〈 It / Es 〉thinks, in the abyss without human.

Transitional formulating of Thought into Thing in unconscious wholeness. Circuitization of〈 Thought thing 〉.

▶ ピエロ・パオロ・パゾリーニの映画『 アッカトーネ 』( 1961 ) から『 ソドムの市 』( 1975 ) までの移行について哲学的に考える〈 1 〉

 

 

監督  ピエロ・パオロ・パゾリーニ

公開  1961年

出演  フランコ・チッティ    ( ヴィットリオ・"アッカトーネ"・カタルディ 役 )

    フランカ・パスット    ( ステラ 役 )

    シルヴァーナ・コルシーニ ( マッダレーナ 役 )

 



第1章  ネオレアリズム映画ではない 『 アッカトーネ 』

------------------------------------------------------------------------------------

 

▨  都市郊外の貧民街に暮らす人々の日常を、まともに働かずにヒモや盗みで食いつないで生活する男たちの姿を通じて描き出したパゾリーニの初監督長編映画『 アッカトーネ 』は一見すると、労働者階級の貧困や彼らに対する抑圧など社会の物質的・精神的困窮性を浮かび上がらせる人々の日常を描いたネオレアリズモと一括りにされるかもしれません。

 

 しかし、ネオレアリズモは1940年代から1950年代前半に勢いのあった映画運動であり、『 アッカトーネ 』が公開されたのは1961年。この当時、戦後の政治と経済成長の中にあったイタリア国内において、第二次大戦中から終戦直後の社会の停滞を不安や絶望と結びつけて描いたネオレアリズモは観客には娯楽としては受け入れられないものとなっていたのです。

 

 実際、『 アッカトーネ 』は公開直後に、当時の文化省次官のレンツォ・ヘルファーの検閲により社会性に鑑みて上映禁止にされているし、右翼からの政治抗議もありました。もっとも、このような検閲はこの時に始まったことではなく、ネオレアリズモを代表する作品、ヴィットリオ・デ・シーカ ( 1901~1974 ) の『 ウンベルト・D ( 1952 ) 』の公開時、 マフィアとの癒着で告訴された件がメディアを騒がせた事もあるジュリオ・アンドレオッティ元首相 ( 映画公開当時はアルチール・デ・ガスペリ政権において文化省次官だった ) が、デ・シーカ本人に対して国を貶める映画だという批判書簡を送りつけたりしていますね ( * )。

 

 そうすると、パゾリーニは『 アッカトーネ 』において、かつてのネオレアリズモ的な社会批判を狙ったのではなく、違う社会批判があったのだと考えられます。デ・シーカを始めとするネオレアリズモが社会における貧困者層の地位が "人間的なもの" の観点からは低いゆえに救済されるべきものとして描かれる ( 映画のなかで救済されることはなくとも ) のに対して、パゾリーニは社会が政治経済の構造を強めていく中で "人間的なもの" から切り捨ててしまったものこそが、真の社会性、つまり、低俗性や猥雑性などを含んだ "多様性" であるとして取り戻そうとするのですね。

 

 注意すべきは、 彼の多様性とは、 上品な文化的多様性などではなく、 田舎の人間や労働者・貧民、が体現する土着的下品さ・粗野な振舞い・性的奔放さ・乱痴気性、 等の要素が充満する "日常性" を、 哲学的・神話的に、 そして愛そのもの、 として肯定しようとする "知的実践" であり、 そういうものに眉をひそめる上流・中流階級、 支配層らが真っ先に抑圧するものなのです ( * )。

 

 

( * )

ウンベルト・D 』は元公務員で生活が困窮している老人ウンベルトと愛犬フライクの切なくも悲しい物語が観る者の心を捕えて離さないヒューマニティに溢れる映画だと思う方もいるかもしれません。しかし、映画の冒頭が生活苦に喘ぐ年金受給者たちによる街頭デモの場面 ( ウンベルト自身も参加している ) で始まる事に表れているように "政治批判" が明確に込められている。ウンベルトのように働いてきた人間が老年に至り、このような経済的仕打ちを被る惨状を政治体制に対して差し向けるデ・シーカの批判的姿勢が、時の政権の心証を悪くしたという訳です。

 



( * )

パゾリーニは社会に対する怒りが自分の中で戦闘的知性へと高揚化していく様を次のように語る。

 

理解をめぐるこの怒りは何という悦び!

至高天の物質のように われらの混乱を

光の側へと差出し、われらの気取った陰影を

 

見せかけのカーストに応じて伸展させる、

この自己提示のなかで!

内なる形式のなかで怒りを燃やす

 

明るさは、それらを新しい対象、

真の対象に仕立てあげ、たとえ錯乱していようとも

やはり勇気であって、そのなかの固有の領地が

 

人間から産み出された人間の恥を、

つい近頃の人間の恥を映し出す。

それは、それこそは叡智とともに、

 

傷ましい板の上を進む己の姿が、

その罪の来歴があからさまに

立ち現れるのを 情熱が見つめることだ。

 

〈 中略 〉

 

しかしどこまでも理解することに潜む

深く静謐な愉悦よ、無限の

歓喜、遠慮がちの祝宴よ、

 

明晰さの悲しみを渇望する心のなかで、

われらの物語をみずからの不純さのうちに

繋ぎ合わせる知性のうちにあって。

 

 

パゾリーニ詩集 』 四方田犬彦 / 訳 p.83~84 みすず書房 2011年

 



第2章  社会的生存か、あるいは死か

------------------------------------------------------------

 

 パゾリーニの作品において現れる "死" は、死それ自体の描写の場合もあれば、死を予感させる退廃的空気として漂わせられる場合もあるのですが、既に初監督作品の『 アッカトーネ 』においてその死は明確に示されています。

 

 主人公のアッカトーネは夢の中で橋の欄干に立ち、飛び込み自殺をしようとする ( 1~2 )。 これ以前にも映画の冒頭からアッカトーネの自殺が、会話中の冗談で示されている。そんなアッカトーネを呼び止めてこっちに来るように促す仲間たち ( 3 )。しかしアッカトーネが近寄っていくと、彼らは既に亡くなっていた ( 4~5 )。しまいには自分自身の葬儀に参加している ( 6 )。

 

 

 ここでアッカトーネが見る悪夢は、彼自身の個人的経験としてのトラウマとの遭遇を示しているのではなく ( 彼自身の幼少期が描かれていない事がそれを表している )、 個人と社会の対立において個人の生存を圧倒的に打ち負かすバランスの崩壊した "社会的トラウマ" が誰にでも出現している事を示す左翼的悪夢、アントニオ・グラムシの系譜に連なる社会的正義を望む左翼 ( パゾリーニ自身を含めた ) が 自らの 主体的運命 ( 死 ) を予感する悪夢、 なのですね。

 

 この主体の死は、 左翼的行動の代償として払わなければならない大義のナルシスティックな凝固物、 あるいは政治的ヒロイズム、 のような自滅的享楽などではありません。 それどころか、 それは社会が人間的なものから切り捨ててしまった卑俗な排泄物のような "遺物"、 元は歴史的大文字で刻まれる建造物や著名人のようには省みられる事のない 日常空間において道端に転がった "屑 ( ヴァルター・ベンヤミン的な意味での )" であり、 その屑が歴史性を帯びた結果の "遺体" なのです。 何者かの暴行によって惨殺体として発見されたパゾリーニの謎の死自体にもそのような "遺物のイマージュの影" が幾許かは付き纏っているといえるでしょう。 誰も触れる事の出来ない "死" がそこにはある。 同性愛者同士の痴話騒動の結末の個人的死なのか、 それとも、 政治的陰謀によるイデオロギー的殺人なのか、 その明確な線引きの特定化に辿り着けない決定不能な "未分化な死" が遺体としてそこにはある。

 



第3章  脱-人間的なものとしての排泄物

------------------------------------------------------------------

 

 パゾリーニのこのような哲学的方向性は、一見すると、フロイトの幼児の心理的発達における  〈 肛門期 〉  と重ね合わせられるかもしれません。排泄欲求及び行動のコントロールが自我の形成において "排泄-糞" に与えられる意味の重要性をパゾリーニの哲学的試行と照らし合わせてみるという事ですね。

 

 しかし、ここで注意しなければならないのは、フロイト的肛門期の概念において ( ユングにおいても ) 糞が金・貨幣との象徴的等価関係を紐づけられる程の重要性が与えられながらも、果たして皆がどれ程その事について考えているのだろうかという疑問が起こるのです。というのも幼児にとっての糞自体についての認識は、母親によって躾けられる糞は汚いものだという衛生観念の "取り込み"、いわば "他者の観念の取り込み" でしかなく、それ以上の意味を幼児の脳では考える事が出来ないのです ( 言葉という象徴性の獲得途上においては )。 ということは幼児にとって重要なのは糞という〈 物自体 〉ではなく、排泄という〈 行為 〉に関わる事であり、自分の欲求と母親という他者の視線の天秤の間でバランスを保つ事に神経を注いで自我を形成する事でしかない ( * )。

 

 その事を念頭に置くならば、 肛門期においても 〈 糞という物自体 〉 は依然として人間から切り捨てられる "脱人間的なものとしての排泄物" のままであり、 その行先が下水道であれ浄化槽であれ、 行政的処理構造の中を流れ去り消えゆく "無意味なもの" としてしか見られていない訳です。 仮に精神分析が教えるように、 排泄物が肛門からの創造物であるという昇華的解釈や最も無意味なもの ( 糞 ) が最も価値あるもの ( 金・貨幣 ) と短絡的に結びつく人間の無意識的操作を引き合いに出すとしても、 アドルノやホルクハイマーらのフランクフルト学派が示したように、 古典的精神分析を社会的イデオロギー分析へと拡大するならば、 現実はそのような古典的精神分析を強力に倒錯させている事が分かるのです。

 

 つまり、 分析者であれ、 被分析者であれ、 そこに現れる人間達の内的経験の根幹である道徳性や人間観念が、 既に社会から心的備給された 同一化用コード として無意識的に取り込まれた結果 であり、 自分を構成するものが実は何ら個人的ではなく 社会的なものである事に気付かない 錯誤自我 がそこに強力に固定されている訳です。

 

 そうすると、 社会コードに登録されているものだけが社会構成体としての人間的なもの ( "理想 / 錯誤" 的自我 ) であり、 登録されていないもの ( 他者 / 物 ) は社会を構成しないが故に人間的ではない "排泄物 ( 遺物 )" として打ち棄てられてしまう。 ここで粘り強い精神分析アプローチで、 排泄物を出産行為による赤子の誕生と重ねわせて価値を高めようとしても、 これは既に明白な価値あるもの ( 赤子 ) によって、 依然として意味のないもの ( 排泄物 ) を高める後付けの遡及的疑似論理でしかない。 それは赤子が糞の価値を高めることが出来ても、順番を入れ替えて、糞が赤子の価値を高めると言った途端、ほとんどの人間の同意を得られなくであろう事態 に表れる。

 

 ということはここで真に必要なのは、 意味のないものを意味のあるものによって高めることでなく、価値のないものを価値のあるものによって高めることでもなく、 意味のないもの・価値のないものをそれ自体として "人間的なもの" の中にいかに回復させるか、あらゆる意味での振幅の落差・差異に耐えうる強度を内包した "人間的多様性" をいかに擁護するか、という事なのです。これこそパゾリーニの試みの無意識的真理、つまり、屑的遺物それ自体に生命 ( ヴァルター・ベンヤミン的な ) を回復させる試み だと考えられるでしょう。

 

( * )

これに対して、子供はしばしば "ウンチ" と連呼して面白がり、糞自体に興味を持っているのではないかと思う人もいるかもしれません ( そういう絵本が売れてたりするように )。 しかし、それは糞自体に意味が内包されているからではなく、糞という "無意味なもの" を大人たちが卑俗なものであると嫌がりながらもうんちという "社会的呼称" を与えざるを得ない "ギャップ" を面白がって、ウンチという〈 記号表現 〉を唱えているのに過ぎないのですね。

 



第4章  働く事が出来ない、いや、盗む事しか出来ない ……

-----------------------------------------------------------------------------------------

 

 何とか働こうと肉体労働に従事しても身体がもたないので、 結局、 仲間と共にリアカーを牽いて盗んだものを集めて街中を歩きまわるが疲れ果て座り込むアッカトーネたち ( 7 )。 靴を脱ぎ始めたカタルジーネ ( 右端の男 ) の足が余りにも臭いので殺す気か! と文句をつけるアッカトーネ ( 8~9 )。 何時間も歩いたから仕方ないと最初は答えていたカタルジーネだが、 お前の臭いは馬でも殺せるぞと言うアッカトーネに、 実はずっと足を洗っていなかったんだと笑いながら白状するカタルジーネ ( 10 )。 そう言うカタルジーネに、 そんなに臭いを溜め込んでガス爆発でも起こす気か、 とツッコミを入れて3人で笑い転げる ( 11~12 )。 なんてことはない男たちの下らない冗談が描かれたシークエンスですが、 こんなところにパゾリーニの趣向が現れていますね。

 

 

 そんな冗談を言い合っていた直後、彼らは1台のバイクと車が近くを走っていくのを目にする ( 13~14 )。 盗みのタイミングを逃していた彼らだったが、車が食料品の運搬車かもしれないと気付き、停車した車に近づいて盗みを実行する。盗んだソーセージ類をリアカーに積んでいた花の下に隠そうとする ( 15 )。すぐに警察に捕まってしまう ( 16 )。 アッカトーネはその場から逃げ出し、停車していた先程のバイクを盗んで走り去っていく ( 17 )。 直後、交通事故に遭い、死んでしまう ( 1819 )。

 

 

 

 この結末を見ると、パゾリーニは、不道徳な人間達の振舞いを通じて貧困層の日常を浮かび上がらせるという社会批判を行ったのだと多くの人は考えてしまうかもしれません。しかし、それは貧困や低俗なものの社会的改善の訴えだけに終始するものではありません。社会的排水溝に流される "排泄物 ( 遺物 )" は他ならぬ社会が生み出したもの として、かつては社会を構成し、いや今でも社会を構成する要素として、不純で不道徳なものがあり、人間的なものとはそれら不純性とは切り離せないのだ という哲学的批判を映画の根底にあるとパゾリーニは据えている。 グラムシが言うように、社会的関係の総体が具現化されたものこそ 〈 人間 〉 なのだとすると、パゾリーニは 〈 人間的なものの貧困 〉、 すなわち、人間的不純物が切り捨てられ排泄されてしまうという "脱人間的洗浄化" を推し進める社会に反対するのだ、と考えられるでしょう。社会の貧困とは、人間的なものの貧困であり、それは不純物を下水化処理することで人間的多様性を失わせているといえるのです。

 

 

以下の記事へ続く

---------------------------