〈 It / Es 〉thinks, in the abyss without human.

Transitional formulating of Thought into Thing in unconscious wholeness. Circuitization of〈 Thought thing 〉.

▶ ジョン・ウィリアム・ポリドリの小説『 吸血鬼ラスヴァン 』( 1819 ) について哲学的に考える〈1〉

 

 

「 吸血鬼ラスヴァン 」 『 吸血鬼ラスヴァン  英米古典吸血鬼小説傑作選 』所収

著者   ジョン・ウィリアム・ポリドリ / John William Poridori ( 1795~1821 )

訳者   平戸懐古

発行者  東京創元社 ( 2022 ) 

 



 

 

A. 今日、吸血鬼小説といえば ブラム・ストーカー ( 1847~1912 ) の 『 ドラキュラ / DRACULA ( 1897 ) 』 を思い浮かべる人がほとんどでしょう。 ドラキュラ役を演じた俳優 ベラ・ルゴシ ( 1882~1956 ) を広く認知させた トッド・ブラウニング ( 1880~1962 ) の映画 『 ドラキュラ ( 1931 ) 』 の原作として知られるものですね。 今ではそれが余りにも流布してしまった為、本来、吸血鬼たちの内の1人の固有名詞に過ぎなかった ドラキュラ が、吸血鬼という生き物を名指す普遍的な 記号表現 ( シニフィアン ) と変貌してしまっている。 ドラキュラといえば吸血鬼だ、という具合に。 しかし、それ以前の吸血鬼小説の源流に遡ると、ジョゼフ・シェリダン・カーミラ ( 1814~1873 ) の 『 女吸血鬼カーミラ ( 1872 ) 』、さらに遡ると ジョン・ウィリアム・ポリドリ ( 1795~1821 ) の 『 吸血鬼 ( 1819 ) 』 などがあり、吸血鬼の描かれ方の変遷が窺えるのです。

 

B. ポリドリの 『 吸血鬼 』 にまで遡ると、面白い事に、そこでは吸血鬼は民間伝承で残り続けた疑似神話的主体の実在的物語の中心人物などではなく、登場人物たちの人間性を過剰化させる心的主体、つまり、人間の暗部を象徴する闇夜や墓場の舞台において蠢く欲動の具現化された心的過剰主体の為の外装的役割を果たしている。 そこでは、現代において流布するゴシックホラーが確立される以前の、そのジャンルが文化的娯楽として確立される以前だからこそ人間共同体の錯綜した心的関係・心的脅威がそこに属する人達自身にとって如何に強く作用していたか、という心的暗部がジャンルの余白に秘かに書き込まれている のです。

 

C. どういうことかというと、ポリドリの 『 吸血鬼 / The Vampyre 』 は ジョージ・ゴードン・バイロン ( 1788~1824 ) の未完の小説の 『 断片 / Fragment of a Novel ( 1816 ) 』 を下地にして書かれていて、吸血鬼の主人公ラスヴァンは明らかにバイロンをモデルにしていると思われるという事です。 ポリドリとバイロンの人間関係を考えるに当たって思い出されるのは、ゴシックホラー小説が生まれるきっかけとなったバイロンの別荘、ディオダティ荘での有名な怪奇談義です。

 

D. ポリドリの 『 吸血鬼 』、メアリー・シェリーの 『 フランケンシュタイン 』 がそこから生まれる ( ) のですが、ここで展開したいのは、それがありがちなゴシックホラーの起源だという由来話ではなく、そこに参加してた者たちを取り巻くバイロンを中心とした少数の緩やかな人間共同体 ( たんなる文学サロンを越えて家族・親族関係をも含めたもの ) が、強力な欲動が暗躍する心的次元によって不安定的によって形成されていた という精神分析的考察です。 それはバイロンに端を発する 個人の生が既存の社会的規範によってのみ支えられる事に我慢できず、個人は自らの思想・意識によって自己を支えなければならないという脱社会的な形而上的欲望 と、肉体を蹂躙する性的欲望 とが入り交じった未分化の欲動が散乱する場であった といえるでしょう ( このようなバイロンの生き方は彼の作品 『 マンフレッド 』 を通じてニーチェに影響を与えているのは知られた話ですね )。

 

E. バイロンやメアリーの夫であるパーシーらの女性関係の奔放性が社会倫理を逸脱したものとして世間から批判された経緯があるように、彼らの属していた共同体は矮小な人間的道徳を超える事でより深い人間性の境地に赴く心的冒険性で、いや、もっと言うなら昇華のための破壊的衝動で満ちていたと言えるかもしれないのです。 この意味でバイロンやパーシーの文学作品において描かれる人間性謳歌とは、たんに文学的修辞法や文学創作の領域内における文学的説明だけには収まり切れない、欲動が個人的なものである事を越えて人間的相互関係を横断・蹂躙する心的次元 での精神分析的説明をも必要しているといえるのです。

 

( ) 

メアリー・シェリーの 『 フランケンシュタイン 』 については以下の記事を参照。

 



 

 

A. そのような心的次元でポリドリはバイロンの怪物的人間性 ( 優れた文学創造者であるだけでなく性的奔放性に溢れた人間性をも含めたという意味での ) に圧倒され良くも悪くも秘かな影響を受けていたと考えられますね。 それはまさにポリドリの 『 吸血鬼 』 が、執筆途中で放棄されたバイロンの 『 断片 』 に着想を得て書かれている事に表れている。 バイロンの専属医であったとされるポリドリが、バイロンとの同行時期から、そして彼と袂を分った跡でさえもバイロンのテクストの影響を受けている事の心理的意味を見過ごすべきではありません。 もちろん、第一にはポリドリが作家として成功したいという秘かな欲望を抱いていたといえるのですが ( ポリドリの人生は彼の医師としての実績の脆弱さを示している )、それがポリドリの野心や栄誉心、バイロンへの敵対心、に基づくものであったとしても、そうさせるだけの心的影響をバイロンは年下のポリドリに与えていた という事ですね。

 

B. バイロンの 『 断片 』 はスイス滞在中のディオダティ荘での怪奇談義の時に書かれたもの ( 1816年 ) なのですが ( )、この話にインスパイアされたポリドリが同じくバイロンが書いた吸血鬼の描写が現れる 『 異教徒 / The Giaour ( 1813 ) 』、そしてバイロンとかつて不倫関係にあったキャロライン・ラム ( 1785~1828 ) によるバイロンを揶揄的に非難する小説 『 グレナヴォン / Glenarvon ( 1816 ) 』 を参照して 『 吸血鬼 』 を書いたとされる。 そこにはグレナヴォン伯爵こと、クレランス・ド・ラスヴァンというバイロンを彷彿とさせる人物が登場するのですが、ポリドリの 『 吸血鬼 』 におけるラスヴァンとはそこから採られている。 しかし、読めば分かるのですが、バイロンの 『 断片 』 には 死んだ男が蘇る というモチーフはあっても、それが 吸血鬼 であると断定させるような記述はないのですね ( あたかも吸血鬼譚であるかのような文学解釈・研究上の合意が形成されてはいるが )。 そこに怪談談義に相応しい 死んだ人間が蘇るという大まかな怪奇要素 の括り ( 吸血鬼やフランケンシュタインのように個別的に分化される以前の、怪奇的なものという文学的大枠はその設定に集約される ) はあっても。 とするならば、ポリドリは、ラムが作り上げたバイロン自身を揶揄的に登場させるというスキャンダルな物語構造に、ポリドリ自身が見出した文学的還元操作、つまり、バイロンが描いた吸血鬼要素 (  『 異教徒 / The Giaour 』 ) をバイロン自身に帰すという 因果的操作 を上乗せする事によって『 吸血鬼 』を書き上げたといえるのです。

 

C. このポリドリによる 因果的操作 はふたつの意味で為されている。 ひとつはバイロンの 『 断片 』 の物語構造の根本に関わるものです。 ここでは相浦玲子による重要な指摘が参考になる ( )。 他の自作とは違い 『 断片 』 作中で物語を語る "わたし / I " は主人公でもないし、バイロン自身でもない。 その "わたし / I " とはバイロン自身と目される主人公ダーヴェルに付き添い、彼について語る "ポリドリ" だという指摘ですね。 それはたんに人物設定上の思い付きなどではなく、バイロンとポリドリの現実の関係が反映されたもの であると思わせるとまで相浦は言う。 その関係性をより極限化するならば、ここにはポリドリが自分をどう見ているのか、ポリドリは自分という人間を理解出来ていないだろう、自分は人間というものを超えている ( 蘇り ) のだから理解出来ないのだ、という バイロン自身の超越論的な自己査定とでもいえる誘導的作用 が秘かに働いている。

 

D. しかし、この誘導性、ニーチェ的な誘導性、は何処に向かって、誰に向かって作用するといえるのでしょう。 通常の作品であるのなら、それは万人に向かって投げかけられているのですが、ディオダティ荘での怪奇談義という限られた人間関係の中で考えられた 『 断章 』 は特殊なものだった。 先程の相浦の指摘を考慮すれば、『 断章 』 がバイロンを理解出来ないポリドリの視点からバイロン自身を描いたというものである自己演出的作品構造が、バイロンの意図とは関係なく ( 彼の意図は自分という理解不能な人間の凄みを描き出す事にある )、ポリドリに迂回的かつ結果論的な何らかの心理的メッセージを送っている、または ポリドリが自分の中で勝手に理解 ( 誤解 ) して受け取らせた精神分析的に考えられるのです。

 

E. つまり、ポリドリは途中放棄された 『 断片 』 はバイロンと自分の関係が反映されているのだから、自分こそがこの『 断片 』を引き継ぐべきだ と考えても何の不思議もない。 ポリドリは 『 吸血鬼 』 の作者がバイロンではなく自分である事を示すために、『 断片 』 の続きを書きなさいよというある貴婦人 ( ブロイス伯爵夫人 / Countess Breuss ) の要望に基づいた ( ) と言うのですが、ここで重視したいのは、この証言の事実性及び作者の真贋性、という文学的見地ではなく、バイロンの未完の 『 断片 』 の話を貴婦人に対して自分から持ち出す事の裏に潜むポリドリの欲望、つまり、『 断片 』 の続きを書きたかったのは、誰に言われるまでもなくポリドリ自身に他ならなかったという無意識的欲望、です。 この自分の欲望の為に、貴婦人の発話行為を通じて自分の無意識の欲望を再認した、のです。 言うまでもなく、ここにあるのはラカン精神分析のテーゼ、他者の言葉を通じて自分の欲望を知るという無意識的行為 なのですが、その証言が事実であるかのどうかという以前に、その証言という "言葉" が差し込まれている時点で既にポリドリの欲望自体が事実として露わになっている。

 

F. 以上の因果的操作の第一の作用は、バイロンの投げかけに応えるバイロンと文学的に繋がる、というポリドリの作家への憧れを導くものとして働いている。 それはバイロンの 『 断片 』 における "わたし ( ポリドリ )" と "ダーヴェル ( バイロン )" の関係性が 『 吸血鬼 』 の "オーブリー ( ポリドリ )" と "ラスヴァン ( バイロン )" へと持ち込まれる事で意識的に踏襲された形に表れていますね。 しかし、因果的操作の第二は、バイロン人間性バイロン自身へと差し向けられる形で作用する。 文学作品という虚構の中にありながらも、現実世界の人間性 ( バイロンの醜聞 ) が架空の登場人物のリアリティを担保するモデルとして暗黙の内に前提とされる。 それが作品の人気を高めてしまうというスキャンダルが文学性の中に含まれているという因果性。 真にスキャンダルなのは、現実のバイロンの人間関係なのではなく、文学作品の中に落とし込まれた醜聞を疑似正義的非難と道徳性で以って集団で享楽しようとする作者と読者の文学的共犯関係 なのです。

 

G. ラムの 『 グレナヴォン 』 はそれを為す事で集団享楽という形で人気を博してしまう。 1816年にスイス滞在中のバイロンを訪ねたスタール夫人はバイロン自身がモデルになっている小説 『 グレナヴォン 』 の話を彼にしたというのですが、バイロンの側にいたポリドリがその話を聞いていても不思議ではありませんね。 彼は1816年9月にバイロンと袂を分ってスイスを離れる前に 『 吸血鬼 』 を書いたと言っているのですから。

 

H. ポリドリは、バイロンの世間での醜聞をあたかも吸血鬼伝承になぞらえるかのようにして、その醜聞を人間の生命を吸収して生きる吸血鬼として具象化する。 バイロンという人間の怪物性を吸血鬼というイメージと接続させて バイロンを 吸血鬼的主体 として変貌させている のです。 哲学的に言うなら、吸血鬼という空虚物である "記号表現" にラスヴァン ( バイロン ) という "固有名詞 / 記号内容" を充填する、さらに細かく言うなら、脱固有名化・脱人間化されている吸血鬼という記号表現の普遍性・抽象性に預けようとしている のですバイロンの人間的実在性を供犠物にする形で。 それこそが文学における因果的操作のふたつめの作用、疑似神話的主体化 であるといえるでしょう。 バイロンという人間の怪物性については、それは事細かく長きに渡って人間的に描写するのではなく、吸血鬼という疑似主体化の外装を与えて一気に読者の怪物性理解の更新を果たしてしまう 方法が施されるのです〈 次回に続く 〉。

 

 

ギリシャでは広く、吸血鬼化現象は生前の重罪に対する死後の懲罰と見做されている。というのも死者はただ吸血鬼化する定めを負うだけではなく、墓穴からの訪問の際、まだ本人が地上にあったとき親しんだ相手のもとに、つまり血縁や愛情といった絆の結ばれた相手のもとにしか行くことが出来ないのである。ある仮説がバイロン卿の『 異教徒 』( 一八一三 ) に述べられている。
だがまず吸血鬼と成り果てておまえの屍体は墓を割り裂くだろう故郷に悍ましく取り憑いて親族たちの血を飲み漁るのだ夜闇に紛れ、娘や妹、それに妻から命の奔流を吸い尽くすだろうおまえは厭うが、しかしこの馳走は青黒く生きるおまえの屍体を肥やす
おまえの獲物は気息を絶やす前に目前の悪魔を己の父と知る妻子に呪われ、おまえも妻子を呪い愛する花々が茎の先で枯れるのを見るだがおまえの悪行の餌食のひとり末子ゆえの寵愛を受けたひとりがおまえを父の名で祝福するだろうその言葉はおまえの心を炎に包む
それでもおまえは食事を終えて娘の頬の最後の色、眼の最後の輝き濁った最後の視線を認めるのだ生気ない青色に凍り付いた視線をそれからおまえは穢れた手で千切る彼女の金色の編み毛のひと房を
その髪が生者に切り取られたならば深い愛情の印となろうがものだが死者たるおまえが持ち去るそれはおまえの苦しみの記念碑となる
最愛の者の血を滴らせ歯を軋り、唇を引き攣りおまえは陰気な墓に忍び戻り屍食鬼や精霊に混ざって喚き狂うだが奴らは怯え震えて去るだろう己よりもなお呪われた亡霊から

 

 

「 吸血鬼ラスヴァン 序文 」 『 吸血鬼ラスヴァン  英米古典吸血鬼小説傑作選 』所収 p.22~23 ジョン・ウイリアム・ポリドリ / 著 平戸懐古 / 訳 東京創元社 ( 2022 )

 

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出版は1819年。バイロン作 『 マゼッパ / Mazeppa ( 1819 ) 』 の巻末に収録されている。

 

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以下を参照。相浦玲子 『 バイロンとポリドリ : ヴァンパイアリズムを中心に 』  滋賀医科大学基礎学研究9巻 1998年3月 p.19~

file:///C:/Users/User/Downloads/kiso09p009-1.pdf

 

バイロンが1816年6月17日に語ったとされる、ヴァンパイア話の現存する "Fragment" ( of a Novel ) について考察を加えたい。まず、この作品はバイロンとポリドリという二人を彷彿とさせる登場人物なしには成り立たない。しかも、バイロンは、このストーリーでは、他の多くの詩に見られるように自己を一人称の主人公と重なるものとして描いてはいないことが注目される。つまり、このストーリーにおける "I" は、バイロン自身ではなく、ポリドリと解釈できるのである。この "Fragment" のさまざまな描写は、"Augustus Darvell" と "I" の関係が現実のバイロンとポリドリの関係と並行するかたちであることに気づかせてくれる。

 

 

( ) 

ポリドリのこのような説明の背景には、『 吸血鬼 』 が当初、『 ニューマンスリーマガジン / New Monthly Magazine 』 にヘンリー・コルバーン ( Henry Colburn : 同誌の創刊者 ) によって雑誌売り上げの為に意図的に、つまり、そうではないと知りつつも、バイロン作として無断掲載 ( 1819年 ) されて、バイロンとポリドリ双方から非難の声が上がるというトラブルがあった。 ポリドリはコルバーンに宛てた手紙で、その作品がバイロンではなく自分が1816年にスイスで書いたものだと言っている。 ちなみに、コルバーンは上でも述べたキャロライン・ラムのスキャンダラスな小説 『 グレナヴォン / Glenarvon ( 1816 ) 』 も 『 ニューマンスリーマガジン 』 に掲載している。コルバーンの商売性が透けて見えますね。

『 吸血鬼 』 のトラブルの経緯については、「 ジョン・ポリドリの『 ヴァンパイア 』 ー 出版の背景と吸血鬼小説への影響 」 細川美笛 p.56  松山大学 言語文化研究 第38巻 第 1-1 号 2018年 9月 〉に掲載されているので以下参照。

file:///C:/Users/User/Downloads/%E8%A8%80%E8%AA%9E%E6%96%87%E5%8C%9638-1-1-%E7%B4%B0%E5%B7%9D-1.pdf