〈 It / Es 〉thinks, in the abyss without human.

Transitional formulating of Thought into Thing in unconscious wholeness. Circuitization of〈 Thought thing 〉.

▶ オットー・プレミンジャーの映画『 バニー・レークは行方不明 』( 1965 )を哲学的に考える〈 3 〉

 

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 上記 ( 前回 ) の記事からの続き。

 



 5章  父親にはなれないスティーヴン

 

これまでの話を整理しましょう。近親相姦関係にあるアンとスティーヴン。私生児の娘を抱えてアンは、兄のスティーヴンに頼るために、アメリカからイギリスに来ましたね。ところが、スティーヴンは、バニーの存在は、自分とアンの近親相姦関係において邪魔なので、バニーを隠した …… これが、この作品を観た人の定番的見解でしょう ( スティーヴン自身もバニーが邪魔だと言ってますからね )。

 

一見、普通に見えるスティーヴンが、実は狂っていて、妹アンの娘を誘拐する程の危険な男だったというオチですね。しかし、果たして、その解釈で正しいのでしょうか。それでは、スティーヴンだけが狂っていて、アンは正常な人間だという事になってしまう。ここで、前回、述べた アンの隠れた猥褻的母性 を補助線として導入してみましょう。そうすると、狂っているのは、スティーヴンだけではなく、アンも同様、いや、兄以上に狂っているかもしれない事 が推測出来るのです。

 

ここで、アンがイギリスに来た事の意味を考え直す必要があるでしょう。彼女が娘と共にイギリスに来たのは、たんに兄のスティーヴンに経済的に頼るためだけではない、もっと 根本的理由 があると考え直すべきなのです。根本的理由 …… それは、ティーヴンにバニーを娘として認知してもらう事 に他ならないでしょう。もちろん、それは映画の中で明言される事はないのですが、アンが娘のことを執拗にバニーと呼ぶのは、ティーヴンに父親になってもらいたいという願望 の現れ以外の何物でもありません。

 

イギリスの民法が、日本と同様、兄妹間の近親相姦で生まれた子供の認知が可能であるかどうかは分かりませんが、この場合、精神分析的に見て、スティーヴンが認知を迫れられたとしたら、それは、スティーヴンにとって耐えがたい事だったでしょう。社会的地位を得ていた彼が、近親相姦関係の責任を引き受ける、つまり、父親であると認めるというのが彼の精神バランスを壊す決定的な要因になった事 は、当時のイギリスの保守的社会を考慮すると、容易に推測出来ますね。

 

以上の事から、スティーヴンが、なぜバニーをさらったのか、分かるでしょう。彼は近親相姦の延長上において、根本的に精神を病んでいたからバニーを隠したのではない、という事です。もし、それ程、近親相姦関係が強かったとしたら、たとえ仕事のためとはいえ、アンと離れることはなかったはずです。リスクを犯してまでバニーをさらったのは、バニーの認知によって近親相姦関係が社会的に明るみになる事の方がティーヴンにとって精神的重圧だったから、という事になりますね。

 

つまり、この話は、アンとスティーヴンはかつて深い近親相姦関係にあった後、一時期、離れたが、兄のスティーヴンを追ってアンが彼のもとにやって来た話だという事です。そう考えると、娘の認知を求めるアンの振舞いが、スティーヴンの精神的バランスを崩し、幼児退行させた と解釈出来るでしょう。彼は今もアンと近親相姦関係にあるからバニーが邪魔だったのではなく ( むしろ日常的に近親相姦関係を望んでいるのはアンの方だといえる )、バニーを取り除かなければアンが自分に父親になるよう迫って来ると恐れていた ともいえます ( スティーヴンがアンと二人だけの近親相姦関係を望んでいるように見えるのは、あくまで退行した精神状態においてだという事に注意する必要がある )。実際、アニーは、シーン ( 16~23. ) で、ニューハウス警部に問われるまで、Mrs としてスティーヴンとまるで夫婦のように振舞っていたのですから ( 逆にスティーヴンはニューハウス警部の質問にうろたえる様子を見せている )。

 

このような状況で、スティーヴンが父親になることを認められないのは、ある意味仕方のない事です。たとえ、それが近親相姦関係の責任を取ることだとはいえ、それが社会的に明らかになれば自分の身を滅ぼすことになるのですから。結局、スティーヴンが最後に選択したのは、自らの精神を退行させてアンとの近親相姦関係時期そしてそれ以前の遊戯を楽しんだ子供時代に固着すること でした。

 

ここから解釈をさらに深めなければならないのですが、この映画の恐るべきところは、父親になりたくないが故にバニーを排除したいという歪んだスティーヴンの欲望 を、アンとの子供時代の遊びで作り出した空想上のバニーの埋葬という結末 に、結びつける短絡 ( ショートカット ) を意図的に作り出しているという事なのです。歪んだ彼の欲望は、昇華されることなく、子供時代の バニーという幻想 の中に逃げ込み癒着してしまった。その結果、引き起こされた最悪のアクティングアウトが、バニーの埋葬の実行だった、という訳です。それは既に、アンとニューハウス警部の会話の中で、仄めかされていましたね。

 

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 6章  スティーヴンの狂気以上に恐ろしいアンの母性 

 

ここまで読んでこられた方は、もうお分かりなると思いますが、この作品において、一見、中心的だと思われる ティーヴンの狂気というモチーフの裏面にはアンの猥褻的母性という隠れたモチーフが張り付けられている のですね。この裏モチーフは、ほとんどの人に見過ごされるのですが、それに気付いた時、人間消失ミステリーの謎解きとは違う "別の解釈" が可能になる事が、今まで述べたことから理解出来るでしょう。

 

特に、アンがスティーヴンがバニーを隠していた事に気付くクライマックスは実はスティーヴンの狂気以上に、アンの恐るべき母性を明らかにしてくれます ( 注意深く見ない人は全く気付かない )。精神に異常をきたし、幼児退行したスティーヴンを変に刺激しないように、自分も子供のようになって一緒に遊ぶ場面は、咄嗟の機転というよりは、スティーヴンの狂気に動じない肝の据わった母性を露呈させています。特に、スティーヴンを呼ぶ声色は、もはや子供時代 ( 妹としての ) のそれではなく、ヒッチコックの『 サイコ 』における 母の声色 を連想させるものです ( *A )。以下の場面は、このような状況に陥りながらも、バニーだけでなく、スティーヴンにも父親になってもらい一緒に暮らそうとするアンの 反道徳的な母性 を具現している、と解釈出来るでしょう 〈 終 〉。

 

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( *A )

ヒッチコックの『 サイコ 』については以下の記事を参照。