〈 It / Es 〉thinks, in the abyss without human.

Transitional formulating of Thought into Thing in unconscious wholeness. Circuitization of〈 Thought thing 〉.

▶ ピエロ・パオロ・パゾリーニの映画『 アッカトーネ 』( 1961 ) から『 ソドムの市 』( 1975 ) までの移行について哲学的に考える〈 2 〉

 

 

 

 

 

 

 

 

A. しかし、興味深いのは、このような "遺物 ( 排泄物 ) の生命回復" の試みは、この後の作品系列で、現代社会的なものの描写を通じて為されるのではなく、 より "過去的なもの / 神話的なもの" の描写を通じて為されていくという事です。

 

B. この事は何を意味しているのでしょう。これはパゾリーニの作品を観たほとんどの人が考える事が出来ず、だからこそ彼の作品を謎めいたものに思わせるものとなっているのです。パゾリーニはたんに現代社会に対するアンチテーゼとして、失われた人間性への熱望とノスタルジーを込めて "過去的なもの / 神話的なもの" に回帰しているのではなく、自らの舞台であるスクリーン上において 現代社会を徹底的に書き換えるための道具として "過去的なもの / 神話的なもの" という "世界の時代性・時制概念" を革命的に用いているといえます。

 

C. こう言うと、別にパゾリーニに限らず、映画史において現代社会ではない別時代性の設定は限りなく使われてきたのではないかと思われるかもしれませんが、パゾリーニはその時代設定に忠実である事や他の時代へのノスタルジーやSF的近未来から狂った現在を嘆く事の為だけに "過去的なもの / 神話的なもの" を用いているのではありません。過激な事に、彼はスクリーン上において現代社会を文字通り書き換える為の 創造的破壊 を 過去的なもの / 神話的なもの を媒介にして実践している。例えば『 豚小屋 ( 1969 ) 』では現代と過去という二つの時制舞台を断続的に関連させて物語を展開させていますね。

 

D. 人間的なものの回復の為に 過去的なもの / 神話的なもの を用いる哲学的意味とは何でしょう。この "原初的なもの" への回帰とは、決してかつての世界に現代社会以上に正しい真正なものが残っているなどと考えてしまうと単なるノスタルジックな幻想的逃避でしかなくなってしまう。そうではなく、その "原初的なもの" とは私達人間存在の精神構造における始原としての "欲動の混沌" である と精神分析的に考えてこそ、現代社会に向けての変革の潜在力が "現在性" として生じる可能性が見えて来る。パゾリーニは、欲動が社会的なものへと昇華され分節化された結果としての現代社会を破壊するために、その過程に介入し再編成・再創造しようとするのです。

 



 

 

A. パゾリーニの創造的破壊は "遺物 ( 排泄物 ) の生命回復" を通じて人間に多様性を取り戻す試みなのですが、その過激さは作品を経るごとに、現代に帰るにつれて、増していきました。本来、"遺物 ( 排泄物 ) の生命回復" とは 象徴的次元 ( 言葉や論理性、抽象性 )  で不純性・猥雑性と向かい合うからこその人々の思考や意識に哲学的反省性の次元をもたらす 人間的可能性の切り開き として理解すべきものなのですが、『 豚小屋 ( 1969 ) 』からは "遺物 ( 排泄物 ) の生命回復" が明らかに象徴的次元ではなく、フェティッシュな即物性に移行しているのが見て取れますね。

 

『 豚小屋 ( 1969 ) 』

 

B. 実際、この作品では、食べる事から排泄に至る人間の即物的行動を言い表す言葉が頻繁に出現する、というか "豚小屋" というタイトルからし即物的なのであって、"食べる / 消化 / 排泄 / 物 ( Ding )" という言葉が、本来、パゾリーニの意図であった社会批判に到達する以前にフェティシズムに固着してしまっているように見えるのです。特に Ding というドイツ語が用いられているのは、豚がその中で群れる豚小屋のイマージュ自体が第二次大戦中のドイツによるユダヤ人の絶滅収容所と重ね合わされている物語内容を考慮すれば、それが意図的なのが分かるのですが、その人間性の喪失批判 ( 人間ではないモノに堕している事への批判であり、映画中で Ding とは登場人物の名前になっている ) になりうる手前で、モノのフェティシズム的様式美を構成するという物象化に留まっているように思われる訳です。『 カンタベリー物語 ( 1972 ) 』に至っては人間がまさに糞として排泄される存在である事を示す即物的描写 ( 以下の場面 ) があるくらいですからね。

 

カンタベリー物語 ( 1972 ) 』 この場面はジェフリー・チョーサーによる原作『 カンタベリ物語 』の「 教会裁判所召喚吏の話 ( The Summoner's Tale ) 」の冒頭 ( ) を忠実に再現しているに過ぎないとはいえ、即物的な祝祭性を強調する演出が為されている。

 

 

C. そうすると、この "即物性への移行" は、パゾリーニの映画手法の "象徴的次元からの後退" を表している ( ) と "取り敢えず" は言えるでしょう ( ただし、それは彼の映画についての一時的保留という意味であり、詩・小説・評論などについて、ここで述べているのではありません )。それどころか、この映像的即物性は『 ソドムの市 ( 1975 ) 』で過激さを極め、糞を食べ、糞に塗れる演出がフェティシズムの呪縛圏域から観客の思考を抜け出せなくさせている。いかにパゾリーニがそれらを社会批判のメタファーだ、あるいは映画の中に映し出された実在物の現実的効果だ、と言おうとも、そんな事を知らない観客は猥褻物の興味本位的観察か、激しい嫌悪を示すしかなくなってしまう。フェティシズムの "現前性" が観客に対して、そこから何か ( パゾリーニの社会批判 ) を "象徴的に読み取ろうとする力" を奪っている ( せいぜいのところ、糞は本物ではなく作り物だろうという、依然としてフェティシズムの世界内に留まる読みくらいしか出てこない  ) 事をパゾリーニは考慮してはいない …… かのように思える。

 

『 ソドムの市 ( 1975 ) 』

 

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原作の「 教会裁判所召喚吏の話 ( The Summoner's Tale ) 」では次のように書かれている。 

 

 この天使は答えた。「 いいえ、とんでもない。何百万人もきてますよ! 」そこで彼をサタンのところに連れて行った。彼は続ける。「 いいですか、サタンは、大型帆船の帆よりも幅広い尻尾を持っている。サタン、お前の尻尾を上げてみよ。お前の尻を見せるのだ。この托鉢修道士にこの場所に托鉢修道士たちの巣があることをよく見せてやれ。」二分もしないうちに、まるで巣から蜜蜂が群れ出てくるように、悪魔の尻から二万もの托鉢修道士が一斉に飛び出してきた。地獄中のいたるところ托鉢修道士でごったかえした。

 

「 教会裁判所召喚吏の話 ( The Summoner's Tale ) 」 p.342 『 カンタべリ物語 』所収 ジェフリー・チョーサー / 著 池上忠弘 / 監訳 共同新訳版  悠書館 ( 2021 )

 

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このような『 ソドムの市 』における "象徴性の欠如" をロラン・バルトは以下のように指摘している。

 

『 ソドムの市 』で人の心に触れるもの、効果を発揮するもの、それは字義へのこだわりである。パゾリーニはもろもろの場面を字義どおりに、サドが描いた ( 「 書いた 」という意味ではない ) とおりに映画を撮った。〈 中略 〉。糞便を食べさせる? 眼球を刳りぬく? 盛りつけた料理のなかに針を入れる? 観客はすべてを見せられる 〈 中略 〉。ここまで厳密になると、結局むき出しにされるのはパゾリーニの描く世界ではなく、われわれの視線である。裸にされたわれわれの視線、それこそ字義偏重の効果である。パゾリーニの映画には ( これは彼に固有の特徴だと思うが ) いかなる象徴性もない。〈 中略 〉。サドが描く場面を字義どおりに再現しようとするあまり、パゾリーニは、サドという対象もファシズムという対象も変形してしまう。

 

「 サド - パゾリーニp.101~102 『 ロラン・バルト著作集 9  ロマネスクの誘惑 1975 - 1977 』所収  ロラン・バルト / 著 中地義和 / 訳 みすず書房 ( 2006 ) 

 

* 下線は引用者である私によるもの

 

 



 

 

A. この変化は何に起因するのでしょう。ロラン・バルトパゾリーニの映画自体が原作などのテクストを文字通り再現する事に固執し過ぎて象徴性を失っていると言うのですが、もし "再現" を通じてのテクスト世界の提示を狙うことがパゾリーニの "意図" であるのなら、その批判は妥当だといえるかもしれません。しかし、その批判はある意味で分かりやすく、パゾリーニ自身も予め踏まえてない筈はない。もし、パゾリーニの試みが違う"意図"、すなわち、象徴的次元の具体的世界化にあるのではなく、別の事にあるとしたらどうなのでしょう。そもそも原作であるサドの『 ソドム百二十日 』自体がバルトのテクスト原理主義に基づく批判を覆す "象徴性からの解放" を含むもの ( )、つまり、文学作品として、現実社会とは別次元のテクスト的現実を目指しているのではなく、 まさに現実社会を破壊するためにそこにぶつけられる "文字の集積体という物体""脱人間的肉体性" の構築にこそサドの夥しく書き続ける事への欲望の源泉がある と考えられ、パゾリーニもその事を理解していたかもしれないのです。

 

B. それは、不純物を抱える人間的多様性の純粋なる回復 ( 『 アッカトーネ 』など初期の映画に見られるもの ) とそのための社会批判 ( 後期の作品で明確に示されるようになる産業社会、管理社会、ファシズム等に対する批判 ) の左翼的戦闘性という両極が結びついた結果としての、〈 脱人間的-肉体 〉としての "映像的事物"、"究極の映像素" とでも言うべき概念に彼が到達していたが故の映画的方法論だといえるものなのです。

 

C. 事物という 〈 脱人間的肉体物 〉 がただ単にそこにある事の "現実" こそが既に社会への批判的足場となりうる客観性を現わしている。この物体を映像として現前化させる映画手法と社会批判が溶け合っている構造は、映像それ自体が映画内概念に留まるものではなく、事物を映像という表象化作用を通じて極限まで現実化させて ( スクリーン上の糞 ) 、社会に対して自ずと向かっていく普遍的なものである事 を明らかにする。マルティン・ハイデガーが、表象とは謎めいた事物の方から我われの方に向かって事物自身が存在する事を知らしめる作用物であると理解していたように。

 

D. ただし、注意しなければならないのは、この "映像的事物" が『 豚小屋 ( 1969 ) 』でも暗黙的に批判されている "政治的事物" としての Ding とほぼ表裏一体である危険性に晒されるという事です。それは双方が 〈 人間的なものの解体 〉を前提としているが故の危険性であり、政治的事物としては人間存在が断片的になるまで食い尽くされ (『 豚小屋 』における豚による人間の捕食 )、映像的事物としてはまさのその断片化された 〈 脱人間的-肉体 〉こそが人間の存在を浮かび上がらせる表象、あるいは映画素であるという双方の明確な境界が現れてしまう困難な試みでもあるのです。

 

E. だから『 ソドムの市 』においては映像的事物を巡って、様々な倒錯的状況が引きお起こされる。それは自らの正義・神聖さによって社会を批判しているのか、それとも自らをカリカチュアと化して社会を批判しているのか、ただ自分が社会に食い尽くされる悲劇を描いているのか、社会を貶めて無価値化しようとするのか、あるいは自らを社会以上の悪と化して社会を食い尽くし破壊しようとするのか、等の様々な状況・解釈を同時に引き起こす倒錯性が、"意識と対象性が未分化な事物" の中の暗黙の扉を開けた向こう側に繰り広げられる。

 

F. その事がこの作品を特定の解釈、特定の意味化に導く事を拒否させるのであり、そのような特定化によって、この作品から人が自分の身を安全圏へと距離を置くことを拒否するのです。パゾリーニはこの作品を観る者の道徳性を何の遠慮もなく叩き潰す ( ) 。道徳的な自尊心が壊れた先にこそ、そのようなものなどは社会から人間精神に政治的に備給されたコードに過ぎない事 が分からせるかのように。そのような政治的道徳性が壊された後でさえも、打ち捨てられた人間性を守ろうとする行為こそ、パゾリーニの社会的正義だといえるでしょう〈 終 〉。

 

( )

それについてエリック・マルティは次のように言う。 

 

 数あるサド作品のなかから、パゾリーニは最も非人称的な作品である『 ソドム百二十日 』を選んだ わけだが、この作品にはもはや内面性はまったくなく、いかなる主観性の発露もない。『 ジュスティーヌ 』と『 ジュリエット物語 』が意識を表象する二つの人物像を寓意しているとすれば、『 ソドム百二十日 』は我々を意識、筋、登場人物、顔といったものから遠ざけ、あらゆる象徴主義、ドラマ、結論から解放する のである。

 

『 サドと二十世紀 』 エピローグ パゾリーニブランショレヴィナス p.346 エリック・マルティ / 著 森井 良 / 訳 水声社 ( 2018 )

* 下線は引用者である私によるもの

 

 古代やキリスト教の悲劇が再現するドラマのうちには、歴史の残忍さが個人の情熱〔 情念 〕のかたちをとって内面化されている。異常行動、非合理な行為や失敗は残忍さ人間性を媒介する表象 であり、これらをとおして人間は自らの謎に直面するようになるのだ。「 ソドムの市 」がきわめて現代的であるのは、二十世紀がこれらの媒介物を取るに足らないものにしてしまったことを公的に認める点にある。大文字の歴史は個人の動機という点では完全に理解不能なものとなり、一人あるいは複数の登場人物によって体現される媒介物はことごとくまやかしとなる。いまや 悲劇の前提となっているのは、人間主体の徹底的な解体 なのである。

 

『 サドと二十世紀 』 エピローグ パゾリーニブランショレヴィナス p.348~349 エリック・マルティ / 著 森井 良 / 訳 水声社 ( 2018 )

* 下線は引用者である私によるもの

 

 

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『 ソドムの市 』における反道徳性についてエリック・マルティは言う。

 

この意味で「 ソドムの市 」は、全面的に欲望とラディカルな背徳性に支えられた現世批判の極端な写し絵なのであり、この写し絵は誰であれ見る者を無傷のままにしておかないのだ。ラディカルな現世批判が意味をもつのは、一種の新たな意識、叫びが最も適切な表現となるような耐えがたいものの意識を発掘する場合でしかない。どんなものであれ、批判意識とその対象とを区別しようとする言説は、無味乾燥になったり、妥協に落ち着いたり、破綻から何事かを救い出したいという欲求に陥る恐れがある。真の現世批判とは自らの手を汚さずにはいられないものであり、批判の対象となるこの世界に組み込まれないために、自らの破壊を希求するのである。「 ソドムの市 」はそういった映画なのだ。

 

『 サドと二十世紀 』 エピローグ パゾリーニブランショレヴィナス p.362~363 エリック・マルティ / 著 森井 良 / 訳 水声社 ( 2018 )

* 下線は引用者である私によるもの