Constructing the Private language in which Thought is sharpened.

Vanishing the Self so that no one else can receive it. Leaving the Thought-logic instead of the Self. Escaping from mediocre self-approval.

▶ リドリー・スコットの『 エイリアン:コヴェナント 』( 2017 ) について哲学的に考える ②

 

監督  リドリー・スコット Ridley Scott
脚本  ジョン・ローガン John David Loga
原案  マイケル・グリーン Michael Green
製作  デヴィッド・ガイラー David Giler
    ウォルター・ヒル Walter Hill
出演  
マイケル・ファズべンダー Michael Fassbender 1977~ ( デヴィッド 役 / ウォルター 役 の一人ニ役 ) 
キャサリン・ウォーターストン Katherine Waterston 1980~ ( ジャネット・ダニエルズ 役 )
ダニー・マクブライド Daniel McBride 1976~ ( テネシー・ファリス 役 )
ビリー・クラダップ Billy Crudup 1968~ ( クリス・オラム 役 )
ガイ・ピアース Guy Pearce 1967~ ( ピーター・ウェイランド 役 )

 

前回記事からの続き 

 CHAPTER2 もうひとつの展開軸、脱性的欲望からの生命創造 ……

a.  エイリアンの暴力的繁殖性という従来の紋切型路線に対して、リドリー・スコットは『 コヴェナント 』において  創造主による新たなる生命の誕生 という神話論的哲学性をかなり強く付け加えているのですが、『 エイリアン 』という映画のホラー性に魅せられている一般的なファンには、リドリーの哲学的志向性が冗長なものとしか映らなかったかもしれない。いや、そもそもそこに哲学性など微塵も感じなかった人も多くいた事でしょう。

 

b.  しかし、彼の哲学的志向性は非常に興味深いのです。そこには『 エイリアン 』を従来のSFホラーとは違うものに造り変えようとするリドリーの進歩的意志、新たな "知識" によって『 エイリアン 』の土台を根本的に書き換えようとする創造的意志、が込められているからです。このような画面に現れる以前の創造的蠢きが一人の監督の中で起きているのを考察するのは、作品をより刺激的に享受させてくれる事に繋がるでしょう。

 

c.  この場合、"新たな知識" とは、何らかのきっかけで、リドリーがイギリス文学史における知的人間たちの奇妙な三角関係、"人間的生命の活性化志向・性的欲望の横溢・それらの文学的昇華" 等が複雑に絡み合った バイロン / メアリー・シェリー / パーシー・シェリーらが形作る奇妙な三角関係、に気付いた事だといえるでしょう。この発見の無意識的源流は、おそらくは映画内では言及されないのですがメアリー・シェリーの小説『 フランケンシュタイン 』である事は、パーシーの妻であった事を考えれば容易に推測出来ますね ( バイロンとパーシーの両者は映画内で言及されているので )。

 

d.  注意すべきは、ジェイムズ・ホエールらの映画の印象が強すぎてフランケンシュタイン博士が生み出した "それ" が人造人間であるかのようなイメージが今では定着しているのですが、メアリーの小説では、"それ" は人間ではないが完全に怪物でもない、いや人間であるが怪物でもある "混合雑種体" とでもいうべきものであり、もっと原初化させて言うならば、完全な人間には成り切れなかった者としての怪物 なのです。

この怪物は、フランケンシュタイン博士が  "1人" で、そう、ここが重要なのですが、女性の力に頼らず男1人で誕生させたという 疑似単性生殖的事実 に対してメアリーが 自慰行為 を連想させる暗喩的な非難を込めている ( 言うまでもなく、これはパーシーとバイロンに対する暗黙の非難となっている ) からこそ、暴力的に成らざるを得ない不完全性を有している。つまり、男性と女性の協力関係のよってこそ誕生するはずの人間が、男性だけで作られた不完全故に人間性を求める暴力行動に突き動かされる怪物と化したという事なのです。

 

e.  だからこそ、『 フランケンシュタイン 』における怪物の行動には "母親の不在・女性性の欠落がある" と文学研究者たちによってしばしば指摘されるのですね ( 1 )。フランケンシュタイン博士が怪物を生み出したように、デヴィッドもエイリアンとの交配物という新たな生命体を生み出したという訳ですが、ここには、デヴィッド自身もピーター・ウェイランドによって作られたアンドロイドであり、なおかつ前作『 プロメテウス 』で自分を救ってくれたエリザベス・ショウに女性としての敬意を払いながらもエイリアンの母胎として利用する残酷さを見せる、といった解釈を要する哲学的捻りも書き加えられていますね。

 

 ( *1 )  この辺の考察については以下の記事を参照。

 

f.  以上の事を念頭に置いてみると、デヴィッドとウォルターの相似的関係性には、バイロンとパーシーの同性愛的関係性がリドリーにおいて無意識的に転写化されている と考える事も出来るでしょう。それは文学史には全く興味がない映画ファンにとっては蛇足でしかないであろうデヴィッドとウォルターの両者の会話が特権的に描かれている以下の場面 ( 1~16 ) において表れています。ここでは本来、パーシー・シェリーのソネット ( 14行詩 ) であるはずの "オジマンディアス ( Ozymandias, 1818 )" がデヴィッドによってバイロンのものと "勘違い" され ( 6 ) 10~14行目までが暗唱されます ( 1~5 ) ( 2 )。その箇所は オジマンディアス自身の自らの権力と全能性を誇示する部分となっている。デヴィッドはその王の中の王であるオジマンディアス ( 日本ではラムセス2世と言う方が馴染みがあるでしょう ) に新たなる生命の創造者である自分自身を重ね合わせているという訳です。

 

( *2 ) しかし、ソネットにおけるこの部分は、映画内でデヴィッドが威厳をもって語るように、オジマンディアスが能動的かつ主体的に語ったものではありません。砂漠の中に立つ足から胴体部分が崩れ落ちるまでに朽ちたその巨大石像の台座に彫師によってオジマンディアスの言葉としてかつて刻まれたもの、つまり、"遺跡銘文" を匿名の旅人が語るという形式なのです。それがソネット全体としては、その銘文が今となっては過去の栄光の残滓物でしかなく、権力政治の没落を謳った印象を与えるという訳です。
そうすると映画内では10~14行目までがオジマンディアスの語りであるかのように引用されているのですが、厳密には10~11行目までのみがオジマンディアスの語り ( 遺跡銘文 ) であり、12~14行目は最初からの語り手である旅人が権力の虚しさ・儚さを謳っている、あるいはパーシー・シェリー自身による現代の権力を間接的に批判する語りであるともいえるものなのですが、この引用における自由度はリドリーに委ねらたものなので非難するような事ではないと付け加えておきましょう ( ゴダールにおける引用の奔放さ・歪曲さに比べるとなんて事はないですからね )。
このソネットの後半部分の原文は以下の通り。
10行目 "My name is Ozymandias, King of Kings,
11行目 Look on my works, ye Mighty, and despair !"
12行目 No thing beside remains. Round the decay
13行目 Of that colossal wreck, boundless and bare
14行目 The lone and level sands stretch far away. 

g.  しかし、デヴィッドの思い違いはウォルターによって訂正されます。オジマンディアスの作者はバイロンではなくシェリーだと ( 9~11 )。ウォルターは1つの音の狂いでも台無しになる交響曲の例を引き合いに出しながら、精密なアンドロイドのお前にも狂いが生じているのだと指摘してエイリアンの交配実験を非難するのですね ( 12~13 )。

 

h.  ところが、実はこの後の場面こそ重要なのです。なぜデヴィッドの勘違いという話をリドリーがわざわざ演出したのか、それについて考えなければなりません。デヴィッドはウォルターの指摘に対して過ちを認めるどころか、お前の方こそ何も分かっていないという沈黙の素振りを見せるのです ( 13と14の間の僅かの数秒の場面で )。そしてデヴィッドはウォルターに問う "私の夢を見るか?" と。それにウォルターは答える "夢など一切見ない" と。さて、この会話から察しのいい方は即座にリドリーの『 ブレードランナー 』を思い起こした事でしょう。

 

i.  言うまでもなく『 ブレードランナー 』の原作はフィリップ・K・ディックの『 アンドロイドは電気羊の夢を見るか? ( Do Androids Dream of Electric Sheep ? ) 』でしたね。どれ程人間に近いアンドロイドであっても、どれ程自己を正確に認識する能力を持ったアンドロイドであっても、夢を見る事が出来なければアンドロイドと人間の境界を超える事は出来ないだろうというアンドロイド側への ( そして私たちへの ) 問いかけこそが原作の基本テーゼであるのに対して、リドリーは『 ブレードランナー 』においてその問いかけをデッカード自身における自己反省作用として、いわゆる デカルトのコギト ( 我思う故に我在り ) を人間的同一性崩壊作用へと書き換える事で人間性それ自体を揺るがしているのです ( 実際、コギトは『 ブレードランナー 』の中でも言及されていますね )。

つまり、夢を見るという不安化行為は前人間的地層として主体を形成する無意識性となっている。だからこそそれは 人間を根源的非人間世界へと送り返すかのような恐ろしさを感じさせる のであり、同時にそれが無いからこそアンドロイドはいつまでも人間になる事が出来ずアンドロイドのままでいるという事になるのです。そういう訳で、夢を見る事が出来るようになったアンドロイド ( デッカードのように ) は 不安を覚えるという根源的人間条件を手に入れている といえるのですね。

 

j.  ここで重要なのは、夢を見るという不安定的行為は、人間の存在論的同一性を何ら保証するものではなく、夢を見る "者 / 物" ならば、それは人間でもあるし、アンドロイドでもあるという具合に主体の区別・境界線を消滅させるもの なのです。この不安定性こそが人間的同一性の確信を揺るがすのですが、逆にこれこそがアンドロイドが手に入れる事が出来なかったものとしてのデッカードの身振り、もしかすると自己を忘却しているのではないか ( もしかして自分は実はアンドロイドなのではないか …… 人間ではないのではないか …… ) という 内面的不安こそが人間存在の基本的条件となっている もの、なのです。

自己認識は自己を果てまでは追いかける事が出来ない、そのような最果ては無い、という 自己忘却・自己消失地点としての非接触 ( 自分の根源には触れられない・辿りつけねい ) こそが自己 ( 私 ) の同一性を支えている のです ( 3 )。自己認識ではなく 自己を忘却している からこそ、その存在が成立する のならば、それは人間であろうがアンドロイドであろうがその種差は問題にならない地点 ( 外部 ) へと夢は人を連れ出しているという訳です ( 荘子胡蝶の夢のように )。

 

( 3 ) こうなると "私とは何か" という哲学的問いには究極の答えのひとつを用意する事が出来るでしょう。"私とは何か" という問いに多くの人々が困惑させられ上手く応えられないのは、私というものを物理的比喩に模した実在点、極小点、のようにあたかもその中に自分が "最初から" 主人もしくは持ち主としてそこにいるかのように思いこんでいるからです。しかし、そうではなく、上の記事でも述べたように、私というものが到達出来ないもの ( 何が最終地点なのか、何が始まりなのか、を示す客観的指標など誰にも定義出来ないのだから ) であるならば、私とは、何かそこ ( この宇宙 ) に偶然現れたものを外部から "それは私だ" と指し示す "原-意識的" あるいは "前-人間的" 作用 ( だからこそ、それはもしかして私ではないかもしれないという不安がつきまとう ) であり、"それ" があたかも "自分" であるかのように移行-固有化する作用であり、それは私以前の、ヘーゲルならば "精神の現象" と呼ぶものの作用、"外部からの差込み" 作用 ( 一般的にはヘーゲルの反照論・反照定義とも呼ばれる ) であり、物理的現象に偶然的かつ必然的に伴う匿名の意識化作用であり、その過程が最終的にその物の内部に沈潜化するものなのです。

 

k.  少し寄り道をしたのでデヴィッドとウォルターの話へと戻りましょう。デヴィッドがウォルターに夢を見るかと問いかけた時、彼が言いたかったのは、勘違い・思いこみ・言い間違い等の無意識的行為それ自体の出現こそが人間を人間たらしめるという精神分析的真理であり、夢を見る行為とはまさにそのような無意識的現象がイマージュとして人間の中で引きおこされている事に他ならないと言っているのです ( 例えば、フロイトの『 日常の精神病理学 』を参照 )。

 

l.  新しい生命を創造する事で神になる事を欲していたデヴィッドは、全能性が誇示されるオジマンディアスの作者には、妻シェリーとの絆を保とうとするパーシーの小市民性を破壊する 暴力的なまでの奔放性を体現するバイロンの方が相応しいとして無意識的に書き換えたのです ( ただしこれは文学史の知識が無いと正直分からないでしょう )。実際、パーシーのオジマンディアスには権力の没落性を揶揄する視点が含まれる ( 上述の2 を参照 ) のに対し、デヴィッドはその作者をバイロンに書き換える事で、権力に固執し全能性を得たオジマンディアスの傲慢さを自分が引き継ぐと権力維持の宣言をしているとも解釈出来ます。だからこそデヴィッドは夢を見ないウォルターを人間になる事すらも出来ない純粋のアンドロイドに過ぎないとして見下しているのですね。

m.  以上のようなデヴィッドとウォルターの関係性から透けてくるバイロンとパーシーの関係性に、エイリアン / フランケンシュタインという媒介項を付け加えると、映画内には登場しないパーシーの妻であるメアリーの姿が必然的に出現してくるでしょう。短い期間でありながらも、バイロン / パーシー / メアリーらの三角関係が、家族性を破壊する反市民的・反道徳的な共犯関係性を形作っていた事は、彼らの文学性への称賛とは別の次元で、バイセクシャルであったバイロンの奔放な性的生活が当時の一般市民の不満の捌け口としてのゴシップの格好のネタになっていた事にも表れているのです。

メアリーの『 フランケンシュタイン 』という怪物は、このような性的欲望と文学的昇華作業が絡み合い融解した共同関係の中から実は生まれている のです ( アカデミックな文学史はそのセンシティヴな性質からこのようなテーマ化 / 精神分析化を故意に避けていると言える )。文学的知性が、まさにこのような家族性を破壊しかねない極限まで達した性的欲望が消失した後に生まれ出る事をメアリーはまさに 怪物と名指されるひとつの反社会的主体の誕生 と共に見事に描き出したのです ( 4 )。

 

 ( 4 ) このような関係性を映画化したのがケン・ラッセルの『 ゴシック  ( 1986 ) 』。以下を参照。

 

n.  例えば、メアリーとパーシーの夫婦関係は、バイセクシャルであったバイロンによって引き離されるという具合に ( パーシーがバイロンの同性愛的傾向の対象でありながらも、同時にメアリーはバイロン異性愛の対象でもあった )。その壊乱現象がいかにリドリーの映画創造に影響を与えたのかは、プロメテウス号に乗船していた船員全員がカップル ( 異性愛、同性愛 ) という設定 であり、幸せに満ちた艦内生活を送っていた彼らが、やがてエイリアンの出現と共にその関係を破壊されていく様子を見れば分るでしょう。その様子は、残酷な結末の前日譚 "最後の晩餐" と称されて、『 エイリアン:コヴェナント 』本編とは別に 20th Century FOX による公式サイト Alien Anthrogy から 『 Alien : Covenant / Prologue : Last Supper 』として YouTube にアップされています。以下を参照。

 

o.  ここで何を言いたいのかというと、精神分析的に考えると、リドリーはここでエイリアンというホラー的対象物の真の意味を無意識的に見出しているという事です。エイリアンの恐怖性は単なるそれまでのホラーという娯楽カテゴリーに収まるものではない事に彼は気付いているのです。それは、人間の中から生まれたものであるにも関わらず、宿主である人間を食い破るという 反人間的誕生 である事によって、赤子が人間の性行為・性的欲望の結果物として社会従属化されてしまう拘束性を破壊しているという訳です。

 

p.  人間の中から誕生する物が人間ではないという恐ろしさは、人間的ではない欲動の根源的無差別性・暴力性を示している のであり、赤子を誕生させる人間の性行為・性的欲望は欲動からの派生原理でしかない事を同時に示すのです。それは社会性以前の、生物学でさえない、未だ無規定の欲動の狂乱的奔流であり、そのようなものであるからこそ欲動はこの人間以前の宇宙の中を貫く事が出来ているのです。

リドリーはこの欲動の凶暴性をエイリアンを通じて描こうとしているのですが、それは彼の意図的戦略というよりかは無意識的志向だといえるでしょう。人間関係の最も基本性生活単位である家族というものでさえ、その底に蠢く欲動の暴力性によって突き崩される事にリドリーは無意識的に気付いている のですね。それは『 エイリアンシリーズ 』とは一見繋がりが無いかのように思える彼の最近の作品『 ハウス・オブ・グッチ ( 2021 ) 』においてグッチ家の崩壊を描く様にも表れているといえるでしょう。



              END