■ ウィトゲンシュタイン『 秘密の日記 』を読んで考える〈 2 〉からの続き
4章 バラバラになっている自分を掻き集めるウィトゲンシュタイン
1. ウィトゲンシュタインの自慰行為の記述 …… これを、たんなる性的快感を書き残したいという欲求の表れだと思っては、話は終わってしまい、それ以上、先に進むことは出来ません。たんなる赤裸々な告白ではない哲学的意味を見出そうとするのなら、3章で述べた、自慰行為が自分を再構成するための反復行為になっている という事を考える必要があります。
2. それと、日記の中で、従軍生活の中で同僚に向けられる文句や愚痴が書かれた箇所も見てみましょう。
1914年8月15日
ヴィス川[ ヴァイクゼル河 ]に停泊する艦の探照灯の操作係に任じられた。乗組員はならず者ばかりだ! [ 職務に対する ]熱意はない。信じがたい粗野、暗愚、悪意! 〈 中略 〉われわれがおかれた外的な状況のもとであれば、艦上での仕事は、素晴らしい幸運な時間をもたらすこともできたはずなのに、そのかわりの[ 自分から労働を厭わしいものにしているのだ ]! ― ここで人々と分かり合うことはきっとできないであろう ( 少尉のような人を除いて。彼は極めて感じのよい人間であるように見受けられる )。だから、へりくだって仕事をこなし、自分自身を絶対に、自分自身を失わないように !!!! すなわち、他の人々に自分をあたえようとするとき、人はいとも簡単に自分自身を失ってしまうのだ。
『 秘密の日記 』p.13~14
1914年8月16日
もういちどくりかえす ― これらの人間たちの暗愚、無礼、悪意は限界をしらない。1つひとつの仕事が苦痛になる。けれど、僕は今日また仕事をしたし、自分自身を[ 他の人々に ]屈服させることはないだろう。
『 秘密の日記 』p.14
1914年8月25日
ぞっとした。1つ分かったこと ― 全兵員の中にまともな奴は1人としていない。しかし、僕はこの全ての人々に対してこの先どう応じていけばいいのか?〈 中略 〉というのも、事実いま僕は、かつてリンツで学校に通っていた時と同じくらい、[ 敵に ]売り渡され、見殺しにされているのだから。ただ1つのことだけが必要だ。自分に起こるすべてのことを観察することができるということ。集中せよ[ 自分自身を集めよ ]! 神が僕を助けますように!
『 秘密の日記 』p.17~18
1914年8月26日
昨日僕は、反抗しないことを心に決めた。僕の内面を邪魔させないようにするために、僕の外面をいうなればまったく軽微なものとするのだ。
『 秘密の日記 』p.18
1914年8月29日
戦友たちの下劣さは、僕には依然としてぞっとするほど醜い。しかし、ただ自分自身のもとにあり続ける事! 毎日いくらか仕事をしているが、まだきちんとした成果はない。いくつかのことは既に形をとりはじめているが。
『 秘密の日記 』p.18.
1914年9月2日
昨日、この3週間ではじめて自慰した。ほとんど完全に無官能である。以前はよく、僕は友人との会話を思いうかべたものだが、いまはこのようなことはほとんど起こらない。毎日、ごくわずかに仕事をするが、あまりにも疲れ、気が散っている。
『 秘密の日記 』p.19
3. これらの文句をどう受け止めるべきなのでしょう。ウィトゲンシュタインは自分の心の平穏を乱す周囲の人間のガサツさに苛立っているのでしょうか。自分の仕事 ( 日記の中では哲学的思索は仕事と言い換えられている ) に集中できない出来ない状況に不満を抱くというような心理的葛藤の結果として、文句がつい出てしまったと考えるべきでしょうか。
4. しかし、思索に集中できるような状況にはない事は戦争に参加した時点で既に分かっていたでしょう。そもそも彼は一年志願兵として自らの意志で従軍したのですから。とするのなら残るは、同僚の兵士との軋轢が想像以上の負担であったという事になるのでしょうが、これを世間知らずとして片付けるのは早急過ぎます。
5. 確かに本書の解説でも書かれているように、比較的裕福な階級出身者の一年志願兵に対する一般人の招集兵の妬みや不満が当然のようにウィトゲンシュタインに向けられ、彼もそれを感じとっていたという状況があったことは推察されるのですが、まだ読み取るべきものが残っているのです。
6. 彼は仕事への取組みについて、簡潔ですが、頻繁に語っています。今日は仕事が出来なかった、今日は仕事が出来た、という具合に。そして8月15日の日記からは自分自身を保つ事、9月2日の日記からは自慰行為、についても語られていくのですが、それらはウィトゲンシュタインが自分自身である事の哲学的意味に収斂していく幾つかの系列なのです。仕事 ( 思索 )、自分、自慰行為、そして神と霊への言及、これらは心理的葛藤から生まれた別々の出来事の羅列などではなく、それどころか従軍中のウィトゲンシュタインを形成していた系列群である として哲学的に解釈していきましょう。
7. 彼は仕事が出来ないのを、周囲の人間のせいにする事を目的にしていたというよりは、もっと率直に、自分の存在が他人の間でバラバラにされて盗まれてしまっている と感じているのです。文句は単なる戦地での日常的不満ではなく、実際にそういう "心理的現象" が起きていると真面目に受け止めるべき哲学的事実なのです。
8. 例えば、人が学校や職場で、誰かに陰口を叩かれたり、陰湿ないじめを受けた時、心理的ダメージを被ってしまうのは、実際に自分の存在が他人に盗まれてしまっているからこそなのです。自分の肉体はここにあっても、自分の存在は相手側にある。勝手に盗まれているのです。だから、ウィトゲンシュタインは[ 自分自身を集めよ ]( 8/25 の日記 ) という言い方をしているのですね。
9. ただし、ここから人間は自分の存在を取り戻すべきだなどという安直な主張にウィトゲンシュタインは陥っていると思い違いしないようにしましょう。元々、存在それ自体が他人に盗まれているもの だからです。赤の他人ではない家族である父、母、によってすら子供はその存在を盗まれているのです、生まれた時から彼らの視界に収まっているという時点で。そして、ウィトゲンシュタインは次にように言う。『 昨日僕は、反抗しないことを心に決めた。僕の 内面 を邪魔させないようにするために、僕の 外面 をいうなればまったく軽微なものとするのだ。』( 8/26 の日記 )。
10. そこでウィトゲンシュタインは、半分あきらめの気持ちで、自分の存在の分け前を他人にくれてやると言っているのです。その代償として人は、自らにおいて "外面 ( 存在 ) / 内面 ( 無 )" の分割化を推し進め、空虚、あるいは無という空間を創造する。そこに自我、神、霊、という抽象物を住まわせるようになる訳です。
11. そうすると、そこにいる者は一体誰で何をしているのか。自分の存在が他人に奪われ引き裂かれた者、自分の中に無という内面を創り出し、そこに自我を住まわせる者、そうやって他人に抵抗する者、自慰という反復行動によって自分を再構成する者、これらは 他人との関わりの中で、自分の圏域を創り出す者、すなわち、"主体" の行為 だといえるでしょう ( *A )。存在の概念はもう自分の手を離れ相手との駆け引きの中で引き裂かれるものになっている。"我思う故に我あり" というように自分の身振りの堅固さを強調しようにも、同時に、"他人が思うことの中に我あり" という具合に自分の存在は引き裂かれているのです。主体とは、バラバラにされた自分、他人の場面・文脈の中で固定された自分、などのような 自分を遠くに引き剥がす暴力的張力に対して、自分の圏域を作り上げる者 なのです ( *B )。
12. そのような状況の中で、自分を保つためにウィトゲンシュタインは自慰行為によって自分を再構成し、内面の無においては不安定な自我を支えるために神と霊の概念を利用し、仕事 ( 思索 ) へと自分を駆り立てる哲学的主体へと自分を作り上げたのだ、と解釈出来ます。日記における赤裸々な恥部の "記述" は、ウィトゲンシュタインが自分の圏域を築くのに必要だったものを無意識的に痕跡として示す行為だったのでしょう ( 終 )。
( *A )
1. ここで気を付けるべきは "主体の概念" に対して偏見を持たないようにする事です。ラカン派精神分析、ルイ・アルチュセール、アラン・バディウらなどによる主体概念の乱用に対して警戒を抱く事が顕著になった時期がありましたが ( 特にデリダ以降 )、そのような思想界の潮流に流されることなく、哲学的解釈の場面において必要であれば、使用していくべきでしょう。
2. 重要なのは、哲学的思索という行為を遂行する上で、ウィトゲンシュタインは、どのような状況 ( 戦争や人間関係 ) にも左右されない "哲学的主体" でなければならないと無意識的に望んでいた という事です。そうでなければ哲学的諸問題には到底立ち向かえない事を彼は分かっていたのですね。星川啓慈は次のように書いている。
そういえば、マルコムの証言では、ある芝居のなかで登場人物の一人が「 世界の中で何が起ころうとも、自分には悪いことなど起こりうるはずがない ― 自分は運命や周囲の事情とは無関係だ 」という考えを表明したことについて、ウィトゲンシュタインは心を打たれたのであった。また、モンクも「 外的にどんなことが起ころうとも、彼の再内奥には何も起こりえないという観念 」の重要さを指摘していた。
『 秘密の日記 』p.199~200
( *B )
1. このようなバラバラになった自分を、様々なイマージュとして見せたのが、イングマール・ベルイマン の映画『 仮面 / ペルソナ ( 1967 ) 』の冒頭の断片的なカット ( 映写機、フィルム、蜘蛛、羊、…… 等々 ) です。