〈 It / Es 〉thinks, in the abyss without human.

Transitional formulating of Thought into Thing in unconscious wholeness. Circuitization of〈 Thought thing 〉.

▶ ドゥニ・ヴィルヌーヴの映画『 複製された男 』( 2014 ) を哲学的に考える〈 2 〉

 

f:id:mythink:20210212013443j:plain

 

 上記 ( 前回 ) の記事からの続き。

 



 4章 "母なるもの" の快楽

 

では "母なるもの" において快楽が最大に高まった時、何が起こるのでしょう。それは、言い換えると、男に対する主導権が最も強まった時 だということになるのですが、その時、男は夫でも恋人でも、アンソニーでもアダムでもない、ただの男という "雄の生物" でしかなくなるのです。誰か特定の男が対象なのではなく、男という一般的生物の支配が女の快楽を満たすという訳です。

 

ここで蜘蛛の交接 ( 交尾 ) においてしばしば見られる雌による雄の捕食について考えてみましょう。蜘蛛は雄より雌の方が大きく、交接中であろうと、動くものは餌だと認識する習性のため、雄は雌に食べられてしまう事がある ( 種類によっては雄の体内に栄養が含まれているからだという研究もある )。つまり、この映画での 蜘蛛とは男を捕食する女性のメタファー として機能していると解釈出来るのです。極端に言うならば、男は女性の欲望を満たす "生物" でしかないのです ( ただし、その欲望は性的欲望という意味ではない )。生物であれば、アダムであろうが、アンソニーであろうが、どうでもいいという事です。

 

だから、この映画についての謎解きでよくあるように、アンソニーはアダムの投影された別人格などという二重人格的解釈はそもそも意味がないのです ( 原作については妥当であっても )。ヴィルヌーヴ自身もその謎解きには、おそらくさほど興味がなく、せいぜい観客を惑わせる要素としての役割を与えているに過ぎない ( だから原作に変更を加えている )。

 

以下は、ヘレンがアンソニーそっくりのアダムの出現に動揺しつつ ( 29. ) も、夫ではない男に秘かに興奮しつつある様子を蜘蛛女への変化として示している ( 30~32. )。

 

f:id:mythink:20210212014327j:plain


アンソニーに成りすまして家に来たアダムに対して、ヘレンは気付きながらも、知らないふりをして性行為をする ( 33~34. )。彼女は妊娠しているにも関わらずです ( 35~36. ) 。そのような "母なるもの" の恐ろしさを示しているのがラストの蜘蛛になったヘレンの姿 ( 37. )。

 

f:id:mythink:20210212014346j:plain

 

f:id:mythink:20210212014359j:plain

 



  5章  "母なるもの" と女性

 

しかし、最後に付け加えておかなければならないのは、"母なるもの女性" ではない ということです。もし、そう思う人がいるのならば、その方は以上の考察を何も理解せず、女性に対する粗雑な論を書いているという間違った印象しか抱かないでしょう。そうすると、原題の『 敵 』とは女性に他ならない女性蔑視だという最悪の結論しか引き出せないことになる。

 

そうではないのです。ここでいう "母なるもの" とは女性自身にとっても謎のもの なのです。それは女性が妊娠・出産して母親という具体的な家庭主体になった人間のことを指しているのではありません。それは、生物が種を継続させていくという謎の現象の別名でもある のです。なぜ、種が続いていくのか、なぜ、遺伝情報が伝えられていくのか、この 現象の意味は誰にも答えられない。これは精神分析ジャック・ラカンが言う意味での "現実界" であり、種の継続という現象の意味不明性が現実に起きている、という事なのです ( A )。

 

女性が恐ろしいのは、この "母なるもの" の謎の現象を自らの肉体に抱え込んでいて、そのサイクルに関わることに自らの尊厳を見出す快楽を潜ませている という事です。なぜなら、それによって男性の性的快楽は矮小なものへと降下させられてしまう、いや、それどころか男性自体が、"母なるもの" に群がる生物の集団であるかのように見られてしまうのですから。

 

ヴィルヌーヴは、この生命のサイクルという "母なるもの" の謎を無意識的に考えていて、それは『 ブレードランナー2049 ( 2017 ) 』に引き継がれていますね。そこでは驚くべきことに、レプリカントであるレイチェルが出産をしていた、つまり、人間の生殖能力を保有していた、という事実が明らかになります。それでは人間と変わらないじゃないかと思わせるこの設定は、ヴィルヌーヴの "母なるもの" についての問題意識がなければ必要にならなかった といえるものです。というのも、レプリカントは製造時において寿命のコントロールが可能なものであるからです。短くするか、永遠にするか、のふたつ ( B ) で十分であるから、そもそも生殖能力を付与する必要がないのですね。その必要があるとすれば、レプリカントの自立性、製造者からの解放という口上によるしかないのですが、もう、それだと人間と変わらない訳で、機械と人間の境界がなくなるという哲学的問題ヴィルヌーヴは提出してしまっている事になるのです ( 終 )。

 

 

( A )

この問題については、以下の4章でも触れています。

 

( B )

寿命が短いのは、ネクサス6型。『 ブレードランナー 』におけるロイ・バッティらが該当する。長いのは、ネクサス8型、9型。『 ブレードランナー2049 』に出てくるもの。