Chapter 6 戦士と平穏的市民
1 ここで再び、文化について考えることにしましょう。人間は文化を通じて、人間自身に対して最大限の暴力が加えられる政治的攻撃性を自己抑制する昇華を成し遂げている。他人との闘争・他人への攻撃、等の対他的暴力という自己実現化ではなく、自分自身を ひとつの物 ( 作品など ) へ置換変化させる ( ドゥルーズ=ガタリなら生成変化と言うであろう )、つまり、"力というもの" が他人 / 対象物に攻撃圧を加える "対象破壊-力" 、"対象操作-力" として占有的に現実化される事態に対して、力の別の行使の結果として文化という新たな現実物が昇華的に生まれたという事です。既に存在する人間 / 人間集団という現実物は、その既に在る ( 人間 ) 物という誰にとっても揺るがない "対象事実性" によって破壊するか統治操作するしかない、という力の限定行使( 権力 ) を袋小路的に誘発してしまう。
それに対して、文化は既に在る ( 人間 ) 物に力を行使するのではなく、( 事実 / 既存 ) 物ではない新たな ( 生成 ) 物を生み出す事に力を用いる というような、力のベクトルの根本的変化という昇華に成功している。既に人間物はあるのだからそこに力を行使するのだという権力的力ではなく、新たな生成物を生み出す事に力を用いるという自己昇華性へと力の適用領域が移動している訳ですね。
2 ここにおいて人間は人類史において "戦争という対他的暴力" とは違う別の選択肢としての "対自的平穏・平和" を潜在的に獲得し、人間同士の共生への道を結果として切り拓いている。違う言い方をするならば、人間が人間自身に加える暴力行為及びその極値としての現実的戦争に対して、攻撃衝動それ自体が放棄された平穏状態を対置する事で、水と油である対極的な双方に "選択可能なカップリング化" を施すという無意識的な "隣接-接合論理 ( 戦争と平和 )" に行き着いている。 ただし、これは即座に、戦争行為と反戦行為というイデオロギー行為の選択に直結するものではなく、戦争という暴力行為に注ぎ込まれるあらゆる意味での国家的欲動の急激化は、人間個人の心的布置、心的バランス、とは同じ暴力性を行使していたとしても、そのエネルギーの巨大性において論理的落差として人間個人の欲動の減退を生み出すという論理性の問題なのです。
3 つまり、単なる人間個人間で起きる暴力的対立も、国家規模の暴力的対立の巨大次元になると打ち消されてしまう暴力性の反転的事態が最後には起きてしまう。個人レベルで相手に突発的な暴力行為を働かせる欲動も、戦争等の国家規模の暴力の長期的展開の次元になると、その暴力的欲動はもう個人レベルでは維持できないものになる。何故自分が戦っているのか分からない、もうこれ以上は戦いたくない、といういわゆる心が折れる状態 ( 降伏 ) が自己の存在を無意識的に守るような形で現れる。例えば競技スポーツや格闘技の経験のある方ならば、圧倒的に強い相手と戦いダメージを負った時、最初に持っていたはずの闘志は簡単に消え去り、それどころか、もうこの戦いが早く終わってくれ と心の中で思いながら規定時間の消化を待つという事がよくあるのはお分かりでしょう ( 外から観ている人には普通に戦っているようにしか思えなくとも )。これが大多数の人にとっての戦いにおける心的状態の移行の真実、戦時最中にありながらも抱く戦いからの逃避願望、なのですね ( だからこそ、そのような自軍の逃亡兵士を後方から監視、場合によって射殺する後方部隊の存在がある )。一部の軍人の英雄視や軍事思想・軍事戦略史などは戦争の次元を自動的に聖化する論理に浸透化され過ぎて、 戦いを拒否する事もまた戦争の中の論理のひとつである とは夢にも思わない。
4 この戦争の聖化的分析の例としては、軍事史研究の大家 マーチン・ファン・クレフェルト ( Martin Van Creveid ) の見解が挙げられる。彼は偉大な指導者と称されるウィンストン・チャーチルやセオドア・ルーズヴェルトらが戦争それ自体をいかに楽しんでいたかを示しながら、人間にとって戦争は手段なのではなくそれ自体が目的なのだ、 人間は戦争を求めているのだ、と説明する。
いつの時代にも戦争に対する嫌悪感を伴う恐怖を語る人がいれば、その一方で、戦争のなかに、自己の経験のなかで最高のものを見いだす-老後に、戦争中の手柄話を物語って子供や孫たちをうんざりさせるほどにまでなる-人もいる。 最近のもので、かつ西洋文明世界の例をほんのいくつかあげれば、ロバート・E・リーは、「 戦争が恐ろしいのはいいことだ。 さもなければ戦争ばかりしてしまう 」と言い、セオドア・ルーズヴェルトは何よりも善き戦いを愛し ( このテーマについて、ルーズヴェルトは詳細に論じている )、機会が巡ってくると義勇騎兵隊を率いてキューバ戦線のスペイン人狩りに出かけた。 ウィンストン・チャーチルは若い頃、各地の戦争に首を突っ込み、第一次世界大戦直前には女友達に、戦争に参加すると自分がいかに興奮するか、ぞくぞくしてくるかを書き送っている。 一九四五年、第二次世界大戦の終結が迫ると、チャーチルは自殺したい気分に襲われたということである。 ジョージ・パットンは日記に、戦争が「 好きで 」たまらないと書いている。 〈 中略 〉。 パットンやチャーチル、セオドア・ルーズヴェルト、リーが偉大な指導者たちとみなされている一つの理由は、彼らは戦闘という環境のなかで生き生きとしていたからである。彼らを含めて時代や場所を問わず偉大な指導者たちは、自分自身が戦闘を楽しんでいるから、数えきれないほどの人たちを鼓舞してあとについてこさせることができたのである。
『 戦争の変容 』 マーチン・ファン・クレフェルト / 著 石津朋之 / 監訳 p. 269 原書房 ( 2011 )
もし戦争が、危険に勇敢に立ち向かい、危険に対処し、危険を克服することを伴わなかったら、戦うことに意味はなくなるばかりでなく、その活動自体が不可能になる。 〈 中略 〉。 要するに危険が戦争を動かしているのだ。
前掲書 p. 273
戦う人間はすべてを危険にさらすので、その人間は何であれ自分の命よりも大切と思われるもののために戦う。 〈 中略 〉。 神、国家、民族、人種、階級、正義、名誉、自由、平等、友愛は、人間がいつでも命を捨てる理由となる無意識的全体性を表現する神話的観念として同じ部類に入っており、実際、人は昔からこういったもののために死んできている。 さらに注目すべきは、この方程式が逆にもなることだ。 神話的なものの名において、血が流されれば流されるほど -たいていは我々自身の血だが、敵の血が流れる場合もある - それは神聖化される。 神聖化されればされるほど、合理的、実用主義的な言葉で考えられなくなる。 流血に対して大きな、崇高ですらある意味を与えようとする人間の欲求は非常に根元的なものなので、知性をどうしようもなく無力なものにしてしまう。
前掲書 p. 276
5 クレフェルトはここで戦争を賛美しているのではなく、軍事史研究家としての冷静な視点から、戦争の歴史を通じて戦争というものが人類にとっていかなる意味を持つものなのかを原理的に考えようとしているのですが、彼は 戦争が人間を英雄的主体 ( 兵士、軍人、軍人政治家、等 ) へと駆り立てる "通過儀礼のようなもの" と考えてしまっている。 そう、彼はここでクラウゼヴィッツやミシェル・フーコーが問題にした "戦争と政治" という両概念の相互関係性を一気に飛び越えて "戦争と文化" の関係性考察、いやそれどころか戦争を文化へと強引に同一化させようとする "文化の権力化" とでもいうべき最悪の権威主義的帰結へと至っている ( 彼には『 戦争文化論 / The Culture of War 』という著作がある )。 彼は 「 戦争は権力に仕えるのではなく戦争こそが権力なのだ 」 と言うが、戦争が政治である事を越えて、さらに文化と同等視されてしまえば、それは文化領域の自律性が尊重されるのではなく 文化が権力形態化される事態になっている事 に彼は全く気付かない。いうなれば文学や映画などの芸術嗜好の強かったスターリンが権力側から芸術に干渉する振舞いとそう変わりはないという事です。文化が権力とは違う自立物である事の意味が全く考慮されない のですから ( スターリンはそのような自立物に魅了されたからこそ、その昇華的破壊物が政治体制を転覆させないようにコントロールしたといえる )。( *1 )
( *1 )
クレフェルトがここで得意げに語る戦争文化論は、既に二百年以上も前にカントによって記述されていて、彼はそのような見方は真実であるとしても戦争を肯定するものとして暗黙の内に批判している、何しろカントは戦争は悪だと何回も言っている程なので。
しかし戦争そのものにはいかなる特別な動因も必要でない。 戦争はあたかも人間の本性に接ぎ木されたかのようである。 それどころか戦争は何か高貴なものとみなされて、利己的な動機なしに栄誉を求める気持ちから行われるもののようである。 だからアメリカの未開な民族も、ヨーロッパの騎士時代の人々も、戦う勇気というものはそれだけで重要な価値のあるものと判断したのであり、この勇気は戦争のさなかだけでなく ( それは当然のことだから ) 、戦争を始める際にも高く評価されたのだった。 こうした戦う勇気を示すためだけにも戦争が始められることが多かったのであり、戦争そのもののうちに、内的な尊厳のようなものがあるとされたのである。 そして 「 戦争は悪である。 戦争は多数の悪人たちを滅ぼすが、さらに多数の悪人を作りだすからだ 」 というギリシアの格言を忘れて、哲学者たちまで、戦争は人間性を高めるものと称えるのである。
『 永遠平和のために / 啓蒙とは何か 』 カント / 著 中山元 / 訳 p. 202~203 光文社古典新訳文庫 ( 2006 )
6 戦争を人類が憧れる危険を克服した英雄的主体化の為の通過儀礼であるとして疑似文化論的に語る時、クレフェルトは暗黙の内に 人間選別という極めて "原-政治的な差別化" を行なっている 事に注意すべきです。少し考えれば分るはずですが、全ての人間が英雄になれるわけではない。全ての人間が英雄であるのならそれはもはや英雄ではない。全てが均質的な人間なのだから突出的な英雄はそこにはいないという事です。つまり、英雄とは人間集団の中から選ばれた少数の頂点、人間集団を統率する少数者の代理形象なのであって、英雄になれなかった者たちはいる事は問題にすらならない。おそらくこれこそがクレフェルトが語ろうとしない戦争が曝け出す別の本質、戦いを欲する少数の英雄的主体の下では 戦い自体に価値を見出せない多くの人間が仕方なく戦っているという "脱暴力的論理" が戦争論理から反照的に出現している。"暴力 / 戦争という非日常的極端性" を望む者がいる という事は、同時に、その欲望を成り立たせる反照点としての 暴力 / 戦争を望まない者がいる 事を意味する。そしてそれは、戦争という危険性への "欲望" が日常的恒常性への "願望" へと次元移動している事態、つまり、戦いの中で自己の生存価値を確認する "戦士 / 軍人" ではなく、平和という日常を過ごす事に安住する "平穏的市民" という別類型人間の対抗極的出現 でもあるのです。
7 クレフェルトはこの類型的人間のもう片方、戦闘・戦争を好む勇敢な者のみが人間史において価値があるかのように語り、そうでない多くの人間については語ろうとしないし、語る術もないのです。これでは少数者こそが人間史において語る価値があるかのような権力主義的思考であり、戦争に勝つためならば味方が犠牲になることも厭わないチャーチルと変わらない ( チャーチルは民主主義を否定はしないが、自らの "戦闘精神" と照応させた時、民主主義に一抹の侮蔑を抱いている )。 "人間史" とは、歴史の表舞台には上がらず語られず、ひたすら忘れられ続ける現在進行形的永劫性の中に消え去る人間たちの "埋没史" に他ならない ( 私たちの大多数がそうなのです ) という事実にクレフェルトは何の興味もない。 そこでは、まるで人間の歴史の形成は、戦争及び戦士・軍人、軍人政治家等の特権的英雄によって担われてきたかのように話が進む。
8 しかし、人間の歴史を英雄史としてではなく "精神的な埋没史・地層史" と見なすならば、 その堆積物は、間違いなく歴史の中から忘却され時間の物理的進行の奈落へと埋没していった人々の "巨大な事実体" に他ならない。それはどれだけ無視されようと、"無意識的知-層" として歴史を形成している。この観点からすると、ソルジェニーツィンの『 収容所群島 』は権力によって消滅させられる人間たちの "埋没史" のひとつであり、それは権力の傍系史として共に人間の歴史を形成している事を明らかにしてくれたのです。そして彼の『 クレムリンへの手紙 』がロシアの未来の政治舞台としてシベリアを挙げるのは、モスクワのクレムリンを中心とした政治が抑圧し続けて来た人間的実存への政治的開明を "辺境性" へと無意識的に願望転化している からだといえるでしょう。