〈 It / Es 〉thinks, in the abyss without human.

Transitional formulating of Thought into Thing in unconscious wholeness. Circuitization of〈 Thought thing 〉.

▶ 桜庭一樹の『 少女を埋める 』論争について考える〈 2 〉

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桜庭一樹「 キメラ ー 『 少女を埋める 』のそれから 」p.59 ~ 106

 

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 1. 閉じた共同体

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a. 今月号の文學界を見て少し驚きましたね桜庭一樹がまだ『 少女を埋める 』について追加的に書いていたのでまだ言うのかと桜庭 ー 鴻巣 〉 論争の一部の界隈での盛り上がりに乗じて編集者が提案したのかそれとも桜庭の方から個人的主張を申し出たのかは分かりませんがこれは別に文學界に掲載せずとも桜庭個人のソーシャルメディア ( note 、twitter、など ) で書けばいいのではと思いましたそれを載せるくらいなら桜庭か他のどなたかの "作品" を載せてあげればいいのに

 

b. もちろん桜庭が今回の論争に対して自分なりに真摯に向き合った事が伝わる内容ではありましたが周囲の人間を気遣った "感情論" でしかなかったいくら気遣いがあるとはいえもう修正文を出すことで決着したと思っているであろう鴻巣は今回再び登場させられる ( 鴻巣は C という人物になっている ) 事になってもう勘弁してくれと思っているでしょう桜庭はここで鴻巣の批評やその後の謝罪における表現ケア労働や相手への寄り添い等を明らかに意識して鴻巣という "人間" に寄り添う姿勢を示しているのですがおそらくそれは鴻巣が望んだことではない

 

c. というのもそもそも鴻巣自分の人間性を分かってもらおうとして批評を書いているのではないのですから批評というテクストを解釈せずにスルーして短絡的に人間像に迫って来られても彼女も困惑するしかないでしょう桜庭は彼女の批評を "テクスト" として解釈せずに要約と解釈は分けるべきだと一点張りの主張をSNS や批評家が媒体で発表した擁護的文章への言及で以て固めるばかりでそれ以上の解釈をしようとしないこれではたんなる心情・感情論ですしかも今号の「 キメラ ー 『 少女を埋める 』のそれから 」を称賛する人達のコメントを桜庭自身がリツイートなどする ( それは論争が始まった時から続いている彼女の顕著な行動なのですが ) のは "" を作り上げた上での自己弁護的振舞いでしかないこれこそ閉じた共同体の人間達の内輪的振舞いでなくて何なのかきつい言い方になりますが今回の桜庭の作品を安易に称賛する人達は桜庭が作品の中で動物を殺害しようが近親相姦関係を描こうが、"実在のモデル" がいなければ構わないじゃないか純文学ではないのだからいいじゃないか程度の考えしか持てず文学と社会との関係性について深く考えることがないのでしょう

 

d. 自分を満足させてくれる評価ばかりを持ち上げ理解出来ない物は深く考えもせずに、"テクスト論"、"作者の死"、などの文学サロン的なものとして斥けるこのようなレッテル貼り的態度こそが閉じた共同体に属する人間の最たるものですどのような表現観念でもそれがどのようなカテゴリーであれ誰が使っていようと関係なくそれについて考え自分の中に取り組む事こそ大切なのですよく考えもせずに中央と地方開かれた社会と閉じた共同体新しい価値と古い価値作品と批評などのような二項対立的措定に捕われ、"敵対性" を煽るのが社会を改善する方法だと誤解されかねない圧力的振舞いこれは小説家の自由な振舞いであっても作品 ( テクスト ) の果たす役目ではありません

 

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 2. テクストの生、そして私小説

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a. テクストはそのような作家の狭量な倫理観から逃れ、"善悪の彼岸" へと赴くテクストは作家の人間的寿命を超えてヴァルター・ベンヤミン的意味での独自の生を獲得するそのような生の過程があるからこそテクストは時代を超えて生き延びる事が出来る文学史における数々のテクストは作者という人間的生命を乗り越えて星座を形成して後世にもその光を届けるこのような事を考える事が出来ずにテクストの評価を自分の人生においてコントロールしようとするのは、"人間的、あまりに人間的な" 振舞いでしかないもちろん過去にもこのような振舞いをする作家はいましたがその主張に従うことが作品の解釈の可能性を広げるとは到底言えないそれは作品の生を結果的に閉ざすことになる

 

b. 今回の文章でも桜庭が鴻巣の批評を要約と解釈の分離の点からの批判を繰り返すばかりなのは仕方のない ( それ以外に述べる力がないという意味で ) 事だとしても多くの人 ( 批評家でさえ ) が同じような観点からしか論ずることしか出来ずに、『 少女を埋める 』について独自の見解を述べる力がないのも問題の一つですそういう批評がないから桜庭を擁護するか鴻巣を擁護するかのようなどうしようもない二者択一的問題を煽るばかりになる

 

c. そのような二者択一的煽りの陰で見えなくなっているのが桜庭が個人の幸福という表現を経由して持ち出す社会性によって、"私小説なものに対する観念" が曖昧になっているという事です前回の記事でも述べたのですが桜庭の言う個人の幸福とは自分や身近な人間ついてだけ適用させる都合の良いものであって全く普遍的でないだから鴻巣の批評を簡単に修正させてしまう

 

d. ただここで言いたいのは桜庭が自分の思いを主張する事が間違っているというのではなくそうするのであれば自分と身近な者の為だけにそうすると率直に述べるべきだということです個人の幸福などという表現ではまるで万人の幸せを願うかのような偽善的な印象しか与えないそうではない事は今号の文章でも李琴峰や山崎ナオコーラの発言自分に同調する人たちの発言等に言及して自分の防波堤としての党派性を無意識的に形成していることから分かりますね。 

 

e. それは悪いことではありません悪いのはそういうことを自分と身近な人間の為だけにしているというエゴを率直に語らない事ですそのようなエゴを包み隠しているから今号の文章においても私小説というものついて自分の観念を掘り下げることも出来ないしそうする事も思いつかない考えることが出来ないから自分に同調する人間の発言で身の回りを固めようとすることばかりにあきれるくらい固執する

 

f. そのような振舞いでは、『 少女を埋める 』において採られた私小説的方法とは桜庭にとって一体何だったのかという事になるし彼女自身もその事の意味を考えないのだろうかという事にもなる私という自分を支えるために他者に救いを求める自己愛が彼女の根本にあるのだとするならばそれは今号の文學界の冒頭で『 蝙蝠か燕か 』が掲載された西村賢太とはあまりにも対照的過ぎる

 

g. これはどちらの作品が文学として優れているかなどという事ではなく私小説それ自体がそもそも個人的な経験を刻印する行為が内在化されているという意味で、"社会的なもの" だという事です私小説にこだわる西村は作家という存在の非社会性を肌で理解していてどこまでもエゴにこだわるそこには彼のどうしようもない人間性 ( 本人も認めているように ) が滲み出ているがエゴを貫く結果として待ち受ける社会からの没落をも受容する覚悟を私小説に込めているどのような評価を下されようとも作品を唯独りで受け止める者と社会に自分の意見への同調者を求める者とのこの違いここには 私小説に対する誠実さがエゴであるという真実 を率直に表明するのかそれともオブラートに包んで体裁を繕うのかの違いが現れているどちらが果たして "テクスト" に対して誠実であるのか

 

h. こういう話をするとそれは古い価値観だと言う人が出てくるのかもしれませんがそういう人こそ多分物事を深く考えないという意味で古い価値観に囚われているといえるでしょう作者の個人的経験を意図的に匂わせるという私小説手法はスキャンダラスな評価を引き起こすものですそれにも関わらず書くのは自分の人生を切り売りしてでも書くのは作家にとって書くという行為自体が社会性以前の社会に馴染めない非 社会的なものとしての自分の生存を裏付ける唯ひとつの方法 だからです

 

i. 一般的ではない特殊な職業唯独りでいる事が職業である作家が作品の中で社会性を "自己の倫理的擁護" のために用いるというのなら筆を置き独りである事を放棄して多くの人と同じようにサラリーマンか公務員と同じように働く方がよほど社会性を体現しているといえるでしょう社会的発言を "批評 ( 作家でありながら批評家である事も可能でしょう )" という形で表わすのは別に構わないと思うのですが文学作品の中でそれをしてしまうとじゃあそれまで書いてきた反道徳的要素のある作品は一体何なのかという事になる作品はそれ自体で生きているというのに作品における非社会的要素を無かったかのようにスルーするのは作品が孕んだ業を見捨てて自分の体面の事ばかり考える振舞いでしかない

 

j. 自由な題材を選び時には非社会的な内容を描いて収入を得ていたのに自分の身近な者が誤解に晒されると途端に社会性に訴え出るそうするのであれば自分のエゴを忠実に示して自分がどう思われようと構わない鴻巣の批評が心底我慢ならなかったとはっきり言い切る方がどれだけ誠実なことかそれが出来ずに上辺だけ取り繕ってモヤモヤが残っているものだから鴻巣が論争から一応の決着が付いたものとして現在は黙して語らずの態度を取るのに対して今でも相も変わらず自分の同調者を捜してばかりいる

 

k. そのような振舞いこそ自分のエゴに固執することでなくて何なのでしょうそういうのを自分の弱さや戸惑いなどで上書きして同調を周囲に求める振舞いはもはや文学からは離れた政治的なものでしかない桜庭は何かしらの圧力に対して、"出ていかないし従わない。" と言うそう思うのは彼女の自由ですが改めて強調する必要もないでしょうなぜなら今回の論争において鴻巣が謝罪を示した後でも鴻巣への批判をオブラートに包んだものでしかない自己弁護をしつこく続ける桜庭の振舞いは閉じた共同体の人間のものに他ならないのだからつまり彼女は既に昔からずっと閉じた共同体に埋められたままの少女であり精神的にはそこから抜け出ていないという事です

 

l. 結局の所桜庭は自分と自分の身近な人間のみの幸福しか考えていないのにそのエゴを隠そうとするから偽善的に見えてしまう個人の幸福を深く考えているのなら鴻巣が謝罪を示してから時間の経つ現在でも鴻巣を間接的に批判し続けることになる twitter 上でのリツイートなどしないでしょう ( 作中で鴻巣の事を "C" としていても、そんなリツイートをしていては全く意味がない事に気付かないのか、それともわざとやっているのか )それは結果的に鴻巣が名指しで批判される事態がどこまでも続くのを黙認しているという事であり彼女の謝罪を本当は受け入れていない事を示している

 

m. ここにあるのはやられたらやり返す向こうが最初に手を出したのだからやり返しても文句はあるまいのような報復程度の思想でしかない実際、『 文學界 』今月号の内容は三者が中立的に論ずるものならともかく桜庭の作家の立場からの一方的な意見表明であり余りにも不公平です ( 仮に編集部が鴻巣側にも意見の叙述を求めて断られているのならば、桜庭の方も載せるべきではなかったでしょう )そうではないたんなる報復以上の事を自分は考えているというのなら教えて頂きたいが、『 文學界 』の今月号を見る限り同調者の意見の引用ばかりで桜庭独自の考察を深める事は到底出来てなく ( 考える素振りは見せていても )それも難しいようです少なくともこれは僕にとって楽しめる作品ではないしそもそも作品ですらなくたんなる同調意見の引用集でしかない人それぞれですがこういったものを斬新だ面白い興味深いなどと簡単に持ち上げるのはどうかと思います ( そのような単純な称賛は、その人の読書遍歴及び読解力を自ずと表している。これを持ち上げるのなら他の作家達の面白いテクスト群はどういう扱いになるのやら )僕ならばこんな自己擁護にエネルギーを費やすくらいならもっと圧倒的な "テクスト" を書いて欲しいと考えるこういう事を書いても桜庭はお前なんかに従わないよくらいにしか思わないのでしょうけど

 

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