〈 It / Es 〉thinks, in the abyss without human.

Transitional formulating of Thought into Thing in unconscious wholeness. Circuitization of〈 Thought thing 〉.

▶ ドゥニ・ヴィルヌーヴの映画『 メッセージ 』( 2016 ) を哲学的に考える〈1〉

 

 

監督  ドゥニ・ヴィルヌーヴ
公開  2016年
原作  テッド・チャンあなたの人生の物語 ( Story of Your Life ) 』( 2002 )
出演  エイミー・アダムス    ( ルイーズ・バンクス 役 )
    ジェレミー・レナー    ( イアン・ドネリー 役 )
    フォレスト・ウィテカー  ( ウェバー大佐 役 )

 

 
ここにおける記事は、誰かのためでなく、何かのためでもありません。ましてや映画についての一般的教養を高めるためでもありません。大切なのは、その先であり、作品という対象を通じて、自分の思考を、より深く、より抽象的に、する事 です。一般的教養を手に入れることは、ある意味で、実は "自分が何も考えていない" のを隠すためのアリバイでしかない。記事内で言及される、映画の知識、哲学・精神分析的概念、は "考えるという行為" を研ぎ澄ますための道具でしかなく、その道具が目的なのではありません。どれほど国や時代が離れていようと、どれほど既に確立されたそれについての解釈があろうとも、そこを通り抜け自分がそれについて内在的に考えるならば、その時、作品は自分に対して真に現れている。それは人間の生とはまた違う、"作品の生の持続" の渦中に自分がいる事でもある。この出会いをもっと味わうべきでしょう。

 

 

 1章  何についての映画なのか

 

この映画は一体何について語っているのでしょう。それをはっきりと考えなければ、この作品に埋め込まれた言語学側面、哲学的、物理学的側面 ( この物理学的側面については原作でしか強調されていない ) の牽引力が強すぎて、真のテーマが見えてこないし、そのために多くの人は実際に考えられていないと言っても言い過ぎでもないでしょう。

 

すぐに気付くのは、この映画の構成 ( 原作も含めて ) がルイーズがヘプタポッドとのコミュニケーションの可能性を模索する中で、娘の誕生、夫の離婚、娘の死、といった彼女の個人的半生が "フラッシュ-バック" として、あるいはその時間的反転である "フラッシュ-フォワード" として差し込まれ、ヘプタポッドの言語を理解する行為と自分の人生の意味を理解する行為が重ね合わされているという事です。

 

そう、重ね合わされているのです。この映画のよくある感想は、ヘプタポッドという地球外生命体の言語解読という謎解きと、循環的・円環的時間形態としての自分の人生に対してルイーズがいかにして然りと肯定するのか ( 既に未来を知っているのにそこに自由意志はあるのかという疑念を越えて ) という哲学的謎解きが隣り合っている事が薄々分かっていてもその両方をドゥニ・ヴィルヌーヴがどのように接続させテーマ化しているのか分からずに放置するというものです。

 

というのは、両方を繋げる "対象" が何なのか見えていないから漠然としか考える事が出来ない。その原因のひとつとしては『 メッセージ 』という邦題も関係しているでしょう。その邦題では、まるで異星人から人間に向けて発せられるメッセージを解読する事、そして異星人という謎めいたSF的主体、こそがこの映画のテーマであるかのように思われてしまう ( A )。果たして、それがヴィルヌーヴが狙っていた事なのかどうか。彼が原作のタイトル (『 あなたの人生の物語 ( Story of Your Life ) 』) を変えて『 Arrival 』とした事の哲学的意味を考えるならば違うのがわかるはずです。このタイトルの意味する所を以下で考えていきましょう。

 

( A )

これと同じくヴィルヌーヴの『 複製された男 』もその邦題が映画原題とは全く違っていて、作品のテーマが見えにくくなっている。詳細は以下の記事を参照。

 



 2章  到来

 

arrival … この英語が意味するのは、到着・到来なのですが、原題『 Arrival 』で頭文字の a が大文字にされている事、そして、或るものを具体的事物や特定的事物として指し示す定冠詞の the が付けられていない事を考え合わせるならば、『 Arrival 』とは何かの事物 ( 到来するもの … という具合に ) を表しているのではなく、到来という語の 運動性・現象性を含めた抽象的な "事象 ( 事柄 )" である と解釈すべきでしょう。

 

そのような arrival という抽象的事象性を念頭に置けば、この映画で重要なのは到来する "何か ( ヘプタポッドであれルイーズの子供であれ )" なのではなく、到来という "事象・運動それ自体" の現実、つまり、そのような形式的運動性が起きていて人間はその運動の円環性・循環性に巻き込まれているという事なのです。

 

そのような円環的時間は、ルイーズの過去の想起そしてそれが再び還ってくるだろうという予知、そしてその肯定において捉えられるのですが、結局、なぜ、そのような大きな事象が発生し、繰り返されるのか、その運動性と謎を私たちに考えさせる為に、一時的に止揚する "対象 ( 事物 )" こそ、ヘプタポッドと赤ん坊に他なりません

 

特に注意すべきはヘプタポッドに比して見過ごされる赤ん坊の存在です。というのも赤ん坊こそが、ルイーズの人生が円環的なものとして現れる事の哲学的意味を解き明かしてくれる象徴的なものだからです。他の動物・生物も含めて人間などの "生一般" の循環的継続という形態、つまり、誕生・成長・死滅といったサイクルの謎めいた現実なぜそのような形式こそが生の存在基盤として選択されているのか誰も理解出来ないという "現実界 ( ジャック・ラカン的な意味での )" 、の象徴的起点として赤ん坊は "到来" するのです ( B )。

 

( B )

出産と赤ん坊のモチーフはヴィルヌーヴの『 ブレードランナー2049 ( 2017 ) 』にも現れる。その辺りの話とリドリー・スコットの『 ブレードランナー 』を絡めた以下の記事を参照 ( 特に第4章「 レイチェルの愛 ・・・その結末 」)。

 



 3章  永遠回帰

 

とするならば、円環的生の中で現れる赤ん坊は生の起点だとしても、全くの無からの創造としての純粋な新しいものなのではなく ( 既に数えきれないくらい繰り返されてきたので )、"象徴的な意味での新しいもの" だと今一度確認する必要があります。新しさが繰り返され既に何度も過去となり古くなったとしても、その時間 ( ここでは人間が赤ん坊から始まり死に至る時間形態 ) は、私という個人的生の中だけに限定されるのではなく、私以外の全ての者にも平等に訪れる ( 訪れ続けてきた ) ニーチェ的福音であるという意味で、全ての個人の生を形成する回帰的時間 として 事物 ( 人間 ) を媒介にして常に ( 既に ) 更新される ( されている )。すなわち、ニーチェ的意味での永遠回帰において、幾多の過去は "現在という脱線形的時間の開かれ" の中に回帰して再び生きられ未来に向けて更新される。

 

ここで大切なのは、永遠回帰がたんなる現象のみではなく、生が回帰してくると理解している 事実確認的行為自体 も回帰の中に織り込まれているという事です。永遠回帰における時間は過去・現在・未来といった等分化される線形的時間ではなく、私たちがいる現在を客観的時間カテゴリーから脱化させ、主体に自分の行為自体を生の再構築に関わらせる "時間的な開かれ" として与えられるもの なのです。

 

その開かれの中に自分の身を置くならば、過ぎ去った事柄を 過去という時間として定位する のは、まさに 現在という無時間の不安定かつ不定形な開かれ ( それはまた深淵でもある ) を定位させる ( 時間を止める ) 事が出来ないという不可能性 に対する 代補的行為 でしかない のに気付くでしょう。いかに時間について考え人生を振り返ろうともその時も時間は過ぎていき、私たちは死に向かっているという現実は揺るがない。

 

そのような物理学的な不可逆的時間進行に対して、生一般に象徴される円環性・回帰性は不可逆的時間に反抗するものではなく、逆に 不可逆的時間構造こそが 生 ( 事物 ) の円環的反復 ( 誕生~ 消滅 ) を利用して 事象的差異化・差延 を引き起こす事 によって時間が進んでいるのを認識させるもの だと考える必要がある。

 

そう考えると、時間についての永遠回帰的哲学理解とは、時間を物理学的に把握することではなく、一般的 ( 線形的 ) 時間概念理解に 特異な個人的介入をする、つまり、 "個人の人生それ自体という重さ" ( ここには、それまでの偉大なるドイツ観念論哲学の理論系譜に対抗しうる "哲学者の人生" を強調した異端者ニーチェの意義が含まれる ) で以って個人を置き去りにする一般時間概念を円環的概念へと歪ませて 生を更新・再構築する "主体的かつ超時間的行為" である事 が分かりますね。

 

そのような主体的かつ時間的行為が為される開かれた瞬間においては、それまで過去の外来的回帰を予め予想した "事実確認的行為" が実は、自分の人生を再び、いや、何度でも生きるために自分自身が欲した、自分自身が呼び寄せたのだとする "行為遂行的肯定" に他ならなかったというそれ自体における 脱時間的移行 が起きる。

 

これこそがニーチェ永遠回帰において然りと言う事の意味であり、ルイーズがヘプタポッドとのコミュニケーションという困難な現況において起きる彼女のそれまでの人生にまつわる "フラッシュバック ( 過ぎ去ったつらい過去 )" が、現況を乗り越えようとする "意志" によって "フラッシュフォワード ( 望むべき未来 )" へと反転する瞬間でもあるのです〈 続く 〉。

 

 

 次回 ( 下記 ) の記事に続く。