It ( Es ) thinks, in the abyss without human.

Not〈 I 〉 but 〈 It 〉 thinks, or 〈 Thought 〉 thinks …….

▶ 『 テオレマ 』( 1968 : directed by パゾリーニ ) を哲学的に考える〈2〉

 

 

監督  ピエル・パオロ・パゾリーニ
公開  1968年
出演  
テレンス・スタンプ Terence Stamp 1938 ~ ( 来訪者 役 )
マッシモ・ジロッティ Massimo Girotti 1918 ~ 2003  ( パオロ / 主人 役 )
シルヴァーナ・マンガ―ノ Silvana Mangano 1930 ~ 1989 ( ルチア / 妻 役 )
アンヌ・ヴィアゼムスキー Anne Wiazemsky 1947 ~ 2017 ( オデッタ / 娘 役 )
アンドレス・ホセ・クルス・ソブレット Andrés José Cruz Soublette ( ピエトロ / 息子 役 )
ローラ・ベッティ Laura Betti 1927 ~ 2004 ( エミリア / 家政婦 役 )

 

[ 前回記事からの続き ]

 

Chapter3  人間的生命回復の定理、その5つのパターン

A.  前回の記事でこの作品の "前提 / 公理" について述べました。それで、今回はそのマルクス主義の "階級闘争理論" を演繹化する、それもその公理を単に証明するのではなく、その公理が本来目指すべきだった "人間疎外化に対する解答" としてパゾリーニが考える "人間的生命の回復" という異端定理について考えて行きましょう。

B.  この定理は、パオロ家に唐突に現れた謎の来訪者 ( テレンス・スタンプ ) によって開始される。この来訪者については色々と議論されるのですが、率直に言って、"性の体現者"、"性を象徴する人間"、"人間として具現化された性的なもの"、と考えるのが性的傾斜の強い作品内容から考えて妥当でしょう ( 少なくとも、パゾリーニ自身も否定するように、それはキリストではない )。それはパオロ家に潜んでいながらも、ブルジョワの仮面の下で抑圧されて来た "性的なもの" を解放する為に現れた訪問者なのですね。

C.  突然の来訪者が一家の不和及び性的開放を助長する映画としては、マーティン・スコセッシの『 ケープ・フィアー ( 1991 ) 』が思い起こされる ( J・リー・トンプソンの『 恐怖の岬 ( 1962 ) 』はまた内容の意味合いが違う *1 ) 。しかし、『 テオレマ 』の来訪者は、最後には死んで家族の繋がりの復活の契機となる『 ケープ・フィアー 』の来訪者とは違い、性的開放によってパオロ家を離散させるに至らしめる反道徳者・反キリストなのです。つまり、家族という血縁関係でさえ社会的なものであるが故に、定理によって解体されてしまう。そこまで描かなければ人間的なものは復活出来ないのかとまで思わせる壊乱性がこの定理には含まれていますね。
 
( *1 )  マーティン・スコセッシの『 ケープ・フィアー ( 1991 ) 』については以下の記事を参照。

J・リー・トンプソンの『 恐怖の岬 ( 1962 ) 』については以下の記事を参照。

 

▨  1つめの定理の始まり。家政婦エミリアの場合。
パオロ家の庭でランボーの『 地獄の季節 』を読む男 ( 8 )。庭で掃除をする家政婦のエミリアは彼に釘付けになっている ( 9 )。そしてクローズアップされる男の股間 ( 10 )。エミリアは読書をしているだけの彼に唐突な性的興奮を覚えて、そんな自分に恥ずかしさと罪の意識を覚えながらも、彼と関係を持ってしまう。ここでランボーが持ち出されるのは、彼の有名な言葉「 私は一個の他者である 」を連想させる事によって、人間にとって最も謎なのは自分自身なのだから社会性を剥ぎ取ってでも自分の内奥に向かおうとするパゾリーニの "人間性回復の志向" が込められているからでしょう。来訪者はランボーを介して "謎の性的人間 ( 男というよりかは )" として象徴化されているのです。

 

▨  2つめの定理の始まり。パオロの妻、ルチアの場合。
エミリアの時とは違って、男は下着だけの姿で庭を走り回る。その姿に興奮するルチアはストレートに性的欲望の虜になっている ( 11~13 )。

 

▨  3つめの定理の始まり。パオロの息子、ピエトロの場合。
同性愛の傾向を秘かに有するピエトロ。男との出会いにより、同性愛に目覚めていく。男と共にフランシス・ベーコンの画集を見るピエトロ ( 14~16 )。ここでベーコンが引き合いに出されるのは、ベーコンが優れた芸術家であるのと同時に同性愛者としても知られている事に基づいている。

 

▨  4つめの定理の始まり。パオロ自身の場合。
妻ルチアと夜の営みをしようとするパオロ ( 18 )。しかし行為する事が出来ずに呆然とするパオロ ( 19 )。ショックを受けているかのようなルチア ( 20 )。このシークエンスはかなり解釈を必要とする所です。というのも、ここはシークエンス中でもパオロの言及によって示されるように、トルストイの『 イワン・イリイチの死 ( 1886 ) 』における下男ゲラーシムの主人への献身的介護を踏襲した場面設定になっているからです。一見すると、パオロが行為時の自らの不能に絶望しているだけの話に思えるのですが、そんな単純な事ではないのですね。

ベッドに横たわるパオロの手を握る娘のオデッタの場面 ( 21 ) 及び、少し後で展開されるオデッタの定理5を見れば分るのですが、パオロとオデッタは近親相姦の関係にある事が仄めかされている。という事はパオロは単なる不能者なのではなく、娘のオデッタとは関係を持つ、つまり 娘の中に〈 〉を見い出しているが妻の中には〈 女 〉を見出せない "倒錯者" でもあるのです。事実としては近親相姦者であっても、〈 女 〉を娘の中にしか見出せないという潜在的意味で "性的倒錯者" と呼ぶ方がパオロには相応しいでしょう。

さて、このシークエンスにおけるパオロの歪んだ性的欲望の顕示は、実はパゾリーニのオリジナルのアイデアではないのです。ほとんどの人は気付かないのですが、『 イワン・イリイチの死 』から、パゾリーニが参照したエピソードには、下男ゲラーシムが主人を介護するという話だけではなく、病床で動けないイワン・イリイチが彼氏と共に見舞いに来た自分の娘の若さ溢れる肉体に嫉妬と情欲を覚えた 事が明らかに行間から読み取れる場面もあるのです ( ここでの注意点は、その嫉妬は衰えた自分の肉体と単に対比した若さへの嫉妬という意味のみでなく、彼氏の逞しい肉体描写から分かるように、娘と関係を持つに彼氏に対しても嫉妬しているという事です )。多くの人がトルストイの中に崇高な禁欲主義を見いだす単調な読みしか出来ないのに対して、パゾリーニトルストイの中には 性的欲望にどうしようもなく魅惑され翻弄されている人間的真実 があるのを見事に読み取っているのですね。

この自らの倒錯ぶりに気付いているのか、それとも気付かずに単に不能になったのだと思い込んでいるのか、の判断はつきかねるのですが、パオロは自分の事を病気だと称してベッドで寝込む ( 21 )。そして問題なのはこのパオロを介抱する来訪者の行為です ( 22~23 )。先にも述べたように、ここはトルストイの『 イワン・イリイチの死 ( 1886 ) 』において、満足に歩けず病床に伏すイワン・イリイチが下男ゲラーシムに足を持ち上げてもらい楽な姿勢で眠るというエピソードを踏襲しています。

しかし、その意味合いはトルストイのそれとは違います。これをパオロの倒錯性 ( あるいは不能性 ) を治癒しているなどと考えてしまっては、それこそ訪問者を最終的にキリストになぞらえる事にしかならいし ( この場面の効果音がそう思わせかねないのは否定出来ないのですが )、来訪者をしてそもそもの自らの "性的具現者という存在論的地位" を放棄させてしまう致命的誤りにもなってしまう。

とするならば、ここでの来訪者の行為は、パオロの治癒どころか、彼の倒錯性が単に家庭内問題に留まる "未だブルジョワ的なもの" でしかない、つまり、社会道徳を破壊するには不十分な倒錯性でしかないとして、その倒錯性をさらに推し進めるべく自分の力をパオロに与えている と解釈出来きますね ( 2 )。この解釈は後で述べる4つ目の定理の帰結に繋がっていく。

( 2 ) しかし、注意しておかなければならないのは、パゾリーニは何でもかんでも社会道徳に反対していたのではないという事です。1970年代イタリアで成立した離婚法や中絶法に彼が反対していた事を考慮すると、パゾリーニが抵抗していたのは、あくまでも "彼が考える上での社会障壁" なのであって、障壁でないと判断した社会物・制度についてはむしろ守ろうとした ( 他の人にとっては障壁であっても )、という事です。それはあくまでも特定の観点に傾く政治性を帯びた選択的・戦略的抵抗であったのですね。

 

▨  5つめの定理の始まり。パオロの娘、オデッタの場合。

この5つ目の定理は4つ目の定理と地続きになっています。娘との歪んだ関係を持つ父パオロの問題が、そのまま娘のオデッタ自身に移行していく様が描かれている。庭にパオロと一緒にくつろいでいる男とのツーショット写真を撮り ( 24 )、そこから男を自分の部屋に連れ込み、家族の思い出のアルバム写真を一緒に見る ( 25 )。そこから2人は肉体関係に至る ( 26~29 )。

このシークエンスはオデッタが告白するように、それまでの自分の愛の対象が父である事以外にはあり得なかった近親相姦愛が、外部からの来訪者に向かう事で自分の殻を破る普遍性に向かうかもしれない、つまり、それまで家庭内存在でしかなかった自分が社会に向かって解放される機会に巡り合った、という話になっている。ただし、場面27~29を見れば分るのですが、来訪者とオデッタの肉体関係は、互いの目を見つめ合っていない演出から、互いを結び付け関係性を築く愛の行為などではない、つまり、性的欲望の運動が家庭内という狭い領域から外部の他の対象に向かおうとする一時的な迷走現象によるものだ ともいえますね。そう考えると、オデッタの目線は依然として父パオロに向かったままだと考える事も出来る ( 28 )。

▨  以上の5つの定理を整理したので、次回の記事ではその帰結がいかなるものなのか考えていく事にしましょう。

 

[ 以下の記事へ続く ]