It ( Es ) thinks, in the abyss without human.

Not〈 I 〉 but 〈 It 〉 thinks, or 〈 Thought 〉 thinks …….

〈 Randon Notes 2024 〉『 心臓血管修復パッチ "シンフォリウム" のアイデア性について 』

 

福井経編工業公式ホームページより

 

  心臓血管修復パッチ "シンフォリウム" が2024年6月12日に販売が始まりましたね。かねてから、大阪医科薬科大の小児心臓血管外科医である根本慎太郎教授、福井県の繊維メーカーの福井経編興業、総合化学メーカーの帝人、の三者の共同開発が10年の歳月をかけてようやく普及化への道筋がたったという所です。この間の開発の経緯や医学的見地からの説明は他の記事でも為されているのでそこを参照していただくとして、ここではシンフォリウムのアイデア性について、医療的見地からは外れた斜めからの哲学的洞察をしていきましょう。

 

  先天性心疾患の子供の手術をしてきた根本教授は、心臓の血管狭窄や隔壁の欠損を修復する上で使用している既存のパッチに改良の必要性を感じていたようです。子供の心臓の成長に対して、従来のパッチではある程度の弾力性・伸張性があるとはいえ、対応できない。心臓は成長しているのに、パッチの大きさがそのままだとまたそれは新たな狭窄の原因になったり、パッチへの異物反応による劣化・石灰化・退縮化という問題が出てくる。そうすると子供は成長に応じて度々リスクのある手術を受ける必要が発生するのですが、根本教授は子供たちの為に出来るだけその回数を少なくしてあげたいという切なる思いがあったようです。

 

  牛・馬の心のう膜パッチ ( エドワーズライフサイエンス )、フッ素系のPTFE樹脂パッチ ( ゴアテックス )、等による従来の既製品では成人するまで続く心臓の成長に対応出来ない、この欠点をいかに克服すべきかと考えられたアイデアが実に興味深いんです。というのも哲学的に考えるならば、パッチという概念それ自体の根本的見直しが無意識的に図られてる からです。パッチの語源は、継ぎ当て・当て物・当て布、なのですが、どのような意味だとしても、そこには 負傷箇所を修繕するための "一枚もの" という存在論的基盤性が前提 とされています。この一枚ものであるからこそ負傷箇所を緊急に治療する上での効果が高いという事になるのですね。

 

  まあ実際のパッチは一枚ものといっても、幾つかの層を重ね合わせたり、吸着・圧着させたり、してるのですが、それでもそれは最終的には 製品として "一枚もの" に仕上げるという存在論的基盤性を無意識的に前提としている のですね。しかし、シンフォリウムは、その概念を哲学的に考え直してみると、一枚ものとは違う概念物である事が分かるんです。以下は福井経編の公式ページのPDFにおける掲載図なのですが、この編み方はシンフォリウムの核心そのものとともいえる構造となっている。このアイデアは本当に凄いなと思いましたね。パッチが心臓の成長に合わせて拡張伸張していく "未来を予め折り込んだ" 先見的アイデアに富んでいるんですよ。

 

 

  まず何よりも、ポリL-乳酸 ( PLLA ) という体内での加水分解・吸収系の糸と、ポリエチレンテレフタレート ( PET ) の、非吸収系の糸、のふたつを同時に編み込む事で従来のパッチの代用物を作るという発想が面白い。おそらく、これは医療知識であるために根本教授からの福井経編への提案だと思われるのですが、このアイデアの無意識性には、膜や層といった "一枚もの" の先入観ではなく、より柔軟性に富んだ "糸それ自体の概念" に、たんなる縫合用の "線" などには留まらない "極限化・極薄化" を施し変化させようとする 思考の試みが含まれている。それは施術後の患者の体内でのシンフォリウムの最終的な姿に具現化されているといえるでしょう。

 

  編み地を覆っていたゼラチン膜 ( このゼラチン膜による被覆構造は帝人による技術 ) が分解され、それに続く吸収系糸も分解され、最終的には非吸収系の糸だけが残り、異物反応を起こさずに体組織と融合する。この過程は、一枚ものが残るのではなく、便宜的に一枚ものであるかのように作られているシンフォリウムが患者の体内で溶解して、糸だけのシンプルな姿に行き着く。このように、シンフォリウムは体内の自己組織化を上手く促すという点で、"究極の媒介物" となっている。患者の体内に残存する既存のパッチとは違い、自己が消失する事で患者の生体に掛かる負担を出来る限り減らす という意味で、アメリカの哲学者フレドリック・ジェイムソンの概念を借りるならば 消滅する媒介者 ( Vanishing Mediator ) だといえるでしょう。

 

  さらに、ここで重要なのが、福井経編が経編 ( たてあみ ) を専門とする技術を持った繊維メーカーだった事です。根本教授は福井経編がかつて絹を使った人工血管の開発の実績があった事を知った上でパッチ開発の依頼をしたようなのですが、さすがに衣類の編み方のひとつである経編の製法についてまでは分野違い故に当初は知らなかったと思うんです。

 

  繊維生地は、縦方向に網目をつないでいく経編、横方向に網目をつないでいく緯編・丸編、縦と緯に糸を交差させる織物、という種類に分かれています。伸張性に富んだ緯編と強度のある織物の中間にあるともいえる経編は、新たな医療パッチの開発に適していた。強度があり過ぎると伸張性に乏しくなるし、かといって伸張性があり過ぎると柔らかくなり医療用途での強度が保てない。その意味で経編は今回の医療技術への転用に相応しかったといえるでしょう。

 

  経編は縦方向にループをつないでいくのですが、画像を見る限り、隣のループには斜めに糸を掛ける形になっているので経編の中でもアトラス編に近いのかなと思うのですが、この斜め掛け構造こそが縦か横だけではなく四方に伸張していく事を可能にする 重要な役割を果たしている ( 移植後2年の図における矢印参照 )。そこから吸収系の糸が溶解すると非吸収系の糸はさらに伸張するのですが、ここでポイントになるのは、この伸張時にループの結び目が糸に引っ張られる事によって強く締まるので、伸張しながらも糸の強度は保てる という抜群のアイデア性が発揮されている事です。このシンプルさの中にこそ伸張する未来への予備対応が含まれている。ほんとうによく考えられていますよ。