〈 It / Es 〉thinks, in the abyss without human.

Transitional formulating of Thought into Thing in unconscious wholeness. Circuitization of〈 Thought thing 〉.

▶ ドゥニ・ヴィルヌーヴの映画『 プリズナーズ 』( 2013 )を哲学的に考える

 

f:id:mythink:20210214182113j:plain

 

監督  ドゥニ・ヴィルヌーヴ

公開  2013年

出演  ヒュー・ジャックマン  ( ケラー・ドーヴァー )

    ジェイク・ギレンホール ( ロキ / 刑事 )

    マリア・ベロ      ( グレイス・ドーヴァー / ケラーの妻 )

    ヴィオラ・デイヴィス  ( ナンシー・バーチ / ドーヴァー家の隣人 )

    テレンス・ハワード   ( フランクリン・バーチ / ナンシーの夫 )

    メリッサ・レオ     ( ホリー・ジョーンズ  / アレックスの叔母 )

    ポール・ダノ      ( アレックス・ジョーンズ / IQ10歳児程度の青年 )

 

 

 

 1章  誰が何に囚われているのか ?

 

プリズナーズ 』…… 一体誰が囚われているのでしょうか? いや、『 Prisoners 』という原題の複数性から映画の中で誘拐されて行方不明になる子供たちの事だと考えるべきなのでしょうか。もちろん単純に考えればそうなるのですが、それだけではない側面をヴィルヌーヴはこの作品に忍び込ませているのです。

 

それについて哲学的に考えるために、ここではストーリー展開については他所に譲り、この映画が単なる子供の消失・発見を描いたミステリー映画ではないという事をまず言っておきましょう。消失ミステリーの裏で問題となっているのは、誘拐された娘アナの父親 ケラー・ドーヴァー ( ヒュー・ジャックマン ) の存在 なのですね。

 

この作品を観た人の中には、いくら行方不明になった娘を探すためとはいえ、ケラーが余りにも激情型の人間として描かれ過ぎている と感じた人もいるはず。その直感は間違っていません。ヴィルヌーヴは敢えてそうしているのです。どういうことかというと、ヴィルヌーヴは子供の失踪事件にある種の父親像の問題を接続している、いや、極端に言うなら、父親像の問題を描くために、子供の失踪事件を舞台として利用している とさえ言えるのです。まずはケラーという父親像を見ておきましょう。

 

 

 

  2章  激情的なケラー

 

娘のアナが失踪して苛立ちを刑事のロキ ( ジェイク・ギレンホール ) にぶつけるケラー ( 1. )。その様子にびっくりする妻のグレイス ( 2. )。

 

f:id:mythink:20210215053548j:plain

 

ロキが立ち去る際にもしつこく、容疑者であるアレックスを拘束するように強く迫るケラー ( 5~8. )。

 

f:id:mythink:20210215053800j:plain

 

アレックスを証拠不十分で釈放した警察に対して怒りをぶつけるケラー ( 9~12. )。

 

f:id:mythink:20210215054326j:plain

 

 

 

  3章  父親であることからただの激情的な男へと失墜するケラー

 

ここから続くシーンが興味深いのは、ケラーは父親として何とか娘を探し出そうとするのですが、家族との間に微妙な距離感が生まれている事です。場面 13. はケラーの長男がグレイスを慰めているのをケラーが目にする。まるで長男が父の役割を演じているかのように描いていますね。場面 14. 以下でケラーが長男に代わって妻を慰めようとするのですが、なぜか払いのけられてしまう。

 

f:id:mythink:20210215055117j:plain

 

妻はここで唐突に、ケラーに対する愚痴を言い出す ( 17~18. )。その様子を後ろから見つめる長男 ( 19. )。息子に対して父親らしく振舞おうとするケラー。しかし、息子は何も言葉を返さない ( 20. )。

 

f:id:mythink:20210215055733j:plain

 

これらのシークエンスは、娘の失踪によって狼狽する家族の様子がたんに描かれているという事ではありません。混乱の中にあって、ケラーの父親として権威は失墜し、激情的な男の振舞いがクローズアップされていく。もちろん、彼は家族に暴力を振るうような真似はしませんが、父親としての権威を保たせていたある種の粗暴さが悪い意味で露になっていく という事なのです。

 

そんな彼の粗暴さが頂点に達するのが、犯人であるに違いないであろうアレックスを私的に暴行を加え、娘の居場所を吐かせようとする場面です ( 21~24. )。この場面を見て殺される可能性のある娘を救う為には仕方のない事だと思うのは間違いです。子供を実際に隠匿したのは、アレックスの叔母であるホリーだったのですから ( IQ の低いアレックスは子供と遊んでいるだけだった )。

 

f:id:mythink:20210215061829j:plain

 

しかも、アレックス自身も実は昔、他所から子供時代に誘拐されていたのですね、ホリーによって。つまり、ここではケラーの短絡的な暴力性、しかもアレックスを一方的に痛めつける事に何の疑いも、良心の呵責もない凶暴性が描かれているだけなのです。

 

ホリーの家に娘は隠されていると睨んだケラーですが、逆にホリーに拳銃で脅され庭の地下に閉じこめられてしまう。以下 ( 25~28. ) はその際にホリーが述べた誘拐の動機なのですが、それを文字通りに受け止めて宗教的背景があると思うのは、解釈が甘すぎるでしょう ( ほとんどの人は宗教的な解釈に傾くけど )、ヴィルヌーヴの作品を考慮すると。

 

f:id:mythink:20210215063755j:plain

 

ここではヴィルヌーヴはホリーの口を借りて、父親という権威の鎧を纏った "" の正体を暴こうとしている のです。「 子どもを消し去る …… 」というのは、父親という権威像に守られた "" を家族関係から抜き取ってみたらどんな人間なのか、「 人々に信仰心を失わせあんたのような魔物にする 」というのは、"男" の実像は、やはり粗暴だった、という事なのです。

 

ケラーの父親としての権威が失墜していくのは、ラストに向かって、彼の姿がどんどん少なくなっていく事からも分かるでしょう。娘をホリーから救い出すのが、父親ではないロキであるところにそれが表れていますね。

 

f:id:mythink:20210215071519j:plain

 

 

 

 4章  ケラーの行方

 

ラストの場面によって、この映画が単なる子供の消失ミステリーではない事が明らかになります。ラストでは地下に閉じこめられた "ケラーの生死" が問題になるのですから。

 

ホリーの家の庭でケラーを探すロキ。地下でケラーが吹く笛の音がどこから流れてくることに気付くロキ …… 。映画はここで終わる。

 

f:id:mythink:20210215073539j:plain

 

このラストをどう解釈すべきでしょう。間違っても、これでケラーも助け出されるなどと楽観的に考えないようにしましょう。それならば、助け出される場面がラストになっていたはず。もしかしたらケラーは助け出されないかもしれない、その可能性は、北欧神話の神から明らかに採られた "ロキ" という刑事の名前によって強まるのです。

 

ヴィルヌーヴはこのラストのために刑事の名前をわざわざ、ロキにしたのでしょう。北欧神話の神ロキには様々な属性があります。トリックスター、狡猾さ、邪悪さ、どちらに転ぶか分からない二面性など、が挙げられるのですが、ここでは "極端な二面性" という特徴が解釈の役に立つ。その二面性に沿うならば、娘は助けたが、父親は助けない、という事になりますね。そもそもロキは捜査の途中で、ケラーが実は娘をどこかに隠したのではないかと疑ったくらいで、ケラーの人間性に家族的なものとは異質な凶暴さを見抜いていた。彼が居ない方が家族が上手くいくのではないかと考えたとしても不思議はありません。

 

しかし、付け加えなければならないのは、ヴィルヌーヴは、 そのような "神話素 ( ミテーム )" によって、この作品を特徴づけようとしているのではない、という事です。それはあくまでもケラーの存在をどう処遇するかに関わるものでしかありません。ラストにおいて、ケラーは父親であるために粗暴な振舞いをするのなら助けられないし、粗暴になる父親の衣を脱ぎ捨てるのなら助けられる、という身動きの取れない "二重束縛 ( ダブルバインド  )" の状態にあると解釈出来る。

 

それはまさにジェンダー論的な視点から考えられたラストであるし、この映画自体がその視点で構成されているが故に、子供の消失ミステリーに父親的男性像の問題が秘かに接続されている のですね。その複合体はストーリー的にも、上映時間的にも、冗長な印象を与えるという結果になっているのですが、それでも彼はジェンダー論的視点を持ち込みたかったのでしょう。

 

おそらく、それは2009年の『 静かなる叫び ( Polytechnique ) 』という作品でモントリオール理工科大学での銃乱射事件 ( 1989年 ) を扱って以来、彼の中で考え続けているテーマなのかもしれません。女性ばかりを殺害したマルク・レピーヌは徹底した反フェミニストであり、子供の頃、父親から虐待されていたという背景から、父親像についてヴィルヌーヴが考えるようになったのは推察できます。

 

見過ごされていますが、『 プリズナーズ 』において、最も暴力的被害を受けているのはアレックスなのです。彼は事件後、本当の両親の元に帰ったというのですが、あれだけの暴力を受けた人間がその後どうなるのか描かれていないのは暗示的だといえるでしょう。この意味で、タイトルの『 プリズナーズ 』とは、社会が人間に与えた権威主義、ここでは男に与えられた父親的権威、にいつの間にか従い、そこから脱け出せなくなってしまった人々 の事を示していると解釈出来るのです〈 終 〉。