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ベルリン国際映画祭2026でのヴィム・ヴェンダースの発言を報じたハリウッド・レポーター (英語版) の記事。リンク先。https://www.hollywoodreporter.com/movies/movie-news/berlinale-2026-gets-heated-wim-wenders-jury-politics-1236503389/
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CHAPTER 1 日本ではあまり話題にならない、ヴェンダースの発言とそれへの否定的反応
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A. 日本では、Xとnote の一部でちょっとだけ炎上したとされる ( それも炎上とすら言えるのかは微妙ですが )、第76回ベルリン国際映画祭 ( 2026年2月12日~22日 ) で審査委員長を務めたヴィム・ヴェンダースの発言について考えてみましょう。開幕の記者会見で、あるジャーナリストからガザ侵攻のイスラエルを支持するドイツ政府について問われた際、ヴェンダースは "映画制作者は政治に関わらないようにすべきだ" と発言して批判を浴びる事態になった ( *1 )。ベルリン映画祭自体が世界中の社会的映画・政治的映画を上映する傾向が強い事もある中で、自国政府の政治的振舞いに話が及んだ途端にスルーして沈黙するのか、という批判な訳です ( 日本ではそこに映画の政治性に言及するヴェンダースの過去の発言が引き合いに出されたりして批判されている、"短絡的に" )。
( *1 ) ヴェンダースの発言内容についてはドイツの中道系メディア DW の以下記事を参照。リンク先。 https://www.dw.com/en/should-the-berlinale-film-festival-avoid-politics-gaza-israel-controversy-wim-wenders/a-75939558
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B. ヴェンダースの発言に対する批判は、映画関係者100人ちょっとにのぼるオープン・レター ( 公開書簡 ) としてすぐに現れた ( 2026年2月17日 )。VARAIETY はその署名者 ( 日本の監督 船橋淳もいる ) と声明を掲載した記事を出していますね ( 2026年2月17日版。リンク先:VARIETY誌 https://variety.com/2026/film/global/javier-bardem-tilda-swinton-letter-berlinale-gaza-silence-1236665382/ )。
C. 声明の一部を引用しておきましょう。
ベルリン国際映画祭2026審査委員長ヴィム・ヴェンダースが「映画制作は政治の対極にある」と述べた発言に、私たちは強く異議を唱える。両者を切り離すことは不可能だ。ドイツ政府が資金提供するベルリン国際映画祭が、表現と意見の自由に関する国連特別報告者のアイリーン・カーン ( *2 ) が最近非難した「パレスチナ人の権利擁護を制限し、公的参加を萎縮させ、学術界や芸術における言論を縮小させる」というドイツの過度な法律の乱用を実践する手助けとなっていることに、私たちは深い懸念を抱いている
パレスチナ映画協会が述べたように、「私たちは、パレスチナ人の虐殺についてベルリン国際映画祭の組織的沈黙、映画製作者の言論と表現の自由を擁護する事へのやる気のなさ、に愕然としている」。同映画祭が過去にイランやウクライナの人々に行われた残虐行為について明確な声明を発表してきたのと同様に、私たちはベルリン国際映画祭に対し、道徳的義務を果たし、パレスチナ人に対するイスラエルのジェノサイド・人道に対する罪・戦争犯罪、への反対を明確に表明し、イスラエルを批判や説明責任の要求から守る関与を完全に終わらせるように求める
( *2 ) Irene Khan. バングラデシュ系イギリス人の女性人権活動家。アムネスティ・インターナショナルの事務局長、国連特別報告者、等の就任歴がある。バングラデシュにおけるデジタル権利と表現の自由を積極的に擁護している事で知られる。つまり、インターネット上の表現の自由は国家権力への民主主義的対抗物として重要であるが故に擁護するという事ですね。この事は、後で言及する、同映画祭でのヴェンダースのもうひとつの発言に繋がる背景となっている。
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CHAPTER 2 ヴェンダースの声明について細かく考える
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A. さて、開幕記者会見でのヴェンダースの発言によってベルリン映画祭は、そこでの上映される作品よりも、そのフェスティバルの政治性が注目されてしまうという羽目になってしまったのですが、その翌週、ヴェンダースは授賞式に先だって騒動について声明を発した。その内容については以下のリンク先の記事 ( VARIETY 誌 ) を参照。
B. その声明が非常によく考えられていて興味深いんですよ ( ああ、実はここまで考える人だったのかと感心する )。最初に断っておきますけど僕は別にヴェンダース擁護者でもないし ( *3 )、ドイツ政府支持者でもない。ガザについては人道上、最大の擁護をしなければならないけど、その為に外部から、例えガザの正義の為だとしても 敵対性に傾斜する言語 は使うのはどうかと思うんですね。当事者ではなく部外者だからこそ可能な 平和言語 以外に国家や戦争に利用される 生きている個人 を救うものはないと思うからです。その平和の為に戦うのだ、という大義的言い方であっても、それはもう平和を名目的なものとする、あるいは人間を死に導く 戦争言語 なのですね。
( *3 ) 個人的には彼の最近の作品は刺さらないので、当ブログでも批判的な事を書いてます。しかし、それは反射的に理解しまいとして批判的になっているのではなく、可能な限り考えた結果、批判している。その "対象への尊厳を保つ知的誠実さ" は失わない様にと思っている。
C. さて、ではヴェンダースは声明の中で何と言っているのか。まずこう言っている。
ベルリン国際映画祭における共通言語とは何か? 私たちが今生きるこの美しく、途方もなく複雑で、恐ろしく、制御不能な世界、それについて私たちが何を考え、どう感じるか、言葉以外で自分達自身をでどう表現するのか? 7ヶ国から集ったこの審査員らが共有していたのは、映画という言語だった。それは70年にわたりベルリン国際映画祭の支配的な言語だった。批評家やジャーナリストの言語と常に並存してきた。ベルリンは常に、そして今もなお、極めて政治化された場所である為に、政治という言語も常に存在している。
D. 彼は論理を組み立てる上で "言語" を重要な要素として強調しているのがすぐに分かりますね。言うまでもなく、この場合、言語とは民族言語ではなく、コミュニケーションを媒介する諸々の "言語表現体 ( 言説 )" の事です。映画祭における共通言語は 映画という言語 である、まずこれが基本です。ここに 批評やジャーナリズムという別の言語 が接近してくる。さらに、ベルリンという場所自体の政治的特殊性が歴史化されてきた ( 戦後ドイツの辿った歴史が、かつて在ったベルリンの壁に象徴されているように ) が故の 政治という言語 も大きく取り巻いている。こうヴェンダースは考えるのです。以下に整理してみる。
1. 映画言語
2. 批評・ジャーナリズム言語
3. 政治言語
E. それに加えて以下の引用で示されるように、インターネットという新たな形式言語 が発生し、さらにそれが社会的問題に特化された ソーシャルメディア言語 が続く、という訳です。整理してみる。
1. 映画言語
2. 批評・ジャーナリズム言語
3. 政治言語
4. インターネットという通信技術言語
5. ソーシャルメディア言語
そして21世紀に生きる私たちは、インターネットという言語-迅速かつ高速な世界共通語-を手にしている。最近、この映画祭においてどの言語が解釈の主権を持つべきかをめぐる論争が起きている。私たちの言語である映画は高度に多様化しており、映画作家の数だけのアプローチが存在する、皆さんが既にご覧になった作品もその一部です。ほとんどの映画作家の作品が共有するものが共感です。私たちが観たた全22作品において、これが支配的な姿勢であり、今夜受賞する全ての作品に強く反映されるでしょう。映画の言語は共感に満ちています。ソーシャルメディアの言語は効果的です。
F. 以上のような少なくとも5つの言語を示したうえで、ヴェンダースはこの映画祭における論争の本質を、どの言語が主導権を握ろうとするかの争いだと分析している訳です。この分析によって彼は何を言おうとしているのでしょう? 彼がまず言いたいのは、それぞれの言語が一体何を対象 ( ターゲット ) にしようとしているのかもう一度よく考え直すべきだと言っているんですね。それによって論争の性質が解体構築されて違うものになるのではないか、とヴェンダースは考えている。その延長上で考えると、彼が今になって映画は政治と対極なものだと言う事の意味も見えて来る。それについてはまた後で述べましょう。
G. さて、上の引用でインターネット言語の表現が出てくるのは唐突に思えるかもしれないが、先のオープン・レターの声明文の中のアイリーン・カーンを受けての事だと思われる。インターネット上の表現が民主主義的に擁護されるべきだという政治性が既にその言語の中に現れている事をヴェンダースは良い意味でも悪い意味でも注意深く含ませている ( それは良くも悪くも "時と場所" を選ばない )。
H. これがどういうことなのかというと、ベルリン映画祭の70年の歴史においては、1~3の言語併存体制が基本だったはずだ、と。それは映画を中心とする、映画を鑑賞する、それが基本となっている古典的映画言語体制だといえるでしょう ( 3によって揺さぶられ続けて来たとしても )。ところが、4のインターネット言語の出現によって1以外の2~5が4に技術的に引っ張られた結果、2~5は集合化され大きな3と化す、つまり、民衆による拡大的政治言語 と化して諸々のカテゴリーに影響力を行使する事に享楽を覚えてしまったのです。そして1は切り離され孤立する。それどころか3の政治的正義によって映画が内包する政治枠外性・脱政治性という別の民主的要素 ( イデオロギーからは零れ落ちる人々の非政治的な日常性 ) は抑圧されてしまう。
I. このように政治的正義 ( 左右の内部的差異以前に ) を絶対化する民主的政治言語がインターネットを媒介にして浸透・拡散され、映画が開催される場所 ( ベルリン ) を政治的に搔きまわしている事をヴェンダースは憂慮している。ベルリンは映画が観られる ( 本質的な意味で ) 以上に政治が優先的に語られる場所になってしまったという事です。その "現在的意味で" ヴェンダースは映画は政治の対極にあると言っているのですね。映画は政治的になりうるが、政治ではない。かつて映画の政治性がヨーロッパ ( 特にフランスなどで ) で激しく謳われていた頃があったが、それは映画が権力に対する社会的抵抗の具現物としての存在的役割を果たしていたという限定性事象に過ぎず、それ以上に映画は政治以外の脱-政治的、解放的生き方も多様に描く事が出来る ( 政治的でない映画が多くあるように ) のは言うまでもないでしょう。
J. 政治は根源的に大衆を対象とし、彼らを操作する。哲学者のフィリップ・ラク-=ラバルトがナチス政治の本質を批判的に見抜いて言った意味での大衆操作芸術なんです ( それはレ二・リーフェンシュタールの『 意志の勝利 』のように映画をプロパガンダ的に利用する )。しかし、映画は大衆を主体的に対象とするのではありません。むしろ、映画は自らが大衆にとっての対象として出現して生きる。それは観られ、論じられる、自らの身を委ねる、というように人々の側からの働きかけがある事で生を獲得する芸術のひとつなんですね。
K. では、以上の事を念頭に置くと、1~5の言語で自身以外に対象を必要とするのはどれでしょう。1の映画は自らが対象物と化しているし、4のインターネットの言語も技術的手段なので除かれる。という事で対象を必要とするのは 2、3、5、の言語になる。先にも述べたように、それらは批判という形式で以って、対象に強力に働きかけること自体が目的になっている民主的政治言語です。
L. 今回のベルリン映画祭において、それは何らかの映画作品自体を批判しようとしているのでしょうか。そうではないという答えが多いと思う。映画祭における記者会見の内容が自国の政治的姿勢を明確に述べずにスルーしているという政治性を批判しているのだという事ですね。しかし、昨年2025年のベルリン映画祭を見た人ならば分かると思いますが、女優のティルダ・スウィントンがスピーチで現在の世界における政治的暴力性について特定の名指しこそ避けているものの ( それは映画祭が極度の政治化に陥らない為の彼女なりの配慮だと思われる ) 既に批判しているのですね。そして彼女はそのような暴力性から侵される対象の主権領域を擁護する為に、映画というものこそを世界で台頭する暴力からの独立国家の役割を象徴的に果たしていると見事に述べたのです ( 以下動画参照 )。
M. さて、そのような背景がありながらも、なおも今年のベルリン映画祭で特定の政治姿勢 ( ロシアやイスラエル、そしてイスラエルを指示するドイツ政府 ) を批判し、特定の被侵略国 ( ウクライナやガザ ) を擁護する事が明確にスピーチされなかった事が執拗に批判されるというのは、この映画祭の場においては余りにも極端に政治的過ぎるのではないかとヴェンダースは考えている訳です。
N. 批判されるべき真の対象はイスラエルやロシアなはずなのに、それについて話さないという姿勢までが政治ではない映画世界で批判されるのは、政治的批判それ自体も権力的かつ暴力的なものに副次的に陥っている事なのではないか。そのような懸念がヴェンダースをして映画を政治とは対極のものだと発言させているのなら、それはおかしな話ではない。日常において政治的ではない人や物事を、政治的である人がそのような理由で批判するのは、それもまた政治の強要という潜在的暴力であり、平和というものが持つ脱政治的様式を考慮しない "戦争的人間" の振舞いなのです。
O. そのような意味で以下の引用にもあるようにヴェンダースはティルダ・スウィントンのスピーチを引用して、何かを支持する事は、誰かを否定する事を意味しないと言ったのですね。これは映画祭の主催者側の立場にも、それを批判する立場の人にも言える両義的な意味を含んでいる。ヴェンダースらがガザ擁護を明確にしない為にドイツ政府支持に見えても、それはガザ市民を否定しているのではないし、ガザを擁護する人達がそれを明確にしない人達に対してガザを否定していると決めつけるのもまた違う。そのようなイデオロギー支持の有無は平和とは対極な余りにも政治的な振舞いだとヴェンダースは考えている。
P. もちろん、ドイツがイスラエルを現に支持しているという現実はあるし、ヴェンダースらもその事は分かっている。しかし、そのような政治的支持は、戦後ドイツの歩んできたホロコーストという戦争犯罪に対する国家的責任が複雑に形成されてきた長い道のりの結果であり、政治討論集会でもない限り、そのような政治責任を映画祭の場で話すには限界がある ( それは主催者側も言っている )。それをし始めたら映画祭は映画の場ではなくなってしまうでしょう。しかし、受賞された作品の幾つかを考えれば、主催者側が政治性を全く否定しているのではない、むしろ世界の動向を多様に描く映画を尊重しようとする姿勢は十分に見て取れますね。
Q. 以下はヴェンダースのスピーチの残りの部分。参考までに。
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ベルリンで生じているこの人為的な不一致について話し合う必要がある。活動家たちは主にインターネット上で人道的な大義-すなわち人間の尊厳と生命の保護-のために戦っている。これらは私たちにとっても大義である。ベルリン国際映画祭の映画が明らかに示すように、私たち映画作家のほとんどはあなたたちを称賛している。我々全員が称賛している。君たちは必要かつ勇気ある仕事をしている。しかし、それが我々の活動と競合する必要があるのだろうか? 私たちの言語が衝突する必要があるのだろうか?
私たちの道具は物語であり、顔であり、場所であり、言葉であり、感情である。私たちのアプローチは批判的でも、風刺的でも、滑稽でも、劇的でも、詩的でもあり得るが、常に複雑で入り組んだものとなる。最も効果的な手段はドイツ語で "anschaul : アンスチャウル" と呼ばれる-この言葉が好きだ-英語に翻訳するのは難しいが、視覚的で、肉感的で、実存的な没入感のようなものです。しかしたとえ私たちの言語がこれほど異なっていても、私たちは互いを必要としている:活動家たち、抑圧された者たちの友人、抑圧者たちに対する扇動者たち、です。もし私たちが互いを同盟者として、異なるが補完し合う言語として扱うならば、私たちの共有する大義は、消費と抽象化と過剰飽和という絶え間なく変化する風潮に抵抗する為のよい契機となる。
互いの影響力と可能性を捨て去ったり、過小評価したり、しないようにしよう。映画は忘却により抵抗力があり、インターネットがもたらす短命な注目よりも確実に長く生きる。一方、私たちの切迫感 ー いや、あなたたちの切迫感 - は、映画では届かない場所に届きます。これは競争ではあるべきではない。パートナーシップなのです。ティルダ・スウィントンの昨年の金熊賞受賞スピーチで美しい言葉がある。「 何かを支持することは、決して誰かを否定することを意味しない。」これはあまりにも単純なことなのに、つい見落とされてしまうのです。
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〈 END 〉
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