▶ Chapter 3 "語り" の映画ではなく、"語られるもの ( 詩 )" としての映画
[ 1 ] パゾリーニが、メッツのようにパロールの映画ではなく、詩の映画について述べる時、そこで言われているのは、"話された言葉" の理解を巡っての散文性と詩の二極の解釈の違いというような言語学的定義に関するもの ( それはメッツの方の拘りでしかない ) ではない事に注意すべきでしょう。メッツのパロールの言語学は、話された言葉はどこまでも行っても 人間が話した言葉である という意味を前提としたものに過ぎません。例え、それが人間の代わりに映画を主体とする語り、つまりこの映像、この描写、このショツト、このシークエンス、を通じて映画が語るのだと解釈するとしても、それは 擬人化された映画主体によるロゴス音声中心主義的なものである事 に変わりはないのです。
[ 2 ] それに対してパゾリーニが詩の映画と言う時、そこで考えなければならないのは、話された言葉が、人間の口から発せられた極めてキリスト教的な神聖な言葉 ( ヨハネ福音書 ) などではなく、人間の口から吐き出されたかのような 分離物としての脱人間的言語、あるいは 精神分析的概念を含意させた排泄物的言語 であり、話すという人間の権威主義的行為形式からは零れ落ちた 残余物 と化しているという事なのです ( *A )。なぜ、このような考え方の視点が必要かと言うと、"排泄物 / 残余物" においては人間の権威主義は失墜している、つまり、それは権威主義理念がもはや同化する事が出来ずに諦めて排除する事物が、残酷な現実の中で朽ちていく人間存在を象徴する物 であるのと同時に、人間的普遍性の再生の契機 として世界の中に現れるからです。それは特定の人間に独占されるものではもはやなくなっている無用物という意味で、全ての人間に開かれた潜在的・革命的契機物なのです ( 例えば『 ソドムの市 』における糞という 事物 )。
[ 3 ] このようなパゾリーニが傾倒したマルクス主義的人間解放の契機物としての詩がそこにはあり、その詩による映画であるからこそ、そこに賭けられたパゾリーニが考える 世界性 などは言語学主義者のメッツが到底理解出来るはずもないのです。『 ポエジーとしての映画 』の中でパゾリーニが、1人の農民と1人のブルジョワでは同一の事物を眺めた時、彼らはそれぞれ異なる実体をとらえると述べる時、そこでは同一の事物に対する複数の視点の肯定などという単純な意見が表明されているのではなく、事物はそのような複数の視点を可能にする程 誰にでも開かれている が故に、映画作家は語りの形式的約束事に囚われない自らの 文体・スタイル に固執する事で 自らの特殊性を人間的普遍性へと到達させるべきだ と言っているのです。こうしてパゾリーニは各個人の特殊性を具現化した "文体素" という概念を提示する訳です。
この、今まさに生まれつつある伝統の土台となるものは、"映画的文体素" の総体である。つまり、口実として選びだされた作中人物たちの不規則で不安定な心理の特徴に応じて、いやそれ以上に、世界についての作者の優れて形式主義的なヴィジョン ( これは、アントニオーニにおいては非定型絵画的、ベルトルッチにおいては哀歌的、ゴダールにおいてはもっぱら技術的・機械的なものであった ) に応じて、ほとんど自然発生的につくりだされた、あの映画の文体上の基本単位としての文体素の総体が、その土台となっているのだ。
「 ポエジーとしての映画 」 ピエル・パオロ・パゾリーニ / 著 塩瀬 宏 / 訳 p.284 『 映画理論集成 』所収 岩本憲児、波多野哲郎 / 編 フィルムアート社 ( 1982 )
だが、このように、最近形成されつつある、ある種の映画の技術的・文体論的伝統の身元調べを行ない、さらにそれを "ポエジーとしての映画" と、いわば命名したこと - このことには、いかなる効用があるのだろうか? もちろん、それが単なる用語法上の効用にすぎず、さらに一歩進んでこの現象をより広い文化的・社会的・政治的状況と対比して比較検討するのでなかったら、なんら意味を持たないことは明らかだ。
前掲書 p. 286~287
[ 4 ] ここで注意すべきは、パゾリーニは "語り" について一見すると、言語学的観点からのみ自分の意見を述べているかのように見えるのですが、そうではありません。"語り" に人間間のコミュニ―ケーション機能に即した言語学的定義化 ( メッツがどこまでも純粋言語学的厳密性にこだわるような ) を施そうとしているのではなく、人間の歴史の中で何らかの事物 ( どのようなもので構わない ) に対して様々な意味を付与してきた言語の叙述法・使用法・スタイルの歴史的蓄積化において、つまり、社会的・歴史的形成物としての言語の変遷過程 の中において、新たな使用法の創造 に近接する映画言語はその歴史的可能性を秘めているのだ、と語っているのです ( ここにはある種のヴァルター・ベンヤミン的な言語論の可能性が含まれている )。
私たちは誰でも頭のなかに、自分たちの身のまわりや住んでいる土地に関しての記号の体系の、欠落はあるものの、それなりに整った一冊の辞書を持っている。
文学者の仕事は、この字引きから、机の抽斗にきちんとしまっておいたものでも取りだすように語を取りだし、それを 特殊なやり方で用いること にある。そしてそのとき、その特殊さの度合いは、作家の歴史的位置とそれらの語の歴史とによって決定されるもの なのだ。語のかかる行使の結果、語は新たな歴史性を、つまり、さらに大きい意味作用を獲得する に至る。
そして、その作家の仕事が後世にまで残れば、彼の "語の特殊な使用法" は、その語の新たな用い方の可能性を示すものとして、後世の辞書を飾ることになるのである。したがって、文学者の表現上の発見・創造は言葉の歴史性を、言い換えれば、その実体をさらに豊かにするものなのだ。〈 中略 〉。
それに反して、映画作家の仕事は、基本的に似てはいるものの、それでもなお、ずっと複雑だ。
〈 中略 〉。
映画作家の持っているものは、辞書ではなく、尽きることのない可能性だ。彼は彼の記号を、彼のイメージ記号を、どこかの抽斗や袋のなかから取りだすのではなく、それらをカオスのなかからつかみだすのである。無意識的、あるいは夢幻的なコミュニケーションが、ただ可能性として、影として存在しているばかりの、カオスの内から。
したがって、映画作家の仕事は、その "成り立ち方" から見ると、単一のものではなく、二つのものから成り立っているのだ。
まず彼のしなければならぬことは、イメージ記号をカオスから取りだし、可能なものとし、それを ( 身振り、環境、夢、記憶などの ) イメージ記号の辞書にのっけられ、仕訳けられたものと見なすことだ。次いで、文学者たちとそっくり同じ作業 ー つまり、そのままではまだ単なる形態論的存在にすぎないイメージ記号を、作家独自の個性的表現によって豊かなものにする作業が行われなければならない のである。
前掲書 p. 266~267
* 下線は引用者である私によるもの
▶ Chapter 4 映像化される事で姿を現わす "事物という哲学素"
[ 1 ] 以上にようにして、"語り" は人間が自由にコントロール出来る道具物の地位に黙って収まる "現在的なもの" ではなくなり、数々の人間・社会が現在に至るまで語ってきた語り方という歴史的痕跡を留めた技術的用法 と化している事をパゾリーニは明らかにする、それが資本主義社会に内在しながらも革新的異物である事を併せ考えながら。ここに来て「 パゾリーニの映画論『 ポエジーとしての映画 』について哲学的に考える〈 1 〉」でも既に引用しているパゾリーニによる蒸気機関車の車輪の例に意味がはっきりとする。
白い蒸気の雲に包まれつつ回転する汽車の車輪の映像を例にとってみよう。これは、[ 記号素の結合である ]連辞ではなく、[ 文体の基本単位である ]文体素 ( ステイレーム / Styléme ) なのである。このことから、映画がそれにふさわしい真の文法的規範性に到達する日は絶対にやってこず、そのかわりに、映画はいつの日か、言わば文体の文法とでも言うべきものを持つに至るであろうことが、容易に予想される。〈 中略 〉。
彼 ( 注:映画作家 ) のイメージ記号への "史的寄与" は、非常に短命なイメージ記号によるものなのである。
映画にどこか脆弱な感じがつきまとうのは、たぶんそのせいなのだろう。映画の文法的記号群は、各年代ごとに次々に消えうせるような世界に属しているのである。三〇年代代の衣服、五〇年代の自動車、等々は、いわば、ことごとく語源を欠いた、あるいは語源がそれに対応する語の体系のうちにしか存在しない "事物" たちなのだ。
衣服や自動車の型などの流行が移り変われば、それにつれて対応する語の意味も変わるが、それに反して、事物はかかる変遷を受けつけようとはしないもの なのだ。事物は変わらないし、自分自身については、そのときどきのおのれのありようしか告げはしない。映画の作家が、その仕事の第一段階において、事物をそこに分類しつつ収納するあの架空の辞書をもってしても、事物に対して、現在・未来を通じて万人に意味をもたらすがごとき史的 "背景" を与えるのには、不十分である。
前掲書 p. 267
[ 2 ] つまり、事物とは、歴史的・流行的変化によってその外相・外装が移り変わったり、映画・文学作家によって異なるイメージを与えられるとしても、そのような外側からの認識・知覚捕捉によっては全て捉えられない 何かがそこにあるという存在性を物理的に具現化したもの としての孤独な名付けようのない物なのです。メッツはこのような言語学では捕えられない事物性について全く考える事が出来ずに愚かしい程までに言語学的厳密性に固執する ( *B )。
[ 3 ] パゾリーニは新たなる映画言語の実践を主張しながらも、映画に纏わる諸要素の総体という意味での映画素のみで映画が構築出来る訳ではない事を直観的に理解していた。映画素では覆い尽くせない、全て映画化は出来ない 残滓としての事物 がどうしても必要な要素として映画内に存在する。それが 哲学素としての事物 なのです。社会的・歴史的現実と繋がる最小の事物が映画内の何処かに存在する。映画を虚構物語りとして映画素のみで構築しようにもそれを妨げて 現実を観客に垣間見せる 最小の事物・効果が残滓物として存在する事 がどのような映画であれ現実と、僅かでも間接的でも迂回的でも、繋がらせるのです。パゾリーニは、その "残滓 / 事物" に『 ソドムの市 』において糞という明確かつグロテスクなイメージ記号を与えた訳ですが、ほとんどの人は、そのような最低物・底辺物を社会に向けて精神分析的昇華を施して回収しようとする事 ( 例えば、そのような事物を設定する必要性・社会性とは何なのかと考える行為 ) などせずに、ただ嫌悪感を覚えただけだと言うのならば …… 人間は事物の現実性に敗北して、思考する行為さえからも逃避しようとしている …… いや、もっと言うならば、現実の間近で深く思考する行為自体に嫌悪を抱いているのかもしれません、吐き気を催すロカンタンのように …… 。
( *A )
このような精神分析視点からパゾリーニの作品を考えた記事としては以下を参照。
( *B )
以下のメッツによるパゾリーニ批判は全く的外れなものでしかない。それはまるでパゾリーニの用いた汽車の車輪の例が「 映画的統辞法 」を説明する上で適当なものではないと言うようなものです。そもそもパゾリーニは「 映画的統辞法 」ではなく自分独自の理論を説明しようとしているのですからメッツの話は既におかしい。そのようなパゾリーニの主張の独自性を汲み取ろうとしないメッツの姿勢は自分の言語学的定義を勝手に述べるだけの一方的なものでしかない。噛み合うはずもない。それならば初めからパゾリーニの話など持ち出さなければいいのにという事になりますね。
彼 ( 注:パゾリーニの事 ) はしばしば使用され、規格化された、蒸気の煙のなかを全速力で走る汽車の車輪の映像を取り上げている。彼は次のように注釈をする。それは文法的事実ではなく、明らかに「 様式美 」である。われわれはそのことを否定しない。しかしそうした映像は、「 映画的統辞法 」とはまったく関係がない。「 映画的統辞法 」は、ある一定数の映画的構成を包括するが、ある一定数の映画化されたモチーフはまったく包括しない。汽車の車輪の映像は、「 統辞法 」を超えるには至らないし、逆に、硬化した凡庸な統辞法的言い回しにも至らないのだ。こうした映像は、統辞法とは無縁のある事実を、-その「 内容 」「 形式 」とともに-映画化されうるある特殊なモティーフを作り上げる。
「 現代映画と叙述性 」 p.313 『 映画における意味作用に関する試論 』所収 クリスチャン・メッツ / 著 浅沼圭司 / 訳 水声社 ( 2005 )