〈 It / Es 〉thinks, in the abyss without human.

Transitional formulating of Thought into Thing in unconscious wholeness. Circuitization of〈 Thought thing 〉.

▶ ロシアのウクライナ侵攻から生起するもの。国家という政治形象を欲する人間、そして民主主義における人間〈 3 〉



 

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■ 前回 ( 上記 ) の記事 ( 2022 / 04/05 ) からの続き

 



 6章 人間を定義づける道徳行為

 

1. ここでシュミットは新カント派 ( マールブルク学派 ) 哲学の創始者ヘルマン・コーエン ( 1842~1918 ) の『 純粋意志の倫理学 ( 1904 ) 』を持ち出して、コーエンが道徳的行為者として "人間" を考えているのは、法学に対して法学が疎かにしている "人間概念" の取扱いについて一石を投じるものだと言う。

 

私が確信していることは、コーエンがきわだった洞察力を示すのは行為概念を法学の中心概念と認めるということにおいてである、ということである。しかしながら、[ 行為概念が ]このように中心的位置を占めることを法律学的に論証すること これだけは学問的にみて注目すべきものであろう は、依然として行われていない。

 

 

カール・シュミット法・国家・個人 ( 1914 ) 」『 政治思想論集 付 カール・シュミット論 』所収 編訳 / 服部平治・宮本盛太郎  社会思想社 ( 1974 ) p.21

 

2. 法学者のシュミットが哲学者のヘルマン・コーエンを引き合いに出すのは唐突なことではありません。20世紀前半のドイツ・オーストリア圏の法学者たちは自らの理論形成のために法学者だけではなく哲学者を大いに参照していたというか法学に限らず思想というものが個別学問のカテゴリー ( 法学哲学神学 ) を越えて理論的影響力を互いに与え合う時代思潮がそこにはあったというべきでしょう。シュミットと彼の論的であったケルゼンがマックス・ウェーバーやゲオルグ・イェリネクの法学者と新カント派 〈 ヘルマン・コーエン や ルドルフ・シュタムラ-( 1856~1938 ) など 〉から受けた影響は言うに及ばずエルンスト・マッハ ( 1838~1916 )ハンス・ファイヒンガ- ( 1852~1933 )エドムント・フッサール ( 1859~1938 )等の哲学者もそこに含まれていた ( もちろんそれらの参照行為は中立的な学問的正統性を目指すためではなく自らの理論化作業のために利用していたと付け加えるべきですが )

 

3. そのような時代状況においてシュミットは諸々の学問からの理論的影響をひとつの "特権的学問"すなわち"政治学" へと単一的に結集させていく ( 例えば『 政治神学 』という原理的タイトル )。このシュミットの政治学は法学に留まらない脱 法学的なもの純粋法には吸収・同化されない権力行使政治つまり国家政治を考えるものとしての政治学だといえるでしょう。この 国家政治との同一化する事によって個人が真に個人として存在する "人民政治" が可能になる とシュミットは考える。言い換えると人間は "国家形象" によって人間として存在する と彼は考える。

 

4. しかし、ここで国民的同質性としての人民政治というシュミットの考え ( 人民という表現も含めて ) に引っ張られて、シャンタル・ムフが主張するように自由主義的個人と民主主義的な同質的市民との間の乗り越えられない対立がシュミットにはあるが故に、それを乗り越えるべく双方を節合させる自由民主主義政治の可能性に向かう ( *A ) 前に、この政治理論の外にもう少し踏み止まってみましょう。

 

5. 言うまでもなく、これはムフの戦略を否定するのではなく、ムフがシュミットに対してシュミットを用いる事、つまり、シュミットが否定した自由主義をシュミット自身に対して指し向ける戦略をさらに強化するためです ( *B )。ムフが、人民を政治的に構成する必要があるというシュミットの主張に同意して、人民の統一性を確立すべきなのか、それとも人民の分裂的形態としての多元主義なのか、と考える時、"人間概念" は人民市民民衆といった政治的主体概念で権力に取り込まれ政治的1要素として既に扱われてしまっている事 に注意深くなる必要があるのです。

 

6. そうすることによって、シュミットが人間について考えたのは、政治内部においてだけではなく政治の外部、つまり、"政治領域には未だ取り込まれない人間" について考えた地点に 瞬間的にいた と考える事が出来るようになるのです。しかし、この僅かな人間についての瞬間的な哲学的思考にシュミットは自ら蓋をして、彼の批判者たちも彼と同様にこの人間概念について考えずに政治的に統治される者だという無意識的前提に同意してしまう。

 

7. しかし、シュミットがコーエンの倫理概念を参照して人間概念を規定する時、一体いかなる道徳行為を考えているのでしょう。シュミット自身はその道徳行為が具体的にどんなものなのか述べていないのです。ということは、シュミットが倫理道徳行為に言及する時、彼は特定の行為について述べているのではなく、行為主体としての人間の在り方について考えている、すなわち、国家政治を形成する行為主体としての人間政治権力を構成する政治的人間を人間である事の証左として考えている という訳です。しかし、この結論ではムフが詳細に考える民主主義政治という包括性の中で捉えられる政治学的範疇の人間考察でしかありませんね。この先に進むためには、政治的範疇から取り出した政治的人間、つまり、哲学的範疇による政治的人間の考察 を進める必要があります。それについては次で考えていきましょう。

 

 

( *A )

1. ムフは次のように言う。

 

多元主義自由民主主義との両立可能性に対して、異なる 断固として非シュミット的な 解答を提供するためには、実質的な同一性を伴う、既与のものとしての「 人民 」のいかなる観念をも、疑問視することが必要であろう。我々は、まさにシュミットがしないことを探求する必要がある。つまり、我々は、人民の統一性が政治的構造の帰結であることに気づいたならば、政治的節合が内包するあらゆる論理的可能性を探求する必要があるということだ。

 

 

シャンタル・ムフ第三章 カール・シュミット自由民主主義のパラドックス 」p.73 訳 / 青木裕子 『 カール・シュミットの挑戦 』所収 シャンタル・ムフ / 編 ・古賀敬太、佐野誠 / 編訳 風向社 ( 2006 )

 

 このような方法で自由民主主義政治を理解することは、シュミットの「 我々 」と「 彼ら 」との区別についての洞察を認めることである。何ゆえなら、人民の構造をめぐる苦闘は、つねに闘争的な領域のなかで起こり、競合する種々の力の存在を含意するからである。実際、境界線の決定と「 彼ら 」の規定なしには、ヘゲモニー的節合は存在しない。しかし、自由民主主義政治の場合、この境界線はただ内部的なものであり、「 彼ら 」は恒久的な外部者ではない。

 

前掲書 p.73

 

( *B )

1. ムフは自分の戦略について言っている。

 

 私は、シュミットをシュミットに反対する形で利用すること、 自由主義を強化するために、彼の自由主義批判の見識を利用すること が可能であることを、誰もが理解しうるだろうと考えてきたが、一方で、これがシュミットの目的ではないことは、むろん承知していた。

 

前掲書 p.74~75

 



 7章 人間は人間にとって人間である ー homo homini homo ー

 

1. シュミットの政治哲学でもなければ国家哲学でもない、それ以前の ( いや、それ以前といっても時系列的なものの意味ではなく、第2次大戦後というひとつの政治的帰結状況を経た1954年に書かれた事後性の超越論的視点においてという意味で )、それまでの自らの政治理論に対して遡及的かつ超反省的な哲学権利に基づいた "人間形象" を与える小論『 権力並びに権力者への道についての対話 』をここで参照することにしましょう。

 

2. J ( 青年 ) と C・S ( カール・シュミット ) の2人の登場人物による対話形式のこの地味な小論は、一見すると政治理論書からはかけ離れているかのような印象を与えるため、専門家からあまり言及されることもありません。しかし、政治理論武装が解かれているが故に、見えて来るものがある。端的に言うなら、シュミットの人間観です。シュミットの政治理論の根幹である権力概念はいかに複雑な現実形態を纏おうとも、その出自は人間自体に由来するとしてシュミットは 人間を "それ自体" として語ろうとする のです。

 

3. この小論が興味深いのは、J ( 青年 ) が C・S ( カール・シュミット ) に対して、あなたは権力を持っているかと尋ねることで話が始まる所です。C・S が私は権力を持っていない。権力なき者の一人だ、と言うと、J はそれはあなたが権力に対して偏見を抱いているから敢えてそういう言い方をするのだと言う。これに対してC・S が、では私が権力を手中にした者の一人だとするならばどうするのかと尋ね返す。すると J は、あなたは権力と自分自身に固執しているが故に間違っていると言う。それを聞いた C・S は、では一体、誰が権力について語る権利を持つのか、と投げ返すのです。

 

4. この遣り取りが見た目以上に重要なのは、これが J が C・S に対して難癖をつける非礼を非難する道徳的教えを狙っているのではないし、敵対的権力関係を外部から考える第三項の知識人の役割の重要性を説いているという単純な話でもないという事です。

 

5. ここでのシュミットはもっと論理的な話、それも ヘーゲル的な論理性の延長上に、人間と権力の関係性を構築しようとしている のです。ここで最初に持ち出される論理はまだシュミットの政治権力概念への依存、支配者とそれに同意する服従者が形成する同質的全体性が人間同士の拡大的関係性に他ならないというものです。しかし、ここでシュミットに限らず通常の政治理論イデオロギー ( 民主主義理論でさえ ) では、脱個人的・脱人間的な関係性概念それ自体の方へと向かってしまうのですが、シュミットはそこに向かわずに 人間という単独性それ自体に留まり人間について考えようとする

 

6. ではシュミットが考える人間とは何か、それは "人間というもの" が、人間同士の関係性が権力的優位を基盤とするという厳然たる現実の中で、疎外される形で浮上するものだという事です。熾烈な権力関係において人間が疎外されるのではなく、そこで "疎外されたもの・疎外された結果" こそが人間なのです。シュミットはこのことをはっきりと理解していて、彼は権力の固有性、それが服従者の同意で産み出されたもの以上の意味、つまり、剰余価値を持つことをまず説明する。

 

C・S 私の言わんとするのは、権力に服従する者すべての完全な同意を得て権力が行使される所でも、権力はやはりある固有の意味を持っているということ、いわば剰余価値を持っている、ということです。権力は、自己が受け取るあらゆる同意の総和以上のものであり、同意の生産物以上のものでもあるのです。〈 中略 〉。

 

J そうおっしゃるのは、権力者は今日ではやりたいほうだいのことができる、という意味ですか。

 

C・S その逆です。私の言わんとする唯一つのことは、権力とは一つの独自の独立した偉大な存在であり、権力を創りだした同意に対してすらそういう存在なのだ、ということなのです。権力が権力者自身に対しても一つの独自の独立した偉大な存在であるということを、今こそお教えしたいと思います。権力とは、その時々に権力を掌握するあらゆる人間個人に相対立する客観的で自律的な偉大な存在なのです。

 

J それでは、今ここでおっしゃられた客観的で自律的な偉大な存在とは一体何でしょうか。

 

C・S それは、きわめて具体的なものだということです。もっとも恐ろしい権力者でさえ人間の肉体が持つ限界に拘束されており、人間悟性の不完全さや人間の魂の弱さに拘束されている、ということは明らかなことです。

 

 

カール・シュミット権力並びに権力者への道についての対話 ( 1954 ) 」『 政治思想論集 付 カール・シュミット論 』所収 編訳 / 服部平治・宮本盛太郎  社会思想社 ( 1974 ) p.101~102

 

C・S 私がふれておきたいと思っております唯一つのことは、純粋に人間の権力について論じたあらゆる哲学者の中で今尚もっとも近代的な哲学者であるといえるイギリス人トマス・ホッブスが、自分の考えた国家を構築するにあたって人間の個々人すべてに見られるこのような一般的な弱さから出発している、ということなのです。ホッブスの構想では、人間の弱さから危険にさらされるという事態が生じ、危険にされされるということから恐怖が生じ、恐怖から安全を求める欲求が生じて、そこからさらに多かれ少なかれ複雑な組織を備えた防衛装置が必要になる、というのです。しかし、どのような防衛手段が講じられるとしても、時至れば、誰もが他人を殺害してしまうことがありうるのだ、ホッブスは述べています。

 

前掲書 p.103

 

7. 以上の引用から考察をさらに推し進めるならば、人間を超えた超越性こそが権力の剰余価値であると同時に、その剰余価値はまたそれが救い上げることのない 権力残滓として人間を疎外する形で産み出している という事です。人間が人間に向かいあう時、そこには既に対峙という人間的平等性以前に既に、権力関係が発生してしまっている。支配する者と服従する者 ( その逆転関係も含めて ) が複雑な組織関係によって媒介され互いに直接的に意識することがなくとも、それは互いの人間性を迂回する事が人間関係それ自体を権力関係として可能にしているという疎外状態を裏書きしているに過ぎないのです。つまり、そこに人間はいない。ある状況から "疎外された形象" として人間は人間が人間に向かいあう関係から否定的に生まれる のです。

 

8. そしてシュミットは、さらに進んで権力関係において先鋭化される脱 - 人間化は全体的なものである事に限定されずに、より根源的な人間の "行為それ自体" が人間という存在に先んじて人間性を超え出る ( 肯定と否定の両極において ) が故に人間について考え人間において考え人間であることを考えさせる と言うのです。

 

C・S それに反して、権力なき者には、こう言いましょう。汝は、権力を持たないが故に我必ず善良なりなどと思うな、と。権力を持たない人が持たないことについて悩んでいる節があるのなら、私はその人に向かっては、権力への意志は快楽への意志とか持てば持つほどほしくなるようなその他のものへの意志とかと同じように、自己を破壊するものなのであることを思い起こさせましょう。憲法制定会議とか憲法制定評議会の構成員に対しては頂点へ通じる通路の問題を塾考するように切に勧めるでしょう。それは、何のためかと言いますと、彼らが自国の政治[ 形態 ]をずっと以前から周知のものである仕事をやるように何らかの図式に従って組織できるなどと考えないようにするためになのです。〈 中略 〉。

 

J ですが、人間は! 人間はどこにいるのですか。

 

C・S 権力を持とうが持つまいが、人間が考えたり行ったりすることは、すべて、人間の意識やその他の人間=個人の能力の通廊を越えて進むものなのです。

 

J そうしますと、その場合、人間は人間にとって人間であるわけですね。

 

C・S そうも言えるでしょうね。もちろん、常にまったく具体的〔 な意味でそうなの ]です。その意味を例示しますと次にようなことになります。スターリンという人間はトロツキーという人間からみますと一人のスターリンであり、トロツキーという人間はスターリンという人間からみますと一人のトロツキーなのだ、ということなのです。

 

J それが結びの言葉ですか。

 

C・S いいえちがいます。私が上述のことで申し上げたいのは次のようなことにほかならないのです。つまり、人間は人間にとって人間である homo homini homo という美しい定式は何ら問題の解決なのではなくて、この定式をまって初めて私達の問題が始まるのだ、ということなのです。私は、このことを、次のようなすばらしい詩句の意味で批判的にではありますが肯定的に考えているのです。

 だが、人間であることは、それにもかかわらず常に一つの決意をすることなのだ。

 これを私の結びの言葉としましょう。

 

前掲書 p.121~122

 

9. 驚くべきことに、最後においてシュミットは、決意・決断という一見すると人間の倫理的根源性から引き出されうる主体的・政治的行為の "行為性"脱構築してしまうのです。つまり、人間の真の行為とは何かを為すことなのではなくより根源的な人間であることそれ自体だ と言うのです。人間である事こそが人間の行為性を極限的に止揚する真の行為に他ならないという訳です。これを簡単に否定する人がいても、これ以上のテーゼを提出することは出来ないでしょう。このテーゼでシュミットが成し遂げた恐ろしさは、存在と行為の各々が自らの本質性の中に溶け込む消失点において、またはハイデガー的な本質性への消失的同化において、各々が他方と分かちがたく短絡的 ( "それにもかかわらず" という表現をシュミットが使用するように ) に結びついている暴力的真実を露にしてしまった事なのです。

 

10. では、人間は人間にとって人間である homo homini homo という美しい定式を以って私たちの問題が始まるとシュミットが言う時、その問題とは一体何のことを指しているのでしょう。それは何らかの具体的な政治状況の事を言っているのでしょうか。政治学的観点からすると、そう考えたくなるかもしれません。しかし、この小論を貫く人間についての哲学的考察を踏まえるならば、問題というのは、人間概念それ自体を考え定位しようとする原理的主義的テーゼを構築する為の一般的切り開き を指していると考えるべきなのです〈 続く 〉。