〈 It / Es 〉thinks, in the abyss without human.

Transitional formulating of Thought into Thing in unconscious wholeness. Circuitization of〈 Thought thing 〉.

▶ メアリー・シェリーの小説『 フランケンシュタイン 』について哲学的に考える。ファミリー・ロマンスの此岸に現れる知性〈 2 〉。

 

 

 



 

 

A. メアリーは両親の著作に観念的に依拠していた。 この場合の 観念的 とは、たんに両親からの知的教育を受けた結果としての知的尊敬というだけの意味ではありません。 それはもっと人生における根源的なもの、すなわち、精神分析的意味での家族関係を支える ファミリー・ロマンスという幻想 がメアリーの内面の一部として機能していたという事です。 メアリーの中では、この幻想観念を現実に裏書していたものこそ、両親や夫パーシーが書いた、書き残した、テクストという 物理的存続物 だった。

 

B. ここは注意すべきところなので、強調する必要があるのですが、逆説的な事に、両親や夫といった身近な日常的存在以上に、彼らの書いたテクストの中の言葉こそが、より両親や夫の存在を代補する現実物だったと哲学的に考えられます。 日常の中から立ち現れた高邁な思想の言葉は、様々な思惑が行き交う現実の人間関係 ( ) を昇華的に支えるファミリー・ロマンスの幻想が織り込まれた 代補的媒介物 としてメアリーの内面に取り込まれている。

 

C. だからこそ、よく指摘されるようにメアリーはシェリーと共に両親の テクスト の政治的主張を必要以上に踏襲したり ( しかし、実際の所、両親は自分らの書いたテクストの急進的政治内容とは違い、日常においては常識的な日和見主義の一面を垣間見させた )、夫パーシーの死後、彼の テクスト を徹底して美化した ( 生前の夫の自由奔放な行動や人間関係がメアリーの心情を揺るがすものであったにも関わらず ) のだといえるでしょう。 テクスト こそが日常における人間存在の欠損を補う 理想的媒介物 であることをメアリーは知的教育の中で無意識的に構築していたのだ ともいえますね。

 

( ) 

ジャネット・トッドの 『 死と乙女たち ファニー・ウルストンクラフトとシェリー・サークル 』 を読めば、メアリーが属していた人間関係の 共同体 が、いかに各々の人間に心的負荷を生み出す錯綜した 精神的かつ性的複合体 であったか が分かる。 著者による女性擁護のジェンダー論的バイアスが幾分か掛かった著作ではあるものの、登場人物たちはテクストの創出という脱人間的行為を実践する以前の余りにも人間的泥臭さに満ちた性的粘性がクローズアップされていて興味深い。

 

 

 メアリはみなに対し怒りを感じていた。もっと力強い味方になってくれないファニー、未だシェリーの妻であるハリエット、そして自分を苦しめるシェリーとクレア ( 引用者注:詩人ジョージ・ゴードン・バイロンの愛人として知られるが、パーシー・シェリーとの関係も囁かれてきた )。二年前 ( 引用者注:1813年 )、シェリーはホックがハリエットに言い寄ったことに混乱していたが、それは彼女がその関係を望まなかったからだ。原理においては、シェリーはホッグに、自分の愛する女性たちを愛してほしかった。そして今回も、ホッグは大乗り気だった。シェリーとクレアが遊び歩いている間、メアリはホッグの訪問に多少慰めを見出すようになる。この数週間分の日記は引きちぎられているため、完全なる共同体のためになされたかもしれない努力に関しては闇のままである。

 

『 死と乙女たち ファニー・ウルストンクラフトとシェリー・サークル 』ジャネット・トッド / 著 平倉 菜摘子 / 訳 音羽書房鶴見書店 ( 2016 ) p.219

 

メアリ自身の記録はもう少し曖昧で、一八一五年元旦にホッグがメアリに愛を告白したときにはまだ準備ができていなかったにせよ、次第に彼に応え、戯れるようになった。二人はオウィディウスの官能的な詩を一緒に読み、セックスというものについて、特にメアリの出産後に起こるかもしれない性的な願望の成就について語り合う。ホッグはメアリにイタリア語を教えることになる。シェリー・サークルでは、イタリア語の習得は常に官能的で熱のこもった営みだった。

 

前掲書 p. 219

 

 シェリーとクレアが間違いなく初めて一晩二人きりになったのは一八一五年初頭、ビッシュ興の死後まもなくのことである。〈 中略 〉。

 しかし二人きりの時間はあまりにも少なく、クレアは一八一五年最初の数ヵ月、メアリに嫉妬を覚えるようになる。メアリの方は、恋人と義理の妹の間に育ちつつある愛情を不安げに見守っていた。どちらの若い女性も、相手の側に親密さの新しい徴候を読み取る。

 メアリは危機的なスキャンダルに対して特に言葉少なになる傾向があった。彼女もクレアも根っからの日記書きで記録魔だったが、一八一五年五月一三日から一八一六年七月二一日までのメアリの日記は行方不明である。この紛失は、メアリのふだんの苛立ちを超える何かを示しているのかもしれない。シェリーとクレアの間に芽生えつつあった戯れの恋や遁走に対する苛立ちだろうか。

 

前掲書 p. 228 

 

しかしシェリーは満ち足りていたわけではなく、船のともづなは解かれたままだった。メアリとの占有的な関係を望んでおらず、知的な家庭生活にも完全には組み込まれていなかったのである。自分と愛する者たちの間には常に乖離があった。〈 中略 〉。シェリーはジェイムズ・ロレンスの自由恋愛という異国風ロマンスで鼓舞されていた性的自由に相変わらず憧れていた。人間を、ある一人の女性との単なる性交より高い経験世界に連れて行ってくれるような自由に憧れていたのだ。強制された一夫一婦制に対してゴドウィンがかつて抱いていた増悪を、さらなる切望と超越に読み換えていたのである。

 

前掲書 p.233~234

 



 

 

A. しかし、メアリーの驚くべき知性は、家族を繋ぎ合わせているかのように思わせるファミリー・ロマンスの理想的媒介物としてのテクストに、同時に、その裏で秘かに蠢く性的衝動を忍び込ませている所にある。 ファミリー・ロマンスの理想だけでは真実に程遠い所に、猥褻性の他極を持ち込む事によって人間関係・人間心理の舞台裏を無意識的に暴く 両極的テクスト を提示した所に、メアリーの知的創作の秘密があるのです。

 

B. メアリーの 『 フランケンシュタイン 』 の創作のきっかけが ジョージ・ゴードン・バイロン ( 1788~1824 ) の別荘 ヴィラ・ディオダティにおける哲学・怪奇・生命科学、等の談義 ( 1816年 ) であるのを知られた話ですが、注意すべきは、そこで話されたテーマ ( SF、ゴシック作品の起源として、そこばかりがクローズアップされますが ) のみならず、バイロンを始めそこに同席した人間たちの集団性が性的に奔放な欲望の無反省性が具現化されたものである という事です。

 

C. そして、そのような集団回路の中を目的地もなく盲目的に行き交うだけの欲望の袋小路は、やがて欲望自体を反省的に捕えるひとつの視点を集団の中に出現させる。 この地点は、性的なものの後退・消失と引き換えに得られる知性が現れる転換点であり他者というものが欲望の対象である事から欲望の経済回路の一部である事から脱け出しひとつの主体として出現する所 なのです。 その主体とはここではメアリーに他なりません。 主体に訪れる更新的知性は性的なものの消失の後に現れるという哲学的真理 がメアリーを通じて示されるのです。

 

D. さて、その談議においては、バイロンによる サミュエル・テイラー・コールリッジ ( 1772~1834 ) 作 『 クリスタルベル 』 の朗読を聞いてメアリーは部屋を飛び出したと ジョン・ポリドリ ( 1795~1821 :  『 吸血鬼 ( 1819 ) 』 の作者 ) は述べているのですが、それが真実であるのなら、その時、メアリーを怖がらせるに至るまでの心的負担がいかにして引き起こされたのかを考えてみるのは解釈を深める上で有益であるでしょう。 そこでは、その場にいた者たちのアヘンの服用が陶酔作用によるたんなる肉体的反応だけではなく、心的過剰状態という精神的産物をもたらす為の意識的手段であったのは興味深い事です。 そういう事を抜きにしてバイロンシェリーの作品における人間性謳歌を文学的に のみ 賞賛するのは人間精神・人間関係における 猥雑な欲動の次元 を余りにも無視し過ぎているのかもしれません。

 

E. イギリスのロマン主義の先駆者であるコールリッジは、ヴィラ・ディオダティの談議に居合わせたバイロンシェリーとも交流があり、テクストレベルでも彼らの創作行為に影響を与えている。 もちろんメアリーの 『 フランケンシュタイン 』 を始めとする作品にも、コールリッジの作品 ( 『 老水夫行 』 など ) を彷彿とさせる描写や引用がある。

 

F. そのようなコールリッジの作品の中でも 『 クリスタルベル 』 は、レオライン卿の娘であるクリスタルベルが、魅惑的な形象で描き出される謎の女性、ジェラルダインによって性的欲望を刺激される内容となっている。 それは直接的に描写されるエロティックな話ではなく、クリスタルベルが自分の中に蠢く性的欲望に罪の意識を抱いた結果として現れる ジェラルダインを夢における性的行動の代理主体に化す疑似行動の幻想譚である、と精神分析的に解釈出来る話なのです。 文学研究においては、『 クリスタルベル姫 』 のジェラルダインの存在論的地位が実在的なものと定位されているのか、それとも単なる夢として機能させられているのか、等の議論がありますが、精神分析的に考えるならば、そもそもジェラルダインという主体の登場自体 が、クリスタルベルの性的なものへの罪の意識以上に重要な意味を持っている

 

G. ではクリスタルベルが自分自身ではなく、ジェラルダインを 性的なものが具現化された代理主体 とするのは何故でしょう。 それは、ジェラルダインこそが、クリスタルベルを悩ます性に対する罪の意識を突破させてくれる オイディプス に他ならないからです。 ただし、ここでのオイディプスとはギリシャ神話における紋切型の悲劇主体ではなく、男性主体でもなく、両親を虜にする程の性的魔力によって家族的捕囚である事から脱け出せてくれる象徴的な 自己更新主体 なのです。

 

H. これは性に対する罪の意識に負けて、自分を家族の庇護下で大人しく過ごさせる子供のままでいる事に、クリスタルベルが我慢がならない、もっと強い人間でありたいという抵抗心を抱いているという事です。 性的なもの、そして性に対する罪の意識、を背負える程の人間的強さへの希求こそが、ジェラルダインという代理主体を呼び起こしたと解釈出来るのです。 これは未来的彼岸に向けた 新たなる自己主体の 他者的出現 だといえるでしょう ( )。 それは自分を、自らの罪の 主体 である、自らの行為の 責任主体 であると、彼岸に向けて不安と共に押し出す自己乖離的投射、すなわち、主体の創設行為 へと導くものなのです。

 

I. この誰にも教えられる事なく自分で紡ぎあげる 自己への関わり は秘密裏に自分を未来に向けて、ひとつの責任主体、自分の人生は親や他人ではなく自分で引き受けなければならないという自己決断的的主体を性的なものの奔流の中から立ち上げる。 それは自分は社会的に未熟ではあっても ( クリスタルベルは父レオライン卿の庇護下にある )、それまでの自分を見失わせ消失させかねない性的欲望の放流の中で、自分をたんなるレオラインの娘ではないひとつの主体 として生涯初めて立ち上げようとする振舞い、未来の自分自身に向けてメッセージ届かせようとする大人へと成長しつつある者の振舞い、なのです。

 

J. しかし、バイロンはこのようなクリスタルベルの見る性的隠喩に満ちた悪夢の物語を、彼女の性的目覚めの物語としてしか解釈しないが故に、朗読によって聞く者の性的刺激を高めようとする遊びを行ったのだといえるでしょう。 もちろん、それはバイロンの個人的趣向による偏執的解釈というわけではなく、『 クリスタルベル 』 のテクスト自体が性的解釈を引き起こすべく書かれたものであると言えます。

 

K. そのような解釈では性的欲望は昇華される事のない 非人称的な混濁的なもの に留まるばかりで、人間を性的興奮、性的刺激、の欲情的反応の次元から脱け出せる事が出来ません。 性的欲望自体は人間主体の尊厳を知らない無反省的なもの なのです。 その意味でバイロンこそは彼の性的振舞いを考えた時、欲望の際限の無さ・性別を超えた乱交性を最も体現する人物であったと言えるでしょう。 そしてバイロン程ではないものの、パーシー・シェリーも性的関係の自由な関係による共同体性を望んでいたという意味で、性的なものに十分に魅惑されていたと言える ( メアリー、クレアとの三人旅行や、彼女らを巡ってのバイロンとの関係など )。

 

L. 以上の事を考え合わせると、ヴィラ・ディオダティにおける談議の人間関係が、いかに、その水面下で絡み合う性的欲望を高める緊迫性を帯びたものであったのかが推測できる。 それと共にバイロンによる 『 クリスタルベル 』 の朗読が、その内容を思えば性的刺激の意図を全く含んではいないとは言い切れないのも分かるでしょう ( だから真に恐ろしかったのは怪奇譚ではなく、こちらの話だったともいえる )。 おそらくバイロンがそこに含ませる事となった、その内容は、クリスタルベルの性的目覚めと性的興奮、父であるレオラインとクリスタルベルの化身であるジェラルダインという双方の名の韻踏 ( それは朗読によって効果が高まる ) による 近親相姦的匂わせ ( )、等であり、それはメアリーの人間関係からすると、クリスタルベルに自分を重ね合わさせる程、十分に心的圧迫を与えるものであったと解釈出来るものです。

 

( ) 

この 新しい自己主体を未来に向けて他者的に出現させる という身振りの最高の例がニーチェにおける 超人 だといえるでしょう。 それは人々の意識の啓蒙を狙う天上的な哲学概念である以前に、ニーチェの人生経験における欲望の行き詰りを昇華させるべく 心的暗部から湧き上がった生成物 である事に注意する必要があります。 特にメアリーの 『 最後の人間 』 ( 1826 ) にはそのタイトルからしニーチェ的な主体への固執が現れている。 世界が滅びようとも主人公が生き延びるというモチーフは、たんなる自我への愛着などではなく、生き延びの意志を持つ人間の心的主体化の過程として読むことが出来る。

 

( ) 

メアリーは 『 チルダ 』 において、このような父と娘の近親相姦的関係を "心理的なもの" として描写する。

 

「 嗚呼! 嗚呼! 私はどうなってしまったの? 私がお父様にとっての全世界だと信じていた頃、お父様の子 ー お父様のマチルダがこの世で分かち合わない幸せや悲しみなんて何もなかったときから、数ヵ月しか経っていないのに。あんな幸せはもう無いし、この世界で一番恐れていたものが私に降りかかってしまった。絶望を感じながら、お父様の隠せないものが見える。もう私を愛していないのね。お願いだから教えて、お父様。何か不自然な情熱に心を掴まれてしまったのではないの?〈 中略 〉。」

 私は荒れた感情に我を忘れ、それまで身を投げていた父の足元から立ち上がり、木に寄りかかって狂ったように空を仰ぎ見た。

 

『 マチルダ 』 メアリー・シェリー / 著 市川 純 / 訳  p.57 彩流社 ( 2018 )

 

「 これで私は岩山のてっぺんから真下へと飛び降りてしまった! 恐ろしい深淵に真っ逆さまに落ちてしまったのだ! 〈 中略 〉。私は怪物となってしまったが、お前は今までと変わらず、言葉にならないほど愛らしく、美しい。この決定的な瞬間を境に私はどうなってしまったのか、わからない。ひょっとしたら、様子が堕天使のように変貌している。〈 中略 〉。しかし、それは貴重な瞬間だ。私は悪魔になってしまったが、これまでにないほど愛しているのは目の前のマチルダだ。〈 中略 〉。もう悲しみも涙も絶望もない。さっき言った深淵を我々は飛び越えたんだ。〈 中略 〉。嗚呼! 『 最愛の人 』よ、私は我を忘れている。もう身がもたない。きっと、やって来るのは死だ。お前の胸の近くを枕にさせてくれ。お前の腕の中で死なせてくれ!」父は地面に倒れて気絶した。一方の私はほとんど生気の抜けた状態で、絶望して父を見つめた。

 

前掲書 p.58~59

 

もちろん、メアリーのテクストはいつものごとく先行するテクストのモチーフを踏襲していて 『 マチルダ 』 も夫のパーシーによる近親相姦の人間関係を描いた 『 チェンチ一族 』 との参照関係がある。ただし、そこには差異がある。

 

 

だが、パーシーの『 チェンチ一族 』と『 マチルダ 』は、同じく父娘の近親相姦のテーマを扱いながらも大きく異なっている。『 チェンチ一族 』が権力者としての父親の悪徳を描き、社会正義を問うドラマであるのに対して『 マチルダ 』は心理小説であり、あくまで家庭内の父と娘のとの関係のみに焦点が当てられている。並外れた情欲と権力欲の持ち主である父と、その非道さに立ち向かって殺人に加担する娘という明確な善悪の二項対立は、『 マチルダ 』には見られない。マチルダの父は娘への恋愛感情を告白しただけにもかかわらず、罪の意識から自殺し、それによってマチルダは自責の念に苦しみ、世間との関りを絶って死を待ち望む。

 

〈  第9章 『 マチルダ 』における自伝的物語の深層  〉木村晶子 / 著 「 メアリー・シェリー研究 」所収 p.209 木村晶子 / 編 鳳書房 ( 2009 )

 

 

 

 

 

 

A. このようなバイロンやパーシーらとの心理的次元での性的共同体は、メアリーに何をもたらしたのか。その性的共同体は、特定の人数の緊密な血縁関係による家族の枠組みをこじ開けていたのですが、幼くして母親を亡くしていたメアリーにとっては家族関係を飛び越える早すぎた心的経験だったといえるでしょう。 本来なら家族内での獲得するはずの思春期の自立性の代わりに、性的開放による融解的共同体の中に消失していたものとしての 自己主体性 を代補的に構築していく。

 

B. 性的開放による融解的共同体 とは、非人称的で人間的区別など気にもかけない性的欲望の享楽的交雑性に溶けている 何物か たちなのです。 現実の人間たちがそこには集まっているが、心的には人間ではない性的享楽を志向する 何物かの群れ が人間存在以前の欲望の位相において共に混ざり合っている。 このような性的共同体の欲望を具現したバイロンの無意識的メッセージを、ヴィラ・ディオダティの談議でメアリーは受け取ってしまったのです、身体的痙攣で以って。

 

C. その無意識的応答としてメアリーは 『 フランケンシュタイン 』 を書いたといえるのですが、興味深いのは 『 フランケンシュタイン 』 がたんに秘かな性的欲望に塗れたテクストに過ぎないという代物ではなく、性的欲望の奔流の中に囚われながらも、呑み込まれずに這い上がろうとする知性の働きが強く現れたものだという事です。 その知性の働きとは、先にも述べた 自らをひとつの性的主体自立的女性として定立しようとする創造的出産 であり、まさにその創出中の過程が心的出来事として描かれているのが 『 フランケンシュタイン 』 なのです。

 

D. ここから、より深く考えなければならないのは、男性的特徴を備えているかのよう思われる怪物の男性性と、その怪物を創り出したヴィクター・フランケンシュタインの男性性です。 名前の無い怪物と名前のある創造主。 双方に男性性は共通しても、一方には名前が無く、他方には名前があるというアンバラスさ。 怪物は父であるヴィクター・フランケンシュタインの名前を引き継げなかった、いや、ヴィクターの方こそが怪物に名前を授ける事を拒否したと言うべきでしょう。 さらに言うなら、ヴィクターが怪物に名前を与えないように話を進めているのは、メアリー自身に他ならない のです。

 

E. この事の理論的帰結とは何でしょう。精神分析ジャック・ラカンに従うなら、怪物は〈 フランケンシュタイン 〉という〈 父の名 〉を与えられなかった為、誰の子なのかも分らず、社会における象徴的主体となる事を妨げられた のです。 それは怪物が社会から拒絶され忌み嫌われる話に分かりやすく表れていますね。 しかも、そういう話にしたのがメアリー自身である事を考えれば、〈 父の名 〉の根幹となる記号表現 ( シニフィアン ) の論理が社会を男性的に形成してきた歴史性 ( 姓の引継ぎに 象徴 されるように ) に対してメアリーは無意識的に異議を唱えた と言えるのです。

 

F. しかし、そうすると、怪物は社会に馴染めない者である事を自ら知りながら、蔑まれながら生き続ける運命に従うしかなくなってしまう。 名を持たぬ者として、父権的象徴世界を恨み殺人行為を犯す事で復讐し続ける。 ここにはメアリーの男性社会に対する不満が秘かに込められて、『 クリスタルベル 』 でクリスタルベルがジェラルダインを自らの "代理主体" として家族の神聖さを壊そうとしたのと同様に、怪物を "代理主体 ( エージェント )" として神聖な社会を破壊させようとしたのかもしれません。 いや、むしろ、男性社会を破壊させようとするメアリーの秘かな欲望こそが、"怪物という非人間的形象" を必要とさせた、と言うべきでしょう。 そのような 非人間的形象の姿それ自体 が既に、いかなる理由もなく社会の破壊行為を遂行するに足る十分な理由となっている という意味で。

 

G. 物語の最期が怪物の圧倒的な長台詞、自らの内面の苦悩と、殺人という復讐行為を遂行した事に対する満足、そして自らを消滅させようとする意志 … 、これら心的内容物が凝集された台詞で閉じられるという構成こそが、怪物に対するメアリーの思い入れを示しているといえます。 というより、怪物自身がメアリーの心理を代弁しているというべきですね。 怪物が社会から殺されなければならないのは、怪物が社会的存在ではないからなのですが、それがメアリーの思いを代弁しているというのなら、それはまさに 女性が未だ社会的存在ではないと彼女が考えていたからだ という事になるでしょう。 ここにはメアリーを産んですぐに亡くなった母、メアリ・ウルストンクラフトの影が立ち現れている。 フェミニストである母の思想を内面化していたと思われるメアリーですが、母程の社会活動家として表立つ事は出来なくとも、文学作品において自らを 独りの自己主体 として 秘かに 表そうとして昇華させたのだ、といえるでしょう。

 

 

 
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