It ( Es ) thinks, in the abyss without human.

Not〈 I 〉 but 〈 It 〉 thinks, or 〈 Thought 〉 thinks …….

▶ IVE の新曲『 Supernova Love 』が炎上している件について考える〈2〉

 

 [ 前回記事からの続き ]

 

▶ Chapter3  戦争ではなく同性愛 / 同志愛を描いた映画

A.  さて『 戦場のメリークリスマス 』のテーマについてですが、戦争シーンなど無い戦争捕虜たちの生活を描いた話なんですね。短絡的な頭の人は、戦争捕虜の話というと、すぐに反戦メッセージを読み取ろうとするのですが、この作品は違う ( 確かに反戦的なメッセージを読み取れる捕虜話を描いた映画はこれまでも他にあったのですが )。『 戦場のメリークリスマス 』は、軍隊特有の男色要素を具現化した戦争捕虜の話 なんです ( *1 )。
( *1 )  映画の細かい考察については以下記事を参照。

B.  なのでこれをストレートに反戦映画だとは到底言えないのは実際に映画を観た人ならば分かるはず。もちろん、だからといって戦争を決して肯定している映画ではないので、監督である大島渚 同性愛・同志愛を描き出す事でそれを戦争に対峙させるというハードな手法で戦争と人間愛の対比を浮かび上がらせた と言えるでしょう。

C.  戦争の中でこそ芽生えた人間愛戦争の中でしか芽生えなかった人間愛、それは良くも悪くも戦争と人間の関りがこそが生み出したものであるという意味で、敵対関係を超えた普遍的愛が生まれそうになりながらも、戦争の中で、そして戦争の終結後には消滅してしまう幻想であった かのように描き出されている。この複雑な作品をどうして、今回のIVEのMVを批判する連中が言うように、戦争・反戦という無思考のイデオロギーに還元する事が出来よう。

D.  坂本龍一の "Merry Christmas Mr. Lawrence" はまさにそのような 普遍的愛の出現しそうになりながらも脆く崩れ去る切なさ・残酷さ を描き出しているのです。今回批判している連中は映画及びのそのテーマ曲の崇高性なんかこれっぽちも考えていない ( 考えている振りはする ) のに恥ずかしげもなく激しく他人を糾弾する。それは何も考えていない連中が自分の不満の捌け口として利用する疑似道徳的振舞いでしかない。他人へのリスペクトなんかそこにはありはしないのです。

E.  このような状況を前にして思い起こされるのは、大島渚の1961年の映画『 飼育 』です。大江健三郎の同名小説 ( 1958 ) を原作とするこの作品は、戦時中の昭和20年にある山村に墜落した米軍機に搭乗していた黒人兵を村人たちが監禁する状況を描いている。飼育というタイトルから分かるように、それは人間として扱うのではなくまるで動物であるかのように飼うんです。人間として扱われそうな僅かな要素がかろうじて見えそうになる瞬間もありながらも結局は敵対物 ( 同じ人間ではないかのような ) として黒人兵は殺され埋められてしまう。ここでは 人間関係はほぼ最初から閉ざされ、その行き場の無さは村全体の閉塞的異様さを浮かび上がらせている
▶  『 飼育 ( 1961 ) 』 by  大島渚

F.  これを『 戦場のメリークリスマス 』と比べた時、人間の関係性が進歩しているのが窺える。『 飼育 』では黒人と日本人の村人たちの関係性は、人間同士の関係性ではなく、動物と人間のそれだった。ところが『 戦場のメリークリスマス 』で人間関係が同性愛・同志愛へとラディカルな変化を起こしている。この場合、ラディカルとは、たんに敵対軍人同士なのではなく 国籍・人種を超えた外国人同士の関係性へと進んでいる という事なのです ( 実際に映画に登場する3組の人間関係は外国人同士となっている )。同性愛・同志愛がイデオロギー的人間を普遍的人間への移行を促す側面 が色濃く描かれている訳です。
 今回のIVEへの批判をする者の中には人間愛から退行して、韓国と日本などのようなイデオロギー対立へと向かい煽る愚か者もいた。『 戦場のメリークリスマス 』が激しく描き出した人間愛に全く気付かないし、そもそも観てもいない、そのような連中は『 飼育 』の村人と何ら変わらない。そういう人が坂本龍一をリスペクトしろなどと言うのはもうどうかしている。その人達が言う坂本龍一って一体誰なの?  果たしてそれって生前の坂本龍一なの? それって坂本龍一という言葉を使っているだけでもう全く別の人間じゃないの? って事には彼らは気付かない程異様なんです。

 

▶ Chapter 4  エンターテイメントの中の愛

A.  さて、今までの事を踏まえた上で最後に考えたいのは、"Supernova Love" が原曲である "Merry Christmas Mr. Lawrence" のシリアスな内容を踏みにじる軽薄なアイドルソングだとして批判する 疑似優劣性 の浅はかさです。そのような疑似優劣性を持ち出し批判する事は、既に述べたように、実際に『 戦場のメリークリスマス 』を観ていなくとも可能な低劣な振舞いであり、映画が描き出そうとした人間愛からは程遠いのです。
 映画を真剣に観た方ならば、むしろ "Supernova Love" のインスピレーションの源が『 戦場のメリークリスマス 』から 人間愛への訴求 を読み取った結果の事だろう とすぐに気付くはずです。つまり、デヴィッド・ゲッタは間抜けな批判者たちよりも、映画の優れた解釈者であるからこそ、人間愛を音楽というカルチャーにおいて再解釈を試みたという事です。

B.  もちろん、その出来の良し悪しは冷静に判断されるべきなのですが、その結果が原曲を貶めていると過度な批判をするのは、音楽カルチャーの他人の享受を阻害する隠れたルサンチマンでしかない。他人があるカルチャー楽しむのを邪魔する事に満足を見出す野蛮な低知性の持ち主がそこにはいる のです。

C.  このように 他人の享楽を邪魔する "超-享楽" は、他人をひそかに抑圧する事を命令する "超自我" による歪んだ行為の基盤 なのであり、それは今に始まった事ではありません。もう結構、昔の事なのですが哲学者の中島義道はどこかのエッセイで、次のような下りを述べていた。ある人が現代日本社会の文化的頽廃を嘆いて戦死した友人の犠牲を引き合いに出し、お前が望んでいたのはこんな日本ではなかったはずだ、と。これに対し中島は果たしてそうなのだろうか、と考えた。むしろ、その戦死した人は現代の日本人が平和な世の中で文化を享受している程幸福な状況にある事をむしろ喜んでいるのではないか、と。
実際に戦死した人がどう考えているかは分からないが、中島がここで言いたいことの本質は、文化的享楽を阻害する精神他人の享楽を破壊する超-享楽はある種の精神的道徳性を装って他人を抑圧する無意識的構造 となっていて、彼はそこに社会集団の危険な兆候の存続を読み取っているという事なのです。つまり、社会的規範への従属要求という抑圧性 ( 上で述べた戦死者の友人が犠牲死を崇高化するような ) が集団的効力を持つ事の危険性を彼は本能的に感じとっているといえるでしょう。

D.  他人の享楽、幸福、を素直に楽しめないどころか、それを阻害する事に満足を見出す者とは、自分が何をしているか分からないし、何を考えているのかも分からないのです。自分は考えているつもりでも、大して何も考えていないという限りない無思考状態への漸近線的接近があるだけで、他人を抑圧する事しか知らない のです。一生かかっても。



             [ END ]