監督 : 塩谷直義 脚本 : 深見真
出演人物 狡噛 慎也 : 声 / 関 智一
テンジン・ワンチュク : 声 / 諸星すみれ
花城フレデリカ : 声 / 本田貴子
ギレルモ・ガルシア : 声 / 磯部勉
キンレイ・ドルジ : 声 / 志村知幸
ツェリン・グルン : 声 / 高木渉
ジャン=マルセル・ベルモンド : 声 / 鶴岡聡
▶ Chapter1 シビュラシステムの彼方に ……
A. 本作は、劇場版三部作『 PSYCHO-PASS サイコパス Sinners of the System 』の三作目に当たる「 Case.3 恩讐の彼方に __ 」( 2019 ) なのですが、犯罪者を "予め" 識別・選別し社会的に抹殺するシビュラシステムによる国民統治こそが物語の基軸となっている『 PSYCHO-PASS サイコパス 』全作品と照らし合わせた時、かなり異色の作品となっている。というのも、TVアニメ第一期で、犯罪行為を裏で操るにも関わらずシビュラシステムからの免罪者体質である槙島聖護 ( まきしましょうご ) を射殺した為に、日本国外へ逃亡する羽目になった元執行官の狡噛慎也がアジアの紛争地帯を傭兵として渡り歩く話になっているからです。
B. なので「 Case.3 恩讐の彼方に __ 」においては舞台は日本国外であるが故、シビュラシステムの話はほぼ出てこない。代わりにこれはアジア、それもチベット・ヒマラヤ同盟王国という設定国 ( 現在の中国におけるチベット自治区に相当するであろう ) における内乱が舞台であり、そこで狡噛慎也はゲリラに両親を殺されて復讐を誓う少女テムジンと出会う話となっている。つまり、この作品は『 PSYCHO-PASS サイコパス 』シリーズからは逸脱した、より現実の世界に近づいた "戦争と復讐" というハードな一般的テーマを扱っている。
C. これだとアニメの設定世界にしか興味がない大半のファンからしたら余り興味深い作品ではないと言えるかもしれない。しかし、だからこそ僕はこの作品に興味を惹かれたし、いずれ『 PSYCHO-PASS サイコパス 』シリーズにおいては重要性の無い作品として軽んじられるであろう運命にあるこの作品の中にこそ 現実の世界の在り方について考えさせてくれる要素がある という意味で支持をする。極めてマイナーな意見ですけどね。
▶ Chapter2 連鎖の彼方に ……
A. さて、この作品は戦争と復讐をテーマにしているとは言っても、単純に戦争の反対を唱えているのではない。現代において、戦争とは、誰によって行われるのか、誰と戦うのか、何が原因なのか、何が目的なのか、という様々な複合性によって形作られ、視点によって意味が変わるものなので、誰にとっても客観的であるような一般的概要化を施すのは難しい ( せいぜいの所、"戦争という現象" としてしかアプローチ出来ない )。それを考慮すると、本作品は、戦争それ自体について何かを語ろうとするのではなく、戦争の中で殺された身内の復讐を為そうとする事、つまり、"人殺しの連鎖に加担する人間の業" を描いている と言える。
B. そして重要なのは、その人殺しの業を描くのに、菊池寛の小説『 恩讐の彼方に 』を映画内に持ち込んでいるのですが、映画は小説における "復讐の中止"、いや "復讐の止揚" という結末を安易に踏襲する事のない両義的な意味深さで以って描かれる。それは「 Case.3 恩讐の彼方に __ 」という "アンダーバー" が付け足されたタイトルにも表れている。つまり、映画は "恩讐の彼方" というものが果たしてあるのか、そうではないのか、という両義性を含んでいるという事です。同時に、この両義性は製作者 ( おそらく脚本の深見真のアイデアだと思われる ) が菊池寛の『 恩讐の彼方に 』を無批判には称揚しているのではない事も示している。
C. 多分、そのタイトル付けは間違っていない。というのも、『 恩讐の彼方に 』は、いや、菊池寛の作品自体が社会的主張 ( 例えば平和的メッセージなどの ) が込められた高尚なものなどではなく、文学界隈を超えた一般的娯楽物としての大衆小説だからです ( *1 )。後年、彼は自叙伝等で自身の社会的道徳性や自由主義者的イデオロギーを述べたりしたがそれは後付けの理屈でしかなかった ( 戦時中の国威発揚風潮への加担を打ち消すかのような )。それを踏まえた上で、この映画が明らかにしてくれるのは、"平和への志向性" は小説『 恩讐の彼方に 』の中にではなく、その『 恩讐の彼方に 』の "彼方" において、復讐の連鎖の中にはまだ組み込まれてはいない "未来" に向かって、人間が必要とするものだという事になる。実際、この映画において、未来という希望の象徴である少女テムジンは、結果的に人を殺す事はしなかったし、狡噛慎也もそれを望んでいた ( 彼自身は戦いの中で生きて行くしかないのだが )。
( *1 ) これについて井上ひさしと上林吾郎は、高松市菊池寛記念館版全集1巻の巻末解説の対談で次のように言っている。
( 井上 ) ここで菊池寛を支えていた読者のことを少し考えてみますと、明治後期から大正期にかけて給料生活者が増えますね。それまで九割ぐらいが農村に住んでいたのが、日本が軽工業から重工業へ移るにつれて、都市生活者層が激増します。大都市周辺の大中小の工場、会社、銀行、そういう近代的な企業がどんどん出来てきて、そこから給料をもらって生きて行くという給料生活者が、大正期になって大量に出て来ます。
そういった給料生活者たちが読むものを菊池寛が開発した …… 。
( 上林 ) 相手が文学青年じゃなくてですね。
( 井上 ) そうです。生活者たちのためのエンタテイメント文学、給料を稼ぐために汗と涙を流している生活者のための小説を発明した。これは菊池寛の最大の功績だと思います。それから作者の組合というべき文芸家協会を作ったり、彼自身も生活者だったわけです。
『 菊池寛全集 第一巻 』解説 p. 616 高松市菊池寛記念館 ( 平成五年 )
* 下線は引用者である私によるもの
ここで公平を期すために付け加えるならば、菊池寛は戦争と対極にある平和の概念については積極的に考える事は出来なかった ( 第二次大戦中の大衆における国威発揚風潮に逆らえなかったように ) としても、"復讐の連鎖からの人間の自由" というテーマについては何かしら考えていたかもしれない …… という事です。それは歌舞伎役者13代目守田勘弥による大正9年の帝国劇場での上演作品である、『 恩讐の彼方に 』を菊池自身が脚色した『 敵討ち以上 』、のタイトルに含まれている。それは 人間にとって復讐以上に大切なもの、"何らかの束縛からの自由" という価値観を打ち出していると言える。
( 了海 ) げに快い月影ぢやなう。( 又心付いて ) いざ実之助様、お斬りなされませ。明日ともなれば、石工共がまた妨げ致さうも知れぬ。いざお斬りなされ。
( 実之助 ) ( 近よる了海の手を取つて ) 何をたわけた事を申さるゝ。あれ見られい! 柿坂あたりの峰々まで、月の光に浮んで見えるわ。あゝ大願成就思ひ残す方もない月影ぢや。
( 二人手を取つて、月の光に見惚れる )
( 了海 ) ( やがて念珠を取り出してもみながら ) 南無頓生菩提! 俗名中川三郎兵衛様。了海奴が、悪逆を許させ給へ。
( 泣きながら頭を下げる )
( 実之助 ) 恩讐は昔の夢ぢや。手を挙げられい。本懐の今宵をば、心の底より欣び申さう。あな嬉しや嬉しや。嬉ばしや。
( 二人相擁して泣くところにて )
ー 幕
一応、参考までに『 恩讐の彼方に 』における上記のおおよその該当箇所であるラストを挙げておく。
「 いざ、実之助殿、約束の日ぢや。お斬りなされい。かゝる法悦の真中に往生致すなれば、極楽浄土に生るゝこと、必定疑ひなしぢや。いざお斬りなされい。明日ともなれば、石工共が、妨げを致さう、いざお斬りなされい。」と、彼のしはがれた声が洞窟の夜の空気に響いた。が、実之助は、了海の前に手を拱ねいて座つたまゝ、涙に咽んで居るばかりであつた。心の底から湧き出づる歓喜に泣く凋びた老僧の顔を見て居ると、彼を敵として殺す事などは、思ひも及ばぬ事であつた。敵を打つなどゝ云う心よりも、此の羸弱い人間の双の腕に依って成し遂げられた偉業に対する驚異と感激の心とで、胸が一杯であつた。彼はゐざり寄りながら、再び老僧の手を執った。二人は其処に凡てを忘れて、感激の涙に咽び合うたのであつた。
D. しかし、…… 復讐される側が殺される事を受け容れ、復讐する側が殺す事を諦める、という "非対称性が等価になる"、という出来事は現実的にはほとんどあり得ないだろうし、現実以前に論理的次元でもその等価性は成り立たない。例えば、殺される側が殺されたくなくとも殺されるという可能性もあれば、殺される側が殺される事を受け容れて殺される可能性もある。また、殺す側が殺す事を諦めるとしても、それは自分に代わって法的措置によって相手を間接的に殺す ( 死刑や無期懲役による ) という具合にいずれの論理パターンにおいても、死は直接的であれ間接的であれ "罰の象徴" として依然として残り続ける。
E. つまり、菊池寛が描いた結末のように、殺す側と殺される側の双方が偶然の結果であるとしても、"罰あるいは死の排除" という合意は不可能な現実 だという事になる。強いて言うならば、了海が洞門を20年間ひたすら掘り続けて来た事自体がかつての殺人に対する懺悔となっている、開通を達成した時に殺人を犯した市九郎は死んで了海という別の人間になったのだ、と象徴的に解釈する事も出来る。しかし、こうなるには市九郎 ( 出家前の了海 ) に父を殺された実之助という人物像設定の中に 最初から敵討 ( 復讐 ) という殺人行為を捨てる事が "無条件" に含まれていなければ、自分の手で直接に了海を殺せる状況にありながらもそれは絶対的に行われないという必然性は現実には保証出来ない ( 通俗小説においてこそ可能な設定であるとしても ) のです。つまり、実之助がいかなる罪でさえも許す事の出来る神のような慈悲深い人物として "特権的に" 設定されていなければ、この話自体が成り立たなかった という事ですね。
F. こうなると、"恩讐の彼方" とは現実にはあり得ない文学上の "幻想" に過ぎないのであって、「 Case.3 恩讐の彼方に __ 」というタイトルの方こそが現実の残酷さを含んでいるという事になる。しかし、それだと人間は復讐のみを原動力として生きる余りにも政治的な、余りにもイデオロギー的な生き物でしかなくなってしまう …… 。
G. 確かに復讐という行為はその達成の為に人間を生きさせる原動力でもあり、幾多の娯楽小説においても描かれ楽しまれて来た。復讐に生きる人間もいる。復讐を美徳とする価値観もある。しかし、そうでない生き方をする人間もいる事もまたひとつの事実なのです。復讐という連鎖の中からは抜け出そうとする人間もいる、復讐の根源にある象徴的意味での殺意を抱く事を本能的に嫌がる人間もいる、ここには別種の類型の人間、平和的人間がいるのです。この人間自体の存在を排除する事は出来ない。テムジンをそのような人間に留まり続けるように描いた「 Case.3 恩讐の彼方に __ 」は間違ってはいない。そして殺人を犯した狡噛慎也がそれを強く望むという大いなる矛盾こそが物語の強力な展開力となっているのですが、この矛盾は 復讐が必ずしも受け継がれるべき "必然物" ではない事、どこかで断ち切れる "偶然物" である事、を示唆している。それはまた、時代の流の中で必然と偶然が結び付きながらいかようにも反転しうる事を表している。
【 END 】
[ 参考資料 ]
▧ 『 菊池寛全集 第一巻 』 高松市菊池寛記念館 ( 平成五年 )
▧ 『 菊池寛全集 第三巻 』 高松市菊池寛記念館 ( 平成五年 )