上記の記事からの続き。
3章 深層の肉体へ
注意すべきは、アルトーが〈 肉体 〉に照準を定める事となった〈 思考 〉の錯綜過程・先鋭化過程です。たんに社会的反抗・革命を訴えるだけなら、過去の革命家の幾人かと同様、自らの言説・言葉使い・叙述それら自体を強硬的に煽動化・単純化させてしまえば済むのですが、アルトーの作品にはそういった事も妨げてしまう分かりにくさ、思考の鋭利さ が目立っている。彼は最初から〈 器官なき身体 〉という 疑似実体的なもの へ向かうべく〈 思考 〉を直進的に動かしていたのではない。そのような事では〈 思考 〉は、私という主体による操作行為として統制化されるものでしかなくなってしまい ( カントにおける 私は考える という統覚形式のように )、主体の管理項目のひとつとして溶け去る〈 消滅する媒介者 〉でしかなくなってしまう。
そうではなく、アルトーは〈 思考 〉を、私という主体を超えるもの ( 私は考える という統覚形式はまさに単なる形式でしかない )、人間存在に先立つ〈 肉体 / 物体 〉の深淵と永遠性から派生した〈 出来事 〉、として暴き出している。この思考の動きをアルトーは時に〈 機械 〉として表現し、そこに破壊的自律性を織り込みながら〈 思考 〉の "大文字化" を試みるのです。
アルトーの思考が鋭利であるのは、この〈 思考 〉を、 人間的生 に対立させる事によって極限の存在様式へと赴かせて、それを徹底的に書き換えようとする所にある。それは一見すると、生に対するルサンチマンであるかのように思われるが、それどころか人間的生を超えようとする明晰かつ狂気的な意志が溢れる原理的形而上主義者の行為なのです。この観点に立って初めて、アルトーの思考における 人間的有機物 に対抗する 非生命的無機物 の隠喩の意味を細かく考えられるようになる。それは、〈 器官なき身体 〉を有機的に組織化される以前の強度を備えた〈 卵 〉として考える事 ( 例え、それがアルトー、ドゥルーズ=ガタリの中に見いだされようとも ) 自体が、〈 器官なき身体 〉を依然として人間的生の観念を纏わりつかせた 有機的残滓物・有機的シュミラークル だと見做している事なのではないか、という疑念を突き詰めさせてくれる。アルトーにおける、鉱石・結晶・凝固・機械、といった非有機的隠喩と、有機的残存性を漂わす〈 器官なき身体 〉との 相反性・両立性 を一体どう考えるべきなのか。
この点に関連して『 意味の論理学 』の頃のドゥルーズ は、分裂病患者において対立している〈 ふたつの深層・ふたつの混合 〉という興味深い考えを提示している。
対立するのは、二つの深層であり、二つの混合である。対立する二つの深層とは、断片が旋回し爆発する穴のあいた深層と、充実した深層であり、対立する二つの混合とは、固く、固体で、変化する断片の混合と、液体で、流動し、完全で、部分も変化もない混合 ー 溶解し接着する特性があるからである ( 血のかたまりのなかにすべての骨がある ) ー である。この意味において、尿道のテーマを肛門のテーマと同じに置くことはできないように思われる。なぜならば、糞便が、或るときは毒のある物質として恐れられ、或るときは他の断片をさらに細分化する武器として用いられて、つねに器官と断片とに属しているとすれば、尿はそれに反して、あらゆる断片を結合し、器官がなくなった身体の、充実した深層のなかに細かく砕かれたものを浮かべることのできる濡れた原理を立証するからである。そして、もしも分裂病者がすべての獲得した言語とともに、この分裂病的な態勢まで退行するとすれば、破裂した糞便的断片である語=受動と、水または火の成分で接合されたブロックである語=能動との二元性・相互補足性を、分裂病的言語のなかで再発見することになっても驚かないだろう。
『 意味の論理学 』 ジル・ドゥルーズ / 著 岡田弘・宇波彰 / 訳 p.237 法政大学出版局 ( 1987 )
このドゥルーズが指摘する〈 ふたつの深層・ふたつの混合 〉から読み取るべきは、アルトーは有機的器官の組織化を突破した後に〈 器官なき身体 〉に辿り着いたという単純な思考過程を経たという事ではなく、肉体という事物的底辺 ( *E ) がある〈 深淵 〉に対する爆撃・破砕・断片化といった 攻撃的降下性 と、その粉砕・断片化された身体を流動的 ( アルトーにおける精液・血液の奔流性 ) に溶解・接合させた物的凝固物としての肉体を表層に向かわせる 再生的浮上性、のふたつの同時的振舞い ( ドゥルーズなら分裂病症者の振舞いと言うであろう ) こそがアルトーの思考の特徴を示している。人間的有機物に対する攻撃的降下性 と、非生命的無機物化を施された再生的浮上性 という訳です ( *F )。
このアルトーの思考の深層に対する 攻撃的降下性 / 再生的浮上性 の相反的同時性を考えた時、〈 器官なき身体 〉という考えを非観念的なものとして、充実体・内的実体・母胎・卵・諸々の意味を産み出す実践的総体、等の 肉体的形象化を施すのは、実は、それが思考の消失地点としての場所的機能を果たす新たなる底辺化・基底材化である事 が見落とされている。もう、これ以上は考えなくてもよい、考えてはならない、思考の起源・起点はここにあるのだから、という思考=ゼロ度の代理表象としての実体的なもの ( 事物それ自体ではない ) の機能が働いている可能性があるのです。
そのような〈 語=基底材=観念 〉の巧妙な袋小路に陥らないようにするには、ここで逆に〈 器官なき身体 〉とは アルトーによる純然たる 形而上的観念〈 物 〉だ と率直に認める必要があります。彼が深層の肉体を攻撃的かつ呪詛の 語 で破壊しながら、表層に非有機的再生物 として浮かび上がらせる時、アルトーは、肉体という語の 基底 にある、いや、基底それ自体と化している事物性・肉体性の 観念 を、肉体という 語 から引き剥がしながら、同時に、その観念を、肉体として指示される現実の 事物 に施される適用制限を超えて奪い取るのです。ここには肉体観念の破壊的使用と、その観念を新しい語へ新たに適用する事 により生まれ出る 再生物 が現れる。つまり、〈 器官なき身体 〉とは、アルトーが自らの思考の虚無性・無根拠性と長きに渡って対峙し続けた末に、観念それ自体に事物から奪い取った 肉体的属性 を注ぎ込む事で、ひとつの 語=物 、すなわち、語物 として昇華的に生み出した強力な 観念物・観念体 だといえる。
ドゥルーズ=ガタリ以前の、表層と深層を巡る驚異的洞察を示していた頃のドゥルーズは『 意味の論理学 』において、古代哲学のストア学派を引き合いに出しながら、表層において出現する深層事物の生成変化の 効果・結果 としての 非物体的観念性 と、深層の肉体からある種の 肉体的属性 を引き抜いたものを表層に向けて観念的に存在論化させたものとしての 超存在 について語る。
というのは、結果はもはや物体的なものを持たず、いまやすべてが観念だからである。…… いまや、イデアから離脱したものは、非物体的な限界である表面に上がってきて、因果的・精神的な効果を失った、あらゆる可能的な 観念性 を表象する。ストア学派の哲学者たちは、表層の効果を発見した。
『 意味の論理学 』 ジル・ドゥルーズ / 著 岡田弘・宇波彰 / 訳 p.11~12 法政大学出版局 ( 1987 )
物体から非物体的なものへと移行するのは、境界線に沿ってであり、表層を延長することによってである。ポール・ヴァレリーは意味深く次のように語った ー 最も深いものは皮膚であると。
前掲書 p.14~15
属性は存在ではなく、存在に性質を与えるものでもない。それは超存在 ( エクストラエートル ) である。
前掲書 p.29
意味は、一方の面を事物へ、もう一方の面を命題へ向ける。しかし、意味はそれを表現する命題とも、命題が指示する事物の状態もしくは性質とも一致しない。意味はまさに命題と事物の境界線である。意味は、この何かあるもの、同時に超存在であり自己主張であるもの、さまざまな自己主張と合致する最小限の存在である。意味が〈 できごと 〉であるというのはこの意味においてである。ただしそれは、できごとを事物の状態のなかでのその空間=時間的な実現と一致させないという条件のもとにおいてである。
前掲書 p.29~30
不条理のパラドックス、もしくは不可能な対象のパラドックス。このパラドックスからもうひとつのパラドックスが生まれる。つまり、矛盾した対象を指示する命題は、それ自体でひとつの意味を持つというパラドックスである。しかし、その指示作用はどんなばあいにも実現されず、またそうした命題はこの実現の可能性の種類を規定するいかなる意味作用も持ってはいない。それらの命題は意味作用を持たない。つまり、不条理である。〈 中略 〉。つまり、丸い四角、延長のない物質、永久運動体、谷のない山などの不可能な対象は、〈 祖国のない 〉対象で、存在の外側にあるが、外側では明確で判明な位置を以っている。それらの対象は〈 超存在 〉に由来するものであり、事物の状態のなかでは実現されえない、観念的な純粋なできごとである。
前掲書 p.47 ( 下線は引用者である私によるもの )
〈 器官なき身体 〉とは、事物から抜き取られた非物体的観念としての肉体的属性を、〈 語 〉において、語それ自体にひとつの肉体を与え新たなる基底材へと変化させた〈 語=物 〉であるからこそ、以前の肉体の残響を漂わす有機的残滓物であるかのように見えてしまう。しかし、それはドゥルーズが言う所の、奥底の言語、身体の深層と混合する言語、なのです、あくまでも。なので、そこに有機的実在感を感じとってしまう見方は、深層の事物に向かって投射されるシュミラークルの作用に惑わされているのであり、その投射が行われる舞台が〈 表層 〉である事を見過ごしている。ドゥルーズはこの表層で活動する際の道具として〈 非物体的観念 〉と〈 語 〉の使用法について『 意味の論理学 』で語り、そこでアルトーとルイス・キャロルの二人の比較をしている。
二人は共に表層で活動しながらも、アルトーが、先程も述べた 攻撃的降下性 / 再生的浮上性 によって深層の事物に向かって垂直的に戦いを仕掛けていくのに対し、ルイス・キャロルは深層に向かわずに表層 ( そしてその裏面 ) での横・水平の動き ( 散々言いつくされてきたポスト構造主義的言い方ではあるが )、つまり、ナンセンスとパラドックスを生み出す言葉遊びによってひとつの出来事を出現させる。キャロルの事物からの逃走という戦略 と、アルトーの事物への闘争、あるいは表層の穴・裂開から肉体の中に陥入していこうとする侵攻破壊という戦略 の差異。表層において子供の到来を待つキャロル に対して、子供になる以前、胎児になる以前の肉体それ自体になり生まれてこないよう深層に向かうアルトー。この差異はアルトーにキャロルに対する不満を抱かせるものとなったのですが、それはアルトーの思考の地位を巡る形而上的闘争を改めて浮かび上がらせてくれる。
このような 思考への固執 こそが、作品の中でアルトーに 身体 について語らせている のです。それは思考が身体的行為であっても、身体的存在それ自体ではないものとして、身体の傍らで、身体の自己差異、身体が生み出した自己空隙 ( それは未だ身体の中に思考が囚われている事をも意味する ) に、自らを〈 思考 〉として位置付ける恐るべき形而上主義者の振舞いなのです。つまり、アルトーは〈 肉体 / 物体 〉が〈 思考 〉に先立ち、後から出現した〈 思考 〉が肉体程の根拠も持たない事を理解した上で、〈 思考 〉こそが自分自身であるのに気付きながらも事物・肉体性をもたないが故の 形而上的虚無 ( 人生論的虚無ではない ) に悩まされるている。彼が作品において、生涯、自らの "虚無性" について述べ続けていた事 (「 何によって私は虚無を満たすのか?」*G ) を考慮すれば、〈 肉体 〉と対峙し戦うのは必然的な、生存権を巡る形而上的原理闘争であった事 が理解できるはず。
私は、精神のおそるべき病いに苦しんでいます。私の思考は、ありとあらゆる段階において私を離れ去ってしまうのです。思考という端的な事実の段階から、語によるその具体化という外部化された事実の段階までのね。語、文の諸形態、思考のさまざまな内的方向、精神の単純な反応、このようにして、私は、自分の知的存在を、つねに追い求めているのです。というわけで、私は、何か或るかたちをとらえることが出来ると、たとえ、それがいかに不完全なものであっても、それをしっかりと固定してしまうのです。思考のいっさいを失ってしまうんじゃないかと思うからですよ。私は、私自身に到りついていない。それはわかっているし、そのことで苦しんでもいます。
「 ジャック・リヴィエールとの往復書簡 」『 神経の秤・冥府の臍 』所収 アントナン・アルトー / 著 粟津則雄・清水徹 / 編訳 p.32 現代思潮社 ( 1971 )
というわけで、私の思考を破壊する何かがあるのです。私が何であるにせよとにかく何かであることを阻みはしないけれども、言ってみれば私を宙ぶらりんにしておく何かがあるのですよ。こいつは、こそこそと人眼をはばかる代物で、私から、私が見出した語を奪い去り、私の精神的緊張をゆるめ、私の思考のマッスを形作る実質を次々と破壊してしまう。そればかりか、人が自分の考えを表わすのに使うあのさまざまな言いまわし、思考の、もっともわかちがたくもっとも局限されたもっとも実在性に富んだ種々の抑揚を、正確に伝えるようなさまざまの言いまわしの記憶までも、私から奪い去ってしまうのですよ。
前掲書 p.39~40
なので、男性原理 ( シナ―キー ) と女性原理 ( アナーキー ) の闘争などと安藤礼二の言う『 ヘリオガバルス 』解釈以前の、より根源的な、〈 思考 〉なのか、それとも〈 肉体 〉なのか、こそがアルトーにとっては問題だったのです。〈 性的なもの 〉の神聖化を彼は既に斥けているのですから、ふたつの性的なものの対立とその先に現れ出るような実体的なものという見取図を描いたわけではない ( *H )。この事を理解出来ない人は〈 器官なき身体 〉を考えるに当たって 母胎という表現を安易に使ってしまう羽目になる。確かにアルトーの作品には、卵、生誕、受胎、等の生殖的かつ性的比喩の系譜モチーフが数多く見られ論じられもして来たのですが、それは有機的組織化によって抑圧・凝固されたものとしての "身体観念" に対抗して、その 〈 深淵 〉 に投射された もうひとつのシュミラークルとしての身体観念 に過ぎない。それは事物それ自体になる事は出来ない不可能性が非物体的観念性を表層に向かって生み出すという〈 思考 〉自身の動きの結果・効果である事に気付く必要があるのです。それもアルトーが思考しているのではなく ( 形式的にそうであっても )、〈 思考 〉という出来事自体が、アルトーという形象・自我の形式を纏い、彼に幻想を与え、突き動かしている、とさえ言えるでしょう。そしてアルトー自身もその真実を分かっている。
ある与えられた瞬間にみずからの形式を選びとる思考の、この鈍重で多形の結晶作用。思考のありうべきすべての形式、すべての様態のまっただ中に、自我の直接無媒介の結晶作用が生じるのです。
「 冥府の臍 」『 神経の秤・冥府の臍 』所収 アントナン・アルトー / 著 粟津則雄・清水徹 / 編訳 p.77 現代思潮社 ( 1971 )
( *E )
ジャック・デリダはこれを "基底材" と言っている。
( *F )
『 意味の論理学 』における、この〈 上昇 〉と〈 下降 〉の概念は、『 フランシス・ベーコン 感覚の論理学 』にも引き継がれているのですが、そこでは〈 上昇 〉と〈 下降 〉は、〈 表層 〉と〈 深層 〉に属性的に伴う運動の組み合わせである事から解放されて、どちらかの選択という問題ではなく、落ちる事において獲得される感覚の実在的強度、すなわち、人間主体を超えた深さ ( 高さ ) を体験出来る程の、主体横断的な感覚帯、の現実性に結びつけられた〈 落下 〉の概念へと移行している。
落下においては、まさに緊張そのものが体験される。カントは瞬間において把握される大きさとして強度を定義して、強度の原理を明らかにした。つまりこの大きさに含まれる複数性は、否定=0 への接近によってしか表象されないと、彼は結論したのである。それなら感覚が上位の、またはより高い水準にむかうときも、この上位への水準のゼロへの接近によらなければ、つまり落下によらなければ、感覚はそれを体験することができない。感覚がどんなものであれ、感覚の実在的強度とは、多かれ少なかれ「 大きい 」深さへの下降の実在性であり、上昇の実在性ではない。
『 フランシス・ベーコン 感覚の論理学 』ジル・ドゥルーズ / 著 宇野邦一 / 訳 p.111 河出書房新社 ( 2016 )
そしてドゥルーズにおける〈 上昇 〉と〈 下降 〉に注目したのが ダヴィッド・ラプジャード。彼は美学研究者 エティエンヌ・スーリオに言及する中で、ドゥルーズを踏まえた上で、スーリオにおける 創造的な上昇 ( アナフォラ ) と 破局的な下降 ( カタストロフィ ) について語っている。
スーリオは、この過程をアナフォラと名づける。「 われわれがアナフォラと呼ぶ存在の規定は、リアリティの継続的な増進のことである。アナフォラの促進という操作は、創建された存在が単独性に向かうよう促進することに直接かかわるのである 」。問われているのは、ほとんど実存していない潜在的なものを、いっそう明白なリアリティに向かわせることである。あるいはスーリオの言葉をもちいるなら、潜在的なものを、それが下絵の状態にとどまっている暗き底から、完成というあかるい光のもとまで連れてくることである。その定義によるなら、アナフォラとはつまり強度化の過程なのだ。
『 ちいさな生存の美学 』ダヴィッド・ラプジャード / 著 堀千晶 / 訳 p.86~87 月曜社 ( 2022 )
ともすればスーリオの描いたアナフォラの過程は反転し、上昇が転落になるかもしれない。だが依然として肝腎なのは、あらたな存在物に権利を生み出すこと、こうした存在物をそれが現出し消滅する瞬間にとらえることなのだ ( 所有と剥奪の流動的な戯れをとおして )。あらたな実存がまるで霧のなかから出現するようにあらわれるときこそ、そのリアリティを増幅させなければならないときこそ、スーリオにとってもっとも感動的な瞬間である。あるいは逆に、その消滅をとらえることが重要な場合もあるだろう。
前掲書 p.134
( *G )
「 言礫 」『 アルトー後期集成Ⅱ 手先と責苦 』所収 p.321 アントナン・アルトー / 著 宇野邦一・鈴木創士 / 監修 管 啓次郎・大原宣久 / 訳 河出書房新社 ( 2016 )
( *H )
もうたくさんだ。
男や女はたくさん、
牡と牝も
事物はひとつだけ。
二元性なんて、もうたくさん。
実在と生命も、もうたくさんだ。
事物はそんなことからはじまったわけではない、
牡か牝か、
男か女か、
事物はまだはじまっていないし、
この先もけっしてはじまらないだろう
なぜなら事物はつづいているのだから
そんなふうにいつまでも。
「 言礫 」『 アルトー後期集成Ⅱ 手先と責苦 』所収 p.441~442 アントナン・アルトー / 著 宇野邦一・鈴木創士 / 監修 管 啓次郎・大原宣久 / 訳 河出書房新社 ( 2016 )
4章 思考と肉体
アルトーの〈 肉体 〉に対する形而上的攻撃性は、〈 思考 〉の出自不明性・不形態性・非身体性、等の虚無性が 事物の歪んだ現れ によって引き起こされる事を原動力とする。〈 肉体 〉という〈 事物 〉が出現した時に引き起こされる世界化の一画で物体が極小的に占領・専有しまう〈 事物 〉の空間化 / 空隔化、そして〈 場 〉の発生、といった現前性に限定されない諸々の編成化作用に伴う 歪み として押し出され、押し潰された〈 空虚 〉として〈 思考 〉は現れる。
なので〈 思考 〉の主体は〈 私 〉などではなく、それどころか人間的主体が問題であるのでもなく、〈 事物 〉が構造的に出現した際に伴う 偶発的な事後性・以後性の有限的な〈 出来事 〉としての〈 思考 〉が主体に対して引き起こされる事 こそが問題となる。主体は〈 思考 〉を、考える行為を、強要される。肉体の物理的次元での出現以後に、暗室に突然電気が点いたかのように主体は生まれてこの方、考え始めている、暗室で何が起こっていたかも分からずに。なぜ、考えているのかも、考える行為とは何なのかも、分からずに考え始めている。自分の〈 存在 〉とは何なのかを考えている …… 。
しかし、アルトーにおいて〈 存在 〉とは、一般の人が思いこむような肉体の物理的次元での実在の事などではないし、哲学者がその物理的存在を脱構築した、観念でも実在でもない 超自己言及的迂回路化 ( 例えば、存在を問題にする再帰的な問い方自体への言及や自己性が消去された脱人間性の考慮などハイデガーが成し遂げた周到な戦略 ) でもない。
アルトーにとって、〈 存在 〉とは、〈 事物 〉という物体が出現した後に考え出された概念でしかない。〈 事物 〉は存在するのではなく、〈 存在 〉の遥か以前から出現している し、偶然的に出現し続けている。〈 存在 〉という 概念 では事物が出現している事の 深層性・偶然的狂気性 を捕える事は出来ない。つまり、事物がそこにあるという事の真の意味とは、宇宙の中でひとつの狂気が具現化されている という事であり、偶然的狂気が生み出した精神的運動でもある事 をアルトーは教えてくれる。何の道理も保証もないのに、それが唐突にそこにある …… 。この偶然性程恐ろしく、狂っている事は無い。だからこそ人間は思考の歴史において、神の視点、神の摂理、神の第一義性、等を持ち出して、本来は 不可能なものであるはずの事物 が漂わす不安・狂気を鎮静化させてくれる〈 大他者 〉の地位の確保に拘り続けてきたといえるのですが、実際にそこにあるのはジャック・ラカンが言う意味での、主体が存在化されている〈 象徴界 〉以前の〈 現実界 〉でしかないのです。
5章 非物体的観念体としての思考へ
アルトーは、その思考の照準を事物の出現という現実界に向ける。肉体の先行的出現は思考の歪んだ起源なのですが、それはたんに思考が人間の身体性に属する脳内行為であるから、それ無しでは起こらないという単純な物理的意味においてそうなのではありません。それはもっと重大な帰結を意味しています。事物がなぜ形の無いものとしての〈 思考 〉を生み出す事になったのか、なぜ形の無い〈 意識 〉、形の無い〈 意志 〉、等の 不可視な虚無的なもの をもたらしたのか …… この虚無的なものがある事の "無意識性" の事実 はその裏面に狂気を忍ばせていて、ひとたびそれが内向的に意識化されると人間精神を容易に崩壊させる。
出現しただけで 外面的に動けない事物 は、その内的虚無によって 自らの中で動く ようになる。ここには事物が自分自身に対して ( 対自的に )、自分自身において ( 即時的に ) 施すヘーゲル的な弁証法的転化というべきものが働いています。事物が世界に中に出現するというのは、ある一画を専有する事態に伴う〈 場 〉というものの発生を引き起こすのですが、それは、事物が出現しなければ発生しないが、では事物が出現した以降は、事物自身がその〈 場 〉を塞ぐ充填物になってしまう為に、その〈 場 〉は それ自体 としては空虚・虚無と化し事物の傍らに影として付き纏う事になる。
事物の動態化の第一歩とは、このような事物の出現という唯物的外在化が引き起こす虚無の内在化・内面化であり、外部の内面化という弁証法的転化 が事物自体において施される事によって始まる。アルトーはこのような事物と虚無の壊乱的弁証法が展開される宇宙に向かい、思考の真実としての虚無、そして虚無を生み出す事物に直面する。そこでアルトーは驚くべきことに、虚無を生み出した事物に取って代わるべく、肉体から奪い取った 肉性 ( 基底物 ) によって〈 思考 〉を〈 非物体的観念物 〉として結晶化させる。そこではもはや言語でさえ言語ではなくなり、文字は文字でなくなり、発せられた語は語でなくなり、〈 非物質的物体 〉となる。このような既存の基底物が転用化された新たなる物質性についてジャック・デリダは次のように言う。
肉体それ自体が、生きた基底材、絵を描き文字を書く基底材となる。それは運動する文字、「 文字なき文字 / 語なき語 」である。それはもはや文字を支えるには及ばない、もはや文字を耐え忍ぶことをしない。
『 基底材を猛り狂わせる 』ジャック・デリダ / 著 松浦寿輝 / 訳 p.69~70 みすず書房 ( 1999 )
この言語はもはや言語ではない。或る意味ないし或る対象の方向へとみずからを昇華したり繊細化したりはもはやしないものでなければなるまい。それは、猶予なく中断なく遅滞なく、みずからを表現するものでなければなるまい。基底材に向かって息がみずからを投げつける肉弾戦において、言語は文字通りのもの、物質的なものとなる。〈 中略 〉。置換、翻訳、形象化、修辞法の彼方にある文字通りの物質なのである。これは前述したことであるが、絵文字法 ー この絵文字法 ー は文字通り聴き届けられるべきものであった。もっとはっきり言えば ー 単語の中においてさえ、発話言語においてさえ、意味と参照と表象の慣習的な法にはもはや従うことのない文字、解放された文字の、字面通りに、ということだ。
前掲書 p.101~102
以上の事を踏まえるならば、〈 器官なき身体 〉とは、何かを表わす言葉でも、何かを説明する言葉でも、何らかの概念でもなく、諸々の説明やイマージュに繋がる一切の線が切断された語なき語としての物質であり、さらに言うなら、それは既知の物質性が脱化された 非物質的物体 だといえます。それこそが〈 思考 〉に執着し続けてきたアルトーが手に入れた思考の肉性、思考の基底材なのであり、肉体という事物の現実界に対抗して創造した 非物質的観念体 なのです。その到達点においてアルトーは自らを 究極の内在物、生まれ出る事は決してない、実現される可能性が全くない、肉体になる事がない、肉以前の "物" へと生成変化させる事 によって肉体に打ち勝とうした。これこそが〈 器官なき身体 〉なのであり、それをさらに極限化すれば〈 身体なき身体 〉が現れて、アルトーが悩まされたイメージ不可能かつ形態のない虚無に再び立ち戻る事になるのです〈 終 〉。
それはまたひとつの身体でもあるらしく、
アルトーもまたひとつの身体のようだ、
理念ではなく、身体という事実なのだ、
虚無であるものが身体でもありうるという事実、
顔の、表層の到達し得ない地図の、底知れない深淵、そこから身体である深淵が姿を現わす。
「 言礫 」『 アルトー後期集成Ⅱ 手先と責苦 』所収 p.418~419 アントナン・アルトー / 著 宇野邦一・鈴木創士 / 監修 管 啓次郎・大原宣久 / 訳 河出書房新社 ( 2016 )