〈 It / Es 〉thinks, in the abyss without human.

Transitional formulating of Thought into Thing in unconscious wholeness. Circuitization of〈 Thought thing 〉.

▶ トッド・フィリップスの映画『 ジョーカー 』( 2019 ) を哲学的に考える

 

 はじめに

------------------

この記事は映画についての教養を手短に高めるものではありません。ここでの目的は、作品という対象を通じて、自分の思考を、より深く、より抽象的に、する事 です。一般的教養を手に入れることは、ある意味で、実は "自分が何も考えていない" のを隠すためのアリバイでしかない。記事内で言及される、映画の知識、哲学・精神分析的概念、は "考えるという行為" を研ぎ澄ますための道具でしかなく、その道具が目的なのではありません。どれほど国や時代が離れていようと、どれほど既に確立されたそれについての解釈があろうとも、そこを通り抜け自分がそれについて内在的に考えるならば、その時、作品は自分に対して真に現れている ( たとえ、それが自分1人になろうとも )。それは人間の生とはまた違う、"作品の生の持続" の渦中に自分がいる事でもあるのです。この出会いをもっと味わいましょう。

 

 

監督  トッド・フィリップス

公開  2019年

脚本  トッド・フィリップス スコット・シルヴァー

出演  ホアキン・フェニックス  ( アーサー・フレック 役 )

    ロバート・デ・ニーロ   ( マレー・フランクリン 役 )

    フランセス・コンロイ   ( ペニー・フレック 役  / アーサーの母親 )

    ブレット・カレン     ( トーマス・ウェイン 役 )

 

 

第1章  日記に記されていた欲望の痕跡

----------------------------------------------------------------

 

▨ トッド・フィリップスのこの恐るべき作品は、アメコミの原作に自身の世界観を持ち込み自身の作品として構築する事に成功したクリストファー・ノーランの偉業 ( 『 バットマン三部作 』) を超えて、ジョーカーという犯罪者の個人的出自のみならず、それが社会の底辺に蠢く澱んだ欲動の具現化に他ならない のを描写することに成功した脱ヒーロー的な社会映画だといえます。 ノーランが既に示したバットマンの社会を守ろうとする倫理的使命観が揺れ動く内面的不安が、ジョーカーと共通するものであること、いや、それどころか社会底辺層の象徴であるジョーカーに由来するものであること、をはっきりと描き切った訳です。

 

▨ この点についてのトッド・フィリップスの意識は明確であり、物語の冒頭のゴッサムシティの福祉サービスの心理カウンセラーとの個人面談の場面でアーサーが持ってきた "日記" の内容に以下のストーリーの精神的骨子が書き込まれている。日記という個人的心情が綴られた"極めて曖昧なカテゴリー物"、つまり、そこに書かれているのは私的な事柄であるにも関わらず、それは誰かに読まれるという形式的前提 ( そうでなければ言語という象徴的公共物を用いる必要がない ) を暗黙のうちに書き手が是認しているのであり、その "私的 / 公的 の境界" がどうにでもずれていく曖昧さを保持した物を映画の冒頭でクローズアップする事で、アーサーの内面も 私的 / 公的 の境界線が大きく変動していくのを予感させている のです。 公的社会の中で押し潰されそうになっていたアーサーは、最終的にジョーカーとして公的社会を破壊する私的欲望を極限まで高めていく。

 

▨ カウンセラーから日記の提示を求められるアーサー ( 1 )。 この時、カメラはアーサーの下半身のもじもじした動きを敢えて写している ( 2 )。 自分の内面を曝け出すことへの "性的興奮のようなもの" を覚えているのですね。 ここで "ようなもの" と言うのは、アーサーの場合、近所のお気に入りの女性に対しても自分の気持ちを曝け出すことが出来ないように、 性的な快感という物理的帰結に至る事が出来ず内面に溜め込まれた性欲以前の "欲動の次元" に危険なくらいに留まっている といえるからです。

 

 



第2章  日記の詳細 ……

-------------------------------------------

 

▨ びっしりと書き込まれた文章と猥褻な切り抜きのコラージュ。これらの混沌物の羅列自体が、不安定な欲動の滞留を表している ( 7~8 )。しかも、アーサーはジョークのネタや思いついたこと、が書かれていると言った ( 3~5 ) が、その内容が死への欲望、それも自死の願望以上に、まだ死んでいない他者の殺人への欲望 が見出せるものとなっている。

 

 

▨ そして興味深いのは、日記の太文字で強調された文章が写し出される以下の場面 ( 9~10 )。  "I just hope my death makes more cents than my life"  という文章ですね。 和訳はこの1場面に対してふたつの訳、この "人生以上に硬貨な死を望む" と "この人生以上に高価な死を望む" を苦心して表示させています ( 硬貨と高価を掛けて人生の値打ちを図るという具合に )。 もちろん、それは "一般的鑑賞" を考慮しているのを十分に理解した上で、ここからはより哲学的に踏み込んでその文章を考えていきましょう。

 

 

▨ 映画のこの文章の翻訳だと、余りにも自分自身に対する願望に終始している印象を与えてしまうかもしれません。 しかし、それ以外の文章に目を通してみると、アーサーは自分の待遇の改善というよりかは、もはや自分を邪険に扱う人々・社会に対する恨みや妬みで頭が一杯になっているといえるでしょう。 そうであるならば、太字で強調された文章の意味とは、自分がもっと大切に扱われますようになどという生易しいものではなく "社会への呪詛" が頂点に達したものだ と解釈出来きるはずです。

 

▨ そこで考えてみたいのは、cents の前の抹消された の言葉が何なのかという事です。 を一旦書いておきながら抹消した次に書いたのが cents という硬貨を表す単語なのは、心理学・精神分析を考慮すると非常に示唆的であるといえるのです。 心理学・精神分析の解釈に通じている人ならば、そこでは 金・貨幣 と象徴的関係が結ばれているものが である事、そして の語尾に n らしきアルファベットが見えるのを合わせて考えるとひとつの可能性として  の単語が damn かもしれないと思い浮かぶでしょう ( ただし、 ここではこの関係性は倒錯した形で現れている )。  性欲の次元に上手く移行できずに未分化な欲動の次元に留まっている自己閉鎖的なアーサーが 外面的発露 ( 糞とは外界に排泄される "自己内滞留物" に他ならない ) を拒否する抹消行為に走る のは不思議ではありません。

 

▨ もちろんこれは正解ということではなく言葉遊びの範疇内のものに過ぎませんが、アーサーと心理カウンセラーの個人面談という設定が雑なものに過ぎないとはいえ、心理学・精神分析から引き出される解釈として "そういうものがある" とトッド・フィリップスが予め知っていなければ敢えて演出しなかっただろうとシークエンスだと考えられますね。

 

▨ この "damn-cents" の並行的関係性を元の文章に入れ込んでみましょう。 "I just hope my death makes more "damn-cents" than my life"。 文字通りに訳すなら  "私の死が自分の人生以上の多くの "糞-硬貨" を生み出す事を望む"  となりますが、この "糞-硬貨" を "硬貨の値打ちがないもの"、つまり、"何の価値もない人間たち" だと考えるならば、 元の文章は "私の死で以って、 私の人生程、 価値のない多くの糞-人間がいることを明らかにしたい" という具合に映画の和訳とは違う一般的鑑賞では耐えられない不快な訳が出来るでしょう ( これは抹消したくなりますね )。

 



第3章  アーサーからピエロへ、そしてさらにジョーカーへ ……

--------------------------------------------------------------------------------------------

 

▨ 地下鉄で女性客をからかう3人の男たちに因縁をつけられたアーサーは助かろうとして勢いで彼らを射殺してしまう。  結果的に彼らが証券会社の社員であったため、 メディアは貧困層による富裕層狩りだとして煽り始め、 人びとはピエロの化粧・仮面を付けてゴッサムの市政に不満を抱き抗議デモを起こすようになる ( 11~14 )。

 

 

▨ 街頭でのピエロ達によるデモにまんざらでもない様子のアーサー。  自分がそのきっかけになったことに秘かに喜んでいる ( 15~17 )。  この後、 アーサーは自らの出自、 自分が孤児であった事をウェインから聞き、 病室の母を窒息しさせ、 同僚を刺殺し、 自分と繋がりのある関係を清算して、 ジョーカーへと変貌していく。  自分に家系的アイデンティティなど無かったのだと認識するのです。  この事の意味は決して小さくありません。 代わりに彼は 負の社会的アイデンティティ貧困層に潜む否定的暴力性 をアイデンティティとして手に入れ、 を具現化する存在となる のですから。

 

 

 

 

第4章  暴力性をアイデンティティとして利用する悪の狡猾さ

------------------------------------------------------------------------------------------

 

▨ 自らをジョーカーと称し、以前とは違う自信がみなぎるアーサーの変貌は、まさに 社会的暴力性を自らのアイデンティティとした が故なのですが、これはたんにそういった心理的変動がアーサーの辛い人生経験の過程で "自然に" 起きてしまった結果なのだと片付ける訳にはいかない難しさがあります。

 

▨ この難しさは、おそらくトッド・フィリップスも上手く考え抜く事が出来ていないが故に、ジョーカーという悪の狡猾的恐ろしさを見過ごしているものなのです。 どういうことかというと、悪の真の恐ろしさとは、自分の犯罪行為が 純粋に残酷で暴力的な行為以外の何物でもない事 を 心の底で知っておきながら、 あたかも自分の行為に 何らかの詳細な内容が織り込まれた原因 ( トラウマ ) があるかのように振る舞う事 なのです。 自らの行為の元に トラウマを "意識的に" 措定してしまう という極めて狡猾な知性を、残酷さの裏で働かせる、つまり、野蛮な行為と狡猾な知性を短絡させる、これ程恐ろしい事はないでしょう。

 

▨ 残酷な犯罪行為を純粋に享楽しておきながら、世間に対してはこういうトラウマがあったと自分の人間的感情を故意に吐露するという操作性、この両極が短絡的に重なり合うジョーカーの内面性を考えると、人間の理性は公正明大なものとして現れたのではなく、その起源は実はこのような野蛮な行為を正当化しようとする 闇夜の狡猾さ にあり、 そこから進化したのではないかと思えてくる。

 

▨ アーサーも確かに人生においてひどい扱いを受け、苦渋を味わった経験自体は事実として間違いはなくとも、ひとたび "人を殺すというアクティングアウト" の方向性に向かう決断した瞬間に、苦渋の経験は全く違う意味を帯びてしまう。 殺人という行為を可能にするであろう自分の全能性の充 が、以前の苦渋の経験を別のものへ、つまり、社会的差別・不満こそが自分を犯罪に走らせた原因なのだ、という社会的被害物へ、と上書きさせて 自己正統化の為の疑似因果性 として心的処理されてしまう。

 

▨ 一線を踏み越える前と踏み越えた後では、"行為における享楽の次元の出現" によって主体の心的構造は違うものとして歪んでしまうのです。 不気味なのは、〈 悪 〉はアクティングアウト以前に、他人の犯罪行為を通じて 全能性の快楽を無意識的に既に予感しているのであり、そこ ( アクティングアウト ) に向けて自分の心的エネルギーを注ぎ込むという "事前動作" を反復する事です。これは "アーサー / ジョーカー" に限った話ではありませんね。

 

▨ だから、ジョーカーは社会的暴力性をアイデンティティにしているといっても、それは犯罪行為を純粋に享楽する上で仮設された疑似因果的根拠でしかないので、彼は社会をどう改革するばいいのかということはこれっぽちも考えない。 社会と自分の人生経験との因果性をどうにか変化させようとする昇華行為には至らず、この疑似因果性を全く不動の "狂-聖的トラウマ" として固着化させて聖壇物とする のです。 その結果、彼は社会破壊する自分をひたすら楽しむ事しか出来なくなってしまう。

 

▨ するとアーサーの痙攣的笑いとは、人を笑わせるピエロのそれではなく、自分と、 自分の置かれた状況が可笑しくてたまらないという、全能性の快楽への扉が開かれようとする手前で欲望の爆発的外化に向けて自分を打ち震わせる前-ジョーカー的振舞いであったのだ といえるでしょう〈 終 〉。

 

 

 

 

 



 

 終

------------