Constructing the Private language in which Thought is sharpened.

Vanishing the Self so that no one else can receive it. Leaving the Thought-logic instead of the Self. Escaping from mediocre self-approval.

▶ マルクス・ガブリエルのイスラエル擁護記事を批判的に考える〈4〉

CHAPTER5  ガブリエルによる哲学的中立性の理論的脆弱さ

1. 『 世界はなぜ存在しないのか 』の時からガブリエルの新実在論の特徴を成して来た、ただひとつの立場・見方を特権化せずに様々な立場を綜合化した "哲学的中立性" というものについてですが ( *1 )、今回の彼のイスラエル擁護記事で、その理論的危うさを露呈させてしまいました。前回の記事から少し時間を空けたのは、もしかしたら6月に発売されるガブリエルの『 倫理資本主義の時代 』( ハヤカワ新書 ) でイスラエルについて述べている箇所があるかもと思い待っていた訳ですが ( 新聞の少ない記事量だけでは見えてこない面もあるかと思い )、やはり触れていましたね。同書で彼は次のように言っています。

 

 二〇二三年一〇月七日にハマスのテロリストが犯した、バイデン米大統領の言葉を借りれば「 悪の所業 」というべき残虐行為を受けて、罪のないパレスチナ市民とイスラエル兵が目下直面させられている恐ろしい悲劇も同じであることは言うまでもない。テロ攻撃への報復としても今も進行中の軍事行動のなかで、一部のイスラエル兵が戦争犯罪を疑われている事実は無視できない。またイスラエル軍による全体的な軍事行動が、きわめて問題のあるものになってきた事実も看過できない。民間人の死者が多すぎるのは明らかで、その多くが避けられたものであり、なかには意図的なものも含まれている可能性があることから、一部のイスラエル軍の行為は邪悪である。国際法に従って事件を評価し、分類するのは国際機関の役割だ。このケースでは完全な倫理的解決策はない。ただ、現時点で、イスラエルは今も自由民主主義陣営のメンバーであり、民間人に対する戦争犯罪は絶対に正当化できないものの、ハマスに対する何らかの軍事行動を正当化できるだけの存亡の脅威に直面していることを理解するのは重要である ( 92 )

 

 

『 倫理資本主義の時代 』 p.174~175 マルクス・ガブリエル / 著 斎藤幸平 / 監修 土方奈美 / 訳 ハヤカワ新書 ( 2024 )

 

* 下線は引用者である私によるもの

( *1 )  この哲学的中立性とそれへの批判については、以下の記事における ( *3 ) を参照。

2.  これを見る限り、新聞記事の内容と主張的にあまり変わりがないのが分かります ( 新聞記事内容も同じ時期に書いたという事でしょう )。イスラエルの軍事行動の行き過ぎを非難しながらも、イスラエルの立場に理解を示そうとする擁護姿勢を基本的立場としているのですね。民間人に対する戦争犯罪を非難しながらもイスラエルを擁護するというこの捻じれた姿勢 は、戦後のドイツのイスラエルに対する国家的協力関係の歴史枠組みの中にガブリエルが無意識的に囚われているのを示すのと同時に、彼の考える哲学的中立性の理論的危うさをも表わしている。それについて考える前に興味深いのは、以上の引用箇所の ( 注92 ) が自らのイスラエル擁護に対する批判に釈明する形となっている所です。見ておきましょう。

 

( 注92 )  私が本書の第一稿を書き上げたのは、2023年10月のハマスによるテロ攻撃からほんの数週間後だった。〈 注略 〉。12月以降の戦争の状況から、イスラエル国防軍が人質解放とハマス殲滅を目指す悲劇的な軍事行動のなかであまりに多くの過ちを犯したことが明白になったのを踏まえて、私は原稿を修正することを決めた。さらに日本での対話の相手となっている方々から、どういうわけか私がガザ地区での民間人に対する暴力を間接的に正当化できるものとして支持しているという重大な誤解を受けたために、この注を追加することにした。戦争における民間人への暴力は、それが何らかの「 正しい 」全体目標に資するか否かにかかわらず、「 道徳的に 」正当化されることは決してない。

 

前掲書 p.285 

* 下線は引用者である私によるもの

3.  これを見ると、彼が自分への意見・批判をよくチェックしているのが分かるのですが、この目配せの利いた用意周到的な修正対応にも関わらず、ガブリエルはあまり自分の振舞いの意味を理解出来ていません。それは、真に倫理的な哲学的振舞いをするのならば、この場合、イスラエル擁護に固執するのではなく ( あるいはテロリスト擁護でもなく左翼や右翼でもなく )、民間人の安全、もっと言うならば、人間性の普遍的保護、こそを最大限に考慮して、軍事行動それ自体に反対するしかありえない からです。それが出来ない哲学者など戦争を煽る政治家や軍事主義者と何ら変わらない、いやそれどころか、どれだけ理屈を持ち出そうが 最終的に戦争を肯定する哲学者など何の役に立つというのか、一体何の為に存在するのか、という話になりますね。

4.  この彼の捻じれた哲学的中立性は、彼の言うところの "意味の場" に現れる対象を私たちがどう知覚しどう理解するかという根本的な社会アプローチの哲学的図式化 ( フォーマット ) というべきものです。さて、ここからガブリエルの振舞いが奇妙なのは、そのような中立的図式化を提示した後、彼はだからといって現実にどっちつかずの立場を表明するのは日和見的な相対主義でしかないとして、再び現実的な敵対関係に舞い戻り、倫理・道徳的進歩・最高善などの疑似カント的概念を持ち出す事で、敵対勢力を打ち倒そうとする事です。このような日和見主義への批判は一時期のジジェクが率先して唱えていた余りにも政治的な振舞いであり、ガブリエルがそれに共感し影響を受けているのは見る人が見れば分るはずです ( ガブリエルの著書『 世界はなぜ存在しないのか 』のタイトル自体がジジェクの文章からの変形借用ですからね )。( *2 )

( *2 )  これについては以下の記事の第4章を参照。

5.  ここは本当に警戒すべき所であり、ガブリエルが駄目なのは、倫理・道徳的進歩・最高善を持ち出す事で自分たち民主主義陣営の方にこそ正義がある、相手側にはそれが無い、と暗黙の内に前提化している所です。倫理・道徳的進歩・最高善という概念を持ち出す事で自分たちを優位化する西洋理性中心主義が未だ根強く渦巻いている のにガブリエルは残念ながら無自覚なのです。

例えば、ハマスプーチンが自分たちの方にこそ倫理や道徳があるのであって、それらの概念を自分たちの専売特許であるかのような振る舞う西側諸国にこそ問題があると言い出したらガブリエルは何と答えるのでしょうか。彼に従うと、敵対勢力は何の理屈も持たないのだから相手にするな、同じ土俵の上には乗らせない、という事にしかならない。これでは従来の国際政治のパワーゲームが引き起こす衝突の歴史と何ら変わっていない。対話の相手を選ぶという篩に掛ける行為自体 ( 例えばガブリエルはハマスは相手すべきでないと言う ) が 哲学的中立性に基づいた相互対話・相互協力・倫理的要請などの枠組提示自体を何の意味も無い事にさせてしまっている のです。

6.  つまり、ガブリエルは倫理・道徳的進歩・最高善という概念で以って世界が共有できるような普遍物 ( それは彼の新実在論へと繋がっている ) の必要性を唱えようとしているのですが、そのような誰しもに公平性を要求する中立物は "名目上は存在しても ( それこそ倫理や道徳という表現物 )"、現実には世界中の各自がそれぞれ考える中立概念・中立性を主張するが故の衝突を引き起こすトリガーとしてしか機能していないのです。

7.  実際、彼は現在の世界状況を戦争というフィルターを通して考えた場合、道徳主義の無効性を痛感せざるを得ない事を認めてしまっている ( 前掲書 p.174 )。にも関わらず、ガブリエルが倫理にこだわるのは、それは倫理に民主主義諸国・陣営以外の国々・集団、そして資本主義の暴走に歯止めをかける "制限機能・効果" を求めているからだとしか考えられませんね。なので、それは別に倫理の名称でなくとも、緩やかなもの、平和的なもの、非闘争的なもの、等の外部における敵対関係の促進とは相反する 欲望の断念化・諦念化 ( もちろん、これは欲望の "全て" を諦めることではない。それは "不可能" なので ) を自国 / 自分の中で "その都度修正的に" 自律化させるもの ならば何でも構わないという事です。

8.  そういうことでなければガブリエルが言う倫理資本主義とは現実の産業 / 労働世界においては何の制度的打開にもならない空疎な言葉上のものでしかないですからね ( その為に彼は企業に哲学者等を含めた倫理部門の設置を具体的に提言したりするのですが、そんな余裕があるのは巨額の利益を上げる裕福な企業くらいしかないという資本主義的矛盾に果たして気付いているのか …… )。もちろん、ガブリエルは自らのこの倫理的要請の裏に隠れた欲望の断念・修正行為の意味には気付いていないのですが。