It ( Es ) thinks, in the abyss without human.

Not〈 I 〉 but 〈 It 〉 thinks, or 〈 Thought 〉 thinks …….

▶ パゾリーニの映画論『 ポエジーとしての映画 』について哲学的に考える〈 2 〉

 

 

 

 

▶ Chapter 2  パロールとしての映画話法 …… メッツの場合

 

[ 1 ]  パゾリーニとメッツの 記号を巡る解釈の最大の相違点は、"映画的語り" をどう考えるかという点において現れる。メッツはここで映像が "書き言葉・書かれた文" と一見対応するかのような凡庸な言語学的映画解釈を避ける事は出来ている。むしろ映像は "話し言葉・話された文"、つまり、"音声言語" に相当すると指摘する。

 

 

映画は多くの点で、話される言語活動よりは、書かれた表現を想起させる。けれども、単位のデクパージュという点を見るかぎり、エミール・バンヴェニストの言う "完結した断定的言表" としてのショットは、口頭の文に相当する。

 ヤーコブソンが紹介しているように、ことわざについての研究のなかで D・B・シムキンは、ことわざでは「 コード化されたもっとも大きい言語学的単位が、同時に、もっとも小さな詩的単位として働く 」という結論に達した。超音声言語的なことわざについてのこの見解は、非音声言語的分野を代表する映画の映像的言説にも通用する見解である。( ことわざに似て ) 単語ではなく "文" であるショットは、まさしくもっとも小さな "詩的" 単位である。

 

 

「 映画 ー 言語体系 ( ラング ) か、言語活動 ( ランガージュ) か? 」 クリスティアン・メッツ / 著 森岡祥倫 / 訳 p.243 『 映画理論集成 』所収 岩本憲児、波多野哲郎 / 編 フィルムアート社 ( 1982 )

 

 映像が文に等しいのは、その意味の量 ( とりわけ映画においては取り扱いにくい概念だが ) によってよりは、その断定的なあり方によってである。映像はつねに現動化されている。したがって、内容的には単語に相当するかもしれないような映像 - そんな映像はきわめてまれだが - でも、やはり文として考えざるをえない。たとえば、ある対象を詳細に照らしだすような場合がそれである。拳銃のクロース=アップは、「 拳銃 」( 純粋に潜在的な語彙単位 ) を意味するのではない。少なくとも、そしてさまざまな共示的意味 ( コノタシオン ) には言及しないでおくなら、それは「 ここに拳銃があるぞ! 」ということを意味するのである。その映像は、一種のここに …… がある voici ( マルティネが現動化の純粋な指標として考える単語 ) を得ている。ショットを "単語" と見なせないわけではないが、結局はある種の言語体系[ たとえば幼児語 ]にみられるような単語=文でしかありえない。

 

前掲書 p.243~244

 

[ 2 ]  以上から分かるようにメッツは映像を何らかの対象を指し示す一つの単語としてではなく、話し言葉・話された文として考える。何かについて指示機能ではなく、それ自体の存在が現れている話し言葉、つまり、"詩" として映像を定義する のですね、上で述べた "パロール言語学" を実践するかのように。一見すると、この時点でメッツは『 ポエジーとしての映画 』を主張するパゾリーニの立場と近いように見える …… のですが、事はそう単純ではありません。

 

[ 3 ]  ここで、メッツが拳銃のクローズアップの例を持ち出したのを念頭に置いて、パゾリーニが用いる蒸気機関車の例について考えてみましょう。

 

私たちはみんな、問題の蒸気機関車を実際に自分の目で見たことがあり、その車輪、その車軸を、かつて目撃したことがあるのだ。それらは私たちの視覚的記憶と夢のなかに生きているのであって、もし、私たちが現実にそれを見るとき、それは私たちに "なにごとかを語りかける" のである。機関車が無人の広野に出現すれば、私たちはそのとき、たとえば、人間の労働は偉大なるかな、開発可能な新しい土地をこのように次々にわがものとしてゆく産業社会 - したがって資本主義 - の力は強大なるかな、と語りかける声を聞くのだ。〈 中略 〉。機関車という事物は、映画的表象として直接的に私たちに、また - 視覚的に共通の資産という点では - 間接的にほかの人びとに結びつくことによって、これらすべてのことを語ることができるのだ。

 

 

「 ポエジーとしての映画 」 ピエル・パオロ・パゾリーニ / 著 塩瀬 宏 / 訳 p.26『 映画理論集成 』所収 岩本憲児、波多野哲郎 / 編 フィルムアート社 ( 1982 )

 

[ 4 ]  両者の微妙な違いについて考えていきましょう ( パゾリーニの方については次回の記事で明らかにする )。 メッツは拳銃という映画内対象物の、映画外現実物への対応性などという凡庸な解釈はさすがに採らないものの、拳銃として表象されている事物の "映画内存在化" 、またはそのような事物への "映画内物語の状態・状況の転化" のついて限定的記号学化を図る。ここで、事物を通じて表される "映画内物語の状態・状況" の事例としてメッツはエイゼンシュテインの『 メキシコ万歳 』の第4章に言及している ( ポルフィリオ・ディアス政権騎兵隊によって反体制的だとして土中に埋められたセバスチャンら三人の男達が踏みつけられて浮かべる苦悶の表情とその死 )。

 

 

ここではまず、外示的な関係が記号表現 ( 三人の顔 ) と記号内容 ( 彼らの受けた虐待、そして死 ) を生み出す。これはモティーフであり物語である。彼らの死に顔や身動き一つしない姿に、苦痛という自然な表現性が読み取れる。ここに共示的な関係が重なり合うことで芸術が始まる。三角形に配置された三人の顔 ( すなわち映像のフォルム ) が構造化する風景の気品。この気品が、おのれのスタイルでもって "語ら" しめようと作者が願ったものを表出させる。〈 中略 〉。しかも、この映像の中には二つの言語活動が共存する。なぜなら、そこにわれわれは二つの記号表現 ( 第一に、ある広がりの内部に位置づけられる三つの顔。第二に、その三つの顔の配置からくる三角形の広がり ) と、二つの記号内容 ( 第一に、苦悶と死。第二に、気高さと輝かしい勝利 ) とを見いだすからである。当然ながら、共示的表現が外示的表現よりもはるかに広大であり、同時に外示的表現との関係から切り離されていることに気づくだろう外示的意味を構成するもの ( 記号表現と記号内容 ) はともに、共示的意味の記号内容の働きのなかにふたたび見いだされる

 

 

「 映画 ー 言語体系 ( ラング ) か、言語活動 ( ランガージュ) か? 」 クリスティアン・メッツ / 著 森岡祥倫 / 訳 p.253~254 『 映画理論集成 』所収 岩本憲児、波多野哲郎 / 編 フィルムアート社 ( 1982 )

* 下線は引用者である私によるもの。 

 

[ 5 ]  しかし、三人の顔が記号表現であり、そして三人の苦悶や死、それがさらに美学化された気高さ、が記号内容だとする区別・組み合わせは、言語学的厳密さによって果たして判別化可能なものかどうかは疑わしいでしょう。それはメッツの恣意的な解釈に過ぎないのであって、普遍的言語学に還元するには安易過ぎるというものです。

というのも外示的意味を表わす記号表現 ( 三人の顔 ) と記号内容 ( 顔から読み取れる苦痛 ) という組み合わせの1回目の解釈が、メッツの言うように、共示的意味を構成する記号表現 ( 三人の顔の三角形配置 ) と記号内容 ( 革命の気高さと輝かしい勝利 ) という組み合わせの2回目の解釈内の壮大な "記号内容" の中に再び見出される程までに含みこまれる ( *A ) というのなら、一体何が記号表現であり何が記号内容なのかという区別自体は個人の恣意的解釈に委ねられるものでしかなくなってしまう ( 例えば、メッツの思い込みに反して、三人の顔は必ずしも記号表現だとは限らないと言える )。それがメッツ自身の学問的イデオロギーに縛られない自由な批評スタンスに基づいたものだというのなら分るのですが、言語学的厳密性をあくまでも軸にするというのだから、記号表現 / 記号内容 等の言語学的区別 ( *B ) に基づく映画論的意義とは一体何なのかという根本的な話にもなりますね。そのような操作は 三人の顔という "映画的イメージ" をパロール的言表 ( 革命の気高さと輝かしい勝利 ) の中で消滅させてしまうものでしかない のですから。ドゥルーズが『 シネマ 』の中で指摘したように。

 

[ 6 ]  ここにはメッツの思考を支配している、外示的な記号表現に対する共示的な記号内容の脱図像的優位性、があるのですが、それは言語学的定義を映画に当て嵌めようとする教条性によってもたらされた理論的歪みといえるものなのです。本来なら言語学において記号表現とは、何かを指示する又は代理表象する機能を担う "記号それ自体" の抽象的独立性 ( 記号内容つまり指示される対象という事物との癒着性からは理論的に切り離された ) を言い表すもの であるはずなのに、メッツは彼の映画理論においてこの記号表現を、本来、記号内容であるはずの図像・映像・イマージュそれ自体へと無意識的に置き換えてしまう短絡性を露呈させている。

だから、彼はエイゼンシュテインの『 メキシコ万歳 』における三人の男の顔をイマージュという記号物 ( 記号表現 / 記号内容への分割以前の ) であるのにも関わらず、それを記号表現だと強引に固定化した為に、行き場を無くした記号内容の矛先として、壮大な革命の気高さという脱図像的共示性解釈を持ち出す羽目になるのです。このようにしてメッツにおいては、 "図像・映像・イマージュという事物性" は、共示的解釈という、表面的外示を超える "壮大な語り" の中へと消失するという "人間中心主義的パロール" が生じている。

 

[ 7 ]  メッツ自身、記号表現 / 記号内容という言語学的組み合わせ概念に対する曖昧な理解しかしていないのに、それを映画理論へ強引に転用するものだから、 "図像・映像・イマージュという事物性" の領域に留まる事が出来ずに詩的語り・共示的語りの中にイマージュを消滅させてしまう。

 

[ 8 ]  では、そのようなメッツの言う映画的語りとは一体何なのでしょう。それは彼が頻繁に用いる、表現するもの / 表現されるもの、語り / 語られるもの、 といった二分法的区別における秘かな形而上的優越性、行為主体者の権威的能力が舞台裏で寄与する "表現するもの及び語るもの" に与えられる秘かな特権性、すなわち、人間中心的権威主義が具象化された語り なのです。そこでは表現された内容よりも表現する事の方が優位であり、語られた内容よりも語る行為の方が、書き言葉よりも話し言葉の方が、優位に立つ。人間的主体性が最高度に抽象化された "行為形式" というものの権威性 がそこでは誇示されている事にメッツ自身は全く気付かないのです。それは、語り手が直接的な人間主体 ( 登場人物 ) であろうとなかろうと、ただ1人の主体ではなく複数の語り手が存在する作用域 ( メッツが参照するジェラール・ジュネットの批評概念 ) であろうと、語りという叙述形式において、その行為形式において、なおも人間主体の支配性が現前している事を示している。

 

[ 9 ]  この気付かなさこそが、映画を疑似人間主体化が施された映画主体として語らせるのであり、語りの主としての映画への権威性の付与を可能にしている のです。さらにメッツはこの映画的語りが具象化されたものとして物語 ( récit ) の概念、極めて文学的批評概念、さえも持ち込む。語 "られた" 物語 ( histoire ) や内容 ( récité ) ではなく、構造的に語 "" もの ( 者 / 物 ) の操作行為としての物語 ""  ( récit ) に重要性を与えている訳です。

 

[ 10 ]  それの何が問題なのだ、構造分析を用いた優れた映画理論だとしてメッツの考えを受け容れる人は多いでしょう。しかし、それは、語られた物語、描写された事物、イマージュ、らを "語りという支配機能" の前では二次的な付加物でしかないとする非反省的・非思考的分析でしかありません ( どれ程多くの映画批評が "語り" という概念の支配性に無頓着であった事か )。特権的地位に鎮座する語る主体にいかなる反省的還元ももたらさない 無用の内容として選別され切り捨てられる映画のイマージュ ( 叙述され描写されたもの ) がそこには溢れる のです。批評家・鑑賞者の恣意性・嗜好性・趣味性に基づいた選別であり、深く考えられる事もない思考の怠惰によって打ち捨てられるイマージュがあろうとも何の疑問も起こらないという訳です。

 

[ 11 ]  これに対してパゾリーニは、従来の映画 ( *C ) は詩ではない物語だった、"語り" が主軸である映画だった、そこで使われるのは実は詩ではなく散文の言葉だった、と言う。とするならば、パゾリーニはここで、語りによる散文的映画ではない "詩の映画" について語ろうとしている事になるのですが、彼が言う詩がいかなる意味のものとして使われているのか、単に散文との言語学的差異物としてのみ語っているのではないだろう、という事について次回で考えていきましょう。

 

 

したがって、古典的な映画作品の詩的な性格は、本質的に詩的なある特定の言語によってもたらされたものではなかったのだ。

 このことは、これらの映画が詩ではなく物語であったということを意味する。古典的な映画は、過去において語りを旨とする映画であったし、また現在もそのようなものであり続けているのであり、その言葉は "散文の言葉" なのである。ポエジーは、そこでは、たとえばアントン・P・チェーホフハーマン・メルヴィルの物語においてと同様に、内的なポエジーとして存在するのだ。

 それに反して、"映画的ポエジーの言葉" の形成は、詩的な言葉で書かれた 偽りの物語をつくりだすことの可能性 と緊密に結びついているものなのである。かかる可能性とは、要するに、自由間接主観表現にかこつけることによって、はじめてその主観性が保証されるような、ある芸術的散文、ある一連の 叙情的表現物 をつくりだすことの可能性を指すものなのだ。そのとき、このような映画の真の主人公となるのは、文体 なのである。

 

 

「 ポエジーとしての映画 」 ピエル・パオロ・パゾリーニ / 著 塩瀬 宏 / 訳 p.286 『 映画理論集成 』所収 岩本憲児、波多野哲郎 / 編 フィルムアート社 ( 1982 )

* 下線は引用者である私によるもの

 

 

( *A ) 

ただ、1回目解釈の "記号表現 / 記号内容" を2回目解釈の "記号内容" と包摂関係を持たせようとするメッツのアイデア自体は 各項の関係性という記号運動の観点 からは悪くはないのです。それはドゥルーズが『 シネマ 』においてチャールズ・サンダース・パース記号論における1、2、3、という三つの数字に関する根本的原理を述べる箇所で示される記号の運動性と重なるところでもある。

 

 

パースによれば、一方では、三次性を超えるものは何もない。三次性を越えると、一切は、1、2、3のあいだの組み合わせに還元されてしまう。

 

『 シネマ1 * 運動 イメージ 』 ジル・ドゥルーズ / 著  財津 理、齋藤 範  / 訳 p. 341~342 法政大学出版局 ( 2008 ) 

 

パースが強調しているのは以下のような事態である。すなわち、一次性はそれ自体からして「 一 」であり、二次性は二であり、そして三次性は三であって、その場合必然的に、二において、第一の項がそれなりの仕方で一次性を「 捉えなおし 」ており、他方では第二の項が二次性を肯定する、という事態である。そして三において、一次性の表意体が存在し、そして二次性の表意体が存在し、さらに三次性を肯定する第三の項が存在するだろう。したがって、1、2、3が存在するだけでなく、2における1、2も存在し、また3における1、2、3も存在する

 

 

『 シネマ1 * 運動 イメージ 』 ジル・ドゥルーズ / 著  財津 理、齋藤 範  / 訳 p. 343 法政大学出版局 ( 2008 )

* 下線は引用者である私によるもの。

 

問題なのは、記号の関係性の総体が運動を生み出すという考察を展開するドゥルーズに対して、メッツの言語学記号論"映像イメージ"パロールの中に消失させてしまう事です。それはまさに事物というものの "一者性 ( Oneness )" を、その背後の、あるいは閾下の、隠れた真実であるかのように思われる複数的文体・複数的関係性の中に分解・解消してしまうべき契機としてしか見做してい事に起因する。

メッツは一見優れた洞察を展開しているかのように見えますが、なぜ  "一者性 ( Oneness )" が出現したのかなぜ事物が一者的なものであるのか、を考える事が出来ないから、事物をイマージュと重ね合わせて複数性の中に安易に解体してしまう。様々な複数的線分としての文体・関係性が集中的に交錯する地点が偶発的に浮上させたものこそが一者的なものとしての事物・イマージュだという出来事の特殊性に考えが思い至らず、複数的解体こそが真実であるかのような思い違いを犯しているという訳です ( そうなるとパース / ドゥルーズが示した1、2、3、の数字は関係性を持ち合うことのない単なる独立項の離散的列挙としてしか捕えられない凡庸さに至るだけになる )。そこが、イマージュが事物として現れている事を直観的に理解しているパゾリーニドゥルーズとの違いなのだといえるでしょう。

 

( *B ) 

このような "記号表現 / 記号内容" という言語学的区別の "固定的使用" に拘るメッツとは対照的に、ロシアの記号学ユーリ・ミハイロヴィッチ・ロトマン ( 1922~1993 ) はそのような言語学的・論理学的区別を施されるものが、映画においては、相互置換・相互移行する運動性を有するもの として考え直されるべきだとする。その運動性は、表現方法 ( モンタージュなど ) の動力学と被写体の静力学 との間の緊張を生み出すのだと論ずる。

 

深い意味が明らかにされるのは、諸々の表象の組み換えの結果としてである。同一のものが別のものと判明することもあるし、逆もまた同様である。のみならず、形式と内容 ( 様相と客体 ) という、論理学にあっては画然と区別されているものが、芸術テクストにおいては、分かたれていながら同時に相互の位置を換えもするのである。

 

 

モンタージュ論 」 ユーリー・ミハイロヴィッチ・ロートマン / 著 佐々木 寛 / 訳 p.337 『 映画理論集成 』所収 岩本憲児、波多野哲郎 / 編 フィルムアート社 ( 1982 )

 

戦艦ポチョムキン 』のなかの有名なショット "目覚めたライオン" は、芸術的反復に特有な構造的葛藤の例として挙げることができる。〈 中略 〉。

 石像のライオンが生きているかのように起きあがる。この動きの思いがけなさ、したがってまたその高度の有意味性は、映像がこの動きの "大理石であること"、彫像であることを目立たぬようにしたりせずに、むしろそれを強調するようにしていることと結びついている。表現の動力学が、被写体の静力学とのあいだに葛藤を生み出しているのである。しかしこの効果はまた別の手段によっても獲得されているのだ。われわれが目にしているのは彫像であることがわかっている以上、これらのショットが提示しているのは、ある様相 ( 論理の面では-被写体が一つの類に入ること、すなわちライオン像。視覚処理の面では-照明、単一の動きをとる被写体距離、その他 ) のもとに対比された三つのちがった被写体なのだということは疑いえない。だが、もしもこれが生きたライオンだとすれば、重なり合うことのない各々の様相 ( 動き ) を持つ一つの被写体が撮られているわけである。このフィルム断片が喚起するあの意味的=情動的な緊張をつくりだしているのは、われわれが同時に二つのちがったものを見ており、しかも被写体と様相の機能が入れ替わるというまさにそのことによってなのである。

 これから先、ショットのなかの被写体と様相という両カテゴリーを区別するさいにつねに念頭に置く必要があるのは、それらが相対的なものだということ、芸術テクストにあっては相互移行の傾向を持つということである

 

 前掲書 p.337~338

 * 下線は引用者である私によるもの。

 

 ( *C ) 

パゾリーニは、それは1960年代のまでの映画だと言う。しかし、それは映画史において厳密なものではないのですが、だからといって、それによって彼の理論的独創性をメッツのように無視するのは自らの思考能力の弱さを隠すものでしかない。メッツはパゾリーニの主張における映画的統辞法の定義的厳密性の欠如や、上で述べたような、カメラの存在が感じられなかった1960年代までの映画という判別性の不確かさを批判するばかりで事足れりとして、パゾリーニが何故そのような主張をするのか、何故そのように考えるのか、といった彼の思考の動き を全く捉える事の出来ない "無-思考性" を晒す。