![]()

![]()
![]()
![]()
Chapter1 文学作品を政治的に読むことに対して
![]()
1 雑誌『 世界 』に掲載されている小川公代の "〈 小さな物語 〉の復興" という連載記事があるんです。その 2024年7月号の連載第6回 "インターセクショナリティ『 フランケンシュタイン 』を読む" なのですが、正直な所、余りにも今日の性差・人種差を巡る政治的言説への拍車が強すぎる、つまり、『 フランケンシュタイン 』の作者であるメアリー・シェリーを、レイシズムへの対抗的なインターセクショナリティ ( 様々な性差・社会層の交差的枠組み ) の立場を象徴する人物であるかのように描き過ぎている、と思いましたね。
『 世界 』という雑誌自体が政治批判を主軸としているので、彼女の連載自体も当然その方向に向かうのは分かるとしても、『 フランケンシュタイン 』という非常に秀逸な文学作品の娯楽性を剥ぎ取り政治的に解釈する操作には疑問を感じました。たしかに『 フランケンシュタイン 』の中には今日のフェミニズムに繋げやすい政治的要素があるにしても、それは他の要素、例えば、家族というものへのささやかな幻想、不在の母なるものへの郷愁、性的欲望への誘惑・嫌悪、人間とは怪物でなければ何なのかという普遍性へ向かわせる展望性、等のものと同等に作品の中に散りばめられているに過ぎないのです。この豊穣性を損なうかのような政治的解釈への早急な傾斜は何かが間違っている のです。考えて行きましょう。
社会学者の熊本理抄によると、インターセクショナリティ ( 交差性 ) とは、人間存在が不可視化、他者化されることへの異議申し立てである。それは、差別や抑圧を、人種だけでなく、ジェンダー、セクシュアリティ、社会的階層や障害の有無など、アイデンティティが組み合わされるところに起こるものとして理解する枠組のことをいう。
小川公代『 『 フランケンシュタイン 』を読む 』 世界 2024年7月号 p. 254 岩波書店
交差性を考えないことはジェンダーの軽視にもつながるが、それだけにとどまらない。クレンショー ( 引用者注:アメリカの社会運動家 キンバリー・クレンショー ) は、同じ女性でも白人中心的な考え方が蔓延れば、法廷でも白人女性の差別が基準にされてしまい、そのことは個別具体的な黒人女性が差別を受ける経験を見えにくくしてしまう。不可視化されてきたのはアフリカン・アメリカン女性だけではない。インターセクショナリティとはミクロレベルにおいては、個人的な経験である複数の社会的カテゴリー、すなわち人種のみならず、性別、民族性、宗教、国籍、性的指向、社会経済的地位、障害の有無などが交差すること、またマクロレベルにおいては、社会構造における複数の権力や不利益が連動して生じることを前提とする理論的枠組みである。
前掲書 p. 255
メアリー・シェリーの小説が誕生したイギリスについて考えてみると、すでに一八世紀には黒人が、一九世紀末から二〇世紀初頭にかけては東欧から逃れてきたユダヤ人がイギリスに移民としてやってきていた。『 フランケンシュタイン 』に登場するアラブ人女性のサフィーのモデルになったのは、実は一六世紀のサフィェ・スルタン ー 本名はソフィア・バッフォ ー であり、彼女の物語は一八世紀に既に多くのイギリス人作家によって小説に取り込まれるほど人口に膾炙していた。『 フランケンシュタイン 』の重要な場面では、トルコから西洋圏に移住してきた非白人女性サフィーの物語が語られている。パレスチナ出身の文芸批評家のエドワード・サイードが論じた『 オリエンタリズム 』の原型は、一八世紀にしばしば表象されていたサフィエ・スルタンのような非西洋人の中に見出すことができる。彼の "オリエント" という概念においては、「 他者 」の異質性が強調され、固定化された表象として用いられている。
前掲書 p. 255~256
2 こんな調子で論旨は最初からメアリー・シェリーを象徴的フェミニストとして扱い、続いてすぐにアメリカの黒人フェミニスト作家のアリス・ウォーカーと彼女の作品『 カラーパープル 』を引き合いに出し、接続させようとする。しまいにはメアリー・シェリーとウォーカーを政治的主張を同じくする者として同列的に扱う始末です。
ウォーカーもメアリ・シェリーも、白人至上主義ではないフェミニズムを複合的に訴える。彼女らは、沈黙させられてきた他者 ( 非白人女性 ) であるサフィー / ソフィー / ソフィア が知識や叡智を身につけ、サバルタンであることから脱する可能性を小説世界において模索しているのだ。
前掲書 p. 265
3 小川公代が自らの学問的概念、ケアの概念を基盤にして論を組み立てたいのは分かるのですが、政治的主張が明白なアリス・ウォーカーと政治的主張を敢えて意図的にぼかしているメアリー・シェリーをフェミニズムの視点で結びつけるのは無理がある。メアリー・シェリーの母親 メアリー・ウルストンクラフトがフェミニズムの出発者であるからといって、娘のメアリーも母親の思想を何の齟齬も無しに受け継いでいるかのような考え方自体にも ( 政治的ではなかったメアリーは母親とは別の仕方で女性の生き方について考えていたという可能性もあるのです )、文学研究者である以前にひとりの読者としての思考の浅さが現れている。別に文学研究者でなくとも、『 フランケンシュタイン 』を注意深く読んだ方なら、そこにはメアリーの思想がフェミニズムのみには単純に収斂出来ない様々な要素から成る複合体 ( コンプレックス ) の形で現れている 事に直観的に気付くはずです。彼女は作家という性差を超えた主体として、その複合体 ( コンプレックス ) を文学作品へと昇華させているのですが、その過程で彼女は性差の騒乱に惑わされながらも性差を超えた "主体概念"、つまり "人間的なるもの" それ自体、へと無意識的に向かっているのです ( *1 )。
( *1 ) メアリー・シェリーについては以下の記事を参照。
4 小川公代の論調から、ここで問題になるのは、エドワード・サイード以来、確立された、文学作品を徹底的に政治的に読み解く事を無意識的に特権化している 今日の文学的アカデミズムの在り方です。特にコンラッドの『 闇の奥 』などはその政治的読解が強力に施されていて、もはや『 闇の奥 』は文学作品ではなく、政治的テクストなのではないか、と思える程のひどい状況になっている。これではもう一般の文学愛好者は古典作品からますます遠ざかるでしょう。
5 たしかに文学の中に政治性が全くないとは言い切れないどころか、政治性との直接的・間接的な結びつきを意図した作品は数多くあります ( それこそアリス・ウォーカーの作品のように )。しかし、その時、文学とは何か という問題が必ずしも政治性の中に全て溶け込んでしまうものではない事を考えなければなりません。そうしなければ、読み物という娯楽物としての文学はその遊戯的要素が政治の名のもとに切り捨てられるという具合に、一部の政治的主張者の無意識的抑圧性に屈してしまう 事になるのです。そもそも文学における娯楽性は、人間が皆こうでなければならないという政治的全体主義 ( それが道徳・倫理の名の下での政治であっても ) からは逃げていく、超-個人的享楽を秘かに誘発する という点で普遍的価値があるのですから ( マルキ・ド・サドは極端な例であるとしても、享楽は個人の秘かな自由でもある。つまり、読書の行為・読書の空間、自体が "個人の自由"、"個人の内密性 / 秘密性" を形成する手助けしてくれている )。
6 仮にそのような状況で読む人がいるとしても、それは、その状況に染まっていて政治的に読み解く以外には何もできない貧弱な読書でしかなくなっているかもしれない。この点において、文学批評は、その形式的変遷が如何なるものであれ、"思考の深度" という物差しではエドワード・サイード以来、全く進歩していない。だから、今日の文学批評は何かにつけてサイードに言及しそこに還ろうとする。だが、それ以上は何も出来ない。それは、サイードが文学批評のカテゴリーには収まらない強力な思考の持ち主であり、影響力があるのを間接的に示しているのですが、だからこそ、政治性に傾き過ぎた批評の否定的側面、つまり、政治性は個人の思考の自由を時として奪い去るものである 事に注意を払う必要があるのです。ここに今日の文学批評は余りにも無頓着すぎる。差別的・抑圧的政治状況を文学的見地から脱構築しようとする、政治的正義を掲げようとする、のは結構なのですが、その為に自分たちもまたひとつの政治性に染まり、結果として、個人の自由を満足させてくれる娯楽性などは取るに足らないものであるかのように打ち捨てている のです。それは政治的解釈以外導き出せない批評の現状に現れている。他に娯楽の多いこの時代に、これでは読書離れの現象を促進させる事にしかならないでしょう。そんな政治性が果たして作品を真に生かす事 なのかどうか、作品を、そして作品の読者を十分に幸福にする事 なのかどうか、なんて事はこれっぽっちも考えられていないのです。
![]()
