初めに。この記事は映画についての教養を手短に高めるものではありません。そのような短絡性はこの記事には皆無です。ここでの目的は、作品という対象を通じて、自分の思考を、より深く、より抽象的に、する事 です。一般的教養を手に入れることは、ある意味で、実は "自分が何も考えていない" のを隠すためのアリバイでしかない。記事内で言及される、映画の知識、哲学・精神分析的概念、は "考えるという行為" を研ぎ澄ますための道具でしかなく、その道具が目的なのではありません。どれほど国や時代が離れていようと、どれほど既に確立されたそれについての解釈があろうとも、そこを通り抜け自分がそれについて内在的に考えるならば、その時、作品は自分に対して真に現れている。それは人間の生とはまた違う、"作品の生の持続" の渦中に自分がいる事でもある。この出会いをもっと味わうべきでしょう。
監督 アラン・ロブ=グリエ
公開 1963年
出演 フランソワーズ・ブリオン ( 女 )
ジャック・ド二オル・ヴァルクローズ ( 男 )
■ この映画のタイトル『 不滅の女 ( L'Immortelle ) 』は、〈 女という一般的存在 〉の〈 不滅性 〉を示している といえるでしょう。ここで一般的存在と言うのは、その不滅性が特定の女性についての事ではないからです。『 不滅の女 』という日本語タイトルからは、人によっては普通の人とは違う特殊な女性主人公を指していると勘違いするかもしれませんが、そうではありません。
■ immortelle という 不滅の、不死の の意味を持つフランス語の女性型形容詞の冒頭の i が大文字の I にされている ( L'Immortelle ) 事から分かるように、Immortelle とは特定の女性を指すのではなく、普遍的な抽象概念 なのですね。なので個人的には L'Immortelle は女性型形容詞の名詞的用法である事を踏まえて 不死のもの という訳にしたいところです。もっとも、その日本語訳では、映画を見ないと一体何の事を指しているのか伝わらないという商業的な欠点が出てくるのですが ( フランス語では女性型形容詞であることから女性を指すことが分かる )。
■ この物語は、トルコのイスタンブールに男 ( ジャック・ド二オル・ヴァルクローズ ) が来たところから始まるのですが、その場所が選ばれた意味は、イスラム教のモスクが写されている事と、以下の妖艶な踊りを披露する女性の場面 ( 1~4. ) から分かるように、まずはオスマン帝国のハーレムを想起させるためだといえるでしょう。
■ もちろん、オスマン帝国以前にもイスラム社会にはハーレムがあったのですが、西洋社会がハーレムを知ったのはオスマン帝国においてなのですね。そして、ここで強調すべきは、君主が多くの女性を囲うオスマン帝国型ハーレムを通じての〈 女というもの 〉への幻想がこの映画では機能している という事なのです。
■ 〈 女というもの 〉への幻想 …… こういうと、それは東洋的女性に対する西洋の一方的な見方だろうという批判、いわゆる エドワード・サイード ( 1935~2003 ) のいう オリエンタリズム のひとつだとして片づけられるかもしれません。以下の場面 ( 5~9. ) で、踊り子に釘付けになる男たちのように。
■ しかし、アラン・ロブ=グリエは、そのようなオリエンタリズムをたんに反復しているだけなのでしょうか。いや、彼は〈 女というもの 〉がハーレムの中だけでなく、オリエンタリズムの中にも留まらないものである事を知っている。だから〈 女というもの 〉は時代や場所を越えて男を誘惑する のです ( *A )。その意味で〈 女というもの 〉は〈 不死のもの 〉なのですね。
■ まず、この映画で男が〈 女というもの 〉に抱いていた幻想とはいかなるものなのかについて考える必要があるでしょう。古のハーレムを通じて彼が抱いた幻想とは、女が囲われている、つまり、男の思うがままであるという幻想なのです。逆に言うと、男は現実においては女に上手くアプローチ出来ていなかったと推測出来ますね ( おそらく彼が教授であるという職業上のプライドも影響して )。だからイスタンブールが男の幻想の出発点になっているのですが、女は男の欲望を満たすどころか、思い通りにはならないと知らしめて男を翻弄していくのです。
( *A )
事実、オスマン帝国のハーレムにおいてさえ、その中の女性は東方的な ( 西洋から見ての ) トルコ人だけでなかった。スレイマン1世 ( 位1520~1566 ) の妻 ヒュッレム はウクライナのキリスト教徒であったし、アフメト1世 ( 位1603~1617 ) の妻 キョセム はエーゲ海のティノス島のギリシャ正教徒だったといわれる。
彼女 ( ヒュッレム ) の父は、いまのウクライナに位置する、当時はポーランド領だったロハティンという町の正教の司祭だったともいうが、これも定かではないようだ。確かなのは、ウクライナのキリスト教徒であり、クリミア・ハン国の襲撃によって奴隷となって、オスマン帝国の宮廷に献上されたということだけである。
『 オスマン帝国 英傑列伝 』p. 88~89 著 / 小笠原弘幸 幻冬舎新書 2020年
しかし近年の研究では、彼女 ( キョセム ) は、エーゲ海に浮かぶキクラデス諸島、おそらくはティノス島に住んでいた正教徒だったと考えられている。〈 中略 〉。キョセムは、海賊によってティノス島から拉致され、ボスニア総督のもとに送られたようだ。ボスニア総督は、キョセムの美貌と才覚を見て取ったのであろう、彼女をスルタンのハレムに献上したのである。
『 オスマン帝国 英傑列伝 』p. 147 著 / 小笠原弘幸 幻冬舎新書 2020年
■ 〈 女というもの 〉に対する幻想 …… それは男 ( ジャック・ド二オル・ヴァルクローズ ) の心情、あるいは女 ( フランソワーズ・ブリオン ) の心情を通じて描かれるのではありません。幻想は 視線の動き を媒介にして描かれるのです。これは、もう僕の解釈というより、明らかにアラン・ロブ=グリエの意図的手法であるのは作品を観た人ならば分かるでしょう。徹頭徹尾、唯物論的方法 に沿ったこの作品は、同一人物のショットが角度・位置がずらされて切り替えられたり ( 43~48. )、窓から覗き見る行為 ( 26. )・女の顔のクローズアップ ( 53. ) の反復などの記号的強度によって見る者の視線を操作している。そして、そのような視線は、ここではまさに〈 女というもの 〉を見る視線として同定され〈 女という幻想 〉を形作る要素のひとつになる訳です。
■ 踊り子に対するそれまでの観客の視線の動きを複雑化させるショット ( 10. )。1~9. で踊り子を見ていた私たちの視線は、後ろ姿の踊り子の直線上に、同じく背中を見せる姿の女 ( フランソワーズ・ブリオン ) に移さざるを得なくなる。この直線上の2人の女は、まさに〈 女というもの 〉を見る私たちの 視線の軌跡 によって貫かれているのです。
■ さらに、以下の場面における、女 ( フランソワーズ・ブリオン ) の首筋のクローズアップ ( 11. ) によって、私たちの〈 女というもの 〉に対する視線が 欲望 と一体化したものである事が示される。遠くの踊り子に触れることは出来ないが、近くの女に触れることは出来る、つまり、男が女の首筋に手を回す場面 ( 12~13. ) は、視線の中に隠れていた欲望を眼前に露にさせるものになっている のですね。
■ この後、場面が突然切り替わり、男と女の会話が続く ( 14~21. )。もちろん、これらは男女の仲睦まじさを示すものではなく、その人間の姿は、誰かの、あるいは私たちの視線の中の収まっているもの に過ぎない、つまり、視線の中の人間 を描いているのです。
■ そのような視線の運動に従うかのように、男女自身も、自分たちの存在が、誰かの視線の中にある事を意識する ( 22~25. )。 〈 続く 〉