〈 It / Es 〉thinks, in the abyss without human.

Transitional formulating of Thought into Thing in unconscious wholeness. Circuitization of〈 Thought thing 〉.

▶ サルヴァトーレ・サンぺーリの映画『 青い体験 』( 1973 ) を哲学的に考える

 

 

監督  サルヴァトーレ・サンぺーリ

公開  1973年

製作  シルヴィオ・クレメンテッリ

撮影  ヴィットリオ・ストラーロ

出演  ラウラ・アントネッリ   ( アンジェラ 役 )

    アレッサンドロ・モモ   ( ニーノ 役 )

    テューリ・フェッロ    ( イニャツィオ 役 / ニーノ、エンツィオたちの父親 )

 

 

第1章  性への純粋な興味からは程遠く ……

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 現在 ( 2022年8月 ) GYAO!でサルヴァトーレ・サンぺーリの三作品 ( 『 青い体験 ( 1973 ) 』、『 続・青い体験 ( 1974 ) 』、『 スキャンダル ( 1976 ) 』 ) が配信されていますが、これらは、かつては自分からはもう積極的に見ないだろうと浅はかに思い込んでいた映画でした。 しかし、ジャン・ピエロ・ブルネッタの 『 イタリア映画史入門 19052003 』 ( 邦訳:2008 ) を読み進める中で、それまでの自分の見方が僕の単なる知的怠慢であった事を理解しましたね ( )。

 

 それまでの見方は、子供時代に性的好奇心を掻き立てただけのもの ( 昔は夜中のTVでそういうものが平気で放送されていた ) として記憶していた事に由来する漠然とした印象によるものに過ぎなかったのです。 もっとも、これは僕だけではなく、その頃のTV放送を見たことのある多くの人も同様で、青春の通過儀礼 ( 初体験 ) の物語映画だなどという適当な印象でしかないものだった訳です。しかし、これを哲学的考察の対象としての作品へと昇華させると様々な事が見えてくる、サルヴァトーレ・サンぺーリのブルジョワ的凡庸に対する攻撃的創造性と共に。

 

 『 青い体験 ( 1973 ) 』 の原題は、イタリア語で 『 Malizia 』、つまり 『 悪意 』 なのですね。 邦題とのこの差異は興味深い。確かに邦題はこの映画で描写される性的描写が観客の性的関心を引くために意図的に演出されているという事実を表したものとして間違いないし、商業的成功も収めている。しかし、映画の後半以降は、前半のニーノの抑えきれない性の衝動が単に現実化されていくだけではなく、性衝動の現実化 には、ニーノという主体の悪意、他人を利用して自分の性的欲望を満たそうとする少年の悪意、がずる賢い知的画策として相乗されていく過程を薄暗く描き出している。 それはもう純真な性への関心を抱く少年とはかけ離れた 性衝動の現実化に薄暗い悪意を上乗せする人間がそこにはいる という恐るべき真実を明らかにしているのです。 この皆が見過ごしていく部分について考えていきましょう。

 

( )

サルヴァトーレ・サンぺーリの作品に表れるブルジョワ的なもの ( 特に家族というもの ) が纏う表層的道徳に対する攻撃性をジャン・ピエロ・ブルネッタは指摘する。

 

 

サルヴァトーレ・サンぺーリは、ベロッキョの足跡をたどり、上流社会の家族制度を攻撃して論争にまで発展した映画 『 青い体験 』 ( 1973 ) を制作してからまもなくして、軽妙な好色映画の原型ともいえる 『 ありがとう叔母さん 』 を制作する。 これは家族の悪徳と思春期の性的な通過儀礼の問題を探求した作品である。 そして、ベロッキョやフェツレーリの映画の中で、ひとたびタブー視されてきたものがその禁を解かれたなら、家や家族は恐怖の場となり、手引き書の中で考え出されるあらゆる性的倒錯や精神病理学の坩堝と化してしまうのである。

 

イタリア映画史入門 1905-2003 』 p.310 ジャン・ピエロ・ブルネッタ / 著 川本英明 / 訳 鳥影社 ( 2008 )

 

 ベロッキョに類似している ー 少なくとも、物語の表層構造とベロッキョと同様のエディプス的な憤怒を浴びせかける富裕市民層 ( ブルジョア ) に関する表面的な評価において ー サルヴァトーレ・サンぺーリは、その頃、最も過大評価された映画 『 ありがとう叔母さん 』 ( 1968 ) を制作したあと、より真実に近い自己の特徴を現わすようになる。 そして、彼は家庭内の悪徳を探求し、少なからぬ宗教的な禁忌によって抑圧されたヴェネト地方のカトリック世界で性の発見の萌芽を物語り、イタリア映画のあらゆる世代に影響を与える汎性欲主義の方向に導くことにおいて重要な役割を演じ、鍵穴を通して ( 1973年の 『 青い体験 』 から、アルヴァロ・ヴィターリによるピエリーノの映画が派生する ) 、家庭内の悪徳を生むダブルベッドやのぞき趣味の孤独な喜びへと誘うことにより、社会革命への衝動を公園やバリケードから回避させることに貢献するのである。

 

イタリア映画史入門 1905-2003 』 p.353~354 ジャン・ピエロ・ブルネッタ / 著 川本英明 / 訳 鳥影社 ( 2008 )

 

 

第2章  欲動を性化する悪意

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 ニーノの 悪意は、この映画の基調である少年の性への目覚めとその結果としての初体験という〈 青春物語 〉を、少年の中に悪が生まれる契機としての性衝動の果たす役割 という〈  精神分析 〉へと書き換えてしまう。 これは、おそらくは、イタリアコメディ映画の製作者として名の知られる シルヴィオ・クレメンテッリ ( 1926~2001 ) から提案されたこの映画の基本的設定 ( コメディ系譜の ) を敢えて部分的に外して自分の思想を映画後半に詰め込んだサルヴァトーレ・サンぺーリの手法によるためだといえるでしょう。

 

 実際、この映画の基本的設定の原型は、クレメンテッリが設立した製作会社 クレシ・チネマトグラフィカ の第1作である パスクァーレ・フェスタ・カンパニーレ 監督( 1927~1986 ) のコメディ作品 『 結婚戦争 ( l marito è mio e l'ammazzo quando mi pare ) 』 ( 1967 ) に見出すことも出来ますからね。  自分と40才以上も年の離れた老音楽家 ( ヒュー・グリフィス ) と結婚した若いアレグラ ( カトリーヌ・スパーク ) が若い男と恋に落ち、その2人があの手この手で老音楽家を殺してでも結ばれようとする話です。殺されそうな目にあいながらも、その都度、老音楽家はしぶとく生き延びるのですが、最後は死んだ振りをして二人を見逃すというのがミソです。

 

『 結婚戦争 ( l marito è mio e l'ammazzo quando mi pare ) 』 ( 1967 )

 

 この老音楽家の名前は 『 青い体験 』 に出てくるニーノの父親と同名の "イニャツィオ" であり、年老いた父親と若いお手伝いの女性アンジェラの結婚を嫉妬心から邪魔して、自分とアンジェラが結ばれる事を欲望するニーノの振舞いと 形式的近似性 があるといえるでしょう。 続編である 『 続・青い体験 ( 1974 ) 』 に至っては、コメディ性がさらに強調されていて ( この作品もクレメンテッリの製作 )、『 青い体験 』で垣間見られた人間心理の緊張感は大幅に後退している。

 

 ニーノにおいては、性的衝動と欲望は一緒のものではありません。 通常なら、性的欲望という事でただひとつのものが彼の中にあると考えるかもしれませんが、彼の内部にある衝動はいまだ未分化の、性的欲望以前の純粋な衝動としての欲動 ( リビドー ) なのであり、これは彼だけではなく 人間精神の底で渦巻く原初の普遍的狂気 であり、 自分を外部に引き出す為に、物理的開放以前に ( ニーノの悪意は童貞喪失以前から発動している )、自分に姿を与えてくれる契機、つまり、人間精神で暗躍する 悪意 を呼び込む のです。

 

 通常の少年ならば、この欲動が自らの性器に生物的エネルギーとして滞留する傾向に従い、性器からの開放及び快感の獲得という物理的開放行為それ自体 ( 初体験以前の自慰など ) に固着する。 しかし、ニーノの場合はこの衝動をたんなる物理的開放系の性的欲望として外化するのではなく、周囲の人間関係を通じて、つまり、覗き、アンジェラに対して主導権を握る事、父親を秘かに裏切る暗躍、などの様々な状況を網羅する 〈 倒錯性 〉を通じて、性的欲望を具現化する事で快楽をさらに高める。 この倒錯性において必要になるのが、自らの欲望の為には他人を出し抜く事など厭わない "悪意" なのです。

 

 

第3章  主導権を握ろうとするニーノの悪意

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▨  以下はニーノが精神のダークサイドを露にしていく後半。 ニーノは、父親の再婚相手のアンジェラと結ばれたいという秘かな欲望、今では何よりも強い欲望、を父親に悟られまいとするが、以前は欲しがっていたはずのバイクはもう欲しくはない ( ) と言って、それ以上の何か別の欲望を言外で仄めかしてしまい、父親に好きな女がいるのかと尋ねられる ( 1~6 )。

 

 

▨  夜中に突然アンジェラの部屋を訪れるニーノ。 アンジェラに聞かれても何も答えない無表情のニーノが不気味です ( 7~12 )。

 

 

▨  ニーノは友達と共に、以前にアンジェラに裸になってあげると言った約束を実行させ、部屋の外から彼女を覗き見る。アンジェラも見られているのを分かっている ( 13~15 )。彼女が完全に服を脱ぎ終ろうかという瞬間に、自分を差し置いて興奮する友達の姿に我慢できなくなり突然帰らせてしまう ( 16~18 )。 アンジェラを欲望の対象として独占しようとする気持ちがニーノの中で強くなっている。

 

 

 友だちを呼んで覗き見したニーノに苛立つアンジェラ。 覗き見されたことではなく、1人ではそう出来なかったニーノの度胸の無さに苛立つというアンジェラも変態的です ( 20~21 )。 挑発されたニーノはピストルを取り出して彼女を黙らせる ( 22~24 )。  これ以前の場面からの流れですが、2人はこの 〈 性的ゲーム 〉において、 どちらが "主導権" を握るか争っているのですね。

 

 

 嵐の夜に起きた停電に乗じて、懐中電灯でアンジェラを執拗に照らすニーノ。 というか、このシークエンス ( 25~36 ) では、ニーノの姿は現れずにライトとそれに照らし出され激しい呪詛の言葉を吐き続けるアンジェラの姿だけが描写される。 ニーノの姿が映されない事で 悪意の唯物的存在性 が強調されている訳です。

 

 

 

 この後、アンジェラは懐中電灯を奪い返し形成を逆転させる。 主導権を握り直して童貞のニーノを文字通り "大人しく" させる ( 37~41 )。 ニーノの表情は快楽に満ちているというよりかは、憑き物が落ちたかのような落ち着きを見せる ( 42 )。

 

 

 

( )

この場面でバイクは欲しくないと言っていたニーノ役の アレッサンドロ・モモ が、本作、次作の 『 続・青い体験 ( 1974 ) 』、そして ディーノ・リージ監督 ( 1917~2008 ) の 『 女の香 ( 1974 ) 』 の出演後に、オートバイでの事故死 ( 1974 ) に遭ったというのは考えさせられるものがありますね。 あの台詞は、オートバイが欲しいという少年としての願望以上に、大人の女が欲しいという脱少年期の欲望が込められていた訳です。 オートバイでの死の 象徴的意味 とは、彼が自分の欲望に反して、いや、本当に欲望していたのが、大人になり切れない思春期の脱少年性に "存在論的に" 固着し続ける事だった のではないかと思わしめるほど、映画での役柄のイマージュが強かったと言えます。

 

僕はそのイマージュを遺作の 『 女の香 ( 1974 ) 』 から強く受けましたね。 ヴィットリオ・ガスマン 演じる盲目の退役軍人ファウストが人生に絶望して死ぬ前の旅行で、彼の付添人としてアレッサンドロ・モモ演じるジョヴァンニ ( 通称チッチョ ) とわずかながらでも人生を共有する。 傍若無人でありながら女性への興味が尽きないファウストに振り回されながらも、それはファウストなりの "最期 / 死" を迎えるための準備であった事を知り、チッチョは大人になっていく。 この大人になろうとする未来への前進性と、ファウストの自殺願望を知っているが故の、未来というものを恐れる少年のままでいようとする現在性との間にある不安定なチッチョの精神。この狭間において彼の イマージュ が生起している。

 

チッチョ ( アレッサンドロ・モモ ) とファウスト ( ヴィットリオ・ガスマン )

 



第4章  人間と悪意

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▨  以上の事から、『 青い体験 』は通過儀礼 ( 童貞喪失 ) を表層的に描いたという解釈には収まらない作品であるのが分かるでしょう。 サルヴァトーレ・サンぺーリは明らかにブルジョワ家族の道徳性を剥ぎ取り、その中に渦巻く悪意とそれが具現化した猥褻的性関係・人間関係を秘められた 不穏性・淫靡性 として描いたのです。

 

 もっとも、それは 『 青い体験 』 に始まったことではなく、既に初期の作品である 『 母親の思い / Cuore di mamma 』 ( 1969 ) において過激な政治思想を体現する人間達の描写として示されている。 工場経営者であるブルジョワアンドレアと離婚している ロレンツァ ( カーラ・グラヴィ―ナ ) とアンドレアとの間で生まれた彼女の3人の子供の9才の長男 マッシモ ( マウロ・グラヴィ―ナ ) の2人は、"共産主義者""ファシスト" という対立的なキャラクターを演じていて、その対立はそのまま家庭の崩壊へと至る壊乱へと繋がっていく。

 

ロレンツァ ( 左 ) とマッシモ

 

 聾啞者であるかのように何も言葉を発さないロレンツアとは対照的に息子のマッシモは饒舌で、旧ドイツ軍の鉄帽 ( 通称シュタールヘルム ) を模したヘルメットを常に被ったまま、本から得た科学知識 ( ナチスユダヤ人殺害において使われたガスの成分など ) を家族にしゃべりまくるという大人びた 〈 悪の知性 〉 を発揮する。

 

3歳の弟セバスティアーノが亡くなった時の葬儀の集まりの場でも、饒舌に喋るマッシモ。 この場面が恐ろしいのは弟を殺したのはマッシモに他ならないからです ( それは後でロレンツァに気付かれる )。

 

 ロレンツアは家庭内における不穏な空気とは別に、仕事先の本屋での出来事 ( 万引きした男を尾行したら共産主義者の共同生活の場にたどりついた ) をきっかけに共産主義者たちと知り合い、その思想に魅せられ、共に行動するようになる。 もっとも共産主義者といっても、この作品ではより急進的な政治行動 ( 爆弾テロなど ) を起こす過激派として描かれ、テロリズム的要素を誇大化したものになっている ( 映画内でも彼らはテロリズムを信奉すると言う )。 この辺りにはサルヴァトーレ・サンぺーリ自身が学生運動に身を投じていたことの影響が表れているといえるでしょう。一説には彼は "毛沢東主義 ( マオイスト )" であったとも言われる。マオイストには学生運動を労働運動に結びつけていく急進的行動性があり、彼らは労働者たちを主体化させるという思想に基づいて、工場への潜入、そこでの占拠・監禁という暴力的手段を採った。

 

共産主義者たちと出会うロレンツァ

 

 ロレンツアとマッシモ、この2人は、人間の "悪意" がいかに現実化されるか、ふたつの政治的類型で以って示している。 ロレンツアは家庭内の不安定な人間関係・子供の奇異な様子に対して何かの対処をする代わり ( そもそも言葉を発する事が出来ないので ) に、外部でのテロ工作活動 ( 元夫の経営する工場の爆破 ) を通じて、ブルジョワ的な家族という構造自体の破壊を極端な解決策として実行する 〈 悪意 〉 を働かす。

 

爆弾の火薬を調合するロレンツァと木っ端微塵に吹き飛ぶ工場

 

 これに対してマッシモは、もっと恐ろしい事に、人間の殺害行為自体にドス黒い快楽を見出す悪の知性の極限化 を具現化する。 それは、もうファシズムというよりかは、ファシズムにおける人種差別主義要素が先鋭化されたもの、つまり、ユダヤ人絶滅を画策したナチズムという究極の悪と同化する悪意 なのです。

 

ロレンツァが外出している間に、家の中をガスで充満させ弟に続いて妹のアンナ ( モニカ・グラヴィ―ナ ) まで殺してしまうマッシモ。 自分はガスマスクを着けている。 彼は後でこれを母親ロレンツァの犯行に見せかけようとしてテープレコーダーに自分の証言を吹き込んでいる所を彼女に見つかってしまう。 このような経緯の末、ロレンツァは最終的にマッシモを殺す事になる。 ちなみにマッシモ役とアンナ役の子供の性がグラヴィ―ナであることから分かるように、彼らは母親役のカーラ・グラヴィ―ナの実子。弟役の子は血縁関係にはない。

 

 では政治思想色の強い 『 母親の思い / Cuore di mamma 』 は 『 青い体験 』 に比べて 〈 性的なもの 〉はどのように描かれているのでしょう。 一見すると、エロティックな要素はそれ程強くないのですが、その事の意味を考えてみる必要があるでしょう。 以下のようなレズシーンや親子3人での裸でじゃれ合う入浴シーンなどがるのですが、エロティックさを強烈に感じさせるものではありません ( 入浴シーンは実際の親子なので変な雰囲気が出るはずもないのですが )。

 

 

 とするならばここでの演出とは、サルヴァトーレ・サンぺーリが 政治的革命の原動力として性的欲望以前の、性化される前の、未分化な欲動 ( リビドー ) に無意識的に依拠している精神分析的に解釈出来るものです。ブルジョワ的なものを打破するために、ブルジョワ的道徳が忌み嫌う退廃的淫靡性を描く政治的選択を彼はしたのですが『 青い体験 』 の興行的ヒットによって、彼の政治的企図は大衆文化という強力な享楽作用を促す現象の中に溶けていった といえるでしょう ( この作品のヒットがその後の彼の映画創作に迷いを生み出すトラウマになったという意味で )。

 

 

 終

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