〈 It / Es 〉thinks, in the abyss without human.

Transitional formulating of Thought into Thing in unconscious wholeness. Circuitization of〈 Thought thing 〉.

▶ パゾリーニの映画論『 ポエジーとしての映画 』について哲学的に考える〈 1 〉

 



 

 

 

A. ピエル・パオロ・パゾリーニが1965年に映画論『 ポエジーとしての映画  ( Il cinema di poesia ) 』を発表した時、クリスチャン・メッツを初めとするアカデミックな言語学者兼映画理論家たちから、その言語学解釈の非厳密性を批判されるという事がありました。彼らはパゾリーニの映画論の内奥性を読み解こうとはせずに、彼の使用する記号や言語という "言葉" に学問的硬直さで以って反応し、自分らの言語学解釈や規範性に照らし合わせて言語論的不備を指摘するという無理解を露呈させたのでした。そこでは、パゾリーニによる学問的忠実さに基づいたのではない記号や言語という "叙述" が、どのような意図で、どのような思考で為されているのか、と探求する解釈及び思考が全く働いていなかったのです ( * )。

 

B. クリスチャン・メッツは 映画的言語活動 ( ランガージュ・シネマトグラフィック )  と、言語学的規範性の中に回収されてしまう 言語体系としての映画 との差異を考える事を述べる。一見すると、ここで彼は "映画的言語"という通常の言語体系から逃れていく独自性について "映画論的に" 考える方向に行くように思えるのですが、そうではありません。彼は 言語体系のない言語活動 について依然としてアカデミックな言語論的立場から考えようとするのです。ここは強調しておく必要があるでしょう。映画という言語体系のない言語活動 、すなわち、 映画言語 ( シネ=ラング ) "言語学的言語の集積体" として理論構築するのではなく、フェルディナン・ド・ソシュールに倣って ( ラング / パロール の対立項的組み合わせ )、言語体系のない映画言語を個人言語、いわゆるパロールに該当するものとして扱う事によって、結局、社会的言語体系としてのラングの対立項であるかのように言語論的記号学に回収する のです ( * )。

 

C. メッツは、そのような回収先を パロール言語学 と述べるのですが、その探求はソシュールにおける理論的躓きであった事 ( パロールが形式的な話言葉・発話行為を超えた "個人的思惑が練り込まれた特殊な使用法" という脱規範的行為概念 に相当する為なのですが ) もメッツは理解していて、それはもはや言語学ではなく、言説 ( ディスクール ) であり、記号事象 であるとも言っているのですね。ただし、それはあくまでも言語学への忠誠を保った上での話です。だから、彼が "映画の記号学" と言う時、彼は言語学ではない映画論を論じているのではなく、"言語学" の可能性を拡げてくれるであろう映画への記号学的解釈を施した映画論 を論じているだけなのです。

 

 

早晩パロール言語学に類似したものとなるはずだが、おそらくそれはことごとく、ジュネーヴの師 ( 注:ソシュールの事 ) の思惑からは外れることになるだろう。〈 中略 〉。正直に言ってしまうと、私はそのパロールの研究に触れているのである。というのも、非音声言語的な表現手段の研究をしていると、考察する素材の性質そのものが要因となって、一つの "言語学" の実践へと、おのずから導かれてゆくことがしばしばあるのだが、それはラングの言語学でもなければ、ほんとうはパロール言語学でもなく、むしろエミール・バンヴェニストの意味での ( ないしは、ビュイサンスが、より多様な "言語活動" を知るために、ソシュールの有名な二分法を拡大しようとして用いた用語の意味での ) ディスクール[ 言説 ]の言語学なのである。アメリカの記号論で言う純粋な記号事象 ( サイン=イベント ) 、すなわち、二度と起こることもなければ、おそらくは科学的研究の対象ともならない出来事としてのパロール - そして、あらゆるものが互いに関連性を持つ組織的審級としてのラング ( 人間の言語体系や、よりいっそう体系的なものとしては、諸々の機械[ コンピューターなど ]に用いる形式化された言語体系 )、この両者[ パロールとラング ]のあいだに、"記号図形 ( サイン=デザイン )" や文章パターン、連分の配列法、バルト的な意味での "エクリチュール" など、つまるところ、パロールのさまざまな型に関する研究の場がある。

 

 

「 映画 ー 言語体系 ( ラング ) か、言語活動 ( ランガージュ) か? 」 クリスティアン・メッツ / 著 森岡祥倫 / 訳 p.260~261 『 映画理論集成 』所収 岩本憲児、波多野哲郎 / 編 フィルムアート社 ( 1982 )

 

D. 以上の事を語っておきながら、メッツがパゾリーニの言語体系解釈に対して厳密な批判的講釈を垂れるという教条主義的な振舞いしか出来なかった所に、彼の "記号というもの" の脱領域的潜在力 に対する洞察の無さを露呈させてしまっている。言語学が説明するような、意味するものと意味されるものとの組み合わせに基づいた意味作用、文法的統辞法、その文法中における語の形態変化論、などの範列的体系に記号は "ずっと" 従ったままでいるものではない事をメッツは考えようとはしない。記号は言語の範列性を潜り抜け、自らの抽象性に到達しているからこその記号という独自性をその身を以って表している。記号は 脱言語学的言語 でありながらも伝達的効果を保持したものである のを最も示したのが映画に他ならないのです。

 

E. このような記号の脱言語性についてパゾリーニは以下のように言う。

 

 記号論においては、記号の諸体系が無差別に考察されるのであり、そこでは、たとえば、"言語からなる記号の体系" についての論述がなされるのだが、そのような記号の体系が実際に存在するのであってみれば、それも当然のことである。だが、だからといってこのことは、そのほかの記号の体系の存在の理論的可能性をいささかも排除するものではない。一例をあげれば、身振りによる記号の体系といったものだが、これは現実において、話し言葉の補完的役割を担って実際に確かに存在するのだから、その存在は否めない。

 事実、ある表情とともに発音されたある語 ( 言語記号 lin - signe ) は、一つの意味を持ち、それが異なる表情を伴って発音されるときには、またちがう意味を持つものであって、ときには、おそらくまったく反対の意味さえ持ちかねない ( 話し手がナポリっ子であるときには、とくにそうだ )。また、ある身振りとある語の組み合わせは、ある一つの意味を生み、同じ語ともう一つの身振りの組み合わせはちがう意味を出現させる。このように、さまざまな身振りをあるひとつの語に組み合わすことによって、さまざまな異なる意味がもたらされるのだ。

 

 

「 ポエジーとしての映画 」 ピエル・パオロ・パゾリーニ / 著 塩瀬 宏 / 訳 p.264 『 映画理論集成 』所収 岩本憲児、波多野哲郎 / 編 フィルムアート社 ( 1982 )

* 下線は引用者である私によるもの。  

 

しかし、それだけではない。さらに言えば、人間の内部には、すべてが意味を語りかけるイメージたちによって表されているような一つの世界が、まるごと存在する のだ - だから、このさい、類推的に "イメージ記号" im - signe というような用語を、採用することにしようか? とにかく、ここで私の言うその世界とは、記憶と夢の世界 のことである。〈 中略 〉。

 要するに、映画的コミュニケーションを可能ならしめる手段の基盤たることをめざし、またそのようなコミュニケーションの到来を予告するような、意味を示してやまない さまざまなイメージ群の織りなす独自の一世界が - 環境からもたらされるありとあらゆる種類の身振りや表情などから、あるいはまた記憶や夢などから成り立つ一つの複雑な世界が - まぎれもなく存在する のである。

 

 

前掲書 p.265  * 下線は引用者である私によるもの

 

( * ) 

パゾリーニの『 ポエジーとしての映画 』に対するクリスチャン・メッツやウンベルト・エーコの反論の歴史的経緯を詳しく述べた著作としては、四方田犬彦の『 パゾリーニ ( 2022 : 作品社 ) 』がある ( 第11章「 ポエジーの映画 」論争 p.455~ 参照 ) のですが、ただし、それはあくまでの経緯の叙述であってパゾリーニの主張を哲学的に深めてくれるような理論的独創性にまでは至ってはいない ( そもそも四方田自身が叙述的批評家であって、理論的批評家ではないからなのですが )。

 

( * ) 

このような記号論言語学の一部でしかないような従属的なものとするメッツに対してドゥルーズは『 シネマ 』において、逆に 言語学の方こそが記号論の一部でしかない事 を主張する。記号論言語なき言語活動 として映画において実現されている、とするのです。そして、映画におけるイメージ ( またはショット ) をパロール的分節化に沿って、発話された言表として考えるメッツは、イメージの運動を取り逃がしていると批判する。

 

 

 しかしまさにイメージを言表で取りかえたなら、たちまちイメージに偽の外観が与えられ、イメージから、その最も真性な明白な特徴、つまり運動が取り去られたのである。なぜなら運動イメージは、相似という意味で類比的なわけではないからである。つまり 運動イメージは、それが表象するはずの対象に似てはいない からである。それはベルクソンが、『 物質と記憶 』の第一章からすでに指摘していたことである。つまり、動体から運動を抽出するとき、イメージと事物との間には、もはやいかなる区別もないこと になる。なぜならこの区別は、事物の不動化によってしか有効にならないからである運動イメージは事物である。それは、運動の中で、連続的機能としてとらえられた物体そのものである。運動イメージとは、事物そのものの変調 ( モデュラシオン ) なのである。

 

『 シネマ2 * 時間 イメージ 』 ジル・ドゥルーズ / 著 宇野邦一、石原陽一郎、江澤健一郎、大原理志、岡村民夫 / 訳 p. 37 法政大学出版局 ( 2006 )

* 下線は引用者である私によるもの。