『 フランケンシュタイン 』 光文社古典新訳文庫
原題 『 FRANKENSTEIN ; OR, THE MODERN PROMETHEUS 』( 1831 )
著者 メアリー・シェリー
訳者 小林章夫
2010年10月20日 初版第一刷発行
発行所 株式会社 光文社
▶ Chapter 1 〈 フランケンシュタイン 〉と〈 怪物 〉
[ 1 ] 近年では、フランケンシュタインが怪物の名前ではなく、怪物を創り出した科学者の名前ヴィクター・フランケンシュタイン である事は一般的にも知られるようになっている。 彼らが登場する小説 『 フランケンシュタイン 』 の作者が、メアリー・シェリー という19世紀の女性であることも含めて。 このような、あたかもフランケンシュタインが怪物の名前であるかのような移行、本来の人物名から別の生物への名前の移行、この事の哲学的意味を考えるのは無駄ではありません。 というのも、それを考える事は同時に、なぜ メアリー・シェリーが怪物に名前を与えなかったのか、あるいは与える事が出来なかったのか という新たな哲学的問いを生み出すからです。 この誰も考えようとはしない問いこそ フランケンシュタイン に纏わるメアリーの欲望及び人間観を明らかにする事に繋がるでしょう。
[ 2 ] 怪物の呼称をフランケンシュタインとする世間の風潮に大きな影響を与えたのは、ジェイムズ・ホエール ( 1889~1957 ) の映画 『 フランケンシュタイン 』 ( 1931 ) における ボリス・カーロフ ( 1887~1969 ) 演ずるフランケンシュタインの容貌だ、と言われますね ( 図1)。 その映画の中でしばしば言われる表現 "墓場から蘇った死体" を体現したかのような容貌が観客に強い印象を与え、世間一般的に、その怪物の事をフランケンシュタインと呼ぶようになったという訳です。
▶ Chapter 2 〈 フランケンシュタイン 〉と〈 副題 〉
[ 1 ] ただ、イラストレーターの カーロイ・グロース ( 1896頃~1938以降 ) による映画 『 フランケンシュタイン 』 のポスターには、タイトルの下に 秘かな副題 とでも言える "THE MAN WHO MADE A MONSTER ( 怪物を創った男 )" が付けられていて、メアリーの原作設定を受け入れている製作側の無意識的意向が表れている、つまり、フランケンシュタインとは怪物を創った男のことを指すという原作における前提が、ここではまだ生きているのですね ( 図2)。
映画のフランケンシュタインの特徴であるボルトが首を貫通している容姿は、実はグロースのイラストからインスピレーションを受けている。
[ 2 ] にも関わらず、表向きのタイトルはあくまでも 『 フランケンシュタイン 』 という 単独的な記号表現 である事に今一度注意しておく必要があるでしょう。 副題による補足的説明を削られた単独表現 は、それ自体の動きとして ひとつの実在を求める欲望 を人々の間に引き起こしてしまう。フランケンシュタインという様々な憶測的由来が飛び交う言葉が、ひとつの実在と結びつく事によって 固有名詞化 されていく過程 は、メアリーの原作の読解の歴史において形作られていたといえるのであり、その読解は同時に、原作において抽象的な存在であった〈 怪物 〉を人間的カテゴリーの中へと画定化しようとする余りにも人間的な振舞いでもあるといえるのです。 怪物があそこまで忌み嫌われるのは、まさにその人間的カテゴリーの中での烙印付けが引き起こしたものでしかないのですから。
[ 3 ] 副題による補足的説明を削られた単独表現 …… 、これは映画だけではなく、原作の受容においても始まっている。メアリーの原題は 『 FRANKENSTEIN; OR, THE MODERN PROMETHEUS 』、『 フランケンシュタイン、あるいは現代のプロメテウス 』 であり、そこには 現代のプロメテウス という副題が付いているのですね。 研究者ではない普通の読者ならスルーしてしまうでしょう ( それも仕方のない話で、これまでの邦訳のほとんどは 『 フランケンシュタイン 』 というタイトルに省略されていますからね )。
[ 4 ] ここで、その原作の副題について考えてみます。プロメテウスはギリシャ神話に登場するティターン神族の一人なのですが、彼を理解する上でのふたつの主要素がある。ひとつは、オウィディウスの 『 変身物語 』 で語られる土と水から人間の〈 男 〉を作ったという 創造主の要素、もうひとつは、アイスキュロスのギリシア悲劇 『 縛られたプロメテウス 』 での話。 人間へ火を渡した事によってゼウスから怒りを買いコーカサスの山頂に縛りつけられ鷲に肝臓をついばまれるという 苦痛を被る主体の要素、です。
[ 5 ] 創造主の要素は、しばしば旧約聖書の創世記における人間の誕生 ( 土から造られるという ) と比較されるものですが、世間一般としては苦痛の主体としてのプロメテウス、つまり、アイスキュロスの 『 縛られたプロメテウス 』 とその後に続く断片作品である 『 解放されたプロメテウス 』、『 火を運ぶプロメテウス 』 を合わせた三部作の方が馴染があるかもしれません。 しかし、シェリーの夫であるロマン派詩人の パーシー・ビッシュ・シェリー ( Percy Bysshe Shelley 1792~1822 ) は創造主の要素からインスピレーションを受けて戯曲 『 鎖を解かれたプロメテウス ( Prometheus Unbound ) 』 ( 1820頃 ) を書いています。 それは 人間を抑圧する社会への政治批判が込められた文学作品であり、人類と地球の生命原理が神話素によって構築され、プロメテウスは人類の解放者、いや創造者の象徴とされている のです。
[ 6 ] もちろん、シェリーも夫のこの作品の事は知っていた ( 彼らはお互いの仕事についてよく把握していた )。 ということはメアリーの 『 フランケンシュタイン、あるいは現代のプロメテウス 』 は明らかに夫の 『 鎖を解かれたプロメテウス ( Prometheus Unbound ) 』 を踏まえているという事になりますね。 ただ気を付けなければならないのは、メアリーの〈 プロメテウス 〉はパーシーの〈 プロメテウス 〉を追従的に賛同したものではない という事です。 パーシーのそれは先程も述べたように、政治的に矮小化される人間存在に、生命を吹き込み、抑圧からの解放と自由を与えようとするロマン主義的情熱で構築された生気論的神話物語となっている。
[ 7 ] それに対して、メアリーの〈 プロメテウス 〉は現実の男性を揶揄した意味での創造主的要素が強い。 それは夫婦でありながらも、夫のパーシーへの暗黙の対置物としての〈 プロメテウス 〉なのです。 端的に言うなら、パーシー、そしてバイロンの理想世界・理想作品の追求の傍らでは、家族生活への無配慮、妻や子供への接し方、が主要な関心事とはならなかった事への現実的不満が暗示的に含まれているという事です。 理想主義者の自己中心主義的行動 ( 作品の創造だけでなく周囲の女性たちとの関係も含めた ) への現実的不満であり、この事は、性的人間関係の共同体の彼岸にあるであろうと思われる 家族的調和への憧憬、ファミリー・ロマンスの幻想、がメアリーの中にはあった と精神分析的に考えさせる訳です ( *A )。
[ 8 ] そうすると、シェリーにおける 現代のプロメテウス とは パーシーにおける神話的創造主ではなく、現実に子供を産みだす諸々の性的人間関係で誘惑的役割を果たす現実の男性に他ならない といえるでしょう。 理想主義者の男たち ( パーシーやバイロン ) はプロメテウスの神話を始めとする作品の創作を通じて人類の解放を謳う一方で、日常生活において周囲の女と性的関係を持つこと ( 実際の性行為を伴なわない恋愛感情の次元も含めて ) に耐えがたさを感じるシェリーの思いが副題に無意識的に込められていると考えられるのです。 しかも、パーシーの 文学的検閲 をすり抜けて彼の作品へのオマージュであるかのようなプロメテウスへの言及という 曖昧さ で以って ( パーシーはメアリーの 『 フランケンシュタイン 』 草稿に手を入れたり、1818年初版の序文を書くなどして、彼女の書いたもの をひとつの テクスト として成立させようとしている )。
( *A )
このような精神分析的アプローチをしているのが エリザベス・ブロンフェン 「 第1章 書き換えられた家族の歴史 - 『 フランケンシュタイン 』 にみえるメアリー・シェリーの葛藤と自己形成 」 『 怪物の黙示録 』 所収 スティーヴン・バン / 編 遠藤 徹 / 訳 青弓社 ( 1997 )
ハロルド・ブルームは、フロイトのこの「 ファミリー・ロマンス 」という概念を使って、詩人の子がやはり詩人になった場合に、この二つの世代の間に何が起こるか解き明かそうとする。文学的な影響についての自説のなかで、のちの世代の詩人はすべて、自分の親の偉大さに怯えを感じている ー そして、その怯えが、「 影響の不安 」と自分が名づけた創作上の不安を生み出す ー とブルームは主張する。
同書 p. 27
ここで重大な問題の一つとして、親を理想化した結果、子の世代は親がただ理論として書き遺したことを完全にその通りに行動しようと努めるのか、あるいは、自分自身の人生を設計するにあたって、親の著作を意図的に読み違えようとするのかという点に注目しなければならない。というのは、ゴドウィン夫妻からシェリー夫妻につながる家系で特徴的なのは、のちの世代は親の世代の偉大さを少しも否定しようとはしていないことだからである。それどころか、メアリも夫のパーシーもゴドウィン夫妻の著作に対して盲目的ともいえるほどの崇拝を捧げ、その著作を自らの行動の規範としている節がある。さらに、親の世代がただ理想として思い描いたことを、子の世代は再び自らの思想として主張し、実際に行動に移そうとしている。子の世代は親の人生を自分たちが書き写した通りに生きようとするが、しかしながら、実際には両親の人生を作り替えているのである。
同書 p. 28
しかしながら、創造とは本来家族の絆への裏切りなくしては成し遂げられない行為だというこの小説から読み取れる観念は、ゴドウィンの娘メアリに抜きがたい不安を植え付ける。
同書 p. 37
メアリのこの記述を読むと、フランケンシュタインが人間の死体から各部分を寄せ集め。つなぎ合わせてゆく行為に類似した一つの事実が浮かび上がる。〈 中略 〉。それはメアリの作品自体が、死体の寄せ集めに人工的に生命を与えたフランケンシュタインの怪物と同じような過程を経て生まれた醜い子どもだという意味においての類似性でる。メアリが寄せ集めた作品のさまざまな構成要素のなかには、家族の、つまり両親や夫の著作に由来するものもあることを以下で明らかにしたい。そのためには、創作とは「 無からではなく、混沌から生み出されるものである。まず初めに題材が与えられなければならない 」というメアリ自身の言葉を確認しておく必要がある。
同書 p.37
▶ Chapter 3 男性による単性生殖という創造の比喩
[ 1 ] シェリーの鬱屈した思いはこの著作において幾重にも複雑化された形で現れる、彼女の恐るべき教養で以って。男であるヴィクター・フランケンシュタインが科学的探究の末にひとりで産み出したものが、人間足りえていない怪物と目される "生物" である事態には、男性による単性生殖という不可能な行為が歪んだ創造行為に他ならない、 という 暗号的な非難が秘匿されているのです。 この不可能な行為に込められた意味とは何でしょう。それは女性の力無しに男性ひとりでは人間を産むことは出来ないという、シェリーによる、女性の尊重を欲するジェンダー論的な男性批判を示しているのでしょうか。確かにそのような一面は否定出来ません。しかし、そう結論づける前に、怪物の創造過程におけるヴィクターの振舞いには、〈 性的なもの 〉に対するメリーのアンビバレントな心理が "露骨な隠喩" として現れている 事に注意すべきなのです。
[ 2 ] メアリーのパーシーの性的素行への非難が暗号的だというのは、彼女が意図しているというよりかは、同時代の科学を参照していた事が分かる科学的描写で塗り固められた物語表面の下には、メアリー自身が自分を含めたパーシー周辺の人間関係を複雑にしていた〈 性的なもの 〉に 反撥すると同時に魅惑されていた事を示す性的隠喩 が無意識的に込められている、という意味での事なのですね。つまり、まず何よりもヴィクター ひとり による創造行為の描写には、女性との愛情行為を伴わない自慰行為の隠喩 が込められている。 これは無意識的なものというより明らかにメアリーが意図的にそうしているといえます。 この点について、角田信恵は詳細な考察を展開している。
生命創造に熱中していた頃を回想して、ヴィクターは語ります。「 穢れた創造の仕事場 」で、「 瀆神の指で人体の恐るべき秘密を乱しました 」( F 58 ; 71頁 )。怪物の要請で女の怪物を創ろうとする試みについても、「 わたしが手がけている過程は、実際穢らわしいものでした 」とか、「 わが手のおこなうわざに吐き気をもよおすこともたびたびでした 」( F 143 ; 215-16 頁 ) などと彼は述懐します。彼の生命創造のわざは、「 穢れた 」」、「 瀆神の 」、「 穢らわしい 」といった形容詞で暗示される性質のものであり、「 指 」や「 手 」によって行われたとされるのです。『 オックスフォード英語辞典 』はマスターベーション ( masturbation ) という語の語源は明らかではないとしながら、かつては「 手 」を意味するラテン語、manu-s と「 汚す 」を意味する stuprāre の混成語だと考えられていたと記しています。とすれば、事態はジョン・サザーランドの指摘 ー 「 ヴィクターのいう「 おのれの手でしでかした 」最初の仕事というのは、おそらく自慰行為のことだ 」 ( サザーランド 39頁 ) ー のとおりだったと言えるでしょう。
角田信恵 「 第五章 カロリーヌの影のもとに ー『 フランケンシュタイン 』における欲望のありか 」 『 増殖するフランケンシュタイン 批評とアダプテーション 』 所収 p.136~137 武田悠一・武田美保子 / 編 著 彩流社 ( 2017 )
* 上で記載されている ( F~ ; ~頁 ) の F~ とは Mary Shelly. "Frankenstein" Second Edition. Ed. Johanna M. Smith. Boston and New York : Bedford / St. Martin, 2000. のページ。 ~頁 とは 創元推理文庫版 『 フランケンシュタイン 』 森下弓子訳、1984年 のページ。
そのことをヴィクターはわかる人にはわかるといったレベルで告白しています。彼はこう述懐します。生命をつくりだしたいという「 狂乱にも近い衝動 」に駆りたてられて、「 不自然な ( unnatural ) な刺激 」によって「 つかのまの恍惚状態 」におちいっていたのだ、と ( F 58 ; 71頁 )。異性との性的接触が自然な刺激なら、「 つかのまの恍惚状態 」をひきおこす「 不自然な刺激 」は異性を介在させない性的刺激を指すでしょう。一七一五年にロンドンで匿名出版された『 オナニア 』と題するパンフレットが、その行為を獣姦や同性間の性行為に匹敵する「 自然に反する罪 」として糾弾していたことを想起してもいいかもしれません。
前掲書 p.137
このテクストが出版されたのは一八一八年、反マスターベーション・キャンペーンがもっともその激しさを増したのは、一八世紀末から一九世紀初頭にかけてでしたから、ちょうどそのさなかのことでした。この運動の中心をなしていたのは、スイス人の医師、サミュエル=オーギュスト・ティソが一七五八に発表したラテン語の論文、『 オナニスム 』でした。自慰を神学的な罪として糾弾する『 オナニア 』への批判から始めて、それを病理としてとらえようとする意図をもったこの論文は、一七六〇年には分量をふやしてフランス語版が、六四年にはさらにその増補版が刊行されました。そのころからこの著作は人々の注目を集めるようになり、一九〇五年まで版を重ね、翻訳も一八種類を数えたといいます。
前掲書 p.137~138
[ 3 ] さて、気を付けなければいけないのは、この先の解釈です。 このヴィクター・フランケンシュタインの創造行為に重ね合わされている射精行為、この隠された性的隠喩 ( そう自慰と思われる隠喩はあくまでも隠喩でしかなく、自慰への欲望ではない ) は、いかなる欲望であるのか、この点を今一度、詳細に考える必要があります。 というのも 『 フランケンシュタイン 』 はそのテクストレベルにおいて、母の不在、その不在ゆえの母への欲望が母なるものへの固着という形で現れている という解釈が研究者や批評家の間において定番となっているのですが、その浄化された形而上的解釈では、ヴィクター越しに透けて見える性的欲望との秘かな接触 とそのままで結びつけるにはまだ何かか足りない、まだ考えるべきものが残されているといえるのです。 それについては次回で考えていきましょう。
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