界を滅ぼしかねなかった核の危険性が、未来においては核を使用しなくとも世界を時制操作という観点で支配出来ることの危険性、ある意味で核以上の危険性、へと変わってしまっているというように、その "危険性の意味自体" の変化が特定の対象物 ( 基軸物 ) の中でいつの間にか起きている。逆に言うと、その危険性の "本質の変化" がプルトニウムからアルゴリズムへの "移行現象" として外面的に現れているという訳です。
C. このようにマクガフィンとは映画を楽しむ上で知っておくべきプチ概念でしかないのですが、もちろん、これは映画を観るに当たって深く考えすぎるべきではないなどという無思考性・無意味性の象徴などではない。逆に考えきれていない何かが他にある事、マクガフィン以外にある事、をヒッチコックは仄めかしているといえる。それはまさに目に見える対象物ではないもの、主体 ( 主人公 ) のトラウマ、主体の行動を規定する欲望の暗部、なんです。この深部が下層基盤として主体を規定している事 ( トラウマ化 ) を見逃してしまうと、主体が事件 ( 出来事 ) と向かい合う事、あるいは遭遇する事、の意味は全く失われてしまう。つまり、なぜ主体 ( 主人公 ) はこんな目に遭うのか、なんて深堀はされる事がなく、不幸な事に通りすがりに巻き込まれただけだみたいな無思考的解釈に行き着く事にしかならない ( せいぜいのところ、こういうのは "巻き込まれ型" なんだみたいなヒッチコック作品の分類的定型化に行き着くくらいです )。以上を踏まえてジェフリーズの暗部について具体的に考えて行きましょう。


3章 ジェフリーズとリザ、その関係性 ①

A. 以下のシークエンスは冒頭の数秒。足を骨折した車椅子のジェフリーズ ( 1 ) がカメラマンである事が壊れたカメラ ( 2 )、そしてレースのクラッシュ写真 ( 3 ) からその事故に巻き込まれて骨折した事が分かる。次に写し出されていく写真 ( 4 ) からもその身が危険にさらされる系の写真を撮り続けて来たのが伝わる。


B. さて、ここで興味深いのは、場面 ( 5 )、( 6 )、です。ここからはそれまでの危険と隣り合わせの写真からは一転する。女性のネガ写真がフォトフレームに入れられている場面 ( 5 ) が始めに来て、次の雑誌が積み重なった場面 ( 6 ) からそのネガはおそらくジェフが担当雑誌表紙用に撮ったものである事が分かる。
C. 注意すべきは通常とは違い、ネガの方をフレームに入れて重宝しているという事です ( このフレーム化とは主体による意識化であり、そこには何らかの意味作用が発生している *3 )。これはヒッチコックの芸の細かさなのですが、このネガとは女性の隠された本質、普段周囲に見せる建前の顔とは違う自分の男にだけ見せる顔がある事、そしてそれは男の手には負えない一筋縄ではいかないものである事、を示している ( これは『 サイコ 』以降、強く現れていく "母なるものへの畏怖"、"母なる超自我への従属"、というヒッチコックの真のテーマに繋がる )。
( *3 ) このフレームと主観性の関係について最も強力に表現された映画がアラン・ロブ=グリエの『 囚われの美女 ( 1983 ) 』。以下の記事のCHAPTER3を参照。
D. そして、この辺りから介入してくるのは、ヒッチコック作品に対するフェミニズム的映画批評です。男性の女性に対する性的視線への批判、女性をいやらしい目で見る男性の視線がヒッチコック作品には現れているという男性の欲望批判ですね。今や古典といえる、女性映画研究者ローラ・マルヴィの『 視覚的快楽と物語映画 ( 1973 ) 』は精神分析理論を参考にしハリウッド映画の男性優位性、家父長的構造性、を批判した。『 裏窓 』におけるジェフリーズの覗き見行為はまさに女性を性的欲望の対象として見る男性的視線の具現化に他ならないという事になるでしょう。実際、『 裏窓 』の最初で看護師のステラはジェフリーズの覗き見行為を再三に渡って注意していますね ( しかし、この演出はジェフの覗き見への社会的批判に対するヒッチコックの自己防衛ではなく、なぜジェフは覗き見をするのかという根本的理由が他にある事を示唆しているといえる )。
E. つまり、ジェフの覗き見行為は道徳的に批判されるものである事は間違いない。その点で批判されるのは仕方のない事だと思う。しかし、フェミニズム的批判に満足しもし作品の解釈をそこで止めてしまっては、それはまた以下の袋小路に陥るしかなくなってしまう。男性をいやらしい視線を持つ者として固定化する女性目線は、女性をいやらしいものとする男性目線と性質としては変わらない。その女性目線は男性目線が反転したに過ぎないのだから。つまり、その議論はジェンダーの違いはあっても本質的には男性的なもの同士で為されているという事になる ( これを象徴するようにフェミニストは男性に対する "戦い" という闘争志向的言い方・男性的言説を用いるのだが、それではそもそも女性とは原理的に一体何なのだろうか…… )。
F. 何故、そのような事が起こるのかというと、多くの人が視線を何らかのジェンダーの支配下に置こうとするからです、男性の視線、女性の視線、それ以外の人々の視線、など。しかし、哲学原理的に考えるならば、視線とは主体には属さない。主体が自分の欲望を視線に乗っけて対象を見るにしても、それは対象の側からもこちらを見る視線とぶつかり齟齬を起して欲望は中断される ( *4 )。これはまさに視線が特定の主体に独占的には収まらず、にも関わらず、違う主体同士を繋げる "脱人間的な唯物論的動線" だからなのですね ( *5 )。その視線動線は主体には留まらず主体を貫き通過する脱主体的領域がある事を示している。
( *4 ) このように男性の女性を見る視線が、いつの間にか女性側からの視線の中に取り込まれて溶け込み、自分が何を見ているのか分からなくなるが故に "めまい" を覚える事態を描いたのがヒッチコックの『 めまい ( 1958 ) 』。そこでは、女性は男性の同一性の形成を阻害する何物かとして男性を不安に陥れる。以下を参照。
( *5 ) 視線の脱人間的唯物論性を描いたのがアラン・ロブ=グリエの『 不滅の女 ( 1963 ) 』。そこでは視線は男性の属性物である事から離脱し、それどころか逆に男性を死に追いやるものと化す。以下参照。
G. 以上を念頭に置いて解釈を深めるのなら、『 裏窓 』では男性が女性を一方的に覗き見しているのではなく、実は自分が女性から見られている事、女性からの視線、を無意識的に知っている、いや、恐れている、といえる。もっと言うならば、ジェフは自分の男性優位的同一性が、"女性の欲望" を意識しそちらに同一化する事で崩れる事を恐れている。言うまでもなく、その女性とは恋人リザ ( グレース・ケリー ) に他ならない。リザがジェフに会いに来て、彼女方から積極的に迫ってキスをし、ジェフは為すがままの場面がある ( 7 )。そこでの会話からリザの方が明らかに性行為を望んでいるのが分かる、「 おなかは?」「 ラブ・ライフは?」という彼女の言葉に現れているように ( 8~9 )。しかし、ジェフは足が折れているから引延ばそうとする ( 10 )。


H. この後、ジェフはリザに対してカメラマンとして世界各地を飛び回る苛酷な生活には耐えられないだろう、ついて来れないだろう、として結婚を渋る。のですが、ステラには自分と裕福な階級出身のリザとでは釣り合わないだろうとこぼす。つまり、実際にはリザが自分の生活についてこれない以上に、自分が彼女を満足させられないだろうという恐れがある。彼女を満足させられない自分に耐えられなくて自分のプライドが壊れるのを恐れている。それは場面7~10でも示されている若いリザの性的欲望に応える事が出来ないかもしれないという性的関係上の恐れも含めて ( *6 )。このような恐れが他人の生活を気にする覗き見へと転化している、つまり、自分はこんな感じだが、皆は一体どんな生活を送っているのかという秘かな好奇心から覗き見をしている、という事なのですが、この続きは次回で。
( *6 ) 気付いた人もいると思うが、グレース・ケリーとジェームズ・スチュアートでは親子といってもいいくらいの年齢差があり、この不均衡さが性的関係の上手くいかなさを予兆させる。この当時、グレース・ケリーが20代半ば、ジェームズ・スチュアートが40代半ば、なのに対して看護師役のセルマ・リッターが50代前半でむしろジェームズ・スチュアートと夫婦の役柄を築くには適しているはず、という異様な人間関係の配置となっている。このジェフの周囲の人間関係の設定は『 裏窓 』の原作、コーネル・ウールリッチの『 It Had to Be Murder 』にはないオリジナルなものであるが故に意図的であるのが分かる。


[ 以下の記事へ続く ]
