▶ Chapter1 マルクス・ガブリエルを擁護しようとする方々に対して
[ 1 ] マルクス・ガブリエルの本格的な理論的著書『 超越論的存在論 - ドイツ観念論についての試論 』の訳者あとがきに本書の成立背景が説明されているのですが、その中で以下のような下りがあります。
こうして第二章は、ハイデガーを通じた後期シェリング哲学の意義の再確認となっており、第三章へのスプリングボードとしての役割を果たしているとも言える。さらに、いわゆるシェリングの「 述語づけ存在論 」をガブリエルが詳細に論じるのも、この第二章である。そこでのハイデガーへの言及は最終的に批判的ではあるものの、しかしここ数年のガブリエルによるハイデガーへの批判的な言及 ( ときには全面的な拒絶ともとれる ) とは内容的に一線を画していることは間違いない。というのも、ここでは、なぜハイデガーに批判的に論究し、乗り越えねばならないのかという動機が明確に示されているからだ。哲学研究者としてのガブリエルがハイデガーをどのように解釈しているのかを知るためには、この第二章が必読と言ってもよいだろう。
残念ながら、以上のような哲学研究上の文脈は、『 なぜ世界 』だけを読んでいてはわからない。いわば、この本書がガブリエルの哲学実験の〈 本体 〉であり、その実験の〈 成果 〉だけがテーゼのかたちで淡々と示されているのが『 なぜ世界 』なのである。そのため、哲学や思想史に詳しい読者であればあるほど、『 なぜ世界 』の議論展開に違和感をおぼえたり、その或る種の節操のなさに躓いたりするはずである。
『 超越論的存在論 - ドイツ観念論についての試論 』p.325 マルクス・ガブリエル / 著 中島新、中村徳仁 / 訳 人文書院 ( 2023 )
[ 2 ] 訳者の方は何気に書いているのでしょうけど、ここにはハイデガーがよく行ったような "予備的作業" とか "序説・入門" とかの思わせぶりなタイトルを使う哲学界隈の悪しき風習が表れていますね ( ジジェクも何処かで言ってたけど、そのようなタイトルはほとんどがそれ以後に書くつもりが無いのを示している )。『 なぜ世界 』のような新書はあくまでも入門書であって、本書こそが〈 本体 〉であるから、これを読む必要があるという訳です。ああ、そんな事を言うから一般の人が哲学新書ですら本気で読まず途中で放り出したりして結局、何が書いているのかよく分からないという事になるんですね ( 『 なぜ世界 』はまさにそういう本でした )。
逆ですね。新書であってもガブリエルのエッセンスが濃縮されているから必死に読んで欲しい、くらいでないと専門家以外誰も真剣に読まない、いや知識人でも真剣に読んでいるかどうかです ( 真剣に読み解くという "行為" から得られるものは決して小さなものではない。それが新書であっても )。そもそも、皆、日々の生活に追われているんだから軽い気持ちでしか本を読もうとしないんですよ。そこに、これは入門的な本であって本当の奥義は書かれていないみたいな事を言ってたら、ならそこまで真剣に付き合わなくてもいいか、何となく目を通しておけばいいか、としかならない。そうすると、本書のような理論書なんかにはまず辿り着く事は起きない。
[ 3 ] とするならば、ガブリエルの擁護者が為すべきは、むしろ 彼の作品を理論的観点から徹底的に批判する事でその読解の価値及び緊張度を高めていく 事でしょう。ガブリエルの作品には、批判するに値する論理性が十分に溢れているのだから。それに気付かずにただ擁護 ( それと上っ面な批判 )するだけでは誰も読もうとしないですよ ( シェリング研究者・新実在論研究者でない方で彼について積極的に論理的意見を述べた人なんてほとんどいないのですから。つまり読まれていない )。そういう訳で、ここでは本書を批判的に考えていく事にしますね。
真摯な論理的批判であるならば、それは作品の価値を決して貶めるものではないので ( よく読まなければ批判すら出来ない )。"論理的" 批判 の徹底 ( それは同時に "新たなる解釈の提示" を批判者に要請する ) こそが無関心な人々の読書の欲望を高めていくんですよ。そこまで批判するのならひとつ読んでみようか、その批判は本当なのか、という具合に。
▶ Chapter2 "超越論的存在論" というガブリエルの方法論について
[ 1 ] 最初に考えなければならないのは、本書のタイトルにもなっている "超越論的存在論" というガブリエルの方法論です。かれは次のように言う。
超越論的存在論は、存在者へとアクセスするさいの私たちの諸条件の存在論的条件を探求する。その超越論的存在論は、〈 主体は ( いかに捉えられようとも ) 実在する 〉という単純な洞察とともに、よってすなわち、実在概念に対する分析が方法論上、〈 主体が実在にアクセスすること〉に対する分析に先行するという洞察ともに、始まるのだ。概念能力を持った主体は現に実在しており、そうした主体は世界の一部なのである。だとすると、そこから次のような問いが浮かび上がるだろう。それはつまり、存在 ( 世界 ) を参照指示することで存在するものの構造をその都度変えてしまうような有限な思考者たちにとって、そのような存在が現象するためには、どのような条件をその存在 ( 世界 ) が満たしていなければならないのか、という問いである。
前掲書 p.16 *下線は引用者である私によるもの
[ 2 ] 上の引用の、特に下線部を念頭に置きながら、ガブリエルが、自らの超越論的存在論という方法概念の元となったカントの超越論的方法について教科書的解釈で以って述べている箇所があるので見ておきましょう。
カントが、自らの超越論的方法によって、存在論という古典的な構想が片付けられたと信じていたことは周知の通りである。彼が主張するところによると、存在論は、〈 存在 ( 物自体 ) が思考に直接与えられている 〉とみなす素朴な認識論的前提の上に立っているという。こうした意味での存在論に対抗して、カントが熱心に証明しようとしたのは〈 実在するあらゆるものは思考によって構成されている 〉ということであった ー ただし、そこには、或るものを指示するさいの論理形式と両立可能なものだけが思考によって把握可能である、ということが仮定されている。けれども、或るものを指示すること自体は、指示された存在の事実とは別である。彼が哲学に課した課題は、存在そのものの構造を叙述することではなく、思考の対象として在る対象の構成を反省することであったのだ。
前掲書 p.18~19 *下線は引用者である私によるもの
よって、デカルトのようなかたちの懐疑論におちいる可能性を根絶するためにこそ、カントは〈 思考がその対象を構成しなければならない 〉と考えたのである。こうした理由から、何かについての判断を可能にする統一化の活動は ー とはいえ、その活動自体は判断ではないのだが ー 主体の内側に位置づけられねばならなかった。主体は、それ無くしては客観性が不可能であるような、理論形成の過程として理解されるようになったのである。〈 中略 〉。
ところが、カントは、〈 主体が実在する 〉という一見取るに足らない事実を十分に説明することができなかったのである。主体はそれ自体が、世界の一部である。[ にもかかわらず ]カントは、客観的に入手可能である事態の総体としての〈 世界 〉から主体を締め出したことで、実質的に主体を無化してしまったのだ。これこそまさに、超越論的観念論はニヒリズムに陥る、というヤコービの推察に在る真理の核心なのである。
前掲書 p. 19~20 *下線は引用者である私によるもの
[ 3 ] さて、話を整理すると、カントは、主体を、対象をこちら側から超越論的に構成する "形式的主体" へと理論化した代償として、主体本来の姿、紛れもない世界の一部としての経験的姿態である "実在的主体" の居場所、を上手く説明出来なくなってしまった、とガブリエルは言っているのですね。人間を規定する世界 ( 存在 ) との関係性で考えた場合、カントの "超越論的主体" の考えでは現実の "経験論的主体" と上手く両立させる事が出来ない。
つまり、対象を規定する能力があるはずの超越論的主体が自分よりもさらに大きな規定力を持った世界からは経験論的に規定されるという齟齬、一体何が規定する側なのか・何が規定される側なのか、その線引きや分配、その作用点の移動性・反転性等の錯綜が上手く解消出来ていないという訳です。これは "規定あるいは包摂" という領域的次元において現れる力 から考えた場合の話ですね。この結果、超越論的図式としては "人間" を世界から排除してしまっている、とガブリエルは批判するのです。
[ 4 ] ただ、ここでカントを少し擁護するならば、彼は主体を超越論的に扱う事に伴う代償から生じる、"実在物の残余的現われ" という不気味な現象 ついて上手く扱う事は出来なくとも十分に注意を払っている。カントは『 実践理性批判 』において、主体をデカルトのコギトに倣って "私は考える" という思考行為の形式的主体として考えています。ここでカントが天才的なのは、デカルトのように、考えるという思考行為を、私の存在を確信させ安心させてくれる "私を起点・出発点とした宥和的・調和的行為" としてではなく、"私以前に既に始まっている私ではない非人称的行為"、言うなれば、私という表象カテゴリーを破壊する私の中に在りながらも私のものではない思考行為 が真に由来する "物自体の実存性" に行き着かせる程までのもの ( ヘーゲルが認識論的な幻想として斥けた物自体ですね )、として真剣に考えているという事です。
[ 5 ] 『 実践理性批判 』の中の彼の表現で言うならば、"私は考える" から、"考える私 / 考えるもの / 考えるX" への驚異的な思考の "転倒的 / 転置的" 移行ですね。この移行過程で真に力を発揮しているのは、私という表象ではなく、私と名指されてはいるが私ではない "もの" の実在性 であり、そこでは〈 私 〉の方こそが〈 もの 〉の仮象でしかないような転倒的かつ狂気的な不気味な現実が渦巻いている。そこでは〈 私 〉という表象の統制的地位が崩れ去る。そこではもはや〈 私 〉とは自分が1人である事を指示する機能 (*A ) を失っていて、〈 私 〉という言葉・表象が、私以外の誰か ( *B ) であったり、私以外の何かへと人を向かわせる事で得られる "内的体験" が代わりに起こる。もっと詳細に言うなら、外部からの規定性 はもはや問題にならないような内的な生、深淵 ( ハイデガー ) や無底 ( シェリング )、超越論的内在物である生 ( ドゥルーズ )、 としてしか表現されえない純粋本質としての無規定な内的生、へと人を向かわせる "現実経験" こそが重要になる。
( *A ) 例えば、ラカンは『 フロイトの無意識における主体の転覆と欲望の弁証法 :1960、エクリ所収 』で〈 私 〉という指示機能への固執は、かえって〈 私 〉ではないものの姿を露にする方向へと向かってしまう事態について語っている。ラカンが言うように、その場合の〈 私 〉とは、あくまでも "言表行為" の主体 に対して名指されたものに過ぎないのであり、"主体それ自体" を名指すものではない。同様に、『 実践理性批判 』におけるカントにおいても〈 私 〉とは "思考行為" の主体 に対して与えられた便宜的な表象でしかなく、主体それ自体の表象ではない。この主体それ自体の真の姿は、ラカンにおいては "無意識" であり ( だから彼は "無意識が話す" という言い方をする )、カントにおいては "物自体 ( 考えるもの・考えるX )" となる。さらにフィヒテは、無意識を主体として考えたラカンのように、思考自体を主体と考えて "思考が思考する" と言い方をする。
( *B ) 私が私以外の誰かへ向かう …… 、この事を最も体現しているのは晩年のニーチェ、それもブルクハルトとコジマに送った手紙の中のニーチェ自身の言葉でしょう。その中で自分を歴史上の数々の偉人に準えたニーチェは周囲から狂人扱いされたのですが ( 現代でもそうでも考える人はいるでしょう )、永劫回帰の教説と関連させてみれば、そう荒唐無稽な事ではないのです。永劫回帰とは単なる理論の為の理論ではなく、人間における "生" が "経験" というものを通じて活性化される、悦びが増大される、強度が高められる、事を謳おうとするものです。
生というものは確かにまずは現象として現れるですが、それに続いて 僅かに遅れて差延的に "経験されるもの" でもあるのです。生という現象の一般性と、その一般的現象が個々人において受け止められる経験性の間には一見癒着しているようで僅かな隙間がある。つまり、生の "現象" と 生の "経験" は似ていながら違う事なのです。生の現象は人間には変えられないが、生の経験は個々人のその仕方によって大きく変わる ( 人それぞれの生き方があるという考え方に表れているように )。
それは、その経験のし方次第では生それ自体が大きく変わって見えてしまう程の事でもある。ニーチェはその経験の変え方として、幾多の他人の人生経験こそが自分の閉じた人生を開放して豊かにしてくれるものとして参照-共有する。これこそが人生をあらゆる経験の系列から活性化させる行為の悦びであり、あらゆる人間の "実存経験" が収斂される事以外に最大限の人間的豊かさがあるだろうか、という話なのですね。
[ 6 ] ここでいったん話をまとめるなら、ガブリエルは、実在 ( 物自体 ) にアクセスしようとして上手くいかないカントの超越論的方法を批判しつつ、それに修正を加えて再構築・再使用しようとする、超越論的存在論という方法で以って。それは真の実在の対象は、向こう側の "物自体" ではなく、こちら側の "主体それ自体" であると照準を再設定するのですね。カントによる主体の超越論的形式化からこぼれ落ちた、主体の経験論的側面、すなわち、世界の中に含まれていることを示す "主体の実在性"、主体と名指されるものこそが私たちが探し求めていた "実在概念" に他ならない とガブリエルは言う訳です。
[ 7 ] しかし、正直、この辺にはかなり巧妙な論理操作が含まれていますね。というのも主体こそが物自体が有していると考えられた真の実在物であるにしても、物自体には主体そのものであるはずの私たちが直接アクセス出来ないという条件 ( これはまさにグレアム・ハーマンが言うような、対象に対してこちら都合の認識論上の解体・還元しか私たちには出来ないというアクセスの不可能性である ) が新実在論的に与えられているが為に、私たち ( 主体としての ) が私たち ( 物自体としての ) にはアクセス出来ないという自己対象化・自己言及化の不可能性 が論理的に露になるのです。この矛盾に果たしてガブリエルが果たして気付いているのか、それとも意図的に無視しているのかは分からないのですが、彼はここでも私たちが対象に向かうという超越論的図式を何の疑念もなく相変わらず維持しているのですね。
[ 8 ] つまり、物自体の実在が認識論的な幻想であるとしても、ではなぜ私たちが対象に向かうという図式は依然として維持されるのか、もっと突き詰めるならば、なぜ私たちは対象に向かうのか、という根本的原理が十分に考えられていないという事なんですよね。私たちが私たちにアクセス出来ない、自己対象化出来ない、自己言及出来ない、というのであればガブリエルは一体何をしようとしているのか、彼自身よく分かっていないのではないかという疑念が起こりますね。ここから先はまた次回以降で述べていく事にしましょう。