〈 It / Es 〉thinks, in the abyss without human.

Transitional formulating of Thought into Thing in unconscious wholeness. Circuitization of〈 Thought thing 〉.

▶ アッバス・キアロスタミの映画『 そして人生はつづく 』( 1992 ) を通じてフレームの主観的効果を考える

 

 

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監督  アッバス・キアロスタミ

公開  1992年

出演  ファルハッド・ケラドマン

    プーヤ・パイヴァ-ル

    ババク・アフマドプール

    ユセフ・バランギ

 



 1章  映画というフレーム

 

アッバス・キアロスタミの映画を牧歌的に考える人は多いと思いますから、ここでは別のアプローチ、哲学的に考えるアプローチをしてみましょう。1990年にイラン北西部ギーラーン州で起きた、マグニチュード7.4の "マンジール ー ルードバール地震 ( 1990 ManjilRudbar earthquake )" による被災地には、キアロスタミの前作『 友だちのうちはどこ? ( 1987 ) 』の撮影地であるコケルが含まれていた。地震後、キアロスタミは前作出演の子供たちの安否を確認しようと同地を訪れているのですが、その時の様子を映画化したのが本作。キアロスタミ役は、ファルハッド・ケラドマン ( シーン 1. )、その息子役は、プーヤ・パイヴァ-ルになっている。

 

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以下のシークエンスは、見過ごされるところですが、キアロスタミ自身の哲学の一端である フレームの中とその外側という境界にまつわる思索、それら両次元を作品の中で並列させようとする彼の試み が現れている箇所だといえるでしょう。

 

コケルに向かう途中の村 ( ここも地震の被害を受けている ) での日常風景を眺める映画監督 ( 1. )。彼の視線は壊れた家屋の扉があったであろう入口へと向けられる ( 2. )。ここで注意すべきは、この扉の外れた "入り口" とその左側、亀裂の入った壁に貼られた "絵画ポスター" の同時的な提示です。

 

画面は "入り口" がクローズアップされる ( 3~5. )。そして "入口という枠" が消えて向こう側に見える "緑の風景" が強調されるようになる ( 6. ) 。

 

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映画監督は、緑の風景をよりよく見ようと、"入り口" を踏み越え、その中に入る ( 7~10. )。

 

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入り口から戻った映画監督は、絵画ポスターの前で足を止め、壁の亀裂と共に破れた絵画ポスターを眺める ( 11~13. )。

 

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キアロスタミがわざわざこのシークエンスを描いた事の意味を見逃すべきではありません。ここで、絵画ポスターと扉が外れた入り口 との隣接関係を、絵画とその額縁 という完成的美術品の前提性、と比較的に考えてみましょう。本来、絵画作品とは、絵画が額縁に嵌め込まれてひとつの展示作品として完成するのですが、ここでは完成品が 絵画と額縁という別々の要素に分離 してしまっている

 

このことの意味は、キアロスタミが絵画作品の 通常概念の解体 ( シーン13. における亀裂は絵画作品の通常概念を停止させている事を表している ) を示す事によって、映画作品の物語性を "中断" させているという事です。扉の外れた入り口は、額縁である共に、映画における真っ白なスクリーンでもあって、それは本来 "額縁 / スクリーン" にふさわしいはずの "物語" を写すのではなく、人々が様々な事件 / 出来事に巻き込まれるという "現実" を写すことに徹しているのです ( *A )。

 

キアロスタミは、物語性ではなく、哲学的な意味での "出来事" を描き出そうとする。出来事の起きる舞台として風景が多用されるので、多くの人は彼の映画を牧歌的だと誤解しがちですが、そうではなく、彼は風景の元で起きる出来事、特に共同体の中の人間性、人間同士の関係性、を好んで描くし、得意でもある訳です。そして今作では大地震が平穏な人間関係を壊したが為に、キアロスタミは心を痛め、安否の確認が出来ない子供たちと再び繋がろうとしているのですね。

 

 



( *A ) 

このようなキアロスタミが語る物語性の否定については以下の記事の ( *1 ) を参照。

 

 



 2章  フレームとその効果

 

思考の深い映画監督、作家、哲学者は、無意識の内に、フレームという枠組みに纏わる主観性、虚構性、現実性、そして、それら諸々の概念や表象群の境界性について考えている。キアロスタミならば、『 桜桃の味 』のラストにおける 物語の中断 は、フレームの枠組みの中で提示される主人公の自殺という物語が主観的なものとして斥けられる ( *B )。サム・メンデスはこの映画におけるフレーム効果を利用して、物語性から瞬間的に独立したという意味での絵画性に高められた映像美を提示する ( *C )。アラン・ロブ=グリエに至っては、このフレーム自体が既に主観的なものに過ぎないとして、その形式を極限まで追求する ( *D )。

 

このように映画におけるフレームという形式の効果は監督それぞれによって 反省性 の異なるヴァージョンとして提示されるのですが、キアロスタミが面白いのは、フレームの主観的効果に異議を唱えながらも、人間を粗雑に扱わない人間性への愛というべきものが彼の映画には溢れているという事です ( それはこの映画の原題 "Zendegi va digar hich"、英語で言うところの "Life, and Nothing More …"、つまり、"人生、それ以上のものはない … "、にも表れている )。その為か、彼の場合、その哲学的思索の側面が見えにくくなっているとも言えるのですが、それを理解した時、ゴダールが彼を称賛するのも頷けるでしょう ( 終 )。

 

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( *B ) 

次の記事の2章を参照。

 

( *C ) 

次の記事の8章を参照。

 

( *D ) 

次の記事の2章を参照。