It ( Es ) thinks, in the abyss without human.

Not〈 I 〉 but 〈 It 〉 thinks, or 〈 Thought 〉 thinks …….

▶ マルクス・ガブリエルの『 超越論的存在論 』を批判的に考える〈2〉

 

 

[ 前回記事からの続き ]

Chapter3  "〈 自己言及の不可能性 〉という超反省性論理" の問題点

A.  前回の記事の "Chapter2 超越論的存在論というガブリエルの方法論について" の7において、私たち ( 主体としての ) が私たち ( 物自体としての ) にはアクセス出来ないという 自己対象化・自己言及化の不可能性 にガブリエルは陥っているのではないか、彼は一体どう考えているのか、と書きました。確かに、〈 私というもの 〉、〈 私という対象 〉に私が直接的に、距離がゼロの完全になぞるような相同的着地は出来ません。というのも、それこそ前回に説説明したように、外部からの規定的論理では触れる事の出来ない個々人自身のみが経験する 純粋な内的生 ( 他人に伝達不可能なもの ) に対して、例え自分自身であろうともその内的生について語る ( 伝達する ) ような自己対象化作業は、外部からの規定的論理 でしかなくなってしまう、つまり、自分について他人が語るようなアクセス方法と何ら変わらない、その瞬間、 私について語る "私" は、私ではなく "他人" へと存在論的に変換されてしまうのです。超越論的主体としての私が、実存的な私には直接触れる事が出来ない アクセス不可能性こそが "超越論的=経験論的二重体である私" を構成する条件となっている、これこそがガブリエルが持ち出す超越論的存在論という "超反省性論理" なのです。

B.  この超反省性論理は、ガブリエルの考え方を支える核心のひとつとなっています。この考え方であれば、物自体へのアクセス不可能性を、問題の解決を阻む "障壁" としてではなく、むしろ物自体の前段階に私たちを留めさせるよう要請する "構成論的諸条件" である、として逆転させる事が出来るのですね。この場合、物の前段階における構成論的諸条件とは、物の内実を探り当てるような "対象側" へ着地する標準的試みなのではなく、物の内実 ( 対象物側 ) を探索しようとする "私たち側" の様々なアプローチそれ自体に既に物の "構成論理"潜在的に組み込まれている、という事です ( そうでなければアプローチ自体が成立しないという事ですね )。この考え方の代表的な例としては、グレアム・ハーマンによって、対象に対する上方解体・下方解体として名指される既存のこちら側都合に沿った哲学アプローチがありますね。それは実際には客観的な解体なのではなく、こちら側の主観的な構成論理に沿った解体という名の下での再構成でしかない事 をハーマンは皮肉っている。なので、ハーマンはこのアプローチを以って良しとはせず、その先の対象の実存こそを肯定する。

 

C.  しかし、新実在論という立場を同じくしながらも、ガブリエルはハーマンとは少し違う。彼は構成論理 / 構成論的諸条件 ( 彼の表現で言うなら存在論的諸条件 ) こそが、存在者の世界での "現われ方"、すなわち "存在それ自体" の真実の定式化である、と考える。この場合、存在それ自体とは、存在物が単独で存在するという凡庸な事柄ではなく、存在がそれ自体で単独的に実在するかのように錯覚させる自らを多元的に現象化 / 仮象化する超越論的作用の総体であるという主張ですね。

 

スラヴォイ・ジジェクが彼のシェリング読解のなかで導入した用語を用いるならば、超越論的存在論が探求するのは、存在の「 現象化 phenomenalization 」なのである。それによって、超越論的存在論は、存在と現象 ( 客観性と主観性、世界と心 ) という二元論を乗り越えて、存在が何らかのしかたでその現象化に依存している、ということも主張するのだ。

 例えば、ヘーゲル『 大論理学 』の中で行われているのは、まさにそういうことである。そんなかでヘーゲルは、「 存在とは仮象である[ das Sein ist Schein ]」ということを発見している。ヘーゲルのいう「 存在 」とは、「 現実性 」や「 顕現 」と呼ばれる〈 表現的な次元 〉と同一のものであり、彼の構想全体をまさに、存在が有限な思考者へと顕現される移り行きを再構成する試みとして読み解くことができるだろう。

 

前掲書 p. 16~17

 

D.  ガブリエルに従うならば、この存在者の構成論的諸条件とは、意味の場における 存在という出来事 に他ならないのですが、しかしそれだけでは事物 ( 存在者 ) は相変わらず外部からの諸条件 / 諸状況 ( それが意味の場の複数性や多重性であるとしても ) に構成されるという 規定性論理 に支配される受動的かつ非能動的なものでしかなくなる ( 果たしてそこに 対象側の自由 はあるのでしょうか ) のです。

そこで、存在概念と連関させた時、事物自体においては一体何が起こるのか考えてみましょう。存在概念とは諸々の単独存在物をただそれだけのものとして終わらせる事を意味するのではなく、地球上の歴史的経過という巨大時間によって生じる 有限性化という強力な規定性 を被った事物が、自分以前に在ったであろう今は亡き諸々の消滅存在と接合され綜合化された時に現れる 諸事物の事物性存在者の存在性、の具体物である事を意味させる。そこでは、事物が単独的に在る事を超えて、物理的に有限化されるという巨大な規定性を被った事物においてこそ規定性では捕えられないが現れる という 物理的有限性から精神的無限性への究極の次元変換がそれ自体において引き起こされている。

E.  そうすると、事物にとって無とは自分を消滅させる対立物などではなく、あらゆる外的規定性から最も自分を自由にさせてくれる もの として形象化された〈 〉である事が分かるでしょう。それは自分の中に抱え込む 無限化された生 であり、外部の〈 規定性論理 〉から自分を解放させてくれる〈 内在性論理 〉なのです。なので、事物 / 個物の被る限局性・限定性は、個物の単独性からすれば否定的短所なのですが、生という全体性の観点から考えると、捉えどころのない生それ自体がある特異点 ( 個物 ) に向かって収斂されるという 普遍的観点での限局性化 であるという事になり、その巨大な規定性論理は特異点の部分的圏域性の中で引きおこされる "無限化された生"、つまり、"" においてその役割を終える に至るのです。

F.  この 特異点への限局的収斂化 という規定性論理の機能を上手く説明したのがフィヒテです。フィヒテにおいてはこの特異点は個物という事になるのですが、彼は その個物を、生という一者が自らを "自己収斂" させた事で生じたものだと説明するのです。この辺はシェリングにおける神の自己収縮原理を彷彿とさせるのですが、シェリングの場合は収縮という行為主体としての人格的神が強調されていて、ある意味で非哲学的ともいえる神話論理の哲学 ( あくまでもこれは『 世界時代 』執筆時の一時期的なシェリングの話 ) へと傾き過ぎている ( ガブリエルはこれを人間学的定式化と言うのですが )。フィヒテは、シェリングのように人間概念に神話素を持ち込む以前に、これ ( 収斂 ) を "生の原理" として徹底化する。この徹底化は眩暈がするほどの知的緻密さで以って為されるのですが、これはある意味でヘーゲルハイデガーよりも論理的複雑さを備えていますね。

 

 さて、こうした収斂 ( Contraction ) がなされるとしたら、まず、収斂するものは何だろうか。明らかに、唯一なる生である。なぜなら、それ以外にはなにも現存していないからである。では、その収斂の結果として何が生じるであろうか。[ 第一は ]他のすべての点を捨象して、ただ一点へと一般的に制限することである。[ 第二は ]この[ 個別的な ]点にまさしく収斂するものである。〈 中略 〉。

 それでは、個体を作り、産み出すものは何であろうか。明らかに、一なる生が自己自身を収斂させることによって個体を作るのである。特定の収斂によって制約され、しかもその収斂を前提する ( 内的 ) 直観にあって、現に直観しまた直観されもするもの、その直観のうちに現れる自我は、いったい何であろうか。それは唯一なる生である。〈 中略 〉。けれども生は、同じただ一つの自由をもって、またこの自由によって、一にして同じものであり続けながらも、一方から他方への形式へ移行することができる。唯一なる絶対的生は、自己自身を個体にしながらも、それによって自己の自由を失いはしないのである。

 

 

フィヒテ全集19 所収『 意識の事実 ( 1810 ) 』p. 147~148 藤澤賢一郎 / 訳 晢書房 ( 1995 )

* 下線は引用者である私によるもの

 

G.  ここ ( A.~F. ) まで個物における内在性論理としての〈 無 〉について話したのは、( A.~C. ) で話したガブリエルの存在者の構成論的諸条件の探求という方法論を支える超反省性論理が持つ "論理的閉塞性" を疑問に思うからです。その閉塞性は〈 無 〉について考える振りをしながらも、現実には、相手側の自由そのものであるを締め出している。つまり、自分の意図については深く考えていても、自分の向こう側の対象 ( 物自体 ) のこちらの意図に沿わない自由な振舞については理解しようとはしない。こちら側の意向のみで対象との関係性を一方的に完結させてしまう非双方向的な欠点これこそが問題なのですね。物自体の内実性がいかなるものであろうとそんな事を知らなくとも、相手側がこちらの意図の範囲内に収まるような振舞いをしてくれるならば関係を構築出来るし、違う振舞いをするのならば関係は結ばない、という 対象との関係性構築の "取捨選択" をするだけの実に政治的・権力的な話にしかならないからです。日常生活レベルでは、そっちが自由に振る舞うのは構わないが、こっちも好きにするからな、という "齟齬・衝突" を現実に生み出す事でしかない。

H.  それが最も表れている例が、少し前の新聞記事、ガブリエルがイスラエルを擁護しハマスを批判した記事ですね。このブログでも細かく言及したので以下を参照。

そこで、彼はイスラエルの軍事行動の行き過ぎを非難しながらも、イスラエルの立場に理解を示そうとする擁護姿勢を基本的立場とするのです。イスラエルを批判するのは反ユダヤ主義を煽りかねない、とか、ハマスはテロリストなのだから話す余地はない悪だ、とかのように、イスラエルパレスチナの関係性をハマスの悪を非難しながら一方的に完結させてしまう のです。つまり、悪のテロリストを滅ぼす為なら、そこに巻き込まれるガザ市民には申し訳ないがイスラエルの軍事行動は仕方がない、という事なのです。

I.  もし、そのような彼の考え方が彼本来の専門の哲学とは関係が無いというのであれば、彼は自分の哲学で偽善しか語っていないという事になりますね。世界の多様性・多元性 ( これは彼の表現である "意味の場" でもあるのですが ) を哲学的に強調しておきながら、現実の世界での、パレスチナではなくイスラエルを擁護するという "取捨選択" の行為は、多様性・多元性を語る事の意義を自分で失わせてしまっている。世界の多様性・多元性の哲学的擁護という観点からするならば、どれだけ日和見主義に見えようと、どれだけ愚直に見えようとも、どちらかを擁護するのではなく、対立それ自体を無効化する "平和概念" を語るしかなかったはずなのです ( そうでなければ多様性は保てない )。でもそうしなかった。つまり、彼の語る多様性・多元性とは彼側の陣営、西側諸国 ( 彼はイスラエルを西側諸国側だと言っている )、民主主義側、西側の道徳観念・倫理概念を持つ物分かりのよい人間が集う社会、での派閥政治的話にしか過ぎなかったという訳です。

J.  ここでひとつ書き加えおきたい興味深い話は、上記参照記事の中でも僕が引用しているガブリエルの新書『 倫理資本主義 』の監修を務めている斎藤幸平が同書の巻末解説 ( またはあとがき ) として掲載予定だったものが、おそらくその批判性 ( *1 ) ゆえに、ガブリエルによって掲載拒否されたという話です。これは新書の発行元である早川書房の公式 note ( https://www.hayakawabooks.com/n/n42e9e187b450 ) に斎藤幸平による同書の書評としてアップされているのですが、そこにはその経緯は書かれていません ( 斎藤の公式Xから掲載拒否されたものである事が分かる )。

 

( *1 ) 斎藤による批判の立脚点は、まさにガブリエルが『 倫理資本主義 』で考えているような 資本主義内部での改善なのか、それとも斎藤が唱える脱成長主義と最近ではソフトに言い換えられている共産主義という 資本主義の外部からの改革なのか、という原理的分け目にある。公平を期すならば、この記事で僕はガブリエルを批判はしているものの私たち人間は最悪であると分かっていても資本主義世界に留まる事でしか生きれない、その中で改善していくない、という点では彼に賛成する。

しかし、だからといってガブリエルが主張する倫理で以って資本主義をコントロールするという改善は何の効果も無いと言う点では斎藤に同意する。これは結局、資本主義というシステムを弁証法的に考えるという原理問題 に帰着する。斎藤はガブリエルがドイツ観念論を研究しているといっても、そのドイツ観念論の核心である "弁証法の観点" から資本主義を原理的に考える事が出来てないのではないかと言っているのですね。この原理問題についての詳しい話は以下記事の第4章を参照。

 

K.  普通であれば表には出てこないこのような経緯 ( J. での話の事 ) が示しているのは、ガブリエルが論理的思考能力が優れた人間でありながらも、そのような論理性とは別に、日常世界の中で極めて政治的に振る舞う事の出来る狡猾な人間だという事です ( その人間性が駄目だという話ではありませんよ )。これはまた、僕が以前の別記事で述べた『 全体主義の克服 』という新書におけるガブリエルのハイデガーハーバーマスへの批判が少し変だという話にも繋がりますね。以下参照。

 

L.  その批判が異様だったのは、論理的であるというよりも彼らの怪しさを煽るようなゴシップ的批判性故であって、それはもういかがわしい人間であるかのようなイメージを植え付ける印象操作、極めて政治的な印象操作に他なりませんでした。この異様さを敢えてスルーするガブリエルの擁護者たちは、彼の真髄はまだ知られていない理論的著作にあるなどと浮世離れした事を述べたりする。問題なのは、そのような優れた論理的思考が出来るガブリエルが、一方では対立者・敵対者の人間性を卑しめる政治的振舞いをするという "歪み" であり、そのような人間が語る倫理・道徳・最高善などの考え方に違和感を覚えないような擁護者たちの "無関心性" なんです。これでは、どこに理論的誠実さがあるというのでしょうね。

M.  さて、次回からは論理的な話に戻る事にしましょう。ガブリエルの依拠する超反省性論理が物自体の存在を無碍に扱いかねない論理的強力さについて考える為にも、物自体と意識の在り方 を関係づけていく事にします。

 

 

[ 以下記事へ続く ]