〈 It / Es 〉thinks, in the abyss without human.

Transitional formulating of Thought into Thing in unconscious wholeness. Circuitization of〈 Thought thing 〉.

▶ ドゥニ・ヴィルヌーヴの映画『 メッセージ 』( 2016 ) を哲学的に考える〈2〉

 

 

 前回 ( 上記 ) の記事の続き。

 



 4章  自由意志と目的地

 

この反転の瞬間、自らの人生の繰返しを単に知るのではなく、それを望み肯定する時、永遠回帰の円環性の中には自由意志の入る余地がないのではないかという一般的誤解に反して、紆余曲折のある自分自身の人生を再び生きようと欲する事ほど、自由意志が極限化される状況はない と言えるのです。

 

この自由意志の "極限化" のモチーフは、映画ではカットされているが原作で登場する物理学における変分原理のひとつであるフェルマーの原理の隠喩的引用 ( そうこの幾何光学の原理はここではあくまで隠喩に過ぎない ) として表されます。空気中の光線が屈折率の影響で水中での進路を変える時、その曲がった経路は直進経路よりも長い距離だが、実際には最小時間 ( 最速 ) の経路 ( 解析数学的には "極値" の経路 ) であるという帰結に対して、原作者のテッド・チャンは哲学的着想を付け加える。

 

「 で、それをするには 」わたし ( 注: ルイーズのこと ) はつづけた。「 光線はその目的地を知っていなくてはならない。目的地が別のところだと、最速の経路は変わってしまうでしょ 」

 ゲーリー ( 注:原作でのゲーリー・ドネリーは映画ではイアン・ドネリーと変えられている ) がまたうなずく。

「 そのとおり。"最速の経路" なる概念は、目的地が特定されなくては意味をなさない。また、所与の経路がどれだけの時間を要するかを計算するには、その経路の途中なにがあるか、たとえば水面がどこにあるかといった情報も必要となる 」

 わたしはナプキンに描いた図表をじっと見つめた。

「 では、光線は事前に、つまり動きはじめるまえに、そういうことをすべて知っていなくてはならないってことね?」

「 言うならば 」とゲーリー。「 光は適当な方向へ出発しておいて、事後になって進路を変更したりはできないということになる。というのも、そのようなふるまいから生じる経路は可能な最速のものにはならないからだ。光はそもそもの始まりの時点で、すべてを計算していなくてはならない 」

 わたしは胸の内で考えた。光線は動きはじめる方向を選べるようになるまえに、最終的に到達する地点を知っていなくてはならない。これには、思いあたるふしはある。わたしは目をあげて、ゲーリーを見た。

「 ここのところよ、わたしが変だと感じていたのは 」

 

あなたの人生の物語 ( Story of Your Life )p.240~241 『 あなたの人生の物語 ( STORIES OF YOUR LIFE AND OTHERS ) 』所収 テッド・チャン / 著 浅倉久志 / 訳 早川書房 ( 2003 )

 

彼は目的地 ( 到着地 ) を予め知っている事がフェルマーの原理には含まれているのではないかという斜めからの疑問を含ませる事によって、この物理的原理を永遠回帰を考えさせる為の隠喩的原理に変移させる。そこで重要なのは 過去を知っているという認識自体も回帰してくる という事です。むしろ、それが無ければ永遠回帰自体の哲学的論理性は成立せず単なる宗教概念 ( ミルチャ・エリアーデが言うような神話的な ) でしかなくなってしまう。

 

過去の繰り返し ( 円環性 ) を知っているという認識が意志の自由性をがんじがらめにして奪うのではありません。そうではなく、その認識の姿とはかつて自分が欲したもの、たとえ失敗したことであってもそこには自分の欲望を駆り立てるものがあったという 自分自身の意志の過去的痕跡・過去的形骸化 であり、 "忘却された意志" がそこにはあったはずだ、と永遠回帰は気付かせて人生を再び引き受けさせるのです ( ニーチェは極限的に人生を越えて "人間自体" を歴史上の様々な人物を通過させた上で "" として再び望む )。だからこそ、再び過去を含めた人生を望む事こそが "過去 / " を超える極限的な自由意志の在り方 ( かつての意志を再び、さらに強く意志し直すニーチェの言う "力への意志" の源流がここにはある ) になるのであり、それは決して過去の引き受けにおいて改変・更新を生み出す "行為" を不可能にするものではないのです。

 

過去の改変・更新が不可能ではないのは、現在という無-時間的な開かれにおいて、円環性 ( 生のサイクル ) が継続されるという 認識自体 が、つまり、過去という 時間的定位形式自体 が、人間が主体的に関わった来た物理的・歴史的総体性を未来に向かわせる 更新行為として既に成立したもの のひとつ に他ならないからです。過去の定位とその認識はそれ自体が既に人間を 未来に向かわせるものなの であり、それらは円環的なものとして人間存在の中に常に収斂していき、そこから新たな認識、意志、更新、を生み出していく。未来において既に起こった過去が繰り返されてもそれは何も変わらずそうなるのではなく、差異的に改変・更新される事でしか繰り返されない ( その事が、"円環を動かす / 時間を進める" ) とさえいえる のです。

 

もちろん、これとは反対に人生を反復の利かない有限なものとして受け入れさせる哲学論理もあるのですが、その場合、"有限性という概念" をどう考えるかによって ( 例えば現実的有限事象に強く依存してしまっている場合など ) 必要以上に自ら ( あるいは他人 ) を理論的閉域に暗黙の裡に束縛してしまい ( 現実を前にしてもうこれ以上は考える事が出来ない、考えても意味がない、という思い込みなど ) "現実以上に" 考える事が出来ないという思考停止に陥る事に気を付ける必要があります。

 



 5章  ヘプタポッド、あるいは人間、そして相互理解

 

しかし、まだ問題は残っています。赤ん坊を永遠回帰を経験する人間の生の象徴的起点として理解するとしても、その赤ん坊とヘプタポッドの差異とは一体どう考えるべきなのかという問題です。ヘプタポッドがルイーズの意図を見抜き、人間という生物を理解していく過程が、赤ん坊が親との "コミュケーション ( もちろん、これはルイーズ側からの赤ん坊・ヘプタポッドへの関わりでもある )" を通じて言語という手段を獲得して成長していく過程として重ね合わせる事は出来るのですが、ヘプタポッドが2組 として登場している事が問題にさらに捻りを加えている のです。ヘプタポッドの存在論的地位を考える事は、同時に原作と映画の哲学的テーゼの差異を明らかにする事にもなるので、この捻りについて考えていきましょう。

 

ヘプタポッド2組は、原作では フラッパーとラズベリー と名付けられ、映画では アボットコステロ と名付けられます。フラッパー ( Flapper ) とはおそらくここでは、元々若い女性を指すスラングであったものが第一次大戦1920年代の欧米で規範から外れた ( 伝統的価値観に反抗する ) 女性として文化的注目を引く流行スラングになったという文化的・歴史的経緯を受けている。ラズベリーが恋人を仄めかしているとするならば、フラッパーとラズベリーとは社会的に注目される女性とその恋人 ( 男であるかどうかはこの場合分からないのですが ) というように今日のジェンダー論を念頭に置いた女性の立場を強調する関係性を現わしていると考えられます ( もちろん、それらは原作者のテッド・チャンが無意識的にであって意識的に深く考えている事ではない )。

 

では映画での改名、アボットコステロについてはどう考えるべきでしょう。既に様々な所で指摘されているので知られているのですが、アボットコステロとは1940年代から50年代にかけてアメリカで活躍したお笑いコンビですね。そこでヴィルヌーヴはなぜ名前を変えたのかと考える事は無駄なことではありません。というのもフラッパーとラズベリーという名前に対して考える事があったからこそ彼は敢えて名前を変えたと解釈する事が出来るからです。

 

もし仮にヴィルヌーヴが、性差的対立構造が内在化されたフラッパーとラズベリーという名前がこの映画のテーマを構築する上での些細な異和要素になるかもしれないと感じたのなら、意識的にアボットコステロという名前に変えたのも十分ありうるでしょう。これはヴィルヌーヴジェンダー問題を避けているという事ではないし、ましてや男2人のアボットコステロを持ち出してきたからといって男性優位主義者なのでもありません。それどころか、彼は『 静かなる叫び ( 2007 ) 』以来、社会に潜む男性性の暴力的権威について考えていて『 プリズナーズ ( 2013 ) 』ではそれについて正面から描いてさえいるのです ( A )。

 

おそらく、ここでヴィルヌーヴが考えているのは  性的差異を常に対立構造に行き着かせてしまう 権力闘争的政治への秘かな異議 を、ヘプタポッドという異形化された別の "人間" ( そこには生まれたてで言語を取得していない赤ん坊との遣り取りも重ね合わされている ) の言語を感情に流されずに相手の立場で論理的に解析するという "別の政治"、つまり、対立ではない "論理的な相互合意の政治" を構築すべきだという異議 を唱えている ( 例えば、ノンゼロサムゲーム理論への言及などに表れているように ) のです。ヘプタポッドの言語解析とは 相互理解の政治の構築過程 として比喩的に描かれている と言う事も出来るでしょう。実際に、映画内の各国の政治的対立とその解決は原作では描かれていないのであり、その差異は、原作がSF設定と物理学原理を経由させ男女2人の人間愛の確認に帰着するロマン的物語であるのなら、映画は性差対立構造を含めた人間同士の対立を "相互合意の政治" によって乗り越えさえようとする人間自体の存在についての哲学的物語であるという解釈を引き出させるものなのです。

 

これでこの映画の哲学的テーマについては、ある程度は考えたといえるのですが、それでもまだ最後にちょっとした問題が残っていましたね。ヴィルヌーヴアボットコステロというお笑いコンビを登場させた理由です。もちろん、これをこの映画に込められた政治哲学的テーマを直接的には分からせないため、あるいはその緊張度をほぐすためのユーモアだと考えて終わらせる事も出来るのですが、その登場は、彼らの有名な鉄板ネタに、この映画における言語を巡って互いに奮闘するヘプタポッドと人間の遣り取りが、同じ言葉でも互いの理解の違いで面白可笑しくなり、会話がずれたまま成立してしまっている漫才 として先取りされているからなのです。

 

鉄板ネタ … 漫才… この余りに日本的芸能表現ですが、彼らの『 Who's on First? ( 一塁は誰?) 』を見ると、これ本当にしゃべくり漫才だよと思わされますね。ビートたけしがこれが漫才の原型だって言うのも頷けるし、今、見ても面白い。全然、古くない。

 

 

ざっくりとこういう感じの話です。アボット ( 右 ) が監督として野球チームを作ったと聞いてコステロ ( 左 ) がメンバーの名前を教えろと言ってアボットが答える。

 

( アボット ) "誰 ( Who )" が一塁手で、"何 ( What )" が二塁手で、三塁手は "知らない ( I don't know )" だよ。

( コステロ ) それを俺は知りたいんだ。

( アボット ) だから、"誰" が一塁手で、"何" が二塁手で、三塁手は "知らない"、と言ってるだろ。

( コステロ ) お前、監督なんだから名前知ってるだろ。

( アボット ) "誰" が一塁手で、"何" が二塁手で、三塁手は "知らない"、と言ったはずだ。

( コステロ ) 一塁手は?

( アボット ) "誰 ( Who )" だ。

( コステロ ) なんで俺に聞くんだ? 知らねえよ。それは "誰" なんだよ。

( アボット ) そうそう。

( コステロ ) 一塁手の名前は "何か" 聞いてるんだよ。

( アボット ) "何 ( What )" は二塁手だ。

( コステロ ) 二塁手が "誰" かは聞いてない。

( アボット ) 一塁手は "誰 ( Who )" だ。

( コステロ ) 知らねえよ ( I don't know )。

( アボット ) 彼 ( I don't know の事 ) は三塁手だ。

( コステロ ) だったら三塁手の名前は "何" だよ。

( アボット ) "何 ( What )" は二塁手だ。

( コステロ ) じゃあ、レフトの名前は?

( アボット ) "何で ( Why )" だ。

( コステロ ) ………。

 

こんな感じで話は続いていくのですが、このやり取りでは、コステロが一般的な "疑問" を投げかけ、アボットはその "疑問自体が既に答えなんだ" として投げ返す。会話の "内容レベル" では嚙み合っていないが、"行為形式のレベル" では会話を続けるという意志の合意形成が出来ていて、その差異が可笑しさを生んでいる訳ですね。

 

それはヘプタポッドと人間が、"内容レベル" では互いの言葉はまだ分からず手探り中だが、"行為形式のレベル" ではコミュニケーションを取るという合意が互いの歩み寄りの姿勢によって形成されている のと同様だと考えられるのです。そして、コステロが固有名詞を知る為に "誰 ( Who )" 疑問詞 として使っているのが、アボット側では 固有名詞 に相当するのがその "誰 ( Who )" という事であり、既に答えは出ているのにその答えが疑問詞で与えられているのでコステロが気付かない状況が続く訳です。

 

固有名詞が "人間的な名前" でなければいけない、そして疑問詞はその "人間的な名前" を訊ねる為のものだ、というのはコステロ ( 人間 ) 側の勝手なルールに過ぎないのであり固有名詞の表記自体には疑問詞以上の優位性を保証するものはないのです ( ルール以外には )。それに対してアボット ( ヘプタポッド ) 側のルールでは疑問詞自体、もっと厳密に言うなら 疑問詞の表記それ自体に固有名詞の意味を持たせている のです。それこそが、ヘプタポッドの特異な書記体 ( グラフ ) に現れる "視覚形態それ自体" 表意文字 ( イデオグラム ) の役割を果たしているとしてルイーズが与えた 表義文字 ( セマグラム ) という用語に比喩的に相当すると考えられるのですね。ヴィルヌーヴは自分の作品の哲学性を饒舌に語る監督ではありませんが、それはもう既に作品の中にメッセージ自体が込められているから、作品自体がメッセージであるからだ、と表義文字的に解釈するのも一興でしょう〈 終 〉。

 

( A )

プリズナーズ ( 2013 ) 』については以下の記事を参照。