〈 It / Es 〉thinks, in the abyss without human.

Transitional formulating of Thought into Thing in unconscious wholeness. Circuitization of〈 Thought thing 〉.

▶ マルクス・ガブリエルのイスラエル擁護記事を通じて色々と考える〈1〉

 

1. まずは、状況の感想について …

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▨   興味深い新聞記事があったので、それをきっかけに考えた事を書いておこうと思いまして ( もう誰も書かないだろうなとの思いもあって )。 その新聞記事とそれに対する世間の受け止め方を見ると、哲学と呼ばれるもの ( 哲学という言い方自体、余りにもアカデミックで本当は好きじゃないのですが ) は僕が考える意味での 論理性についての "思考-行為" などではないのだと再確認しましたね。 誰も別に、論理的思考行為を技術的、技法的な、意味で突き詰める事などに何の意義も見いだしていないのだな、スポーツや格闘技における "技術性の追求" が内輪的独占 ( 教える側の優位性・秘匿性 ) を越えて全体を底上げするように普及する、そのような "行為の洗練化" は哲学の世界からは起きないのだな、と思いました。 そんな事よりもいかに党派的、政治的な "合意的意見" を形成していくか、より "政治的思考内容" を残していくか、が大事な人がほとんどなのでしょう、哲学界隈では。 ここで言う政治とは大文字の政治的イデオロギーの表明や信奉という事ではなく、集団的合意性を形成する小さな政治 ( 私たちの誰もが日常の中で行っている心的集団化作業というべきものです )。 つまり、哲学者と呼ばれる方々も、党派間や派閥間での応酬に躍起する政治家と何ら変わらないという事です。

 

 まあ、順を追って話していきましょう。 新聞社の山陰中央新報デジタルに 『 世界探視鏡 』 というマルクス・ガブリエルの連載記事があるんです ( これを転載している別の地方紙もあります )。 その2014年1月15日の連載で、彼はイスラエルハマスの間の戦争行為に関してイスラエル擁護の意見を述べているんですね。 ハマスは話の通じないテロリストなのだから、イスラエルが自国を守る為の報復措置は当然だ、それは反ユダヤ主義が強まる世界の傾向に対する警鐘としても当然だ、という具合に ( そして、そこで戦争に巻き込まれるガザの市民については 憂慮する と僅かに記事の最後で触れられるだけです )。

 

 どちらが良し悪しかは別として、この "戦争それ自体" を肯定するかのようなガブリエルの記事は、それ程、日本の市民の間ではそれ程話題にならなかった。日本の新書ブームで時の人になったかのような彼ですが、世間はその記事に余り気付かなかったようです。それは、日本の新書での彼の読者は、マルクス・ガブリエルの存在をそれ程真剣には気にしていない、そこまで祭り上げてはいない、という事の現れであって、彼の動向には無頓着なのですね。でも、そもそも哲学者だからといってその発言が本気で受け取られたり賞賛される必要もない。というのも、別に本人も啓蒙家気取りでパフォーマンスしているだけで一般人の意見を本気で聞く事もないのだから ( 感情論以外で )。 なので、メディアや講演会で面白そうな発言するライトな哲学者でしょと思われて話半分で聞かれるくらいの距離感で丁度いいんですよ ( 逆に、彼の啓蒙話の哲学的抽象度を理解した人は、その内容にかなりの疑問を抱く事になるでしょう )。

 

▨  ただ、これとは対照的に、アカデミックな方々 ( 特に哲学系の ) はガブリエルのこの政治的発言には何かしらの重要な意味が含まれているのではないかと感じながらも触れようとする事はほとんど無いように見えました。 特にガブリエルとその専門分野 ( シェリング研究 ) を同じくする方々、そして彼と対談した方々、はどうなのでしょう。 彼の専門の哲学研究は擁護しておきながらも、彼の啓蒙活動については敢えて触れないという知らない振りには、臭い物には蓋をするという感がありすぎる。いや、研究と政治は別々のものだと言う人もいるのかもしれませんが、そのような使い分けこそが既にミニマムな政治であり、哲学以前に政治を優先しているだけに過ぎないのではないか、もし、研究と政治は別物だと言うのなら、ガブリエルという人間を擁護しているのではなく、あくまでも彼の研究における論理性を擁護しているのだ、と付け加えておかないと 戦争の肯定には無頓着なただの党派的な庇い合いでしかなくなる、 と思ったりしますね。

 

▨  上で述べたガブリエルを擁護・同調した人たちの中には、第二次大戦中の日本の戦争に思想的に協力した京都学派と称される知識人たちを批判的に語った方がいる ( 菅原潤や中島隆博など ) のですが、ガブリエルの発言を含めてこの状況を眺めた時、これはもうブラックジョークでしかない。 こういう時に分かるのは、彼らが関心を持っていたのは戦争肯定に向かった 京都学派という知識人の動向を現象的に総括する事 なのであって、平和それ自体について哲学的に考える事平和を概念化する思考行為、など毛頭ないという事です。それを考える事が出来ない、考える能力が無い、からこそ京都学派は戦争肯定に向かったというのに。 これでは何も変わっていない。

 

▨  ガブリエルのように 思想的に戦争を肯定するとは、犠牲になる者たち ( 市民 ) の事など気にも留めない視点においてしか成立しない ( 気にしていたら戦争を肯定するなど到底出来ない )。 まさかガブリエルがこのような戦争肯定論に限りなく近い発言をするとは以前には思いもよらなかったと言うのかもしれませんが、だからこそそこについて語って欲しい …… けど、スルーするのでしょう。 どうせ一般市民はそんな事には気付かないのだから、語る程の事ではないという具合に。

 

▨  わたしたち一般市民は、自分たちが教養の無い者だろうと "知識人 ( この表現も古臭いのですが )" に結構軽く見られている現実 をもっと理解した上で、彼らの話を "客観的に聞く" 事が出来るようになるべきでしょう ( 知識人の見下しを予め汲んだ聞き方を作るという事ですね )。  教養が無いからといって立場が対等でなくなるような関係性 ( 教える立場 / 教えられる立場 ) を黙認していたら、いつまでも一方的かつ権威的に教えを説かれ続けるだけで、一般市民の思考が真剣に受け止められる事なんか永久に起こりえない。 これは、一般市民は話を聞かされるだけで、自分たちからは抽象的議論など語る事など出来ない短絡的人間として固定化されてしまうという事です ( 一般市民の意見・思考を哲学的に受け止める知識人なんてほぼいないですからね )。 また、市民の中にも難しい事はよく分かんないから仕方ないと黙認する人もいるでしょう。 しかし、このような人間関係における立場の固定化構造というのは人間が生きていく上での自由度を狭めるものでしかない のです。 先生が常に先生である事はないのであり、教え子が、いや門外漢の市民であっても先生に対してより先生になる事は幾らでも起こるし、 政治家は常に政治家ではないし、市民が政治家に対してより政治家である事は起こるのです。 これは実際の肩書や制度上の話ではなく、個人の精神的・心的状況は誰であれもっと自由であるべきだという話ですね。 そのような心的立場の絶えざる変転が無ければ人間関係は硬直化するし、民主主義とは政治家が思い通りに動かし市民はそれに従うだけの閉塞的なものになるだけです。

 

▨  なので、 知識人のほとんど ( そうでない方もいるので、全ての方だと言い切る事は出来きませんが ) はどうせ一般人の話を深く聞かないのだから気を遣う必要はないんです。  市民は各々が自分なりの論理を構築しながら、遠慮せずにもっと自分の哲学的思考をガンガン表明していいんです ( 知らん振りされたって別に構わないんですよ )。 別にその本人に直接言う形ではなくとも、誰もが自分の論理性を持って、何かを何処かで深く語る事で、誰のものでもない、つまり、誰のものでもある "思考空間" が日常形成される のですから。 そうなればマルクス・ガブリエルや斎藤幸平を始めとする大した論理性など無い疑似啓蒙活動を行う者たちの話などありがたがって聞く事も無くなっていくでしょう。

 

 

以下の記事に続く

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