〈 It / Es 〉thinks, in the abyss without human.

Transitional formulating of Thought into Thing in unconscious wholeness. Circuitization of〈 Thought thing 〉.

▶ ロシアのウクライナ侵攻から生起するもの。国家という政治形象を欲する人間、そして民主主義における人間〈 2 〉



 

 

■ 前回 ( 上記 ) の記事 ( 2022 / 03/30 ) からの続き

 



 3章  単独表象としての人間

 

1. 2章で述べたウェーバーの人間概念の普遍性に対する危惧は、政治的暴力が現前するという冷酷な現実から生まれたものであり、その "人間概念に対する普遍的合意の脆弱性" は議会制民主主義に不満を抱いたカール・シュミットが打ち出す例外状態において決断を下す指導者という表象に裏書されている ( ウェーバーの不安定なプロテスタンティズム人間観は原罪を人間の本質に据えるカトリック環境で育ったシュミットの性悪説的人間観に原理主義的に繋がっていく )。哲学的に考えると、ウェーバーの人間の純化された抽象的理想像としての指導者は、シュミットにおいて 人間概念の普遍的・民主主義的合意の先延ばしあるいはその不可能性に対する強力なアンチテーゼ として現れている。

 

2. そうであるのならば、シュミットのいう例外状態とは政治学カテゴリーの概念ではなく、政治の定常的・停滞的状態を打ち破るための暴力的権力を指導者によって持ち込む以外にはないとする 人間を "独的表象" として確立させる主体権力のための哲学的カテゴリーに属するものである と考えられるのです。人間存在の強力な主体化への欲望が指導者という個別的表象に転化される事態には、人間存在の集団性が権力に対する反抗勢力に行き着くしかない事を否定する身振りが含まれている。集団のアナーキーな騒乱性を集合論化させる事で止揚する "特異な単独点" が、指導者という単独表象へと存在論化される のです。

 



 4章  弁証法存在論を差異化させる単独表象

 

1. ここには多くの人が全く見落とすハイデガー存在論的差異においても遂行される隠された抽象的暴力の具現化がある ( この概念の暗黙的了解についてハイデガーが意識的であったかどうかは微妙なのですが )。存在論的差異の教科書的理解では、存在者よりも、人間やものを存在させる存在という出来事の優位性が強調されるのですが、ここで見落とされる理論性は、存在という次元 ( そう、それは自らを境界画定する事が出来ないものであるが故に次元と比喩的に言うしか出来ない ) が人間やものといった "単独的表象" の秘かな現前 ( デリダ的意味での ) を暗黙の裡に前提としている というものです。単独的表象という "ひとつの形象" を利用しなければ存在という "全体性" を浮かび上がらせる事が出来ないという弁証法の改竄的隠匿がそこにはあるのです

 

2. 通常のヘーゲル弁証法では、単独性が全体性へ与える論理的波及効果、つまり、単独性が例外的特殊として、それの属する状況域の混乱・混雑性を止揚する最小支点作用 ( ひとつの対象がそこに "ある" という事 ) によって諸状況の乱立する群島性を抽象的全体化へ向かわせる知的移行を引き起こす。

 

3. これに対してハイデガー存在論は、単独性を媒介者として全体性の中に消失させる事を推進力とする知的全体化を狙った弁証法を逆方向化させて、全体性が単独者をいかに成立させているのか、いかに存在させているのか、つまり、より政治権力性を帯びた暴力的波及を重視する。もちろん、ここで暴力的波及というのは、あからさまなものではありません。ハイデガーは脱存的モチーフによって人間主体から離れて外部の真理に向かうかのような印象を施しつつも、世に蔓延る曖昧な人間概念に対して単独表象 ( 指導者・ドイツ民族など ) を持ち出し、それを存在化・存在論化させなければならないという "政治的原理の強制化・脱哲学的な理論の現実的強制化" の欲望に囚われていた 。その欲望の顕れこそが秘かな政治権力的な中央へ向かう全体的理論としての存在論だった。だからこそハイデガーは一時期的にではあれ、ナチスに近づき、人間を政治的主体として存在させる "革命的存在論" を国家を通じて実現させようとしていたと考えられるのです。多くの研究者はハイデガーナチスへの接近とそこからの離反をナチスとの考え方の違い故だとして、それ以上は国家に近づく存在論の政治的意味を考える事が出来なかった。しかし、まさにそれは "人間概念の政治的定位" こそがハイデガー存在論の隠された形而上学的意義である事、つまり、"形而上学的政治 ( 政治哲学などというありふれたものではない )" を実現化したい願望がそこにあった事、を見抜けないからなのです ( *A )。

 

 

( *A )

1. このようなハイデガー存在論における政治性に迫った最近の著作としては轟 孝夫の『 ハイデガーの超政治 』( 2020 / 明石書店 ) が挙げられる。ハイデガーの思想を政治性から切り離すか、それとも批判的風潮に同調して倫理や責任のカテゴリーをハイデガーに対峙させるか、の両極的な研究アプローチが形成される中で、政治性と形而上学の接合がハイデガー存在論の中にはあるとする著者の主張は画期的なものだといえる。

 

この超政治は「 黒ノート 」のうちでも、一九三二年秋から一九三四年までの時期に成立した「 省慮と目配せⅢ 」だけに見られる概念である。〈 中略 〉。

 超政治にはじめて言及される覚書二九では、ハイデガーは次のように述べている。「 『 哲学 』の終わり。ー われわれは哲学を終わらせて、それとともにまったく別のもの ー 超政治 ー を準備しなければならない。/ それにしたがって、また学問の変貌も 」 ( GA94. 115 )。ここで超政治は終わりに至った哲学に取って代わる「 まったく別のもの 」と規定されている。そうだとすると、この超政治とはいったいどのような営みを指すのだろうか。

 覚書三二には「 超 ー 政治としての形而上学 ( Metaphysik ) 」とだけ記されている。

 

 

轟 孝夫『 ハイデガーの超政治  ナチズムとの対決 / 存在・技術・国家への問い 』p.54~55 明石書店 2022年

 

2. ただし、それでも国家形象を脇に置いているためか、著者はハイデガーの考える政治形而上学を余りにも哲学的に擁護し過ぎているかもしれない ( ハイデガーは近代国家は批判したが国家形象を棄却した訳ではない、少なくともナチズムへの接近期までは )。ナチズムの反ユダヤ主義 ( 人種差別主義 ) とハイデガー反ユダヤ主義 ( 哲学的対決主義 ) が違う事を著者は明らかにしてくれたが、それでもハイデガー "超政治" と言う時、それが国家形象を通じての人間概念の政治的定位に他ならないのであれば、国家を持たない者たちをどう定義すべきなのか という問題は依然として残る。それが出来なかったからこそ、ハイデガーユダヤ人を "人種的には" 尊重していても、存在論を通じての人間概念の普遍化作業を妨げるものとして "哲学的には" 尊重しなかった のです。なので著者が本書第2章「 ナチズムとの対決 」において、西洋形而上学の歴史を背景にしてのユダヤ的なるものとの哲学的対決だとしてハイデガーを擁護しようにも、ユダヤ的なるものとの敵対性が "人間概念" を巡っての哲学的差別である事 ( 人種差別ではないが ) を逆に浮かび上がらせてしまっている。

 



 5章  指導者という単独表象

 

1. シュミットにおいては、民主主義において形成される国民の集団的意志とは放置すると権力への反乱を起こす内敵にしかならないのであり、指導者の偉大性とは、内的敵である国民を単に否定するのではなく、その反抗的集団意志を国家的総同意へと自発的に向かわせるよう導く事にあるといえる。もちろんそれは形式的なものに過ぎない ( 内心は従わない人がいるのに関わらず ) のですが、その形式を生み出す政治性こそに国家権力の秘密がある のです。

 

 

真の権力は真の同意をもたらし、真の同意は真の権力をもたらす。とりわけ、安定した権力がある所には国民のもっとも確実でもっとも真正な同意が得られる。国民の意志は外面的な機械的手段をもってしては形成することができない。また、逆に、概念の上で、正真正銘な国民意志を政治権力と対立させるなどということは、少なくとも[ 上記のことができるということと ]同じく危険なごまかしであるといえよう。自国が強力であるよりむしろ弱体であることを望んだり、あるいは、味方と敵とをもはや区別することができないということからこの異国製のアンティテーゼなどを真に受けるような腐敗・堕落した国民がいることはいるかもしれない。[ とはいえ ]、通常は、固有の政治的実存を欲するあらゆる国民は強大な国家を待望するものであり、ドイツ国民も強大なライヒを待望しているのである。

 

 

カール・シュミット 現代国家の権力状況 ( 1933 ) 」『 政治思想論集 付 カール・シュミット論 』所収 編訳 / 服部平治・宮本盛太郎  社会思想社 ( 1974 ) p.85~86

 

2. つまり、国家が形象として人間の欲望を最大限に掻き立てるのは、その巨大性が、指導者というただ一つの人間表象に短絡化される事最大のものが最小のものへと流れ込んでいく " 収斂化" を可能にする事による。この関係性の根底には、自らを外形化する事の出来ない最小のものたちの無差別的乱立性 ( 民主主義的集団性 ) が自らを代理表象する単独存在、つまり、"人間" を形象的に求めた結果による。この代理表象化は単独存在が国家形象 ( ここには神の国という宗教的国家も含まれる ) によって媒介される事で具現化されてきた政治的歴史によって示されている。王、君主、指導者、大統領、政治的主体、そして …… 神、等は人間存在がそれ自体では存在しえない、国家の媒介なしでは形象化されない普遍的人間性 ( 未だ人間とは何かという問いに直面する ) の行き詰まり から発生した政治的存在への現実的依拠に他ならないのです。実際、シュミットはこの不安定な地位にある個人と法 ( 規範 ) を媒介するものこそ国家だと言う。

 

 あらゆる学問的著作において、結果のみに注目する第一の種類の批判者が本書で関心を抱くことは、以下のことであろう。つまり、国家の意味はもっぱら法を現世において実現する ー このことによって、国家は「 法・国家及び個人 」という一系列の真中にある媒介点となるのである ー 課題のうちにある、ということがそれである。

 

 

カール・シュミット 法・国家・個人 ( 1914 ) 」『 政治思想論集 付 カール・シュミット論 』所収 編訳 / 服部平治・宮本盛太郎  社会思想社 ( 1974 ) p.10

 

3. しかし、ここで注意深く読み取らなければならないのは、シュミットは法の理念が個人の生存の権利を保障する上で国家が擁護的役割を果たすなどというケルゼン的な民主主義理論を説いているのではないという事です。それどころか驚くべきことに、シュミットは 万人の平等を説く法が実際には個人の概念及び存在について何ひとつ踏み込むことのない形式的欺瞞である事 を暴き出す。

 

ところで、経験的個体としての個人は影のうすい存在であり、法や国家の側からは法を実現する課題として把握されるのであり、個人の方としてはこの唯一の課題に自己の意義を見出し、固有の規範に従うこの完結した世界に自己の価値を見出すことになる。別の価値判断の方法を採れば、個人に何らかの別の価値を与えることが可能であり、個人をも独立の立法主体と認めることが可能である。けれども、法学的考察にとっては、あらゆる法規範の最も厳格な他律性[ こそ ]が、個人を否定するためにではなくて、法の観点から始めて評価できるものを個人から創り出すために、この問題を決定する唯一の[ 基準となる ]ものなのである。法が実際上、人格のいかなる差異をも認めるべきものではないとすると、このことこそ法の下における万人の平等の意味することなのである

 

前掲書 p.10~11 ( 下線は引用者である私による )

 

4. 上の箇所ではシュミットは法学理論のカテゴリーが脱け出して政治哲学の観点から話をしている。法の平等とは "全て" の個人の内的属性・内的背景を尊重していては不可能なのものだと彼は言っているのですが、それは個人の尊厳を唱えはしても、誰か特定の個人の立場に立つことは出来ない、そんなことをしてしまえば別の個人の立場を否定する事になるという訳です。では、そのような法の万人に対する平等とはどうして可能なのかというと、実際の個人間の人格的差異を無視する事によってである とシュミットは言う訳です。

 

5. ここで法理論とはそういうものだろうという人は、おそらく個人や人間という概念について考えた事がないのを告白しているのです。シュミットはここでは個人とは一体何なのか、個人を法的主体として形式的にしか扱わず存在論的に見捨てる法理論から脱して、一体個人とは何なのか考えてみるべきだと言っているのです。個人という言い方ですら個人的なものをほとんど捉える事が出来ていない、それは個人とは対極の一般性・全般性の側からの計測可能な単位扱い程度のものでしかないのです。個人という言い方ですら十分には個人的ではない ( これと同様に人間という言い方ですら十分に人間的ではない )、これはジャック・デリダ的・脱構築的な思考とでも言いうるべきものであり民主主義の要素がそこに賭けられるべきものなのですが、複雑なことにシュミットも一時的にであれ "個人という空白圏" に接近しているのです。

 

6. しかし、シュミットは現代を個人主義の時代だと声高に叫ぶ者に否を突き付ける。 "法・国家・個人" の関係性を真剣に考えるならば、現代が個人主義の時代などと簡単に言えるはずがないというのです。

 

現代人の中であちこちで見受けられるよくあるタイプの人は、以下のような見解を抱いている。即ち、近・現代が「 自由 」で、懐疑的で、権威に対して敵意を持ち、極度に個人主義的な時代であり、近・現代は個人を初めて発見し、名誉ある地位につけ、極めて古くからある伝統と権威とを克服したのである、という見解がそれである。こういった成果を前にしては、[ 上記の ]あの「 結論 」などは、名状し難い先祖返りを、即ち野蛮で反文化性を持つ生の敵視 ( Lebensfeindlichkeit ) への逆もどり、を意味することになるわけだ。

 

前掲書 p.11

 

つまり、[ 私の教説が ]時代に適合しないという異論を規定している[ 現代人の ]印象というものは、現代の固有の性格についての、誤った ー 少なくとも無批判的な ー 前提に立っているものである、ということがそれである。懐疑と厳密さとをふりまわす時代は、同時に[ その時代が ]個人主義的な[ 時代なり ]と自称することなどできない相談である。[ なぜなら ]、懐疑論も自然科学に特有な厳密さも、人格を基礎づけることはできないからである。両者は、それ以上説明できないか疑い得ないかする究極的な事実としての個々人という地点に止まることはできない のであるが、そのことは人格神についても同様に妥当する。

 

前掲書 p.12 ( 下線は引用者である私による ) 

 

 現代は何ら個人主義的時代ではないが、そうだからといって、取るに足りない時代であるなどと考える必要はさらさらない。古には、断固として反個人主義的であった偉大な時代も存在したのである。従って、多数の現代人が現代個人主義について犯している誤りを私が確認したからといって、現代は無価値な時代なのだという判断を私が下しているわけではない。否、むしろ、今日こそ、おびただしい時代思潮の流れの中に立ちながら、新たな重要性を持つものが、道を切り拓いていくように思われるのである。

 

前掲書 p.13~14 ( 下線は引用者である私による )

 

7. シュミットの主張を丁寧に読み解けば、彼がここで現実の個人を否定し排除しようとしているのではないといえるでしょう。むしろ、彼は人間とは何か、個人が真に個人主義的であるにはどうあるべきか、真剣に考えているのです。法が個人を外面的に規定するだけの規範的なものであるのなら、そこには人間の内面的自由という残滓、すなわち、"倫理" の領域がある と彼は言う。シュミットのこのような人間概念に対する考察はあまり取り上げられる事がない ( せいぜい性悪説的人間観があるという指摘くらいでしょう )。〈 続く 〉

 

即ち、法は倫理に対して独立の存在であり、その尊厳は自己から発するものであって倫理への参与によって得られるものではなく、[ 法とは倫理という ]内面的自由に対して外面的な条件となるものなのだという関係、つまり、倫理から法への漸次的移行などは承服しかねる、という結論がそれである。

 

前掲書 p.19 ( 下線は引用者である私による )

 



■ 次回 ( 下記 ) の記事 ( 2022 / 04/24 ) に続く