Constructing the Private language in which Thought is sharpened.

Vanishing the Self so that no one else can receive it. Leaving the Thought-logic instead of the Self. Escaping from mediocre self-approval.

▶ アラン・ロブ=グリエの映画『 囚われの美女 』( 1983 )を哲学的に考える〈 1 〉

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監督  アラン・ロブ=グリエ

公開  1983年

出演  ダニエル・メグイシュ   ( as ヴァルテル )

    ガブリエル・ラズール   ( as マリー・アンジュ・ヴァン・ド・レーヴ )

    シリエル・クレール    ( as サラ )

  CHAPTER 1  『 囚われの美女 』? それとも『 美しい囚人 』?

  アラン・ロブ=グリエの映画『 囚われの美女 』が画家ルネ・マグリットの同名作品からインスピレーションを受けていることは言うまでもありませんね。映画の中でもはっきりと言及されているくらいからですから。ただここで興味深いのはマグリットの作品とアラン・ロブ=グリエの映画の共通原題 La Belle Captive の邦訳です。

  映画の邦題はほぼ『 囚われの美女 』で通っているのですがマグリットの作品の邦題は『 美しき囚人 』『 囚われた美女 』『 囚われの美女 』『 美しい虜 』のように美術館の展示会では変遷していますね。映画のタイトルは『 囚われの美女 』なのに作中に登場するマグリットの作品は『 美しき囚人 』となっているという混乱が現れています。

  ここでは邦訳のタイトルが統一されていなくて分かりにくい紛らわしいなどとつまらないことを言いたいのではありません。そもそもLa Belle Captive というタイトルからするとどの邦題でも構わないでしょう。僕が考えたいのはこの記事での目的つまり哲学的に考える場合邦訳の違いから見えてくるものがあるという事に過ぎないと誤解がないように言っておきますね。

  さてLa Belle Captive というフランス語タイトルは普通に訳すと 美しい囚人 になる。さらにCaptive というフランス語における女性名詞に引っ張られて La Belle Captive 囚われの美女 と訳すことも出来る訳です。ここから考えたいのは美しい囚人 と 囚われの美女 の哲学的違いです。この差異は些細なものでありながら女性の〈 存在 〉についての哲学的洞察へと繋がることになるでしょう。

  CHAPTER 2  フレームと境界

  映画『 囚われの美女 』は、ある組織に属するヴァルテル ( ダニエル・メグイシュ ) が上司のサラ ( シリエール・クレール ) の指令を受けてコラント伯爵を探すという話で始まるのですが、その過程で、ヴァルテルは謎の美女の幻想に囚われ、のめり込んでいく。 

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  ここからアラン・ロブ=グリエマグリットLa Belle Captive から着想を得て、砂浜に立てられたイーゼル上のフレームを大写しにする。フレームの内側の赤幕によって部屋の中から砂浜を眺めているかのように仕立てているのです。もちろん、マグリットLa Belle Captive を知っている人ならば、そこにはイーゼルこそあれ、キャンバス上の絵とその背後の風景との境界が判別出来ないように一体化させるトロンプ・ルイユ ( 騙し絵 ) というシュルレアリスム的技法が施されたものであったはずだ として "異和感" に気付くはずです。

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  アラン・ロブ=グリエはここで敢えて、マグリットに反してフレームを持ち込む事によって背景との境界を意識させています、異和感が出るように。そこから、フレームを外し ( 6~7 )、赤幕を独立させること ( 8 ) によって、実際は、私たちはフレームの中の風景を見ていたのではなく、フレームそれ自体を無意識的に見ていた 事を明らかにするのです。私たちに、風景を風景として見させていたのは、風景自体の魅力ではなく、フレームを媒介にした私たち自身の主観的効果 に過ぎないという訳です ( いや、風景に魅力はあるのですが、フレームこそがそれに気づかせてくれるのです )。この時、フレームはたんなるキャンバスの額縁としてではなく、部屋の窓枠としても機能しているという意味で、風景を眺める私たちの主観性を支えているのですね ( 1 )

(1 )  映画におけるフレーム機能の考察は以下の記事特に〈 8章   フレームの哲学的考察 〉を参照。

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  ロブ=グリエはさらに マグリットを引用します。おそらく、ここで映し出されているのはマグリットの『 囚われの美女 』のレプリカなどではなく、1967年ヴァージョンの『 囚われの美女 』に倣って描かれたもので、黒の球形の代わりの靴が置かれるなど本物ではないと明らかに分かるように違いが示されている ( 2 )。

( 2 )  このようなマグリットの絵画の引用について、クリストフ・グリューネンベルクとダレン・ファイは次のように言っている。

 

マグリットの描いたイメージが無断で使用ないし流用されている例は無数にある。1937年の作品『 臨床医 』はそのひとつである。こうした借用事例は多数あり、1952年にウィリアム・ゴールデンスが CBS テレビ「 目と雲 」のロゴマークとして使用した例や、ジェフ・ベック・グループの1969年のアルバム『 ベック・オラ 』やジャクソン・ブラウンの1974年のアルバム『 レイト・フォー・ザ・スカイ 』、そしてスティクスの1977年のアルバム『 グランド・イリュージョン 大いなる幻影 』など枚挙にいとまがない。映画ではジャン=リュック・ゴダールアラン・ロブ=グリエベルナルド・ベルトルッチ、そしてニコラス・ローグら全員がマグリットの作品にさらりと言及していることが、脚本家トム・ストッパードが書いた1970年の著作『 マグリット以降 ( After Magritte ) 』で明らかになっている。

 

マグリット事典 』p.106 クリストフ・グリューネンベルク&ダレン・ファイ / 編著、野崎武夫 / 訳  創元社 2015   

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  では、このフレームの効果を念頭に入れて、話を進めましょう。私たちが風景を風景として眺めるのはフレームを媒介にしているからこそであって、このフレームの主観性を取り払った時、そこには確かに 風景的なもの は残存する ( 私たちの主観とは別に ) のですが、もはや、私たちの関心はそこから離れてしまい、風景は私たちからフレームアウトしてしまっている。それは私たちの心性には何も訴える事のない風景以前の風景的なものに過ぎないのです。

  これに対して、たとえフレームアウトしても、私たちに関係なく、風景は風景として存在するのは間違いないのではないかという粗悪な新実在論的考え方をする人は結構いるかもしれません。その考えが根本的に間違っているのは、"風景" は私たちに関係ないどころか、既にどこかで私たちの主観性と出会い、風景という記号 として主観的な処理を通過してしまっている からなのです。この時、主観性は私の主観性ではなく、不特定な誰かによって処理された一般的主観性だと付け加えておきましょう ( 3 )

    それでも、主観とは関係なく存在しているには変わりがないとしつこく言う人は、次のように考えるべきです。主観的な処理が為されていない もの に私たちの理性が耐えうるかどう という事、それが記号化されている からこそ、それについて語れるのだ という事、です。

  もし、それが主観的な記号処理されていなければ、それは名付けようのない 無気味な現実 として私たちを狂気に陥れる事になる。例えば、震災直後のダメージが残る海岸近くの街並み・・・誰しも、これを "風景" という言葉では到底処理できずに、"凄惨な光景" という言葉で語る事を考えれば、そこには 主観的フレームの無意識的選択 があるのが分かるでしょう。何が風景であって何が風景ではないのかは、風景自体が決めるのではなく、私たちの主観性が無意識的に決定しているのです。そして、風景ではないものが、私たちの安定的主観的フレームを超えるものだとしたら、それは一体何なのでしょう。精神分析ジャック・ラカンならば、それを 現実界 ( 現実以上に現実的な不可能なもの ) との出会い だというはずです。

  この主観的フレームに対して、"女性" はどう関係して、どこに位置するのか、について、この映画及び、マグリットの作品に関連させて次回から考えていくことにしましょう。

(3 )   このような 主観性の通過 を見落とした哲学的失敗例が、マルクス・ガブリエルの『 なぜ世界は存在しないのか 』です。彼は、従来の形而上学と、少し前に流行った構築主義 ( ポストモダン ) との対比において新たに提唱する新実在論を説明するためにヴェズーヴィオ山を例にとって、四つの対象を提出する ( p.13~15 )。

a  ヴェズーヴィオ

b  ソレントから見られているヴェズーヴィオ山 ( アスリートさんの視点 )

c  ナポリから見られているヴェズーヴィオ山 ( あなたの視点 )

d  ナポリから見られているヴェズーヴィオ山 ( わたしの視点 )

a は誰も見てなくとも、そのような視線とは関係なく存在するヴェズーヴィオ山であり、これを従来の形而上学とする。それに対して、bcd、は各々の視線にとってのヴェズーヴィオ山があるだけであり、この背後には現実のヴェズーヴィオ山は存在しない、あるいは認識出来ないのであり、これを構築主義 ( ポストモダン ) だという。

そしてガブリエルは、これらの内、"どれか" が正解なのではなく、四つの対象を複数的に考慮する事こそが新実在論 と主張する。一見卒なくまとめられているかのように思えるかもしれませんが、実は a において彼の試み ( この場合、従来の形而上学的立場というのはガブリエル自身の考えに過ぎない ) は既に破綻している。

誰からの視線も関係なくヴェズーヴィオ山が存在すると言うのであれば、それはヴェズーヴィオ山とは認識されていないものだという事になる。それは ヴェズーヴィオ山と名指すための 主観性を通過した記号化処理 が為されていない ものです。そこにあるのはヴェズーヴィオ山と名付けられる以前の "何か" であり、a において何の疑問もなく "ヴェズーヴィオ山" として持ち込まれているのは無理がある。

ということは、ここから考えられるのは、a におけるヴェズーヴィオ山は、誰かからの視線とは関係なく存在するのでなく、ヴェズーヴィオ山と名指されるからには 既に 誰かの視線という主観性 を実は通過したものに過ぎない 事になる ( それがヴェズーヴィオ山として認識される事の意味となる )。

それは特定の誰かの視線によるものなのではなく、具体的な視線の集合 ( bd ) が引き起こす抽象化作用によるものだという事です。つまり、a のヴェズーヴィオ山は現実的なものであるどころか、哲学的抽象化によって具体から移行した 抽象的存在 なのです。このことをガブリエルは考えることが出来ないし、必要以上に劣化させているポストモダン ( ニーチェのパースペクティヴを発端とする ) に関しても彼は考え抜く事が出来ていないといえるでしょう。このようなガブリエルに対する批判的考察は以下の記事を参照。

[ 以下の記事へ続く ]