〈 It / Es 〉thinks, in the abyss without human.

Transitional formulating of Thought into Thing in unconscious wholeness. Circuitization of〈 Thought thing 〉.

▶ ゴダールの死から考える。

 

 

2022年9月22日、ジャン=リュック・ゴダール死去。その訃報に際して、彼の安楽死という選択に注目が集まったりしましたが、そのような死に方については別に考えるとして、ここでは彼の映画について、より抽象的に述べておきます。彼の死という〈 現実 〉への関心が、よく分からない彼の映画についてもうこれ以上惑わされなくて済むかのような〈 思考の免罪符 〉となってしまわないように。

 

これまでも彼の映画についての批評・研究は多く為されてきましたが、彼の死をきっかけに今後はより総括的な批評・研究が専門家たちによって提示されていくでしょう。特にゴダールのような特異な映画監督の作品は、そういった人たちによって支えられてきた側面が強いですから。

 

しかし、その一方で、一般市民が、与えられた物語をひたすら眺めるという鑑賞形式、感銘を受けるという情緒的鑑賞形式、お気に入りのシーンやショットに言及する印象論的鑑賞形式、などいずれにせよ作品について自分から能動的には考える事をせずに済ませる鑑賞に陥っている事をゴダールの作品は明らかにしてくれる。

 

理解は出来なくとも彼の作品を観ておけば、映画史における重要な出来事に立ち会っているかもしれないという予感。確かにその予感は間違っていないのですが、しかし、彼の作品がたんに見られる事のみに立ち止まらせるものではないのは明らかでしょう。彼の映画は物語を一方的に与えているのではなく、考える事を要求する。たとえゴダール自身がそう考えていなくても、彼の作品がそう要求している。自分が自分自身において、ただ独りで考え始めてスクリーンに向かい合わなければ、そこで流される縦横無尽な作品は彼の独りよがり、一部の批評家が称賛する理解不能なもの、としか写らなくなってしまう。

 

一般市民が映画について "自分自身で考える" という行為の楽しみ、他の誰でもない "自分が一人で考えている" からこそ楽しいのだ、という鑑賞の哲学的原理をゴダールの作品は呼び起こしてくれる。映画を単に眺めるのではない。映画を観て考える、映画を観ながら考える、映画を観た後も考える、ゴダールが亡くなった後も考える …… 。偉大な作品は、人間の有限な生を越えて、死後の生 ( ヴァルター・ベンヤミン的な意味での ) を獲得し、人々の思考を挑発し続けるある種の持続性の原理を内包する。彼の作品が僕に考える事を促し、僕は考え始める。考える事が彼の作品に再び生命を吹き込む。そうやって人は自分の人生の中に作品の居場所を用意してあげ、自分の映画史を築き上げる。ゴダールがかつてそうしたように。複数の映画史 …… 。

 



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