〈 It / Es 〉thinks, in the abyss without human.

Transitional formulating of Thought into Thing in unconscious wholeness. Circuitization of〈 Thought thing 〉.

▶ 桜庭一樹の『 少女を埋める 』論争について考える〈 1 〉

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 文學界2021年9月号 桜庭一樹私小説『 少女を埋める 』p.9~72 

 

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 1. 桜庭一樹鴻巣友季子の論争

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a. 文學界2021年9月号に掲載された桜庭一樹 "私小説" 『 少女を埋める 』についての鴻巣友季子文芸時評 ( 朝日新聞2021年8月25日朝刊 ) を巡って当事者同士の論争が起きるという出来事がありましたそれは鴻巣の『 少女を埋める 』の要約内容中に夫を介護する母が彼を虐待していたという記述がありそれは "誤読" であるという桜庭の批判から始まったものです桜庭は母が夫を虐待したとは書いていないにも関わらず鴻巣が自分の解釈をあたかも作品のあらすじであるかのように書いているのは朝日新聞というメディアの影響力を考えた時問題があると言う

 

b. その発言が作品中で語られる母親父親そして故郷が実在のモデルが故に虐待のイメージが存命中の母親に向けられるのを危惧したことに基づく仕方のないものだとしてもその決着の仕方が尋常ではないと思いましたねというのも桜庭が朝日新聞での連載出版物を引き上げるという物理的圧力と引き換えに鴻巣の批評文の修正を迫ったからです

 

c. ここで桜庭は、"小説という虚構創作物" を解釈する人に対して道徳性・倫理性で装われた実在の次元を防御線として用いる ( 実在のモデルへの配慮 ) のですがもしこの実在の次元を他の誰かが桜庭自身に向けたとすると彼女はどう答えるのでしょう例えば桜庭の『 砂糖菓子の弾丸は撃ちけない A lollypop or A Bullet 』には動物子供が殺害される下りがあるほとんどの人はこの作品の全体性において殺害の下りがそれを決して肯定しているのではなく人間や社会における反道徳的行為によって引き起こされる異世界を描き出すために必要な文学的暴力性だと漠然と理解し受け入れる

 

d. しかし一部の人が動物や子供の殺害は、"現実" に行われる虐待をなぞらえた耐えがたい描写だそういう経験をした人・動物の立場を考えたら受け入れられないと非難したらどうするのでしょうこれに対してはいやそれはあくまで小説という虚構世界での出来事であり物語の全体性の中のひとつのエピソードであり殺害自体を目的とするものではないと言うしかないはずですそれでも現に虐待行為は置き続けていると食い下がられてもそういう現実の話をこちらに言われてもどうにも出来ませんよとスルーするでしょう (*1 )つまりこの時点で "実在の次元" は却下される

 

e. しかし桜庭は今回の論争において "実在のモデル" 固執するこのことの意味は『 少女を埋める 』が小説ではなく小説の形式を用いたノンフィクションであること心理的次元において暗に認めているという事ですだがノンフィクションであるといっても日記や随筆の形式を用いてはいるもののそれら自体ではないこの作品のカテゴリーの曖昧さ自体が今回の論争のきっかけのひとつの要因であることを既に指摘している人もいるのですが桜庭自身は『 少女を埋める 』を私小説であるあるいは私小説の形式を用いた作品であると言っている

 

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(*1 )

a. 山崎ナオコーラは今回の論争について現在は文学がテクストのみで存在する時代ではないと言う ( 2021年 8/28 の twitter )テクストがたんに読まれるだけでなくその読解後の批評が社会に与える影響なども含めて総体的に考えなければならないといって作家を擁護するのですがこれでは作家が作品において描く暴力性が社会に与える影響についてはどう擁護するのか という根本的問題が出てきてしまうまさか実在しないから現実に影響は与えないといって擁護するのでしょうかそれは都合のいい時には現実を持ち出し都合が悪いと現実を却下するダブルスタンダードでしかないそれの何が悪いんだと開き直る人もいるかもしれませんがそのような姿勢はいずれ文学的表現の自由を狭め社会的倫理に従属する作品しか認めない状況に繋がっていくでしょう

 

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 2. 他の誰かではなく、作家が、語る

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a. この作品を私小説であると言い切るのと私小説の形式を用いていると言うのでは作品の意味合いが違ってくる桜庭自身がその間で揺れ動き今回の作品を上手くカテゴリー化出来ていないし、"創作" という文學界での取扱いジャンルが皮肉にもそのことを表している桜庭は実在の人物 ( 自分の両親 ) と現実の世界 ( 故郷と現在の自分 ) を可能な限りそのままに描かこうとしているようですがその描写された内容それ自体は一般の人が経験する事柄と大して相違はない退屈なものです

 

b. ただしそれは桜庭が "作家である" という事以外を除いてです作家であるという事こそが『 少女を埋める 』を特権的に構成しているここで作品を書くのは作家であるのは当然なのだからそれは別に特権でもなんでもないなどという短絡的な考えは止めましょう"自分が作家であるという経験" 自分の両親や故郷故郷の人々を "語る" という形式を通じて示されているという事 なのです自分が作家であるという経験は故郷という共同体から距離を取ったが故に到達出来たものであり今ではこの経験こそが両親や故郷、故郷の人について語る事を可能にしているという訳です

 

c. 人柱伝説から導かれた『 少女を埋める 』というタイトルに桜庭がいかなる含みを持たせているかは知りませんが故郷の共同体の閉塞性に縛られていた桜庭が作家を目指す決意をするにまで至る変化の過渡期にあった若き自分を "少女" という表象で象徴させているとまずは考える事が出来るでしょう次に、"埋める" という表現についてですが人柱伝説のエピソードを念頭に置くなら共同体が桜庭 ( 少女 ) を縛り付けていたという心理的事実性を言い換えたものだと解釈出来ますね

 

d. しかしこれでは単純すぎるというのも現在作家である桜庭は故郷から離れていてそこに縛り付けられている ( 埋められている ) のではないのだからとするのならなぜ念願の作家になった現在においても、"故郷への縛り" を持ち出すのかここで参照したいのは精神分析におけるトラウマ概念です一般的にこの語はある人物が幼少期に受けた虐待虐めなどの精神的ダメージを受けた出来事の経験として理解されがちですがそれは十分ではありません

 

e. 主体は自分が過去に経験した出来事にがいかに現在の自分にまで影響を与え続けているかを説明する為に過去の物語を "語る" 。その物語は既に当時の時間から離れているにも関わらず現在にまで影響を及ぼす真実であるかのように他者に思わせるための "遡及的な虚構 ( フィクション )" に過ぎないのですこのように精神分析におけるトラウマとは心理的ダメージを主体に与えた出来事が過去にあったという事実性のことだけではなく過去のある時点での任意の出来事が現在の自分にもどれ程のダメージを与えているかを他者 ( 精神分析の場面においては分析家 ) に語る行為自体も含めての "物語る / 物語 / フィクション" の事 なのですもちろんそれは主体に心理的ダメージを与えた出来事がなかったという事ではなく過去における諸々の出来事・要素の内実際にはどれがそうであるのかは曖昧である ( "複合的なもの / コンプレックス" である可能性もあるので ) が故に真実を叫び続けられたとしても他者はそれを当事者の心から抹消することは出来ないしそれが可能なのは当事者だけなのです

 

f. そのような視点にたつならば桜庭は『 少女を埋める 』において逆説的にもトラウマを抹消するのではなくむしろ残そうとしているといえますそこには桜庭の作家としてのフィクショナルな起源があるからこそ自分の物語を語るという行為自体を作品化した と解釈出来るのですつまり共同体的なものとの軋轢というトラウマは抹消されるのではなく自分の作家としての物語を語る作品への昇華する為に残されているそう考えると、『 少女を埋める 』というタイトルは人柱伝説を引き合いに出しての共同体の閉鎖性と作者のそれへの反発であるという解釈をさらに掘り下げて私の物語を語るために必要なトラウマの保存を表しているという精神分析的解釈をする事が出来るでしょう

 

g. もちろんこの作品の解釈のすべてが以上のような精神分析的解釈に収斂される訳ではありません ( こう言っておかないとすぐに短絡的な反応をする人がいるので )念を押しておきたいのは桜庭における "作家であるという経験の特権性" とはエゴイズムの肥大や自画自賛自己肯定などの心理的なものではなく原理主義的な方法論を具現化する事で現れているものなのですつまり作品を描写された物語・語られた話という "表現されてしまった内容物" から作るのではなく"作家が語るという行為それ自体" で作品を創り上げようとする実験的な方法 が実行された "創作物" がここにはあるという事です

 

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 3. 特殊なノンフィクション、聖典化された『 少女を埋める 』

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a. 桜庭が『 少女を埋める 』を私小説であるまたは私小説という形式を用いた作品という時自分の経験を描いた "小説" なのだと多くの人は考えるかもしれませんがそれは違います小説とは表現されたものという物理的次元の蓄積で構成されたものとして考えられるが今回の桜庭は作者が語る / 表現するという行為それ自体を作品を包摂する超越論的なものとして機能させているという意味で限りなくノンフィクションに近い創作物を作ってしまった のです (*2 ) 作者は登場人物の一人として物語る ( 他の人物との等価な相関関係の中に収まっている ) のではなく語るという行為のために特権的登場人物として物語の中に紛れているといえますその紛れ方は自然であるかのように見えますが作中の登場人物でただ1人冬子という固有名詞を持つ ( 作中で語られるエピソードに登場する有名人の固有名詞は別にして ) というのは語り手の特権性がいかに作家であるという経験に依拠しているかを示している謎かけが好きな桜庭はこの冬子という名前にも彼女なりの含みを持たせている (*3 ) のでしょうがもしそうだとするとその含みがいかなるものであれそれは語り手の原理的特権性を強めるものでしかないといえるでしょう

 

b. 作者が語るという行為それ自体を "現実的なもの ( 他の誰でもなく私が語るという )として特権化しているからこそ今回の論争で桜庭は鴻巣の事を自分が "語っていない" 母の虐待行為を "語った" かのように要約した事が許せないのだと分析することが出来るのです多くの人はこの桜庭の言い分を虐待という語に引っ張られて倫理的観点から非難しているのだとしか考えられないのですがまずそれ以前に今回の桜庭の原理的方法論つまり、"作者が語るという行為" に照らし合わせた時私が虐待を語ったという現実が成立してしまう事に耐えられないと解釈すべきなのですそう考えなければ桜庭自身の過去の著作で暴力性があっけらかんと扱われている事が説明出来なくなってしまう今回の鴻巣の短い批評でそれを読んだ人たちが実在の人物に対して否定的なイメージを抱くことを心配するというのなら桜庭自身が暴力性を描写した過去の作品に否定的なイメージを抱いた人々に対しては心配しなくていいいのかという事になる社会的なものへの影響という点で

 

c. このように作品を現実の次元に依拠させてしまうと作品の内容を "解釈する" のではなく作品を道徳的・倫理的に適切かどうか "判断する" 社会的超自我を呼び起こす事になってしまうそこでは作品の事を語っていながらも社会的超自我が主体の中に呼び起こす疑似道徳的正義感に同化するだけで結局作品については何も語っていないのです ( 実際、鴻巣を批判するほとんどの人は『 少女を埋める 』について積極的に何か語る事は出来ていない )そのような事態もこの作品が小説ではなく限りなくノンフィクションに近いものであるのなら仕方のないことかもしれません

 

d. しかしこの作品を読んだ人の中はこれをノンフィクションではなく小説それも作者の個人的経験が書かれた私小説だと思いこんでいるのに鴻巣の解釈を曲解であると斥けて解釈の開かれた空間を狭める事に疑問を呈しない人がいるのには注意する必要がありますそのような解釈の排除はノンフィクションの事実性を歪めるものとして為されるのならともかくフィクションの解釈であるに過ぎないものに対して事実性の次元で抑圧するという思考停止です誰かが考えた "内容" について考える事なく現実的・道徳的次元の観点から "考える・解釈するという形式それ自体" を否定するのは知性に対するヒステリーでありフィクションをありのままで受け取らせようとする "作品の宗教的聖典" でしかない

 

e. 以上の事は桜庭の今回の作品における創作における無意識的狙いが失敗してしまった事を示しているのかもしれません桜庭の作家としての知名度を考えれば、『 少女を埋める 』で描かれる彼女の個人的経験がノンフィクション的要素であるように思われても全体としてはやはりフィクションだとほとんどの人は考えるそれに対して桜庭は自分の現実の経験を小説という形式の中に落とし込んで出来る限りノンフィクションに近いフィクションをカテゴリーの境界を横断する創作物だとして提示しているこのフィクションとノンフィクションを交雑させた作品を本当の意味でのテクスト解釈の多様性に向けて開かせていたら脱カテゴリー的創作物としての評価へと繋がっていったのかもしれませんが残念ながら彼女は今回の論争でその方向性を自ら閉じてしまった

 

f. 桜庭がいくら解釈の多様性を認める発言を繰り返そうが実在の次元を持ち出して鴻巣の批評修正させた事が解釈の次元を尊重していない事を露呈させてしまっている。『 少女を埋める 』における作家が語るという行為の原理的特権性こそが創作の方法論になっているが故に他の誰かが自分 ( 作家 ) であるかのように作品を語る ( 桜庭の言葉で言うと、鴻巣が自分の解釈を作品の要約であるかのように語ったこと ) は原理上在り得ないという訳です

 

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(*2 )

a. この観点からすると、『 少女を埋める 』以上に上手く実在の次元に限りなく近い私的作品であるのは島崎藤村の最期の妻静子による 藤村の思い出 ( 1950 ) ひとすじのみち 藤村とともに ( 1969 ) 』。そこには藤村の妻であったからこそ知り得た事実と共に藤村を作家として尊敬する事をいつまでも失わない1人の作家的な視線による私的作品が出現している

 

 起居を共にする共にする前の人は思いだそうとすると不思議に敬愛する師であり、大きい先輩ではあってもいつも一個の人であって社会人ではない。

 はじめてその人を書斎に見てから『 処女地 』の時代を通し結婚に至るまでのながい間厳格な師として私には年齢の違いよりは人の差が近づくべくもない距離に感じられていた。

 起居を共にするまでの勇気と愛情とに目ざめた時には藤村は全く無名の一人の青年に描かれていた。

 結婚後の生活の中に、その人を思い出そうとするといつも広い社会性をもった作家として思い出される。同時に矛盾のようであるが反省を怠るまいとしても起居を共にしている間はこの世の道づれとして描かれていた。

 今は眼前にその人を見なくなってから数年になる。また私は、ずっと遠方を進んでいる大きい先輩の姿を日々見ている。

 

藤村の思い出p.60~61 中央公論社 1950

 

先生は今、何を話してくれたろう。世にも不幸な結婚、世にも不幸に終わった情事 …… 。わたしはそれを忘れまいと、頭の中にくりかえしてみた。目の前にみる先生は、はじめて先生をみた日からその八年の間に、最も年老いた先生であり、病後のやつれもみえて、最も見苦しい先生であることも、わたしは忘れまいとした。だが組まれた指は、段々しびれるように感じられてきた。先生の指も、自分の指も、どちらであるのか、感じ分けられなくなってしまった。ふと、自分の心臓の中に、生涯の中これまで感じたことのない自分とは全く別の、新しい血がしずかに流れ注ぎこまれているのがハッキリと、感じられた。わたしは全身を耳にして、新鮮な血の源をたどろうとした。わたしの感じるものは、かすかなせせらぎの流れる音であったから。先生の心臓を流れ出る血は、先生の腕を通し、組まれた指をつたい、わたしの心臓にしずかに注いでいた。

 

ひとすじのみち  藤村とともに p.193~194 明治書院 1969

 

b. 以下の (*3 ) でも述べるが、『 少女を埋める 』の "冬子" が藤村の最初の妻から仮に採られているのなら次のように考えてみるのも面白いかもしれませんそれは文学史においてマイナーな存在である冬子への参照を通じて光があまり当てられない人間に実在の次元を照射させる事によって個人の尊厳を取り戻そうと桜庭が考えていると (*4 )しかしそのような実在の次元を私的作品へと最も上手く昇華したのは文学史におけるメジャーな存在である静子だった ……

 

(*3 )

a. 飯田一史は、『 少女を埋める 』の "" の名前と島崎藤村の妻の名前が同じ "冬子" であると指摘している

 

(*4 )

a. おそらく桜庭がここで参照しているのは藤村の最初の妻であった冬子と彼女の出身である秦家について書かれた森本貞子 冬の家 島崎藤村夫人・冬子 ( 1987 )

 

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 4. 個人の幸福、あるいは私の欲望 ……

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a. 今回の論争において桜庭は自分の不満に拘り過ぎて鴻巣の今回の文芸時評 "全体性" "読み解こう" としないもしなぜ作家の私が批評家の文章を読み解かなければならない? 私には自作について書かれた部分についてしか考えたくないと言うのなら、"語っていない / 語った" という線引きばかりに狭窄的にこだわってしまうのも当然の事でしょうしかし鴻巣の批評の全文に目を通せば彼女が『 少女を埋める 』を批判してるのではなくケア労働と個人という設定されたテーマに沿って諸々の作品を参照する中でそれを社会と閉じた共同体との間で揺れ動く女性の在り方に問題提起する作品であるとして真摯に向き合おうとしているのが分かるはずですそのような視点は『 少女を埋める 』のエピローグで述べられる、"共同体は個人の幸福のために社会はもっとも立場の弱い者をみんなで支えるために存在すべきだと。" という箇所と呼応するはずなのに桜庭はその事に全く言及しようとしない ( 鴻巣の方は明らかにエピローグを考慮に入れているのに )

 

b. 私は個人の幸福について言及するが他人が個人の幸福について言及する事には関心を示さず批判するこれではエピローグで述べられた個人の幸福を桜庭がどこまで本気で考えているのか疑わしくなる個人の幸福を自分や自分の身近な人間についてだけでなく普遍的意味で語っているのなら真摯なテクスト批評を "朝日新聞という巨大媒体" で修正する羽目になった鴻巣の批評家としての心情をどう考えているのだろうかという話になる結局の所桜庭の言う個人の幸福は普遍的なものではなく極めて個人的なものに過ぎない個人の幸福の実現のためにはそれを邪魔する敵と戦うしかないという敵対性の概念を持ち出す ( "敵は案外ワンパターンだ、もう恐れることはない、と。" p.72 ) のは自分と身近な者だけに幸福を適用する都合に良い振舞いでしかない個人の幸福という概念の普遍性を掘り下げずにそれを自分と身近な者のためにしか使用しないくらいならそして敵対性の概念を持ち出すくらいならエピローグにおいては自分が作家であるという経験の特権性 を率直に語り自分を守り作家として生き続けようという欲望を明らかにするというエゴイスティックな振舞いに専心した方が、『 少女を埋める 』という "私語り" において相応しいかったのかもしれないし個人的にはそうして欲しかったそして桜庭一樹という作家の凄みを今一度味わいたかった ( )

 

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