〈 It / Es 〉thinks, in the abyss without human.

Transitional formulating of Thought into Thing in unconscious wholeness. Circuitization of〈 Thought thing 〉.

▶ アトム・エゴヤンの映画『 スウィートヒアアフター 』( 1997 )を哲学的に考える

 

 

監督  アトム・エゴヤン
公開  1997年
出演  イアン・ホルム      ( ミッチェル・スティーヴンス / 弁護士 )
    カーサン・バンクス    ( ゾーイ / ミッチェルの娘 )
    サラ・ポーリー       ( ニコール / 車椅子の少女 )
    トム・マッカムス     ( サム / ニコールの父 )
    ガブリエル・ローズ    ( ドロレス / スクールバスの運転手 )
    アルバータ・ワトソン   ( リサ・ウォーカー )
    ブルース・グリーンウッド   ( ビリー ・アンセル )

 



 第1章  見えないテーマ

 アトム・エゴヤンの『 スウィートヒアアフター 』、 このテーマの見えにくい作品をどう考えるべきなのでしょう。 この作品は、 ある特定のテーマに向かって収斂していく様を観客に見せるというよりは、 様々な要素が絡み合ったまま、 整理されずにそのまま複合体として提示されているといえます。 アトム・エゴヤンは自分が構想した諸々の要素を繋ぎ合わせてはいるものの、 明確な輪郭線を与えない事によって、 ある種の謎めいた神秘性を出現させる手法を意識的に使っているのは間違いないでしょう。観客に安易な理解をさせない、 ただひとつのシンプルな理解を望まない、 そのために様々な要素の複合的提示をしているのですね。

 



 第2章  スクールバスの転落事故とハーメルンの笛吹

 カナダの田舎町で22人の子供たちを乗せたスクールバスが転落事故を起こす。 そこに外部からやって来た弁護士のミッチェルが被害にあった子供たちの親に、 バスの製造メーカーを相手に訴訟 ( 製造時の手抜きを理由にした ) を起こすように説得して回る。

 

 

 しかし、 その過程で、 この映画は田舎町での閉鎖的な共同体における人々の卑猥な関係性を暴き出す。 不倫、 近親相姦、 など通常であれば道徳的に問題のある振舞いが何の罪悪感もなく日常的に行われていたのです。

 

 

 つまり、 この作品では、 スクールバスの転落事故の原因究明がテーマなのではなく、 転落事故それ自体が閉じた共同体の秘密を暴き出す象徴的契機となっている精神分析的に考え直さなければなりません。 だからこそ、 この作品では、 ハーメルンの笛吹きの話がひとつのモチーフとして持ち出される。

 

 

 ハーメルンの笛吹で子供たちが村から姿を消すのと同様に、 スクールバスの転落事故によって、 子供たちは村から姿を消す。 ここで、 問題なのは、 なぜ子供たちが姿を消さなければならなかったか、 についてアトム・エゴヤンがどう考えているかという事です。 率直に言うなら、 道徳的に乱れた共同体の大人たちの欲望の対象になる前に子供のままでこの世を去らせた、 という意味合いを彼はこの伝承の引用に込めていると解釈出来ます。

 

 しかし、 そう言うと、 彼は汚れた大人たちによる児童への性的虐待及び閉じた共同体における非常識的振舞いの告発をテーマにしていると単純に考えたくなるかもしれません。 確かにそういう一面はあるのですが、 この共同体には、 そんな大人に抵抗する子供の振舞いは出てこない ( 例外は共同体に属さない外部の人間ミッチェルの娘ゾーイ。 彼女だけが父親に反発している )。 それどころか子供から大人の女性に成りつつあるニコールは進んで父親と肉体関係を結んでいる。

 

▨  ということは、 この作品はさらのその先の解釈を要求していると考えるべきです。 性的欲望のみがこの作品内に充満しているのではありません。 共同体の人間は子供を愛し、 妻を愛し、 隣人を愛している。 性的欲望と共に、 愛も溢れているのです。 ただし、その愛と性的欲望が同じ次元にあるものとして結びついている異様さがある といえるのです。

 



 第3章  愛と性的欲望

 愛と性的欲望を結び付けている共同体の人間と対照的に、 愛が性的欲望とはかけ離れ、 何の満足も伴わない無償のものであるのを示すのが弁護士ミッチェルと娘ゾーイの親子関係です。 しかし、 ミッチェルは愛がそのようなものと理解している訳ではなく、 薬物中毒である娘の言動に振り回されながらもその要求に仕方なく応える事に疲れている。そ んな娘の為に、 金になる企業訴訟を起こそうとわざわざ田舎町の事故に首を突っ込んできているのですね ( ほとんどの人は見過ごしているけど )。

 

 この愛に無自覚なミッチェルの現金拝領的態度と過度の愛情が性的欲望と結びついている共同体の人間が並列的に描かれている所に、 この作品の面白さがあるのです。 一方では、 愛が性的欲望から切り離され独立している のに対し、 他方では 愛が性的欲望と地続きに繋がっている事 の間の差異。 この差異は、 愛がどちらにも転ぶ可能性があるなどという両義性を示すのではなく、 どちらにも転ぶ可能性があるからこそ、 愛は性的欲望とは切り離されなければならない のです。

 

 相手が自分の思う通りにならなくとも ( 性的なものを含めた現実的満足性が得られなくとも )、 相手との関係性を保つ、 ここに "愛の特異な持続性" がある のです。 相手から満足が得られなければ ( 性的満足のみではなく )、 保てない愛とは "もう既に終わっている何物か" でしかありません。 だからビリーの子供たちにハーメルンの笛吹きの本を読み聞かせていたニコールが事故で生き残ったものの車椅子で過ごす羽目になり、 父親との近親相姦が不可能になった後、 どうなるのかは興味深い所です ( そこは描かれていない ) が、 この時、 ニコールは父親対するゾーイの関係性と同じ位置に移行しているといえるでしょう ( だから彼女は事故の原因についての嘘の証言により訴訟を不可能にして父親を落胆させる )。

 

 



 第4章  女性的なもの ……

 しかし、 ラストに向けてトム・エゴヤンは巧妙な展開を見せます。 これがもし意図的な演出であれば、 恐るべきとしか言いようがない狡猾さを見せている事になるのですが、 訴訟が出来ずに田舎町を離れたミッチェルに 共同体にはびこっていた性的欲望が秘かに移行している のです。

 

 娘の所に向かう飛行機内でミッチェルは偶然、 娘ゾーイの知り合いだった女性アリソンと隣り合う。 このアリソンとの会話がストーリーの初めから所々に差し込まれているので、 田舎町での出来事は、 飛行機内でのアリソンとの会話という形で回想的に語られているのが分かりますね。

 

 ここで注意すべきは、 アリソンという女性の登場の必要性 です。 ここにアトム・エゴヤンの無意識的思考がどう現れているかが解釈出来る余地があるのです。 好意的に解釈するならば、 アリソンとはゾーイの代理表象、 ゾーイが真っ当に育っていたらこうだったかもしれないという仮の姿であり、 そこにはミッチェルのこうであってほしいという幻想が投影されたものだ、 という事が出来るでしょう。

 

 

 空港でアリソンと別れた後、 ミッチェルは泣き崩れます。 アリソンに田舎町での出来事と娘の事を語り尽くした後で、 人生の上手くいかなさに打ちのめされてこみ上げてくる来るものを抑えきれなかったという所でしょうか。

 

 しかし、 なぜ、 この演出が必要だったのでしょう。 ここにはミッチェルの悲哀をアトム・エゴヤンは描きたかったのだ、 などという単純な解釈には収まらない "何か" があります。 その "何か" とは、 "女性的なもの" であり、 "女性的なもの" に対する執着、 依存、 とでもいうべきものが、 ミッチェルだけでなく、 この作品に登場する男性を秘かに支配しているのです。 共同体における近親相姦的関係を、 大人と子供という関係軸から、 男性と女性という関係軸に移行させてみると、 大人であれ、 子供であれ、 そこでは男性が女性という対象に執拗に向かう様が見て取れる はずです。

 

 もちろん、 共同体の人間ではないミッチェルも同様です。 妻と離婚し、 男手ひとつで娘を支える彼が、 プライベートな話を事細かに、 ついさっき知り合ったばかりの女性に話す、 というのは、 まるで彼女を精神分析家に見立て、 自分の悩みを相談するかのようです。 ここでのミッチェルの無意識的算段は、 たんに悩みを聞いて欲しかったという単純なものではなく、 女性に対する依存的欲望を "告曰という形式を媒介にして" 転移させようとするもの です ( この転移はアリソンによって最後に遮断されます、別れという形で )。

 

 そこで話はまだ終わりません。 空港ターミナルを出て、 歩いているミッチェルは驚くべきことに、 懲りずにバスの運転手をするドロレス ( ガブリエル・ローズ ) を見かけます ( 転落事故で子供たちの命を失わせたにも関わらず )。 このオチの表面的な解釈は、 ハーメルンの笛吹きは外部の人間であるミッチェルではなく ( そう仄めかす所もありましたが )、 ドロレス に他ならなかった、 というものです。 ドロレスが、 大人たちの欲望に巻き込まれる前の子供たちを、 子供のまま天国に送り、 穢れを知らない存在にしたという疑似宗教的解釈です。

 

 

 しかし、 その宗教的解釈は余りにも危険すぎますね。 子供たちの命を奪ったドロレスの罪状が触れられず、 再び運転手として現れるという点こそが、 彼女の地位が民間伝承上の謎の存在 ( ここではハーメルンの笛吹 ) から借りられたものである事を示しているのです。 故に、 彼女は子供たちの命の重みを配慮するという実存的配慮からは程遠い神話的主体でしかありません

 

 ここで興味深いのは、 多くの人がハーメルンの笛吹きの民間伝承を無意識的に受け入れているため、 つまり、 ハーメルンの笛吹き ( ) であるとして、 ミッチェルをハーメルンの笛吹きになぞらえている事です ( アトム・エゴヤンもオチの前振りとしてそう観客に思わせている )。 しかし、 ハーメルンの笛吹きはドロレスという女性であった。 この意味をどう考えるべきでしょう。

 

 思い起こすべきは、 先程述べた、 男性の女性に向かう性的欲望 です。 閉じた共同体の近親相姦的人間関係の内奥にある 男性の性的欲望の行き場を無くす事 ( 子供たちがいなくなる事ニコールが車椅子生活になる事など ) によって欲望に "反省性" をもたらす ように仕向ける、 自分の振舞いが如何なるものであるのかを主体に考えさせる、 これこそが、 ハーメルンの笛吹き / ドロレス という設定の無意識的狙いであると解釈出来ます。 そう考えると、 ラストでドロレスと再会したミッチェルは、ようやく自分の本当の欲望に直面したのだといえるでしょう。