〈 It / Es 〉thinks, in the abyss without human.

Transitional formulating of Thought into Thing in unconscious wholeness. Circuitization of〈 Thought thing 〉.

▶ ジャコブ・ロゴザンスキーの『 我と肉 自我分析への序論 』について考える

 

 

著書  『 我と肉  自我分析への序論 』
著者   ジャコブ・ロゴザンスキー
訳者   松葉祥一 / 村岡鋼 / 本間義啓
発行所  月曜社 ( 2017 )

 

 

 

 フランスの哲学者、ジャコブ・ロゴザンスキーによる自我の論理を緻密に分析した『 我と肉 』という著作の全てをここで論じる事は到底出来ません。そこで今回の記事では『 我と肉 』で述べられる 自我殺し という幾分物騒な表現に照準を絞って考えていく事にしましょう。

 

■ ロゴザンスキーは『 我と肉 』の第一部で「 自我殺しに抗して 」というタイトルを付けています。この自我殺しとは、フロイトの言う 父親殺し に因んでいるのですが、ロゴザンスキーは現代思想において支配的な自我の解体・消去という考え方に異を唱えている訳です。デカルトのコギトを否定する形で現代思想の強力な潮流となった自我殺しの二大指導者としてハイデガーラカンの名前を彼は挙げながら、ロゴザンスキーは自我・私を擁護する為に彼らに理論的に抵抗する。流動的な政治状況にある現代社会においては自我を守る事が重要だと彼は主張するのですね。そうでなければいかなる決断も行動も出来ないだろうと。

 

■ ロゴザンスキーの主張は、政治的正義・政治的抵抗を導く為のもっともな思想であるかのように見えます。しかし、自我の哲学的擁護が現代の政治状況において必要なのは分かるとしても、ハイデガーラカンを自我殺しの二大指導者として批判するのは、敵対関係を過剰に設定する舞台演出 であるかのように見えて、どう受け止めるべきなのかなと思いましたね。そこには自我の復権という哲学論理の構築以上に、自分の主張を他者に届かせようとする強力な欲望が政治的正義と混成する形で渦巻いている。哲学的論理自我政治的抵抗自我、そして、他人に話を聞かせようとする 演出的自我、少なくともこの三つの自我がそこでは絡み合っていると言えるでしょう。

 

■ 演出的自我 に関して言うならば、ここでニーチェの振舞いを思い出す事が出来ますね。彼は自分の哲学論理の構築と同等、いやそれ以上に、自分の言葉を人々に届ける事の重要性、メッセージを宛先不明なまま漂わすのではなく、人々の意識に到達させる事の重要性 をよく理解していた。「 神は死んだ 」「 なぜ私はかくも賢明なのか 」といったセンセーショナルな表現を用いたように ( ドゥルーズ=ガタリも『 アンチ・オイディプス 』で述べている )。まずそれが出来なければ、自分の哲学論理が世に出る前に埋もれたままになってしまいますからね。

 

■ ロゴザンスキーの場合は、ニーチェ程露骨ではなくとも、自我殺しに抗するという演出的な振舞い、自分の哲学論理を届かすための欲望が、自我の擁護の中に論理的客観性と共に溶け込んでいる。この彼の振舞いは、自我・私というもの が、単独的な最終審級などではなく、主体が他人に何かを伝えようとする振舞いにおいて 自己を再帰的にいかに操作・演出し他人の視野の中で動かすかという 主体活動の "相関物" に他ならない、という精神分析的真実を逆説的に表している。これはまさにロゴザンスキーが全力で否定したくなるような反哲学的考察であるでしょう。

 

 

 

■ ロゴザンスキーの過剰な "私" の擁護は、その 私 についての説明・論理がいかなるものであろうとも、他人に向かって話す・書くという人間関係に身を置いている限りは、他人を自我のあるものとして尊重するのではなく外在的な他人として対他化せざるを得ないという 秘かな暴力性 からは逃れられない事を見落としている。仮にロゴザンスキーの過剰な 私 の擁護を、普遍的コミュニケーションの観点から他人に対しても施すならば、ハイデガーラカンを自我殺しの指導者などと言うどころか、そもそも何も言えなくなってしまうのです。他人の自我を尊重するならば。それはあらゆるコミュニケーションの場面において、親子であろうと師弟であろうと友人であろうと、例え相手を救う為であろうと、相手への介入は秘かな暴力的見做しを含んでいる事からは逃れられないという形で真実が露になる。相手は自我を確立するだけの力がない、相手は自我を確立するだけの余裕を持ち合わせてはいない、という客観的見做しにおいて。

 

■ この点を抜きにしてロゴザンスキーは 私側における私の擁護ばかりを強調する、つまり、政治的場面における 迫害的増悪の犠牲者の側において私の擁護をする ので、迫害する側の自我の擁護は出来ない という、自我の擁護の普遍的アピールにおいて躓いている のです。それでも彼はそのような迫害側の増悪の原因を、他者における自己の疎外的同一化という自己の定位構造、及び、この構造化に吸収し尽くされなかった残り物への自我の新たなる同一化という解放を拒否する為だと説明する。この残り物と自我の同一化に関するロゴザンスキーの考え方 ( 特に『 我と肉 』の第三部 自我分析への序論 ) は優れたもので僕も大まかには賛成出来るものです。だからこそ、その活動が私・自我の単独化に収斂するような擁護の在り方には疑問を抱くのです。自我の更新が自我の単独性のみによって行われるはずもなく ( それでは変化の為の外的要因の介入の余地が残されていない )、意識や思考、他者とのコミュニケーション、等の 主体による綜合的活動 でなければ何も新しいものを自分の中に持ち帰る事は出来ない のを率直に認めるべきでしょう ( ロゴザンスキーはフランス現代思想で手垢に塗れてきた主体という概念を嫌がっているのかもしれませんが )。

 

■ 結局の所、私の擁護を犠牲者側の思いという特殊的なものだけから脱け出させて、普遍的なものへと至らせるようにも、悪の存在 によって挫折させられてしまうのです。それは悪というものが政治的場面における蛮行を為す人間に化すだけではなく、日常生活において繰り広げられる痴話喧嘩、暴力行為、犯罪行為、等の他人への暴力を加える行為が間違いなく 私 に基づいて行われる程、どちらの側の人間にも蔓延しているもの だからです。自分が何をしているのかは自分が知っている。他人には分からないけれど、心理的には相手へのオブラートな暴力性を抱いている事は自分が誰よりも知っている。表に出なけれなば問題にはならないだろうとする人は他人を相手にしない・無視するという暴力性を抱いている。

 

■ こういった哲学領域で問題の本質ではないとして省みられないものが人間の日常生活において大きな作用因子である事を精神分析は分析の場面で明らかにしてきた。分析者と被分析者という人間関係において、互いの心的応酬、心的優位、心的支配、こういった暴力性の萌芽としての小さな政治的支配欲が露になる。薄暗い悪意が人間の知性をずる賢さという点で発達させてきたといえるかもしれません。

 

 

 

■ 私の擁護という自己肯定性は、いかに深く考えられたものであっても ( ロゴザンスキーが行ったように ) 、悪の側の自己弁護 に用いられた時、どうにもならなくなる。悪の犯罪行為者 ( テロリストなど ) が自分にも言い分がある、信念がある、確固とした自分がある、と言い放った時、私の擁護は哲学的論理性から切り離され、悪に利用される人権的擁護でしかなくなってしまう。

 

■ 本来、悪の支配行為に抵抗するための、犠牲者の私の擁護であったものが、悪の側にも利用されるもの であるのなら、そもそも自我を政治的正義の為に理論擁護する事自体に無理がある のかもしれない。正義にも悪にも成り得るのなら、自我とは、それが自分自身以外の何もでもないという真理の具現化であるにしても、他者に影響を行使する政治的な行為主体のレベルでは、私の存在という絶対的真実の圏域に留まる事を越えようとする。自らを越えて他者化された他人に向かわせる超自我の道具でしかなくなってしまうのです。この地点では、人間の自我よりも、自我を含めた人間の主体的行動の分析が未だ必要である事をラカン精神分析は教えてくれるのではないでしょうか。

 

■ 最後に、ハイデガーに関してですが、これはラカンとは違い、政治的なものへの接近という問題を孕んでいて話が長くなるので、機会があれば別に話しましょう。そして、ロゴザンスキーの真に重要な形而上的テーゼ ( アントナン・アルトーのテーゼとも言える )、肉の身体化とそこに自我が自分自身を見出す という話についても何処かで語るかもしれません。ひとつ言っておくなら、私が肉の中に自分自身を見出すとロゴザンスキーが言うのならば、その時、それを見ている私それを知った私、とは論理的に一体何なのでしょう。肉の中の私 とは別なのでしょうか。それが別々に存在しうるというのなら、その時、人は精神分裂症に赴いているのでしょうか。いや、その時、私は〈 私というもの 〉に容易には近づけない者、つまり〈 主体 〉として〈 私というもの 〉と相関的な距離を保つようにしてしか活動出来ないのです。〈 私 〉と言う事が出来るのは、その発話主体が〈 私 〉という自己同一的かつ再帰的な重力物の圏域から "逃避" する事が出来ている限り でしかない のです。〈 私というもの 〉への言及・言明の文脈における探求的な対象としての〈 私 〉は、〈 主体 〉の行為の次元において発せられる言葉へと、すなわち、ラカンが既に指摘した主体の発話行為を引き起こす自己内における転換子 ( shifter ) としての記号へと、既に移行してしまっている のです。〈 私 〉と名指される〈 もの 〉における 激烈な経験蓄積は "それ自体" としてしか、誰にも理解されないものとしてしか、存在しえない。つまり、他人にそれを語る時、それはもう実存的経験物とそしての〈 私 〉とは全く違うものとしてしか語り得ない、という事なのです。その時、〈 私 〉とは自分の過去の実在経験を裏付け証明する 形式的捺印物 でしかなくなっているのです。

 

■ 以上にようなロゴザンスキーとは逆に、少なくともアルトーにおいては最終的に、私は肉の中に消失してしまっている。ロゴザンスキーのように 私 を擁護しようにも、私は生まれる以前の、身体化される以前の肉の中に消失し、生まれないままでいる というもっと過激な論理的帰結に到達してしまっている。そうなると、私 と名指される現実のアルトーが依然として存在するとしても、そこでは 私 とは人間的なものを超えた生の激烈性を受け止めるには余りにも脆すぎる結晶物宇宙の中で破砕・炸裂した 生の瞬間的・極小的凝固物、でしかなくなるのです。アルトーはそれを乗り越えようとしていたのではないのでしょうか ( A )。

 

( A ) 

この点については以下の記事を参照。