〈 It / Es 〉thinks, in the abyss without human.

Transitional formulating of Thought into Thing in unconscious wholeness. Circuitization of〈 Thought thing 〉.

▶ マルクス・ガブリエルのイスラエル擁護記事を通じて色々と考える〈2〉

 

前回記事からの続き

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2. 新聞記事の内容について

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  ここまで読んだ方は、じゃあ肝心の新聞記事の内容って何なの? と思うでしょうから、以下に抜粋しておきます。しかし、まあ何というか、これを読むと、彼の説く、道徳性、人間性、そしてその価値観の共有、というやつが、実は、反ユダヤ主義ホロコーストに対する贖罪が戦後に軍事支援へと転化しイスラエルを超軍事国家へと至らせた ( アメリカと共に )、余りにも ドイツ特有の政治性を帯びたイデオロギー で形成されたものである事を、再確認出来ますね。そのイデオロギーに従うならば、ガブリエルのイスラエル擁護とは、かつて大戦中にユダヤ人を残酷な目に遭わせたドイツは贖罪の意味で、イスラエルが他の民族・国家にいかに暴力を行使しようとも黙認する という事になり、それは "歪んだ反省性" だといえるものなのです。イスラエル武力行使は、いかなるものであろうとも、反ユダヤ主義への防衛行為なのだとして暴力性それ自体が常に正当化される、ガブリエルはこの事を暗黙の内に認めてしまっているのです。暴力性を認める彼は、残念ながら 平和について論理的に考える事を放棄している という意味で、もはやカントのような哲学者ではなく、運動家や活動家・疑似啓蒙家でしかないのですね。

 

 

人類は危険な退行の時代に入った。私たちは地球規模で人間性の危機のさなかにある。この後退を示す最大の現れはパレスチナ自治区ガザのテロ組織ハマスイスラエルで引き起こした野蛮な虐殺だ。ハマスはまたしても、人間がかくも邪悪になれるということを示した。

 テロリストたちは、私たち全員と同じように人間であり、野獣ではない。だが徹底的に悪に染まった人々だ。

 

新聞記事からの引用

 

 ハマスの当初の目的は、イスラエル国家の破壊と、できる限り多くのユダヤ人を殺すことだった。反ユダヤ主義が、その動機だ。反ユダヤ主義ナチスによって育まれた恐るべきづ道徳的病理であり、その大量虐殺思想は今なお多くのユダヤ人を苦しめている。

 確かにハマスが10月7日に殺し、人質にしたのはユダヤ人だけではない。非ユダヤ人の犠牲者や人質もいた。だが、ハマスは何千人もの罪のないパレスチナ人をも人質にして悲劇的な惨事に巻き込み、反ユダヤ主義的な宣伝戦に用いていることも忘れてはならない。

 

新聞記事からの引用

 

 ホロコーストを人間の徹底悪の実例とみなすことは、ドイツ人の私にとって現代史を見るのに不可欠な要素だった。私はホロコーストが自国の歴史に刻まれていることを学んで育ち、これを繰り返さないために、どんな形であれ反ユダヤ主義や人種差別主義を防ぐことが何より重要であると誓った ( ドイツ語で「 2度と再び! 」という )。

 

新聞記事からの引用

 

全てのドイツ人がこの見方を共有しているとは言わない。完全なネオナチからホロコースト否定論者まで、ドイツにはあまりに多くの反ユダヤ主義者がいる。ガザの紛争でも、ハマス側に立つ多くのドイツ人がいる。

 

新聞記事からの引用

 

▨  上の発言、「 ドイツにはあまりに多くの反ユダヤ主義者がいる。ガザの紛争でも、ハマス側に立つ多くのドイツ人がいる 」 は、ふたつのセンテンスから成り立っているのですが、このふたつは危険なくらい短絡的に結びついているのが見て取れます。 まずは二番目のセンテンスから読み直しましょう。同センテンス内では、"ガザ側に立つ" ではなく、"ハマス側に立つ"、というふうにハマスがテロリストだとする視点を含んだ巧妙な言い換えが用いられている為、"パレスチナ側に立つ" 事自体を 暗黙の内に "テロリスト ( ハマス ) を擁護する" 事だと印象操作する形になっている のに気付くべきです。

 

▨  これを踏まえて一番目のセンテンスに遡ると、二番目のセンテンス内での巧妙な印象操作を施された "テロリスト ( ハマス ) 擁護" が、一番目の "反ユダヤ主義" と直結化・重合化されて、元々 "パレスチナ側を擁護する者" が全て、"テロリズム反ユダヤ主義集合論化内の構成要素" であるかのように仕立て上げられてしまうのです。つまり、ガブリエルは、"パレスチナの擁護" がテロリズム反ユダヤ主義の肯定には組せず、対立構造を超えた ( 抗争当事者ではない部外者であるからこその ) "平和の理念・概念から発生している現象でもある事" が全く考慮出来ていない。パレスチナ擁護が必ずしも反ユダヤ主義テロリズムの肯定を意味しているわけではないという当然の現象をガブリエルは理解出来ないのです。彼においてはパレスチナ擁護は全てテロリズム反ユダヤ主義へと収斂化されるのでしょう、残念な事に。 このように、平和の概念が、平和についての思考行為が、そもそもガブリエルの中には無い のですね。

 

 

 反ユダヤ主義が大きく広がる道徳的な病理であること自体は、驚きではなかった。だが、私を少なからず驚かせたのは、国連や世界保健機関 ( WHO ) の代表者までが、この危機を誤った観点で見ていることだ。彼らの誤りは、ハマスの思想的なわなにかかっている点にある。このわなは、まるでハマスが罪のないパレスチナの人々をイスラエルの虐殺から守っているかのように見せかける。誤解を与える語り口が、イスラエルの防衛行動を虐殺の形に見せかけ、虐殺は絶対に許されないという倫理の乱用を導いている。

 

新聞記事からの引用

 

▨  注意すべきは、ここでガブリエルが使用する反ユダヤ主義の概念の "内容" は、聖書の時代からナチスによるホロコーストで凄絶さを極める ユダヤ人によるユダヤ人への迫害行為 という意味に "意図的かつ限定的に" 固定化されているという事です。それは、個々のユダヤ人 ( プリーモ・レーヴィのような ) による被迫害体験のトラウマ化叙述で形成されてきた ユダヤ人の被迫害者的存在 が、イスラエルという軍事国家の規模においては防衛行動の正当化の為のイデオロギーとして "意図的に利用されている" のと同時に、イスラエルパレスチナへの暴力行為自体が平和論的視点から国際世界において非難される事で高まる新たなる反ユダヤ主義"意図的に無視している" という事でもあるのです。

 

▨  つまり、神話的・歴史的被迫害主体としてのユダヤ人を圧迫してきた "以前の" 反ユダヤ主義ではなく、イスラエル国家建設 "以後の" パレスチナへの暴力を行使する事への国際社会の反発の反撥という意味での反ユダヤ主義が新たに形成されつつある ( イスラエル自身の軍事行為が引き起こす新たな反ユダヤ主義を最近のジジェクも懸念している ) のを、ガブリエルはハマスというテロリスト的存在への防衛を言い訳の盾にして意図的に無視しているという事ですね。暴力行為の責任主体としてのイスラエル国家の罪 をガブリエルは全く問おうとしない訳です。

 

▨  実は、これこそがプリーモ・レーヴィが苦悩しながらも反対し続けた、イスラエルによるパレスチナ人への軍事行動という国家暴力なのです。これについてジュディス・バトラーは次のように言う。

 

 

 イスラエル国家への批判を提示することは反ユダヤ主義者であるとみなされる、あるいはさらにいえばユダヤ民族の新たな破滅に手を貸し煽動することですらあるとみなされるという難題をもって本書ははじまった。プリーモ・レーヴィは、一九八二年のベイルート爆撃とサブラー・シャティーラの大量虐殺への異議申し立てを明確にすることは、みずからのユダヤ人としての、そして生存者としての公的責任であると考えていた。彼はイスラエル建国をユダヤ人のナチスによる破壊からの避難所として、そしてユダヤ人が帰還する権利をもつ場として明確に尊重してはいた。しかしレーヴィはイスラエルの存在をユダヤ人の恒久的な避難所として尊重する議論を、その当時のイスラエル国家政策とは分けて考えようとしていた。その結果、彼は八〇年代初頭、メナヘム・ベギンアリエル・シャロンの双方に対する批判を強め、サブラー・シャティーラの大虐殺の後には彼らの辞任を求めた。

 

 

『 分かれ道 ユダヤ性とシオニズム批判 』 p. 354~355 ジュディス・バトラー / 著 大橋洋一 + 岸まどか / 訳  青土社 ( 2019 )

 

 レバノン南部の大半を壊滅させ、何千人ものアラブ人住民を殺戮したベイルート爆撃にレヴィは反対した。また彼は占領地に入植地を作ることにも反対した。そして数ヶ月後、彼はサブラーとシャティーラにおける無防備なパレスチナ人殺害を糾弾した。この攻撃は、身の毛もよだつような殺戮、身体の切り刻み、妊婦の臓腑の取り出しなどをふくむと報道された。こうした残虐行為には「 恥と苦悶 」を感じるとレーヴィは語ったが、それでもなお彼は、状況は変わりうるという可能性をねばり強く信じた。一九八二年にジャンパオロ・パンサとのインタビュー 「 プリーモ・レーヴィは語る、ベギンは撤退せよ 」 でレーヴィは、「 私はイスラエルがずっとこんな風でありつづけると信じるような悲観主義者ではありません 」 と述べている。 しかしインタビュアーに、 イスラエルから寄せられた 「 長年にわたり流されてきたユダヤ人の血 」 が見えないのかと問う手紙に対してはどう応じるのかと問われると、彼は次のように答えている ー

 

流されたその血は、流された他のすべての人間の血と同じように私を苦しめると答えます。 けれどなかにはもっといたたまれない手紙もあるのです。 私はそうした手紙にさいなまれていますが、それはイスラエルが私のような人びとによって、ただ私よりももっと不運な人びとによって建国されたのだと知っているからです。アウシュヴィッツの囚人番号を腕に入れ墨された人たち、家も祖国もなく、第二次世界大戦の恐怖から逃れ、イスラエルに家と祖国を見出した人たちです。それはみな、わかっているのです。しかし私はこれがベギンの愛用する抗弁だということもまた知っています。そして私はこの抗弁にいかなる正当性を付与することも拒否します。

 

 

前掲書 p. 355~356

 

▨  このようにバトラーは、ガブリエルとは対照的に、国家暴力を批判する哲学的意義を突き詰める。イスラエル国家を批判する事は必ずしも反ユダヤ主義などではないし ( ガブリエルが短絡的にそれは反ユダヤ主義だと決めつけるのとは違い )、 "ユダヤ性 ( ユダヤ的なもの )" という人間の共存生活に関する倫理的関係性 が、イスラエル国家やユダヤ教の中にのみ限定化されない、人間的普遍性を持つものとして平和への礎になるのではないか とバトラーは考えようとしている ( * )。 だからこそ、ユダヤ人であれ、パレスチナ人であれ、人間の生命と生活を破壊する行為は "普遍的に" 禁止されなければ、誰かが誰かを殺す行為は無くなることはないと彼女は主張するのです。

 

 

私が説いたいと思うのは、国家暴力に対する公的批判 - もちろんこれが何を指すのかについてはまだ説明が必要だが - がユダヤ的価値観によって保証されているかどうかである ( そのユダヤ的価値観は非共同体主義的な観点から理解されているとしての話だが )。

 こうした問いをたてるのは、表立って公然とイスラエルの国家暴力を批判すると、しばしば、そしてある種の状況においてはほぼつねに、反ユダヤ主義的もしくは反ユダヤ人的だとみなされるからである。そしてそれでもなお、表立って公然とこのような暴力を批判することは、ユダヤ的枠組み - 宗教的、非宗教的の別を問わず - の内部から生ずる義務的な倫理的要請である。そしてこの枠組みこそがこの種の国家暴力に立ち向かうための、広範囲な運動に必要な結びつきを支えるものであり、したがってそうすることはユダヤ的であり、また同時にユダヤ性から離反している。

 

前掲書 p. 222~223

 

さらに、私が示唆しようとしたように、ユダヤ人であるということは、非ユダヤ人に対する倫理的関係を引き受けることを含意するとまでいってよいのなら、ユダヤ性とは反アイデンティティ主義プロジェクトとして理解されうるし、また、そう理解されるべきなのだ。こうしたことの淵源にあるところのユダヤ性のディアスポラ状況において、社会的にみて多元的な世界で平等を旨として生きることは、倫理的かつ政治的な理想でありつづけている。

 

前掲書 p. 224

 

アーレントにとって、この地域が共生原則を政治的に実現するために、連邦制あるいは二国民主義の再考を求めることは、暴力からの出口を模索することであって、その土地に住まういかなる集団も破壊しつくす途につくことではないのだ。その政治的な要諦は、パレスチナ人を破壊から守ることなくして、ユダヤ人を破壊から守ることは出来ないということにつきる。もしも破壊に対する禁止を普遍化することができないならば、それはすなわち、破壊をとおしてのみ、ひとは生きのびることができるという前提をもってして、「 他者 」 を破壊しつくすということになる。しかし現実はこれとは反対に、パレスチナ人の生命と生活の破壊は、破壊をおこなう者が破壊されることの危険性を高めることにしかなりえていない。なぜなら、そうした破壊活動は抵抗運動 - 暴力的なものであれ非暴力的なものであれ - に対し持続的な根拠をあたえるのだから。

 

前掲書 p. 228  * 下線は引用者の私によるもの

 

 

▨  以上のバトラーの真摯な哲学的な思考を前にすると、ガブリエルのそれは ( たとえ新聞記事という物理的制約があるとはいえ ) ハマスというテロリストに対する防衛の一点張りで何の奥深さも無いように思えてしまうのは僕だけではないでしょう。さらに、彼の思考の問題は、テロリストという概念の持ち出しにおいて、ハマスパレスチナ人を暗黙の内に重ね合わせてしまっている事 です。記事の最期においてテロリストではない一般のパレスチナ人を苦しみを考慮する振りをしながらも、イスラエルの現実の軍事行動にそのような区別を実践することが困難な故の巻き添えが起きてしまっている事には何も触れようとはしないのですね。いや、実際にガブリエルにそんなことくらい分からないはずもないのであって、真に恐ろしいのは、ハマスパレスチナ人を集合化的に同一視している ( そうでない人々も含めた全体性において ) が故に、苦しむ人がいてもイスラエルに攻撃されるのは仕方のない事だと彼が考えているのではないか と邪推させてしまう不穏性がこの記事にはあるという事なのですが、そこら辺は次回の記事で考えていきましょう。

 

 

イスラエル兵の大部分は、家族や友人、国家の存続をテロ組織から守ろうとしているのであり、一般市民を標的にする意図はない。〈 中略 〉。この時点で私たちにできることは、私たちが共有する倫理観をむしばもうとする国際テロリズムの思想基盤を理解することだ。

 

新聞記事からの引用

 

 

 ハマスを除いて、罪のないパレスチナ人を苦しめ、痛めつけたいと望む者は誰もいない。それはイスラエルに住む人々が、再び人道に対する罪で苦しむのを望む人がいないのと同じことなのである。

 

新聞記事からの引用

 

 

( * )

例えば、パレスチナ出身の女性作家アダニヤ・シブリーは 『 World Literature Today 』 における Claudia Steinberg によるインタビュー記事 ( 2020年12月 ) で次のように言っている。引用箇所の下線は私によるものなのですが、この下線文章は、インタビューの別部分で、暴力を生む国家というものは望まない、パレスチナ国家も私は望まない、と言う彼女の発言趣旨を考えた時、非常に示唆的だといえるでしょう。

 

 

Palestine is a mode of living, an experience. But it’s also a position of witnessing, from a position that can teach us. If you are listening, it becomes so natural that you care, and you create a connection of care toward others that is not limited to the borders of the nation-state or to Palestine as such. This is an ethical point for me—what I am as a human being who has lived in this place under these conditions, what I can carry away from this place on a personal level—and what it created in terms of literature.

 

パレスチナとはひとつの生活様式であり、ひとつの経験なのです。しかし、それは私たちに何かを教えてくれる "場所 / 位置" ( ) でありながら、目撃の "場所 / 位置" でもあるのです。耳を傾ければ、あなたが気遣うのが、国民国家の国境やパレスチナなどに限定されない他者への気遣いの結びつきをあなたが生み出せるのが、自然なこととなる。このような状況でこの場所で生きる人間としての自分、個人レベルでこの場所から私が持ち帰ることが出来るもの、そして文学の観点で生み出されるもの、- これは私にとって倫理的なポイントなのです。

 

 

( ):引用者注 シブリーはこの position という言葉を地理学・地政学的な意味で限定的かつ物理的呼称としてパレスチナを指す為にのみ使っているのではなく、その "場所" を通じて世界の人びとが何を知るのか、何を目撃するのか、そこで起きる暴力性とは、私たち人間自身の姿なのではないか、というパースペクティヴの人間間の移動を可能にする何物かとして示唆している。その為、ここの訳では固定的なものではない "移動・位置変化・状況変化" のニュアンスが含まれる "場所 / 位置" という訳語を position に当てた。

 

 

 

 

次回予定の記事に続く

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