桜庭一樹「 キメラ ー 『 少女を埋める 』のそれから 」p.59 ~ 106
1. 閉じた共同体
a. 今月号の文學界を見て少し驚きましたね。桜庭一樹がまだ『 少女を埋める 』について追加的に書いていたので、まだ言うのかと。〈 桜庭 ー 鴻巣 〉 論争の一部の界隈での盛り上がりに乗じて編集者が提案したのか、それとも桜庭の方から個人的主張を申し出たのか、は分かりませんが、これは別に文學界に掲載せずとも、桜庭個人のソーシャルメディア ( note 、twitter、など ) で書けばいいのではと思いました。それを載せるくらいなら、桜庭か、他のどなたかの "作品" を載せてあげればいいのに。
b. もちろん、桜庭が今回の論争に対して自分なりに真摯に向き合った事が伝わる内容ではありましたが、周囲の人間を気遣った "感情論" でしかなかった。いくら気遣いがあるとはいえ、もう修正文を出すことで決着したと思っているであろう鴻巣は今回再び登場させられる ( 鴻巣は C という人物になっている ) 事になってもう勘弁してくれと思っているでしょう。桜庭はここで鴻巣の批評やその後の謝罪における表現、ケア労働や相手への寄り添い、等を明らかに意識して鴻巣という "人間" に寄り添う姿勢を示しているのですが、おそらくそれは鴻巣が望んだことではない。
c. というのも、そもそも鴻巣は、自分の人間性を分かってもらおうとして批評を書いているのではないのですから。批評というテクストを解釈せずにスルーして、短絡的に人間像に迫って来られても彼女も困惑するしかないでしょう。桜庭は彼女の批評を "テクスト" として解釈せずに、要約と解釈は分けるべきだと一点張りの主張を、SNS や批評家が媒体で発表した擁護的文章への言及で以て固めるばかりで、それ以上の解釈をしようとしない。これではたんなる心情・感情論です。しかも今号の「 キメラ ー 『 少女を埋める 』のそれから 」を称賛する人達のコメントを桜庭自身がリツイートなどする ( それは論争が始まった時から続いている彼女の顕著な行動なのですが ) のは "敵" を作り上げた上での自己弁護的振舞いでしかない。これこそ閉じた共同体の人間達の内輪的振舞いでなくて何なのか。きつい言い方になりますが、今回の桜庭の作品を安易に称賛する人達は、桜庭が作品の中で動物を殺害しようが、近親相姦関係を描こうが、"実在のモデル" がいなければ構わないじゃないか、純文学ではないのだからいいじゃないか、程度の考えしか持てず、文学と社会との関係性について深く考えることがないのでしょう。
d. 自分を満足させてくれる評価ばかりを持ち上げ、理解出来ない物は、深く考えもせずに、"テクスト論"、"作者の死"、などの文学サロン的なものとして斥ける。このようなレッテル貼り的態度こそが、閉じた共同体に属する人間の最たるものです。どのような表現、観念でも、それがどのようなカテゴリーであれ、誰が使っていようと関係なく、それについて考え、自分の中に取り組む事こそ、大切なのです。よく考えもせずに、中央と地方、開かれた社会と閉じた共同体、新しい価値と古い価値、作品と批評、などのような二項対立的措定に捕われ、"敵対性" を煽るのが社会を改善する方法だと誤解されかねない圧力的振舞い。これは小説家の自由な振舞いであっても、作品 ( テクスト ) の果たす役目ではありません。
2. テクストの生、そして私小説
a. テクストは、そのような作家の狭量な倫理観から逃れ、"善悪の彼岸" へと赴く。テクストは作家の人間的寿命を超えて、ヴァルター・ベンヤミン的意味での独自の生を獲得する。そのような生の過程があるからこそ、テクストは時代を超えて生き延びる事が出来る。文学史における数々のテクストは、作者という人間的生命を乗り越えて星座を形成して後世にもその光を届ける。このような事を考える事が出来ずに、テクストの評価を自分の人生においてコントロールしようとするのは、"人間的、あまりに人間的な" 振舞いでしかない。もちろん、過去にもこのような振舞いをする作家はいましたが、その主張に従うことが作品の解釈の可能性を広げるとは到底言えない。それは作品の生を結果的に閉ざすことになる。
b. 今回の文章でも、桜庭が鴻巣の批評を、要約と解釈の分離の点からの批判を繰り返すばかりなのは仕方のない ( それ以外に述べる力がないという意味で ) 事だとしても、多くの人 ( 批評家でさえ ) が同じような観点からしか論ずることしか出来ずに、『 少女を埋める 』について独自の見解を述べる力がないのも問題の一つです。そういう批評がないから、桜庭を擁護するか、鴻巣を擁護するか、のようなどうしようもない二者択一的問題を煽るばかりになる。
c. そのような二者択一的煽りの陰で見えなくなっているのが、桜庭が個人の幸福という表現を経由して持ち出す社会性によって、"私小説なものに対する観念" が曖昧になっているという事です。前回の記事でも述べたのですが、桜庭の言う個人の幸福とは、自分や身近な人間ついてだけ適用させる都合の良いものであって、全く普遍的でない。だから鴻巣の批評を簡単に修正させてしまう。
d. ただ、ここで言いたいのは、桜庭が自分の思いを主張する事が間違っているというのではなく、そうするのであれば自分と身近な者の為だけにそうすると率直に述べるべきだということです。個人の幸福などという表現では、まるで万人の幸せを願うかのような偽善的な印象しか与えない。そうではない事は、今号の文章でも、李琴峰や山崎ナオコーラの発言、自分に同調する人たちの発言、等に言及して自分の防波堤としての党派性を無意識的に形成していることから分かりますね。
e. それは悪いことではありません。悪いのは、そういうことを自分と身近な人間の為だけにしているというエゴを率直に語らない事です。そのようなエゴを包み隠しているから、今号の文章においても私小説というものついて自分の観念を掘り下げることも出来ないし、そうする事も思いつかない。考えることが出来ないから、自分に同調する人間の発言で身の回りを固めようとすることばかりにあきれるくらい固執する。
f. そのような振舞いでは、『 少女を埋める 』において採られた私小説的方法とは、桜庭にとって一体何だったのか、という事になるし、彼女自身もその事の意味を考えないのだろうか、という事にもなる。私という自分を支えるために他者に救いを求める自己愛が彼女の根本にあるのだとするならば、それは今号の文學界の冒頭で『 蝙蝠か燕か 』が掲載された西村賢太とはあまりにも対照的過ぎる。
g. これはどちらの作品が文学として優れているかなどという事ではなく、私小説それ自体がそもそも、個人的な経験を刻印する行為が内在化されているという意味で、"非 - 社会的なもの" だという事です。私小説にこだわる西村は、作家という存在の非 ー 社会性を肌で理解していて、どこまでもエゴにこだわる。そこには、彼のどうしようもない人間性 ( 本人も認めているように ) が滲み出ているが、エゴを貫く結果として待ち受ける社会からの没落をも受容する覚悟を私小説に込めている。どのような評価を下されようとも作品を唯独りで受け止める者と、社会に自分の意見への同調者を求める者との、この違い。ここには 私小説に対する誠実さがエゴであるという真実 を率直に表明するのか、それともオブラートに包んで体裁を繕うのか、の違いが現れている。どちらが果たして "テクスト" に対して誠実であるのか。
h. こういう話をすると、それは古い価値観だと言う人が出てくるのかもしれませんが、そういう人こそ多分物事を深く考えないという意味で古い価値観に囚われているといえるでしょう。作者の個人的経験を意図的に匂わせるという私小説手法はスキャンダラスな評価を引き起こすものです。それにも関わらず書くのは、自分の人生を切り売りしてでも書くのは、作家にとって書くという行為自体が、社会性以前の、社会に馴染めない非 ー 社会的なものとしての自分の生存を裏付ける唯ひとつの方法 だからです。
i. 一般的ではない特殊な職業、唯独りでいる事が職業、である作家が作品の中で社会性を "自己の倫理的擁護" のために用いるというのなら、筆を置き、独りである事を放棄して、多くの人と同じようにサラリーマンか公務員と同じように働く方がよほど社会性を体現しているといえるでしょう。社会的発言を "批評 ( 作家でありながら批評家である事も可能でしょう )" という形で表わすのは別に構わないと思うのですが、文学作品の中でそれをしてしまうと、じゃあそれまで書いてきた反道徳的要素のある作品は一体何なのかという事になる。作品はそれ自体で生きているというのに。作品における非社会的要素を無かったかのようにスルーするのは、作品が孕んだ業、生、を見捨てて自分の体面の事ばかり考える振舞いでしかない。
j. 自由な題材を選び、時には非社会的な内容を描いて収入を得ていたのに、自分の身近な者が誤解に晒されると途端に社会性に訴え出る。そうするのであれば、自分のエゴを忠実に示して、自分がどう思われようと構わない、鴻巣の批評が心底我慢ならなかった、とはっきり言い切る方がどれだけ誠実なことか。それが出来ずに上辺だけ取り繕ってモヤモヤが残っているものだから、鴻巣が論争から一応の決着が付いたものとして現在は黙して語らずの態度を取るのに対して、今でも相も変わらず自分の同調者を捜してばかりいる。
k. そのような振舞いこそ、自分のエゴに固執することでなくて何なのでしょう。そういうのを自分の弱さや戸惑いなどで上書きして、同調を周囲に求める振舞いは、もはや文学からは離れた政治的なものでしかない。桜庭は何かしらの圧力に対して、"出ていかないし、従わない。" と言う。そう思うのは彼女の自由ですが、改めて強調する必要もないでしょう。なぜなら、今回の論争において鴻巣が謝罪を示した後でも、鴻巣への批判をオブラートに包んだものでしかない自己弁護をしつこく続ける桜庭の振舞いは、閉じた共同体の人間のものに他ならないのだから。つまり、彼女は既に昔からずっと閉じた共同体に埋められたままの少女であり、精神的にはそこから抜け出ていない、という事です。
l. 結局の所、桜庭は自分と自分の身近な人間のみの幸福しか考えていないのに、そのエゴを隠そうとするから、偽善的に見えてしまう。個人の幸福を深く考えているのなら、鴻巣が謝罪を示してから時間の経つ現在でも、鴻巣を間接的に批判し続けることになる twitter 上でのリツイートなどしないでしょう ( 作中で鴻巣の事を "C" としていても、そんなリツイートをしていては全く意味がない事に気付かないのか、それともわざとやっているのか )。それは結果的に、鴻巣が名指しで批判される事態がどこまでも続くのを黙認しているという事であり、彼女の謝罪を本当は受け入れていない事を示している。
m. ここにあるのは、やられたらやり返す、向こうが最初に手を出したのだから、やり返しても文句はあるまい、のような報復程度の思想でしかない。実際、『 文學界 』今月号の内容は、第三者が中立的に論ずるものならともかく、桜庭の作家の立場からの一方的な意見表明であり、余りにも不公平です ( 仮に編集部が鴻巣側にも意見の叙述を求めて断られているのならば、桜庭の方も載せるべきではなかったでしょう )。そうではない、たんなる報復以上の事を自分は考えているというのなら教えて頂きたいが、『 文學界 』の今月号を見る限り、同調者の意見の引用ばかりで、桜庭独自の考察を深める事は到底出来てなく ( 考える素振りは見せていても )、それも難しいようです。少なくとも、これは僕にとって楽しめる作品ではないし、そもそも作品ですらなく、たんなる同調意見の引用集でしかない。人それぞれですが、こういったものを斬新だ、面白い、興味深い、などと簡単に持ち上げるのはどうかと思います ( そのような単純な称賛は、その人の読書遍歴及び読解力を自ずと表している。これを持ち上げるのなら他の作家達の面白いテクスト群はどういう扱いになるのやら )。僕ならば、こんな自己擁護にエネルギーを費やすくらいなら、もっと圧倒的な "テクスト" を書いて欲しいと考える。こういう事を書いても桜庭はお前なんかに従わないよ、くらいにしか思わないのでしょうけど。
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