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監督 ピエル・パオロ・パゾリーニ
公開 1968年
出演
テレンス・スタンプ Terence Stamp 1938 ~ ( as 訪問者 )
マッシモ・ジロッティ Massimo Girotti 1918 ~ 2003 ( as パオロ / 主人 )
シルヴァーナ・マンガ―ノ Silvana Mangano 1930 ~ 1989 ( as ルチア / 妻 )
アンヌ・ヴィアゼムスキー Anne Wiazemsky 1947 ~ 2017 ( as オデッタ / 娘 )
アンドレス・ホセ・クルス・ソブレット Andrés José Cruz Soublette ( as ピエトロ / 息子 )
ローラ・ベッティ Laura Betti 1927 ~ 2004 ( as エミリア / 家政婦 )
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CHAPTER1 この映画のタイトルである "定理" とは何の定理であるのか
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A. パゾリーニがこの作品のタイトルとして掲げた『 Teorema 』とは、『 定理 』を意味するのですが、その定理とは一体何なのでしょう。もちろん、それについては色々と語られてきたのですが、明確にはなっていないし上手くもいっていない。パゾリーニ自身もインタビューの中で言及したりしているのですが、上手く纏められていないので曖昧になっています。現在ではもう誰も本気で考えようとはしない、その問題についてここで率直に述べていきましょう ( おそらく今後、ここ以外でそれが述べられる事はないでしょう、世界の何処を見渡しても )。
B. もちろん、パゾリーニは定理という言葉を厳密な概念 ( 特に数学的な ) としてではなく、あくまでも比喩として使用しているに過ぎません。しかし、表現記法として定理という言葉を敢えて使用しているのなら、そこには漠然とした形であれ、定理という表現を持ち出すに至る "背景" があるはずです。
C. ここで、その "背景" とは、ある前提条件 / 前提状況が "公理" として表されるという数学的形式性が漠然化されたものとして考えてみましょう。その仮定に従うならば、この映画の "定理" とは、まさに その公理 ( 前提条件 / 前提状況 ) を演繹化する補助命題である と考える事が出来ますね。
D. この作品では、その前提・背景としての "公理" がきちんと説明されていないかのようにみえるから、"定理" が一体何を導き出そうとしているのか分からないという事になっているのですが、実は冒頭で公理はある程度説明されています。この話は細かくなりますが、僅か1分半のこの冒頭を押さえておかないと ( この冒頭の重要性について言及する批評はあまりない。ファビアン・ジェラールの『 パゾリーニあるいは〈 野蛮 〉の神話 』くらいでしょう ) この作品はほとんど理解出来ないものになるので進めていきます。
E. 具体的に見ていきましょう。映画冒頭での、パオロが経営していた工場の前で労働者たちが記者らにインタビューされる場面 ( 1~6 )。この場面はオープニングクレジットが始まる以前のもの ( この場面の直後からオープニングクレジットが流れる ) として、つまり、物語が始まる以前の "前提状況" として観客に提示されているのです。
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F. 興味深いのは、このインタビュー場面では、記者にインタビューされる労働者たちの姿はほとんど映らずに、インタビューする側の記者たちの姿ばかりが映し出され、彼らが主導する形で話が進むように演出されているという事です。なので初見の方は、記者の姿を認識出来ても、言葉だけが飛び交うこのシークエンスで、誰がインタビューされているのか、誰が答えているのか、それは経営者なのか、労働者なのか、よく分からないでしょう。以下の場面 ( 7 ) で、このインタビューを離れて見守る経営者 "だった" パオロのクローズアップで、インタビューされていたのは労働者たちだったと確証を持てるのですが。
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G. この分かりにくい演出は、パゾリーニが照準を合わせているのが、労働者ではなく資本家 / ブルジョワだったパオロであるからです ( だから労働者の姿を映していない )。ここでパゾリーニが一時期マルクス主義者であった政治経歴及びマルクス主義者が信奉する階級闘争理論を考慮すれば、労働者こそ主人公にすべきではないかと疑問に思うのが通常の反応でしょう。しかし、パゾリーニは敢えてその路線からは逸脱していくのです。もちろん、労働争議を扱うこの冒頭場面はその背景・前提としてマルクス主義の "階級闘争理論" を公理化しているのは間違いありません。
H. 階級闘争理論とは、資本家の搾取に対する労働者の抗戦闘争の中で、資本家を打倒する事によって労働者が自らの疎外的立場を克服するという歴史的・哲学的行動理論です ( この種の歴史に通じていない方にはピンとこないでしょうけど )。このマルクス主義理論の元になっているのが、マルクスが参考にしたヘーゲルの "主人と奴隷の弁証法"であり、マルクスはそれを労働者の為の行動理論 ( 主人=資本家、奴隷=労働者 ) へと改造し世界中へと拡散させていきました。それは、労働問題と政治が直結化される状況、つまり、労働問題が "政治革命の契機としての雛型" となった状況であり、それは後続に向けて諸々の市民の政治運動を引き起こす事になった訳です。そして、その余波は『 テオレマ 』が公開された1968年に最も高まる形で激しく続いたのですね ( 1968年といえば、フランスでの革命運動が有名です )。
I. しかし、この冒頭場面での記者による労働者に対する質問内容が異様なのは、労働者が階級闘争の末に資本家 ( ブルジョワ ) を打ち倒したのではなく、経営者であるパオロが自らの立場を自主的に放棄する事で工場を労働者に譲ったという状況は、資本家 ( ブルジョワ ) の自己変革なのであって、労働者の勝利とは違うのではないか と "転倒的に" 訴えている点です。記者たちのこの異様な追求によって労働者は言葉に窮するのですが、この "ブルジョワの自己変革" こそがマルクス主義の階級闘争理論を全く別の次元へと導いていくパゾリーニの "転覆的理論" なのです。
K. そして、ここには経営者の "パオロ" を通じて自分をブルジョワと重ね合わせるパゾリーニ自身の個人的含意も込められています。ここで思い起こされるのは、未成年者との同性愛スキャンダルによって1949年にイタリア共産党から追放された政治事件ですね。現在ではパゾリーニが同性愛者であったというのは、当然の認識になっていますが、当時、教職者であると共に共産党員であったという具合に、公共における政治的立場を築いていた人間が、未成年者、しかも同性愛の関係を持ったというのは結構な世間的驚きを引き起こしたのです ( まあ、現在でもそうなるでしょうけど )。このような形でパゾリーニの同性愛が世間に広まった事は、教職の辞任及び共産党からの追放という社会的制裁を彼に与える程にまでなった。ここにその時のイタリア共産党の批判コメント ( 曰く、"パゾリーニは進歩主義者の振りをした頽廃的ブルジョワだ" ) を重ね合わせると、パゾリーニは自身をブルジョワに模した政治的皮肉を込めているのが分かるという訳です。
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CHAPTER2 主人と奴隷の弁証法からの離脱、そして人間的生命の回復へ
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A. パゾリーニは驚くべき事に、階級闘争理論という公理から、奴隷 ( 労働者 ) が主従関係を転倒させ主人 ( 資本家 ) を打ち倒すという通常の革命理論の道筋から、意図的に逸脱して、"落ちぶれた資本家" の方に照準を合わせて定理化を施すという真に転覆的・壊乱的演繹を描く のです。イタリアにおける最も洗練されたマルクス主義理論家のアントニオ・グラムシ ( パゾリーニも党員だった事があるイタリア共産党の創設者 ) でさえ、人間を社会的関係性の総体であるというように "権力論的に" しか定義化しなかった王道的マルクス主義解釈から離れて、パゾリーニは マルクス主義ではほとんど問題に成り得なかった ( なぜならマルクス主義では人間はどこまでも社会的・政治的生き物でしかないから ) "人間的生命の回復" を性的なものと再交錯させる事 で成し遂げようとしたのです。
B. この異端的試みの対象が、労働者ではなく資本家、それも落ちぶれた資本家であるのは重要な点です。それは哲学界では思いもよらないアイデアであり、ブルジョワを対象とするこの手法は映画界においてはパゾリーニ以外にはルイス・ブニュエルくらいでしょう ( 例えば『 ブルジョワジーの秘かな愉しみ ( 1972 ) 』、『 欲望のあいまいな対象 ( 1977 ) 』)。このアイデアの源泉には、階級闘争理論に対するパゾリーニの不満があった事は、性的スキャンダルを引き起こした彼の幾つもの小説や映画からして明らかでしょう。労働者がたとえ資本家を打倒したとしても、それは労働者の社会的地位が上がるだけの政治的事象であって ( もちろんそれは大多数の人々を満足させるものなのですが )、それが真に人間的であるのかどうかは誰にも分からない。
C. パゾリーニはこの点を究極的に突き詰めようとした。政治的主体になり過ぎた労働者よりも、経済的主体である事からも落ちぶれ、ただの人に戻ってしまった資本家 ( ブルジョワ ) の方に "人間的堕落の現象" を見出した 。そこにこそ、人間的真実がある事にパゾリーニは気付いたのです。社会から排除されて来た 猥雑性・汚物性 こそが人間的生命を回復させてくれる 原初的 / 底辺的真理 を体現しているのではないか 、とパゾリーニは考えた。そのモデルとしては、底部から上部へと昇っていこうとする労働者よりも、上部から底辺へと落ちぶれ、 社会性を剥ぎ取られた元資本家 ( 元ブルジョワ ) の方が、"社会性以前の人間的真実" を探求するに相応しいという訳ですね ( 実際にそのような真実があるのかどうかはまた話は別になるのですが )。
D. ミラノ大学の映画研究者 Roberto Carnero が賢明にも指摘したように、パゾリーニにおいてはブルジョワとは既に従来の、労働者と対立する "階級概念" ではなく、あらゆる社会階層に行き渡った "人類学的条件" の体現者と化している。つまり、これまでの人間的遺産を抑圧する道徳性を保持する一方で、それを解放・破壊する事も厭わない極端性をも同時に保持するのです。パゾリーニに従うならば、この場合、人間的遺産とは性的充溢によって示されて来た 人間的生命の蓄積だ と考えられるでしょう。
E. 今一度、整理すると、パゾリーニはマルクス主義の階級闘争理論という公理から、労働者の弁証法的勝利を教科書的に演繹化したのではなく、人間的生命の回復という壊乱的定理によって "社会性以前の人間的充溢" を導き出した のです。マルクス主義が人間というものを社会・政治の中に取り込まれた生き物として定義する ( 実際の所は、確かに人間は社会的生物だと同意せざるを得ないのですが ) のに反撥して、人間が社会・政治の中には "完全には" 取り込まれてはいない事を示す "人間性回復" という回答をパゾリーニが示したのは、異端ではありながらもマルクス主義理論からはさほど離れてはいません。
F. というのも、マルクス主義において、労働者の行動化の為の理論である "主人と奴隷の弁証法" よりもさらに洗練化された抽象的機軸理論 ( ルカーチの『 歴史と階級意識 』の中で突き詰められた )、すなわち、"生産物の物象化による人間疎外の理論 ( 物象化論、あるいは人間疎外論 )" を念頭に置けば、階級闘争の中で疎外された人間性を取り戻すにはどうしたらいいのかという課題が立ちあがるのが分かるのです。これに対するマルクス主義の標準的解答は、新たなる社会的連結を作り出す事で克服する ( なぜならグラムシにも見受けられるように "人間とは社会的結節点の具現化" に他ならないから ) というものですが、パゾリーニは違う。
G. パゾリーニは 性的なものとの再交錯を通じての人間的生命の回復こそが人間疎外の克服だ と考えている。マルクス主義、共産主義が自分たちの俎上には乗せようとはしなかった "性的なもの" こそが "真の下部構造" ( これはもちろんアルチュセール的意味での表現 ) として人間主体の底辺を支えているのだとパゾリーニは、無意識的に "原-精神分析的視点" に立って考えている。彼は "遺物・排泄物" の猥雑的次元 ( それはまさに社会が下水処理的排除して来た "汚物" に存在論的に比せられる人間の "原初性" に他ならない ) で人間の根源性に向かい合った のです。以上のようなこの作品の公理 / 背景を踏まえた所で、次回では、その公理を演繹化する定理がどのように描かれているのか具体的に考えて行きましょう。
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【 以下の記事へ続く 】
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