〈 It / Es 〉thinks, in the abyss without human.

Transitional formulating of Thought into Thing in unconscious wholeness. Circuitization of〈 Thought thing 〉.

▶ ソルジェニーツィンの『 クレムリンへの手紙 』を通じて考える〈 8 〉

 

 

前回記事からの続き

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 第10章  〈 日常 〉 と 〈 凡人 〉、 そして普遍性 …

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▨ ミシェル・ド・セルトーは、このような私たち大多数である無名の者を "凡人 ( homme ordinaire / オム・オルディネール )" として素敵な概念化を施してくれた。 彼は、誰でもあり、誰でもない、この一般の人々の存在こそが 普遍性という概念に信用を与えてくれる のだと言う。 そしてセルトーはフロイトこそがこの凡人を正当に評価したとして詳細な説明をしていく。

 

 

 この「 哲学的 」人物が現代でどうあつかわれているか、これからとりあげてみようとする例は、もっとも含蓄の深いものではないかと思う。フロイトは、文明を論じ (『 文化への不満 』)、宗教を論じつつ (『 ある幻想の未来 』)、冒頭からごく普通の人間 der gemeine Mann ( 凡人 ) をとりあげ、分析の主題ともしているが、そこでかれは、文明と宗教というこの文化の二つの形態にふれながら、啓蒙主義 ( Aufklärung ) に忠実に、「 大多数の人びと 」の蒙昧にたいして、精神分析の啓蒙の光 (「 いわば微積分とおなじような、不偏不党の一手段、ひとつの方法 」) を代置し、世間一般によくある信心をある新しい知のもとに導いていこうとするだけで終わってはいない。精神の「 幻想 」や社会の不幸といえば、かならず「 一般大衆 」と結びつけて考えたがるような古いシェーマを再考しているだけではないのである。

 

『 日常的実践のポイエーティク 』p. 52~53 ミシェル・ド・セルトー / 著 山田登世子 / 訳  ちくま学芸文庫 ( 2021 )

 

* 下線は引用者の私によるもの

 

労働を昇華し快楽に転化できるような「 思想家 」や「 芸術家 」のことはさておいて - といってその選良が、フロイトのテクストのつくられてゆく場を指し示しているにはちがいないのだが - その選良を離れてフロイトは、「 凡人 」と契りをかわし、みずからのディスクールと群衆をひとつに結ぼうとしているのである。かれら群衆は夢を追いながら、その夢にあざむかれ、欲求不満をいだきつつ、勤労からのがれることもできないままに共通の運命につながれて生きており、欺瞞の掟にしたがわせられながら、死の業をまぬがれることもできない。フロイトはそうした群衆とひとつになろうとしているのである

 

前掲書 p.53   * 下線は引用者の私によるもの

 

 たしかにフロイトは凡人を非難しながら、かれらは宗教的な神のおかげで「 この世のありとあらゆる謎が解明される 」と思いこみ、「 自分の人生を摂理が見守ってくれる 」という幻想をいだいていると語っている。〈 中略 〉。けれども、フロイトの理論にしたところで、だれもが味わう普遍的経験に力を仰いでいるのであり、そこからおなじような御利益をさずかっているのではなかろうか。ここで凡人は貶められ、迷信深い俗衆と一緒にされてしまっているけれども、それでも凡人は、なにか抽象的普遍にも似たすがたをとりながら、その及ぼす力によってそれとわかるような、ある神の役割をはたしている。つまり凡人は、〔 フロイトの 〕ディスクールにたいして、ある特殊な知を一般化する手段をあたえ、話の全体をとおして、そのディスクールの効力を保障する手段をあたえてやっているのだ。凡人の権威をかりて、ディスクールはみずからの限界をのりこえるのである - なんらかの治療に限定されてしまう精神分析の能力の限界を、そしてまた、現実に準拠しながらその現実を奪われているあらゆる言語そのものの限界を。

 

前掲書 p. 54   * 下線は引用者の私によるもの

 

フロイトは「 下層民 」に個人的な偏見をいだいていたし、ミシュレは《 民衆 》にたいしてちょうど正反対の楽観的な期待をいだいたが、いずれにしろ凡人はディスクールにたいして、その全体化の原理となり、信憑性の原理となる務めをはたしてやっているのである。凡人あればこそディスクールは、「 これは万人の真理である 」と言い、「 これは歴史の真実である 」と言えるのだ。そこで凡人はかつての神のようなはたらきをしている。

 

前掲書 p. 55

 

 だが年老いたフロイトはちゃんとそのことに気がついている。自分で自分のテクストをからかいながら、「 まったく無用な 」慰み半分の仕事だと言い (「 一日中タバコをふかしたり、トランプをしたりするわけにもいかないから 」)、「 暇つぶし 」に「 高尚なテーマ 」をとりあげてみたものの、「 ごく月並みな真実を再発見した 」だけのことだ、と言う。フロイトはこのテクストと「 これまでの著作 」とは別だと述べて区別しているが、これまでの仕事は方法のための諸規則を論じるものであり、しかもさまざまな症例にもとづいて構築されたものである。ところが、このテクスト ( 注:『 文化への不満 』のこと ) ではもはや少年ハンスのことも、ドラもシュレーバーも問題になっていないここにふれられている凡人は、なによりもまずフロイトの教化的意図をあらわしており、専門分野のなかでもういちど倫理一般の問題を再考しようとするもの、一種のおまけというか、精神分析の手続き以前にあるなにものかである。そのことによって凡人は、ある知の反転をあらわにする。

 

前掲書 p. 55  * 下線は引用者の私によるもの

 

事実フロイトが来るべき「 文明社会の病理学 」にむけて序文を書いていながら、自分でそのテクストをあざ笑っているというのは、ほかならぬかれ自身がここで語られている凡人であるということ、苦く「 月並みな真実 」のいくつかを手にした、その凡人そのものであるということなのだ。考察のしめくくりになると、フロイトはうって変わったような口調になっている。いわく、「 おまえは、何の慰めもあたえてくれないではないかと世間に非難されるなら、わたしは甘んじて非難をうけとめることにしよう 」、なぜなら、わたしとて慰めが見出せないのだから、と。そこでフロイトはみなと同じように窮地におちいり、やおら笑いだす。アイロニーに満ちた賢者の狂気は、特異な能力を失ってしまうということ、そうして自分もまただれとも変わらぬ者、だれでもない者、よくある〔 共通の 〕話のなかの一人にすぎないのだ と悟ることに結びついている。『 文化への不満 』という哲学的コントのなかの凡人、それは、話し手そのひとである。この凡人は、ディスクールのなかで学者と凡俗をつなぐ結節点になっている - この凡人をとおして、それまでは注意深くそこから区別されていた場に他者が ( だれでもあり、だれでもない者が ) 回帰してくるのだ。ここでもまた凡人は、ディスクールのなかで専門的なもののなかに 卑俗なものが侵入してくる軌跡を描き、知をその一般的前提へと連れもどす軌跡を描いている。こうして、フロイトは語るのだ、確かなことは、わたしにもまるでわからない、わたしもみなと変わらないのだ、と。

 

前掲書 p. 55~56  * 下線は引用者の私によるもの

 

▨ 少々長い引用になってしまいましたが、以上のセルトーの説明で重要なのは、〈 凡人 〉というものが、大多数の人間の数量的集団存在自体を表わすような単純なものではないという事です。 注意すべきは、私たち個々の人間は名前を持っているにも関わらず、歴史の長大な時間経過の中では、一部の特権的な人物達を除いて、その名が 〈 誰 〉を指し示しているのかはもはや分からなくなる "埋没の必然性" において、固有名は意味 ( 指示機能 ) を失っていく という事です ( それが何処の誰の事を指しているのかはその周辺の人達が亡くなってしまうと分からなくなる。 歴史に刻まれた人は別なのでしょうが  )。

 

▨ 固有名が人間にとって、普遍的な意味を持つかのように説くのは歴史に名を刻む欲望に縁取られた政治権力的な振舞いでしかない ( 政治家のみならず学者、社会的著名人を含めた ) のです。 本来、一人の名前は社会や歴史に広く刻まれる事が無くとも、身近な人々に認知されていく過程で、その当該人物が日常生活を送る為の空間は十分に切り開かれていくし、それはひとつの幸福でもある ( それは悲劇にも変転しうるのですが ) のです。 それ以上の事を望む者が社会や歴史に名 ( それが自分の名ではなくとも ) を刻もうと固有名を特権化するに過ぎません ( そうすると "動物" は一体どうなるのかという話にも繋がっていきますね )。 固有名とは人間にとって日常生活を送る上でのひとつの要素でしかないのであって、その名をそれ以上に強調する事は既に日常性からは離脱した政治的特権化行為、しかも 万人に向けられるかのような外装のもとで為される、限られた人間への適用行為でしかない のです。 著名な固有名については取り上げるが、そうではない固有名については説明例として成立しないが故に取り上げる事が出来ないという "特殊な選別化" が起きている訳です。 そうすると "固有名の普遍性" とは一体何なのかという疑念が起きますね。 政治的選別化によって成立する普遍性とは一体 …… 。

 

▨ なので、もし固有名を強調する、または再固有化するのでなければ、真の人間たりえないという主張する方がいるのなら、その人たちにとって、歴史の中に埋没していった、いや、いまも埋没し続ける "無名の者" は人間ではないという事になるのでしょうか。 それに対してセルトーはそうではないと言っている。 名も無き〈 凡人 〉こそが普遍性の礎であるからこそ、政治権力はその普遍性を担う〈 凡人 〉を集団化統治する事でその基盤を成立させているといえるのです。 〈 凡人 〉とは、集団的人間に課せられる名ではなく、集団以前の名も無き個人であっても一人で十分に人間足りえている事に冠せられる単独性概念 と考えるべきでしょう。 つまり、政治的主体と成る事がなくとも、歴史的主体と成る事がなくとも、"大文字の固有名" を持たなくとも、人間は日常生活を送るという持続性において既に尊厳のあるものとして成立している 事を〈 凡人 〉の概念は示してるのです。

 

 

▨ さて随分と寄り道をしてしまったのですが、次回から再びソルジェニーツィンについての話に戻しましょう。 『 クレムリンへの手紙 』というタイトルではありながら 実際には手紙ではないこの作品 は、ロシアの未来を憂慮した政治提言の形式を採った文学作品となっています。 それは "手紙" という言葉を組み込む事で、ソルジェニーツィンが自らの意志を政権に対して送付したのだという "表現上の事実" の疑似確定化が為されている、つまり、実際にクレムリンに手紙を送ったという行為的事実性ではなく、自分はクレムリンに対して政治憂慮の意見を発したのだ という世間に対してのアピールになっているのですね。

 

▨ 彼は自分の意見によってクレムリンが態度を変えることはないだろうと分かっていながら世界に向かって自分のメッセージを送る事に主眼を置いている。 自分のメッセージの真の宛先を特定の誰かではなく、自分の主張を理解してくれるであろう不特定多数が存在する普遍的な世界にしているという時点で、メッセージの "到着点 / 終着点" というべきものを無意識的に想定している のです。 それは、その想定地点が無ければ自分の主張は受け取られる事がなく、つまり、理解される事がなく、"彷徨い続ける事" になってしまうのをソルジェニーツィンは少なくとも ( まあそれは彼でなくともそうなのでしょうけど ) 望んではいないと私たちに判断させてくれる暗黙の到着点なのです。 しかし、彼のメッセージは、"到着点" において、"理解の完了地点" で、受け取られたのでしょうか。 もし、そうでなかったのなら、この "手紙作品" とは一体何なのでしょう。 次回はそれについて考えましょう。

 

 

次回予定の記事に続く

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 参考資料

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▨ 『 日常的実践のポイエーティク 』 ミシェル・ド・セルトー / 著 山田登世子 / 訳  ちくま学芸文庫 ( 2021 )

▨ 『 幻想の未来 / 文化への不満 』 ジークムント・フロイト / 著 中山 元 / 訳  光文社古典新訳文庫 ( 2007 )

▨ 『 クレムリンへの手紙 』 ソルジェニーツィン / 著 江川 卓 / 訳  新潮社 ( 1974 )