〈 It / Es 〉thinks, in the abyss without human.

Transitional formulating of Thought into Thing in unconscious wholeness. Circuitization of〈 Thought thing 〉.

▶ アラン・ロブ=グリエの映画『 囚われの美女 』( 1983 )を哲学的に考える〈 2 〉

 

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La Belle Captive by  ルネ・マグリット
 

 

A. ここで1章で言及した La Belle Captive の2つの邦訳の話に戻りましょう。一見すると『 囚われの美女 』の方が、こなれた感が出ていて La Belle Captive の訳として収まりがいいように思われるかもしれません ( ) が、これだと既にどこかに〈 存在 〉する女性が囚われているという印象を与えてしまう。しかし、ロブ=グリエが参照したマグリットの絵画には女性は描かれていない、つまり、〈 女 〉は〈 存在 〉しない のです。

 

B. にも関わらず、タイトルが La Belle Captive となっているのは、どういう事なのか。もし、フレームの中に描かれる事が〈 存在 〉の証明であるならば、そこに描かれない事は〈 女 〉が〈 存在 〉とは別の形で、男に対峙する生き物ではないかと考えられないでしょうか。〈 女 〉〈 存在 〉しない・・・ ここで、2章を振り返ってみましょう。そこでは フレームという主観性を通過する事によって、フレーム内の対象は客観的対象の装いを纏うかのように見える と述べたはずです。

 

C. そして、フレームの主観性を、ヴァルデルという男の視線に置き換えてみるならば、女は〈 女 〉としてフレームの中に存在するはずなのですが、マグリットの絵画はそれを否定する。〈 存在 〉するのは男の主観性が投影された女の 〈 幻想 〉に過ぎないのであって、そのような男の主観的幻想の地位に固定された存在の事を La Belle Captive と解釈すべき なのです。つまり、女とはこういうものだろうという男性の理想像の中でのみ存在させられるような〈 女 〉が皮肉的に仄めかされているという意味で、 La Belle Captive は『 美しい囚人 』と訳す方が哲学的解釈においては相応しい。そのような男の幻想の中でしか存在しない女を『 美しい囚人 』と呼ぶ のですね。

 

( ) 

この映画の邦題に限って言うなら、ストーリー中にフランスの作家マルセル・プルーストに言及するシーンがあるので、彼の超長編作品『 失われた時を求めて 』の第5篇『 囚われの女 』を意識して『 囚われの美女 』と寄せていったのかもしれません。ただし、プルーストの『 囚われの女 』の原題は『 La Prisonnière 』。英語では『 The Prisoner 』となり、微妙なニュアンスの違いがあります (『 The Captive 』とする英訳もある )。両方とも意味に大差はないのですが、強いて言うならば Captive には 虜になる / にする という言い方があるように 心を奪われる / を奪う という誘惑的なものの意味を見出すことが出来る。ここから、ジャン・ジュネの『 恋する虜 ( Un Captif Amoureux ) 』を思い浮かべる人もいるでしょう。

 



 

 

A. では男の幻想の存在化でなければ、〈 女 〉とは何なのか。マグリットはそれに答えを与えていませんが、面白いことにアラン・ロブ=グリエは映画で答えています。ヴァルテルを魅了する謎の女は、心霊術の研究家ヴァン・ド・レーヴの娘、マリー・アンジュなのですが、彼女は既に死んでいる ( サラによると、彼女は婚約者だったコラント伯爵によって事故を装って殺されている )。ヴァルテルがコラント伯爵を探す過程で出会う謎の女は、既に亡くなったマリー・アンジュだった。ここで、彼女は 幽霊 として描かれているのが分かりますね。彼女の父親が心霊研究家であるという設定が、娘の霊を呼び戻すひとつの契機として機能しているのです。

 

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B. ここで気を付けなければならないのは、マリー・アンジュは幽霊として存在している、という言い方をしないようにする事です。というのも哲学的に考えるならば、幽霊とは存在化作用に抵抗するもの だからです。突き詰めて言うなら、存在化作用とは、人間を外部から政治的かつ哲学的に存在させる強制的原理 に他ならない。しかし、ハイデガー以来、存在の概念は、その強制的側面 ( これがハイデガーの政治への接近に繋がる ) を隠して、あたかも哲学的神秘であるかのように扱われています ( ハイデガー研究者のほとんどが無意識的にそのスタンスを取っている )。

 

C. そうであるからこそ、マリー・アンジュは男によって存在させられるのに抵抗するからこそ、死してなお〈 幽霊 〉として回帰してくる、と言うべきなのです。コラント伯爵によって存在の手綱を握られる ( 生かされるのも殺されるのも彼次第 ) 事から抜け出した〈 女 〉は〈 幽霊 〉として男に対峙する。

 

D. では、〈 幽霊 〉として回帰したマリー・アンジュは男に何を迫るのか。一番、単純な解釈は、殺された彼女が男への復讐のために還ってくるというものでしょう。たしかにコラント伯爵は亡くなってしまうのですが、それだけでは彼女が事件に関係のないヴァルテルを誘惑することの説明がつかないのです〈 続く 〉。

  

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